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主日説教集

2012年  トップへ
1月〜12月


1月1日 シャロームの年に
なりますように 

マタイ11:28〜30

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シャロームはユダヤ人たちの挨拶です。すべて契約がうまくなっていくこと、完全になることをシャロームと言っているのです。失われた物を探して喜ぶこともシャロームです。

1.シャロームの王様が私を招待してくださいます。

 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(本文28節)シャロームを与えますということです。私たちが神様から離れて労苦とわざわいだけがありました。疲れて、重荷を負っている私たちを王様が招待してくださいました。シャロームを私たちに与えるためです。イエス様の所に来てすべての重荷をゆだねることです。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37:5)神様の御言葉だけを信じると、私たちに平安が来ます。しかし、神様の御言葉を信じない時は、いらいらしたり心配や不安が来ます。神様の御言葉を最後まで信頼すると、奇跡がおこり、平安が来ます。アブラハムは100歳で“笑い”を意味するイサクが与えられました。最後まで神様の御言葉を信頼したからでした。

2.イエス様に学べばシャロームが来ます。

 「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(本文29節)イエス様のくびきは死にまで従順する心でした。これが柔和でへりくだっているということです。その心を学んだら、たましいに平安が来るのです。私たちの心の中で平安を奪うのは、高ぶりです。この高ぶりは私たちに妬み、嫉妬、不平不満、批判などの心を与えます。すべての権力を持っている人が、自分より幸せな人を妬んだり嫉妬するのを見ると、権力やお金や快楽にシャロームがあることではないことが分ります。本当のシャロームはイエス様の柔和な心、謙遜な心にあります。十字架の死に至るまで従順された心にあります。そのような心になれば、人を妬むことはなく、祝福することができます。そこに本当のシャロームがあるのです。

3.主のくびきを負いなさい。

 シュラム女性はソロモン王から与えられたくびきである婚約の首飾りをいつもしていました。イエス様のくびきは十字架です。その十字架を通して、私たちに罪のゆるしのシャローム、病の癒しのシャローム、呪いからの解放、永遠のいのちのシャロームを与えてくださいました。そのくびきを負って、私たちも人をゆるし、癒すことをしなければなりません。主のくびきは負いやすく、荷は軽いと言われました。主が共に負ってくださるからです。これは賜物です。説教の賜物、事業の賜物などです。主が共に負ってくださるので自分の体に合い、負担が軽いのです。イエス様は心優しく、へりくだっている方ですから、イエス様のくびきの中に入ると生きがいがあり、楽しみがあり、平安があります。イエス様のくびきはそのような祝福のくびきです。




マタイ 11:28〜30

11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」






1月8日 主の御心を行え 

第Tテサロニケ 5:16〜18

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私たちは毎日選択して行動しています。イエス様を信じる前には、自分の思いに従って行動しました。

しかし、イエス様を信じた後では聖霊様の声に従って行なうことになります。私たちの中には自由意志があって、選択する意志があります。聖霊様に従順するといのちと平安がきます。しかし、肉の行ないのまま従うと苦しみと死のもたらすものになります。

.いつも喜べ。

 これは主の御心です。悲しい体験、腹が立っているそのとき、悪魔が来て「あなたが腹を立てるのは当然だ。」とそのように誘うのです。しかし聖霊様は私たちに「いつも喜びなさい。」と言われます。「喜びのことがあると喜ぶでしょう。しかし喜びがないから喜びません。」と言っても聖霊様はピリピ4:4のように『いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。』と言われます。これを言ったパウロはどんな状況の中でこの手紙を書きましたか。ローマの牢の中で全然喜びの環境でないのに喜びました。その聖霊様が言われることに従順した結果でした。霊的戦争と悪魔は私たちの心に神様の御言葉に逆らうことばをしゃべるのです。私たちはこのサタンに逆らう者に対していつも戦争しなければならないのです。聖霊様が言われるまま私たちは従順していく、主は私たちにいのちの道を知らせてくださいます。喜びの道を知らせてくださいます。ですから私たちはいつもこの心、思いを守らなければならないのです。この思いがいのちの泉だからです。

.絶えず祈りなさい。

 神様の御心を行うためには、祈りが必要です。私たちが1時間祈ると、自分の行動を抑える事ができるのです。2時間祈ると、他の人の力を上げる力がつけることができます。3時間祈ると、国を変えることができます。祈りとは本当に力を、霊的筋肉をトレーニングすることです。ですから、毎日私たちは祈らなければなりません。運動選手がいつも同じことを繰り返しするように、私たちも「主の祈り」をいつも毎日祈らなければなりません。イエス様の御名は私たちのために「贖い」をしてくださった祈りです。いやしの祈り、いやしの御名、勝利の祈り、勝利の御名、シャローム、平安の御名、羊飼い、このような御名を覚えながら祈ることが重要です。そして、赦しの祈り、こころみに落ちない祈り、悪より救い出してくださいと。また、私たちは人をとりなす祈りをしなければなりません。特にメッセージを伝える人々の為に祈ることです。パウロはいろんな教会に手紙を送り、自分のために祈ってくださいと言いました。

.すべての事に感謝せよ。

 聖霊様は私たちがすべての事に(良いことでも、悪い事でも)感謝することを選択して従順することを願っておられます。悪魔サタンは不平不満を私たちにいつもさそいます。不平不満すると、悪魔の国がきます。しかし、聖霊様に従順すると、天国の門が開きます。私たちが感謝すると、天国の門に入ります。しかし、不平不満すると、いくらすばらしい奇跡があっても、それをすぐ地獄にかえてしまいます。イスラエルの民は感謝することがいっぱいあるにもかかわらず、感謝をしなかったのです。エジプトでの400年の奴隷の生活から解放されました。これは一生感謝してもいいのです。永遠に感謝してもいいのです。私たちは地獄に行く者でしたが、しかし私たちは救われました。神の御座に私たちを座らせてくださいました。これを私たちが考えると、感謝の原子核になってもいいのです。賛美の原子核になり、感謝を捧げる者に主がすべてを益にしてくださいます。感謝をささげる者に主が救いを見せてくださるのです。 詩篇50:23「感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。」と言われました。私たちの中には喜びがない環境です。どんどん環境は暗くなっていきます。感謝できない状態です。しかし、聖霊様は私たちに感謝しなさい、いつも感謝しなさいと言われます。いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝しなさいということが主の御心です。





第Tテサロニケ 5:16〜18 

5:16 いつも喜んでいなさい。

5:17 絶えず祈りなさい。

5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。







1月15日 ぶどうの木と枝 

ヨハネ 15:1〜10

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 神様は私たちがたくさんの実を結ぶ奥義を教えてくださいました。信仰生活の実を結ぶ奥義であります。「私はぶどうの木、あなたは枝です。」この関係を悟って維持することができれば、実を結びます。しかし、そうでない時にはただ疲れ果ててしまう信仰生活になります。

.主が選んだ枝。

 神様が、まず私たちを選びました。実を結ぶためでした。私たちが神様を選んだのではなく、神様が先に私たちを選び、私たちを愛されました。神様が私たちを愛して、神様の愛の中で私たちがしっかり結ばれているのです。誰もイエス様の愛の手から私たちを引き離すことはできない、また父の御手から私たちを奪い去ることはできないのです。この愛の中で私たちは一身同体です。

.ぶどうの木とひとつになった枝は実を結びます。

 全能の神様の実は私たちの枝を通してあらわれ、結ばれるのです。ですから、私たちに想像できないほどの力が私たちを通してあらわれます。私たちの中で私たちは根がどこに付いているか、これは根が御座からのものです。御父の、御子の御座から私たちに力が流れてくるのです。だから私たちは本当に弱く見える人間であっても、一人であっても、後ろにおられる方が最高の奇跡の神様、全知全能なる方です。だから、モーセ一人がエジプトに入って、その当時、最高の国、一番強い国家の王様パロを服従させました。これはモーセが神様から言われたとおりに、ただ命令された通りにおこなったのです。「杖を投げなさい。」「杖でナイル川を打ちなさい。」それで奇跡がおこりました。私たちの中でそのようなことがあります。だから私たちは単純な者ではない。ただ「主がぶどうの木、私は枝です。」これを悟ったハドソン・テーラーは、すべての自分の宣教活動に大きな奇跡をもたらしました。以前は自分で何かしようとして疲れ果ててしまいました。しかし、「主はぶどうの木、私は枝です。」ということを悟ってからは神様がすべてを提供してくださいました。働き人たちを与え、お金を与え、衣服も医薬品もあふれるほど補給されました。大祭司が至聖所に入って着てはならない服があります。汗が出る服、毛織の服を着てはならない。亜麻布の服を着ることです。自分の努力や自分の力で何かしようとする態度を私たちは捨てなければなりません。

.主の中にとどまる生活とは、何でしょう。

 み言葉の中にとどまることです。ヨハネ15:7で「あなたがたが私にとどまり、私のことばがあなたがたにとどまるなら」と言われました。み言葉の中でとどまる。主から言われるみ言葉によって私たちは聖められます。(3節)、また9節では「私の愛の中でとどまりなさい。」と言われました。だから、これをあわせると、「主の愛のみ言葉」の中です。私たちが聖書を読みながら、主の愛が御霊によって伝わってくるのです。その時人生が変わります。ハドソン・テーラーが変えられたのは、まさしくそれでした。主の愛が悟れるようになりました。チョー・ヨンギ先生が、貧しい牧会の活動の中でⅢヨハネ2節を悟り、あなたのたましいが恵まれ、そのようにすべての点でも恵まれ、健やかになる。そして、牧会も奉仕も展開しました。良き神様、愛なる神様、それで世界で一番大きい教会になりました。ある先生は、初めは癒しの働きを反対しました。しかし、その先生が自分の子供が病んでいるのを見て、自分の子を癒したいという思いが強く働き、祈りました。それで、天の父なる神様の愛を悟りました。「父なる神様も子供たちを癒したいんだ。」神様の名前が癒しです。だから、私たちはその愛をもって大きく口を開けて求めましょう。何でも求めなさいと7節で言われます。何でもということは、イエス・キリストの十字架の愛の中で与えられたものです。罪の赦し、聖霊充満、癒し、アブラハムの祝福、再臨。私たちはそれを自分だけではなく、多くの人々が自分のまわりの多くの人々がいやされ、神様の愛の祝福を受けるようにビジョンを持たなければなりません。夢のようなビジョン、幻、それを持つことです。神様は私たちという枝を通して、その実を結び主の栄光をあらわしたいのです。



ヨハネ 15:1〜10 


15:1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。

15:2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。

15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。

15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

15:6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。

15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

15:8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。

15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。

15:10 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。





1月22日

ステパノの顔 

使徒の働き6:8〜15

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神様は私たちをご自分の形によって造られました。神様の形は愛、信仰、希望です。人間が堕落する以前は神様の形を持っていました。しかし、人間が堕落してからその形を失いました。ステパノの顔は御使いの顔のように見えました。しかし、ステパノを殺そうとする人々の顔は悪魔の顔でした。

1.人の顔の印象は変わります。

  良い印象であっても悪く変わることがあるし、悪い印象であっても良い印象に変わったりします。私たちが心の中に聖霊様を受け入れたら私たちはキリストの栄光の顔に変わります。しかし、罪を持っていたら、人は情欲的な顔に変わります。レオナルド・ダビンチの最後の晩餐の絵でイエス様のモデルとイスカリオテ・ユダのモデルは同じ人でした。彼がイエス様のモデルとして描かれた後で堕落して、後にイスカリオテ・ユダのモデルになりました。ですから私たちは心を守らなければなりません。

2.悔い改めると印象は変わります。

 イエス様は「悔い改めなさい。神の国が近づいた。」と言われました。神の国が私たちの心の中に入る時、私たちの顔は変わります。多くの女性は外側の顔だけに神経を使っています。しかし、心の中の顔もあります。「忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、」(マタイ23:27)イエス様は外側を中心にしたユダヤ人宗教指導者たちを叱られました。心の内側を私たちは化粧しなければなれなりません。そのためには御言葉を見なければなりません。新約は前の鏡であり、旧約は後ろの鏡です。“神を愛しなさい。” “ あなたの隣り人を愛しなさい。”ということを前と後ろの鏡が教えます。それで私たちのどこが悪いかを見つけて悔い改め、イエス様の血潮で洗うのです。イエス様の血潮はすべての罪を聖めます。「それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」(ヘブル9:22)私たちが罪を告白すると、イエス様は真実で正しい方ですので、私たちのすべての罪をイエス様の血潮で洗ってくださいます。それで聖霊の油を注いでくださいます。そうすると、天国の義、喜び、平安であふれます。だからステパノの顔のように輝くのです。教会は内なる顔を化粧する所です。教会は集まって互いに励まし合うことが重要です。これは花婿を喜ばせることです。私たちがきれいに化粧していると、花婿が私たちを訪れます。

3.祈りを通して輝く顔になります。

 祈りは主との交わりであり、主と愛し合うことです。主が私たちをどんなに愛されたか、主に祈ると分るし、私たちの心は主の愛で満たされます。それで、主の愛を受けて私たちは輝きだします。ゲームなどのこの世の快楽に犯されると、私たちの前頭葉がやられて、本能的な動物的な人間に変わっていきます。すぐ腹を立てたり、自分をコントロールすることができなくなります。私たちはゲーム、テレビ、マンガなどから解放されなければなりまん。そこから目を閉じて祈りに専念しなければなりません。攻撃されても、問題があっても主に祈ればいつも主の判断を仰ぐようになります。赦せない人がいてもイエス様の十字架を通して赦せるように変えられます。これが祈りです。それで私たちの中で愛、喜び、平安、自制の御霊の実がたっぷり結ばれるのであります。これが私たちの顔を輝かせるのであります。   

    




 使徒の働き6:8〜15

6:8 さて、ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行なっていた。

6:9 ところが、いわゆるリベルテンの会堂に属する人々で、クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤから来た人々などが立ち上がって、ステパノと議論した。

6:10 しかし、彼が知恵と御霊によって語っていたので、それに対抗することができなかった。

6:11 そこで、彼らはある人々をそそのかし、「私たちは彼がモーセと神とをけがすことばを語るのを聞いた。」と言わせた。

6:12 また、民衆と長老たちと律法学者たちを扇動し、彼を襲って捕え、議会にひっぱって行った。

6:13 そして、偽りの証人たちを立てて、こう言わせた。「この人は、この聖なる所と律法とに逆らうことばを語るのをやめません。

6:14 『あのナザレ人イエスはこの聖なる所をこわし、モーセが私たちに伝えた慣例を変えてしまう。』と彼が言うのを、私たちは聞きました。」

6:15 議会で席に着いていた人々はみな、ステパノに目を注いだ。すると彼の顔は御使いの顔のように見えた。








1月29日

愛 の 

イザヤ43:1〜4

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自分は自分をどう思うか、自分のセルフイメージをどのように思うかがとても重要です。間違った教育や間違った価値観でセルフイメージを持ってしまったら私たちは破滅してしまいます。聖書には「力の限り見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:23)と書かれています。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(本文4節)神様の目で見ることが大切です。

1.愛されるセルフイメージを持つことです。

 私は偶然に生まれたのではなく、愛されるために生まれました。永遠の昔から私たちは定められて愛されました。私たちは神様から愛されるイエス・キリストの花嫁です。これは昔から定められたことです。

2.御言葉をいつも口ずさむことです。

 口ずさむということは、牛がいつも反芻するようにいつも御言葉を反芻することです。主が私を愛される、そして主が私を尊いと言ってくださるということをいつも思うことです。サタンは昔の間違ったイメージ、うそのイメージをしきりに教えこもうとします。“おまえは価値がない、失敗者だ。”しかし、主は私たちに言われます。「だが、今ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。」(本文1節)ヤコブは詐欺師です。しかし、イスラエルは“恵みによって主に勝った人。”“主が支配する”という意味です。私たちの中には、ヤコブの面とイスラエルの面があります。しかし、主は「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」と言われます。弱くても私たちは主のものです。しかし、サタンは私たちをしきりに告発します。私たちはそれを投げ落とさなければなりません。“イエス様の血潮で私は愛されている。”と宣言することです。否定的、破壊的なイメージを十字架の血潮で投げ落とさなければなりません。イエス様の血潮で“私は赦されました。私は愛されています。アブラハムの祝福を受けています。永遠のいのちが与えられています。”とくり返し、

くり返し自分に言い聞かせることです。そうすれば、30倍、60倍、100倍、1000倍の実を結びます。

3.愛を分け与える時、神秘的な力が生じます。

 「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときもあなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」(本文2節)私たちが愛すると愛によって勝利します。この世には毒のような言葉が多いのです。しかし、私たちは愛によって勝利することができます。砂漠でガラガラ蛇がりすを攻撃して、その毒でりすを殺してしまいます。しかし、子どもを産んだりすはガラガラ蛇が近づいてきても逃げません。かえって蛇にかみつきます。しかし、りすは死にません。それは、子どもを守るために解毒作用が体の中で働いているからです。これは愛の偉大な力です。子どもが成長して独立する時期になると、親りすにはその解毒作用がなくなります。私たちが人をいやし、福音を伝えようとする時はたとえ毒を飲んでも害を受けません。私たちの人生の目的を神様と人を愛することにおかなければなりません。そうすれば偉大な愛の力が私たちを通して現われます。パウロがローマに行って福音を伝えようという愛を持っていたので、彼はどんな試練に会ってもいつも守られました。毒蛇にかまれても死にませんでした。私たちがイエス様の愛を受けてこの愛を伝えようとする時、私たちは奇跡的な人生を歩むようになります。



 イザヤ43:1〜4

43:1 だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。

43:2 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。

43:3 わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。

43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。






2月5日

肯定的な生活の姿勢

ローマ8:28

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信仰を持っている人の生活の態度は肯定的な態度です。肯定的な態度はいつでもどんな状況でも希望を失わない態度です。絶望的な状況にもかかわらず絶望しないで希望を見ます。私たちの信じる神様は希望の神様です。天国は希望で満ちています。また神様は逆転の神様です。すべてを逆転させてくださるので希望を持ちます。

1.神様を愛する人は肯定的な信仰を持ちます。

 愛によって働く信仰です。神様を愛する人は信仰を持ちます。神様が私たちを愛するという信仰です。この世には色々な不安、絶望がいっぱいあります。これらを人間の力で打ち勝つ積極的な思考、肯定的な哲学には限界があります。私たちには神様から信仰がプレゼントされます。それで私たちはどんな絶望的な状況の中にあっても希望を持つことができるのです。神様は私たちを愛しています。神様は小さなため息にも耳を傾けてくださいます。神様を愛することによってすべて勝利することができます。「彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。彼が、わたしの名を呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。わたしは、彼を長いいのちで満ちたらせ、わたしの救いを彼に見せよう。」(詩篇91:14〜16)私たちはどんな時にもこの神様の助けがあるので、勝利します。神様を愛する人はいつも思い、対話し、仕えるようになります。

2.神様の御心どおりに生きることです。

 両親の心に従う子供は両親に愛され、祝福されます。神様の一般的な御心はいつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝することです。失敗しても感謝することです。アメリカのメイン州に、メンゴル・ブラウニーという主婦がいました。彼女はチョコレートケーキを作る時、イースト菌を入れ忘れて失敗してしまいました。しかし、それがもちもちした食感があると評判になりました。これがチョコレート菓子ブラウニーの誕生です。失敗しても感謝するとこのように全世界に広がり、有名なチョコレート菓子になりました。また特別な神様の御心は祈る時に啓示してくださり、夢や幻として見せてくださいます。心の中で志を立てさせてくださいます。私たちが強い願いを与えて導びかれ、環境が開かれます。主の御心でないものは主が環境を閉ざし、御心の所に導いてくださいます。

3.すべてが益になることを信じることです。

 十字架はマイナスをプラスにします。私たちの人生がマイナスのように見えても、主の御手の中ですべてが変わります。主は陶器師です。どんな土でも全能の神様によってすべてが良きものに変わります。人類の最悪のものが十字架でした。呪いやたたり、刑罰、地獄の苦しみが十字架に集められました。しかし、主の御手の中でこのマイナスがプラスに変わりました。十字架は私たちに救いや罪の赦しをもたらしました。呪いから祝福に変わりました。地獄から天国に変わりました。イエス様がすべての負債を支払ってくださったからです。私たちが受ける罪による苦しみ、呪い、たたり、地獄はイエス様がすべて支払ってくださいました。私たちがそのことを信じると、私たちの人生は祝福に変わるのであります。私たちの生活が神様を愛し、神様に仕え、人に仕える肯定的な生活となるように主の御名によって祝福します。



ローマ8:28 

8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。







2月12日

おしになったザガリヤ

ルカ1:13〜20

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ザカリヤは祭司でした。彼の妻は不妊の女で、ふたりとも年をとっていました。しかし、神様はこの夫婦を通してバプテスマのヨハネを与えようとしておられました。ヨハネとは“神様から愛される者”という意味です。しかし、ザカリヤは自分たちがもう年寄りだということで御使いの良き知らせに対して否定的な言葉をしゃべりました。それで神様は神様の御業が現われるまでは否定的な言葉をしゃべらないためにザカリヤはおしになってものが言えなくなりました。

1.不信仰な言葉にはおしにならなければなりません。

 人は堕落した本性を持っているのでそのままにしておくと否定的になります。アダムとエバの誕生以降数千年、堕落した本性がいつも不信仰なことを言うのです。大祭司であっても不信仰であれば神様に用いられません。だから神様はザカリヤをおしにしました。私たちが神様の御業をともに味わうためには、否定的な部分に対しておしにならなければなりません。

2.ザカリヤは神様の御言葉に対しては口が開かれました。

 神様によって与えられたザカリヤの子どもに名前をつけるために親族が集まってきました。ザカリヤの妻は“ヨハネ”という名前を言ったのですが、彼らは前例がない、慣例がないという理由で反対しました。その時ザカリヤは書き板を持って来させて、「彼の名はヨハネ」と書きました。すると、すぐにザカリヤの口が開け、舌は解け、ものが言えるようになって神をほめたたえました。信仰告白がどんなに偉大であるかが分ります。御言葉を積極的に告白しなければなりません。御言葉を告白すると、聖霊様が働いて聖霊様が事を成し遂げるのであります。私たちが神様の御言葉を口ずさむことはとても大切です。「この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。」(ヨシュア1:)だから私たちは否定的なことにはおしになり、神様の御言葉には積極的に告白をしなければなりません。

3.神様の時になれば御業が現われます。

 バプテスマのヨハネは母の胎内に10ヶ月いて生まれました。神様の計画はその時になるまで待たなければなりません。「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。」(伝道者の書3:1〜2)桃、栗3年、柿8年、ゆず13年という諺があるように、何事にも時があります。時になるまで忍耐しなければなりません。環境を見ながら否定的なことを言うと、種をまいてすぐ掘って見ることと同じです。そうするとすぐ種は死んでしまいます。時になる前に生まれる者はイシュマエルです。アブラハムが神様の約束を待たずに生んだのがイシュマエルです。今そのことが中東の問題になっているのです。神様はアブラハムが100才になってイサクが生まれることを計画しておられました。今日本にリバイバルの時が来ました。私たちは今までずっと耐え忍んで苦しんできました。今が時です。2011年3月11日が苦しみのどん底でした。今からは上がっていくのです。2012年は勝利の年です。環境を見て絶望しないで神様の時になるまで、待っていてください。神様の時が来ると、必ず事は成就します。ですから私たちは否定的な言葉には口をふさいで、いつも神様の御言葉を口ずさみ、告白しなければなりません。アブラムはアブラハムと名前を変えて1年後にイサクが生まれました。イサクは“喜び”という意味です。神様は私たちに喜びを与えてくださいます。忍耐すると喜びが与えられます。




ルカ1:13〜20 

1:13 御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。

1:14 その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。

1:15 彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、

1:16 そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。

1:17 彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」

1:18 そこで、ザカリヤは御使いに言った。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」

1:19 御使いは答えて言った。「私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。

1:20 ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、おしになって、ものが言えなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。」







2月19日

ダビデの勝利の秘訣

第Ⅰサムエル17:45〜50

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少年ダビデがゴリヤテを打ち破ったことを見ながら勝利の秘訣を学びたいと思います。そして私たちがゴリヤテのような問題にあった時、私たちの生活に適応していきたいと思います。

1.ダビデは確実な所属意識を持ちました。

 ダビデはゴリヤテに向かって「私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の御名によっておまえに立ち向かうのだ。」と言いました。私たちは神様に属するか、悪魔に属するか、二つに一つです。最初アダムとエバは神様に属する者でした。彼らは神様の御言葉に聞き従いました。神様の御声を聞いて彼らは義、喜び、平安で満たされた生活をしました。これはエデンの園の生活です。また、神様の御言葉を自然界に語りました。自然界は秩序を保ちました。しかし、サタンの誘惑に落ちて神様の御言葉を聞かなくなったので、この秩序がくずれました。すべての環境は呪われてしまいました。こんな私たちを救うためにひとり子イエス様が天から下って来られました。私たちのために十字架にかかって血潮を流され、私たちを贖ってくださいました。代価を払って私たちを買いとってくださいました。私たちは神様の民です。“あなたはわたしのもの。”という神様の言葉を聞くようになりました。「子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。」(Ⅰヨハネ4:)神様の御言葉を聞くことが神様の子どもたちです。

2.信仰によって勝利を宣言することです。

 ダビデは戦う前に主によってすでにゴリヤテの頭が胴体から離れていることが見えてきました。それを確信し、勝利の宣言をしました。「この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」と宣言しました。主は剣や槍を使わずに救い出し、神様の御言葉によって勝利すると言いました。私たちは問題をあまりにも大きく見て信じてしまうのです。問題をいつも告白します。このようにしてはいけません。私たちは御言葉によって宣言することが必要です。「初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光ができた。」(創世記1:1〜3)神様の命令です。御言葉を命令し、宣言しなければなりません。

3.信仰の行動です。

 私たちがゴリヤテに立ち向かって前進することです。ダビデは石投げと一つの石でゴリヤテに立ち向かいました。ゴリヤテは剣と槍と投げ槍を持ち、武装して来ました。ダビデは信仰で主の御名によって自分の持っているもので前進しました。それで一つの石で一発でゴリヤテの額を打ち、石は額に食い込み、ゴリヤテは倒れて死んでしまいました。私たちは事業をしているし、学生、主婦ですが、自分がいるそこが宣教地です。主に祈りながら主とともにやると、そこを支配することができ、勝利することができるのであります。



第Tサムエル17:45〜50 

17:45 ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。

17:46 きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。

17:47 この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」

17:48 そのペリシテ人は、立ち上がり、ダビデを迎え撃とうと近づいて来た。ダビデもすばやく戦場を走って行き、ペリシテ人に立ち向かった。

17:49 ダビデは袋の中に手を差し入れ、石を一つ取り、石投げでそれを放ち、ペリシテ人の額を打った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れた。

17:50 こうしてダビデは、石投げと一つの石で、このペリシテ人に勝った。ダビデの手には、一振りの剣もなかったが、このペリシテ人を打ち殺してしまった。






2月19日

あなたの手にあるものは何か

出エジプト4:1〜5

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モーセは自分の国イスラエルをエジプトの王パロの手から救い出しました。どうしてモーセが用いられたかを考えてみましょう。

1.あなたの手にあるものは何か。

 主はモーセに「あなたの手にあるそれは何か」とたずねました。モーセは「杖です。」と答えました。モーセは40年間羊飼いとして働いた時に使っていた杖でした。ひからびて傷だらけの何の価値もない杖でした。まるで80才になったモーセの人生の象徴のような杖でした。トルコのイスタンプールにあるトプカピ博物館に行くと、モーセの杖が展示してあります。長さは1m位で普通の竹の太さの杖です。契約の箱の中に入る大きさですので、映画「十戒」で見るチャールトン・ヘストンが持っているかっこよい杖とは違います。主は小さいもの、みすぼらしいものをもって大きいものを恥ずかしめられます。主は私たち小さい者、何もない者をもって日本人2千万人を救おうとしてしおられます。そこで主は“あなたの手にあるものは何か”と探しておられるのです。それはみずぼらしい杖です。

2.従順

 主はモーセに「杖を地に投げよ」と言われました。すると杖は蛇になりました。主はまたモーセに「手を伸ばして、その尾をつかめ。」と言われました。主はモーセが今まで40年間慣れたものを“投げなさい。”と言われました。私たちが従順するかどうかがとても大切です。モーセにとって杖は40年間の生活であり、助けとなったものです。この山、あの山へ行って羊飼いをしながらいつも使った杖でした。しかし、それが蛇になりました。エジプトの偶像崇拝者たちがつくった蛇を飲み込んだ杖になりました。蛇はつかまえる時、頭からつかまえます。尾からつかまえると、蛇にかまれてしまいます。しかし主はモーセに「手を伸ばして、その尾をつかめ。」と言われました。これは従順の訓練です。私たちが神様の前で主が言われたことに従順するかどうかを主は見ておられます。従順は用いられる力です。神様の力は従順する人に注がれます。イエス様も十字架に至るまで従順されました。杯を飲みました。全人類のために十字架を負いました。十字架は滅びる人々には愚かに見えるけれども、救われる私たちにとっては神の力です。主が金山先生に富山県の立山に行って油を注ぎ、イエス・キリストのものとして宣言しなさいと言われた時、命がけでそのことに従順しました。立山に130の地獄のドアがあります。それらに油を注いでイエス・キリストの御名を宣言し、滅ぼしていきました。神様が勝利を与えてくださいました。2012年は勝利の年です。私たちがこのように神様に従順すると、奇跡が起ります。「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」(マルコ16:17〜18)

3.神の杖。

 主はモーセに“ミデヤンから離れてエジプトに帰って行きなさい。”と言われました。モーセはその言葉に従順してエジプトに着きました。するとモーセが持っていた杖が神の杖になりました。モーセの杖が従順の結果、神の杖に変わったのです。私たちは平凡な人々です。ひからびた傷だらけの杖です。しかし、神様の御言葉の所、使命の所、2千万人救霊の所にかかわると、その杖が神様の杖になります。神様の杖は王の王の笏です。王は人々の生と死を決定する力があります。この世の王様はそのようなことをします。しかし、私たちは王の笏を持っています。私たちが持っている十字架の福音が神様の杖であります。私たちが宣言すると、永遠の天国と永遠の地獄の分れ目になります。だから家族の中で私たちは福音を宣べ伝えなければなりません。これが神様の杖です。私たちが語らないと人々は死ぬのです。イエス様の血潮を宣言すると赦されるし、聖霊を受けます。いやしを宣言すると、いやしが現われます。私たちが福音の杖である十字架を大胆に宣べ伝えなければなりません。神様は日本2千万人救霊のために十字架の福音を私たちの手に渡してくださいました。それを使いましょう。そして日本を救いましょう。




出エジプト4:1〜5 

4:1 モーセは答えて申し上げた。「ですが、彼らは私を信ぜず、また私の声に耳を傾けないでしょう。『主はあなたに現われなかった。』と言うでしょうから。」

4:2 主は彼に仰せられた。「あなたの手にあるそれは何か。」彼は答えた。「杖です。」

4:3 すると仰せられた。「それを地に投げよ。」彼がそれを地に投げると、杖は蛇になった。モーセはそれから身を引いた。

4:4 主はまた、モーセに仰せられた。「手を伸ばして、その尾をつかめ。」彼が手を伸ばしてそれを握ったとき、それは手の中で杖になった。

4:5 「これは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現われたことを、彼らが信じるためである。」






3月4日

主の導き

出エジプト記12:514

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霊的選民イスラエルを主はエジプトから救い出し、カナンの地へ導いてくださいました。

1.傷のない子羊の導き。

 どうして傷のない子羊が導くのでしょうか。私たちは皆罪を犯したので、義人はひとりもいません。この罪を贖うために死ななければならない羊は、傷があってはならないのです。傷のない羊の血を流し、その血を門柱とかもいにつけなければなりません。そうすると災いが過ぎ越されるのです。血を流すことなしに罪の赦しはありません。イエス・キリストは子羊として来られ、私たちのために血潮を流してくださいました。私たちがこのイエス・キリストの血を体験しなければなりません。私の罪のためにイエス様が血を流されたのです。「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:17)私のためにイエス様が死んでくださったという人格的な告白と出会いが血潮を体験することであります。

2.羊を火で焼いて食べなければならない。

 私たちが荒野のようなこの世を生きる時、力が必要です。イエス様は私たちの力になってくださいました。羊であるイエス・キリストの頭の上から足の先まで火で焼いて食べること、この食べるとは信じることを意味します。「イエスは言われた。『わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。』(ヨハネ6:35)イエス様を全部信じることが重要です。アダムがエデンの園から追い出された時から、いばらとあざみが生えました。イエス様はいばらの冠を受けられました。それは私たちにアブラハムの祝福を与えるためでした。すべての呪いから私たちを救ってくださるためです。私たちには先祖のたたり、方角のたたり、日にちのたたりはありません。例え仏滅の日であっても、クリスチャンにとってはすべてが良い日であり、祝福の日となります。イエス様がいつも共におられるからです。イエス様の打たれた傷によって、私たちは癒されました。私たちがこのようにイエス・キリストの十字架の苦しみから来るメッセージを、人間的な思いを入れずに、種を入れないパンである御言葉を、そのままダイレクトに信じることが重要です。種を入れないパンを苦菜と一緒に食べなければなりません。苦菜はイエス様が私を愛し、私のために苦しみを受けられたというイエス様の苦難を思うことです。魂が恵まれ、すべてに恵まれ、健やかになることです。イエス・キリストをすべて信じることです。

3.雲の柱、火の柱の導き。

 イスラエルの民は羊を火で焼いて食べました。火で焼いたという意味は、聖霊様が聖霊の火で私たちがイエス様を信じるようにしてくださることです。羊を食べて出発する人々を聖霊様がすぐ雲の柱、火の柱として現われ導きました。カナンの地へ導くために聖霊様がガイドをしてくださるんのです。エジプトのパロの軍団が追って来た時、イスラエルの民に近ずかないように雲が止めました。イスラエルの民は分かれた紅海を良く乾いた道のように渡ることができました。主が道を作ってくださったのです。私たちがイエス様を信じると悪魔、異端、哲学、宗教、間違った知識をもって、攻撃してきます。聖霊様は真理の御霊です。聖霊様は私たちを真理によって保護してくださるし、慰めてくださいます。暑さも寒さも主が雲の柱、火の柱で私たちを守り導いてくださいます。


出エジプト12:5〜14 

12:5 あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。

12:6 あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、

12:7 その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。

12:8 その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。

12:9 それを、生のままで、または、水で煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。

12:10 それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、火で焼かなければならない。

12:11 あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。これは主への過越のいけにえである。

12:12 その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。

12:13 あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。

12:14 この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。あなたがたはこれを主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない。







3月4日

御 霊 の 宮

第Ⅰコリント6:19〜20 トップへ

すべては目的があって造られました。人間はどうして造られたのでしょうか。これは神様が共に生活しながら神様の栄光を現わすだめでした。栄光を現わす道具として造られました。

1.御霊の宮。

 主が私たちをちりから形造って、私たちの鼻に神様の息である聖霊を吹き込みました。そして私たちが生き物になりました。私たちは主を賛美し、主を礼拝する者になりました。私たちの中に神のパラダイスが臨みました。暗やみもなく、呪われることもなく、神様がいつも共におられたからです。

2.悲劇が起こりました。

  アダムとエバが私たちに祝福を与え、いのちを与える聖霊様の御言葉を拒み始めました。神様は彼らに“善悪の知識の木の実をとって食べたら必ず死ぬ。”と言われました。しかし、サタンの誘惑に落ちて、善悪の知識の木の実をとって食べて、自分が神のようになりました。聖霊様がいくら彼らに言われても聞きません。聖霊様は人格者ですので聞かない人から離れました。離れた結果、私たちの聖霊の宮がサタンの巣窟になりました。それで人間は悪いことをするようになり、呪われる者になりました。すべての環境は呪われました。サタンが支配してすべてが悪くなりました。病気になりました。こんなに死んでしまったものはちりだからちりに帰らなければなりません。そのちりをサタンが食べるようになりました。聖霊が離れた人間はちりにすぎません。サタンのお腹の中でこのちりはサタンのための地獄の燃料になりました。絶望、苦しみが増し加わるために、昼も夜も休まずに絶望の苦しみを作るのです。これが地獄です。サタンの家です。人間が生まれてそこに行くのだとすれば生まれなかった方がいいです。

3.主が私たちを買いとられました。

 こんなに私たちがサタンによって苦しめられ、永遠に滅ぼされる私たちを憐れんでイエス様がこの地上に来られました。そして私たちを贖ってくださいました。あるお父さんが船の模型を上手に作って子どもと楽しみました。しかし、その船を川に浮かべたところ、失敗して流され失ってしまいました。ところがあるおもちゃ屋で高い値段で売られているその船を子どもが見つけました。おもちゃ屋の主人に“これは僕のお父さんが作ったものです。”と言ってもおもちゃ屋の主人はそのことを信用せず、彼を叱って店から追い出しました。その事情を聞いたお父さんはそのお店に行って自分の作った船を高い値段で買いとりました。これが買いとったということです。私たちは罪を犯したので、サタンの奴隷になりました。サタンは自分の所から持って行くためには罪の代価である死を払えと要求します。罪の代価は死ですが、これを人間は誰も払うことはできませんでした。神の子イエス・キリストが人間となられて、この地上に来られ、十字架にかかって死なれ、その血潮で代価を払ってよみがえられたのであります。私たちは贖われました。神様が再び聖霊を送ってくださって、私たちの心の中を聖霊の宮としてくださいました。今日の本文の20節を見ると、「あなたがたは、神の栄光を現わしなさい。」とあります。栄光を現わすのは①賛美です。主に賛美を捧げることです。②とりなしの祈りです。私たちが神様の手足となって他の人のためにとりなすことです。グァテマラのアモロンガは農業中心の都市ですが、クリスチャン人口は0%でした。しかし、マリアノ牧師先生がそこでとりなしの祈りをしました。イエス・キリストの血潮をつけて祈りました。すると、聖霊様が臨んでどんどんリバイバルが起こりました。あとでは92%がクリスチャンになりました。すべての酒屋が店を閉め、遊女たちが悔い改め、麻薬中毒者たちが正常な生活に戻りました。神様がその町を祝福し、大収穫が起こりました。このように神様は私たちが呪いから解放され、祝福されることを願っておられます。そして、私たちが家のため国のためにとりなす人となるように願っておられます。これが神の栄光です。



第ⅠTコリント6:19〜20 

6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。







3月18日

聖霊様はどなたですか

ヨハネ14:16〜20

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イスラエルの民がエジプトから出た時、雲の柱、火の柱が昼は彼らを暑さから守り、夜は恐怖、寒さから守ってあげたように、私たちもイエス・キリストを信じて、エジプトを出てサタンの手から救われた時から不思議な聖霊様が私たちを導くようになります。

 ① 聖霊様はどなたですか

 聖霊様は助け主です。イエス様は弟子たちの助け主だったのです。12弟子をいつも助け守りました。

しかし、イエス様が十字架にかかり、処刑される事を聞いて弟子たちはがっかりしました。故郷に帰る事も出来ない絶望的な状況で落胆していたその人々に、イエス様が言われた言葉が今日の本文です。「私はもう一人の助け主を送る。その方は真理の御霊、あなた方を捨てて孤児にはしない」それが聖霊様のことでした。聖霊様はイエス様が助け主であったように私たちの所に今来られた助け主です。「パラクレイトス」パラは側、クレオは呼ぶ、そばで呼ばれて私を助ける方が聖霊様です。だから私たちを今も一人にはしない、この世の暑さ、その苦しみから、罪、病、呪い、死から救い、主の御座、主の天国に行くまで私たちを導いてくださるのです。

 ② 聖霊様を求めなければなりません

 聖霊様に対して期待すること。「聖霊様を求めなさい」とイエス様が言われました。使徒の働き1:45で彼らと一緒にいる時、イエス様が彼らにこう言われた。エルサレムを離れないで私から聞いた父の約束を待ちなさい。この父の約束は何か、聖霊のバプテスマです。聖霊の火を受ける事を弟子たちが10日間祈り続けました。聖霊様は人格者ですから求める者に来られるのです。聖霊様が来られると弟子たちが本当に唐ってしまいました。聖霊様が照らしてくださったからイエスキリストの十字架とよみがえりが、人類の救いのためだということがはっきりとわかりました。イエス様は生きておられ、天国が私たちの中に臨んでいる、主は生きておられ、イエス様を愛するようになり、天国の希望と喜びが充満になりました。これが聖霊様の働きで、力を受けるのです。使徒の働き1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」 どのような力か。聖霊様が信仰を与えるので福音を伝える証人になるのです。

 ③ 聖霊様は今も私たちを助けようとしておられます。

 聖霊様はどのようにして助けるのですか。イザヤ11:2のように「その上に主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊」知恵というものは問題を解決することです。悟りの霊はunderstand.すべてわかるのです。このことはやるべきか、やってはならないか、そのことがわかります。また、はかりごとはカウンセリングです。私たちの家庭の中で、人間関係、子ども、親子の問題、いろんなことをカウンセリングしてすべてが円満になります。能力の霊は賜物が与えられて、良く歌うように、良く教えるように、また自分の分野で、能力と知恵が与えられるようにしてくださいます。また知識は、よく分からない事に知識が与えられてとりなすことが出来ます。主を恐れる霊である聖霊様が、私たちに働いてくださると神様がどんな方かということがすぐにわかります。伝道チラシ一枚でも、祈って配ると聖霊様が働いてくださり人が変わるのです。イエス様と出合うのです。ですから私たちが聖霊様と共に交わりをすることが重要です。聖霊様は私たちにコイノニア、交わりをされる方です。聖霊様は私たちに思いを与えます。肉の思いは死であり、御霊の思いはいのちと平安です。私たちの思いがどんな思いか、(復讐しなさい)という思いは間違った思いであり、(赦しなさい)とその思いがきたら聖霊様の思いです。

このようにして私たちが聖霊様に従順していくと、どんどん大きく用いられるようになります。私たちの中で泉が湧き、川のように流れて多くの人々を祝福する者になります。



ヨハネ14:16〜20 

14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。

14:17 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。

14:18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。

14:19 いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。

14:20 その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。






3月25日

イエス様だけ仰ぎ見よ

ヘブル12:1〜2

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私たちがどんな状況の中でも、イエス様だけ仰ぎ見るとイエス様から来る愛と、信仰、希望によって問題の山が動きます。

.集中して仰ぎ見ることによって心が支配されます。

 私たちが聖く生きようとすると、見るものを注意しなければなりません。誘惑の部分を見ると、私たちが試みに落ち、誘惑に落ちてしまいます。私たちがいつもイエス様を仰ぎ見ることが重要です。仰ぎ見るものに心が支配されます。イエス様の十字架を仰ぎ見ると、その血潮によって罪が赦されます。聖霊様が来られ、私たちの中で聖霊様が悪魔、サタンに打ち勝つ力を与える。真理を悟らせてくださる。真理を知り、真理があなたを自由にします。私たちの中に債務証書がありますが、罪によって来たものです。罪によって来る呪い、崇り、病気、死、そのような債務証書を無効にされたとコロサイ2章14節で言われます。神様がこの証書を取りのけ、十字架に釘付けにされました。だから、イエス様の十字架の姿は私の借金(債務証書)が付けられた、解決されたということです。だから、私たちは病にかかる必要がありません。イエス様がすべて支払われました。イエス様の打たれた傷によって私たちは癒されます。また茨とあざみをイエス様が受けられたので、私たちがそれを払う必要はない。アブラハムの祝福を受け、私たちの人生が祝福に満たされるようになります。私の地獄、死をイエス様が背負って、勝利なさいました。これを聖霊様が悟らせて、自由を与えてくださいます。

.続けて仰ぎ見ることによって環境がついてきます。

 磁石に鉄がついてくるように、環境が私たちの思いに従ってついてくるのです。ヨブの思い、ヨブは否定的なサタンが与える思いをそのまま持ちました。自分の財産が全部なくなること、子供たちが全部死ぬこと、そのような思いをしていました。その思いはサタンから来たものでした。ヨブはこのように後で告白します。私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが私の身にふりかかったからだ。(ヨブ記3章25章)思いはとても重要です。だから私たちが十字架を通して肯定的な思いを持たなければなりません。病が、咎が赦された。詩篇103篇3〜5「主はあなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病を癒し、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さはわしのように新しくなる。」このような思いをすると、本当に私たちの人生はその通りに環境がなっていくのです。

.瞬間瞬間イエス様だけ見ることを決断する。

 信仰は選択です。環境が99%不信仰であっても、1%信仰を持って、からし種の信仰を持って、イエス様を仰ぎ見ることです。イエス様の愛は十字架の変わらない愛、無条件的な愛です。その愛によって動く信仰が私たちに奇跡をもたらします。この世は霧のように過ぎ去ります。だから頼るものはないのです。この世のものを頼ったら負けます。環境を頼ることなく、環境がどんなに厳しくても、主を仰ぎ見ることです。主を頼ることです。イエス様を見ると不可能はありません。奇跡が起ります。チョー先生に13歳の足が癌にかかった子供が来ました。その子供の病気を見ると、チョー先生も99%不信仰になりました。しかし、1%信仰、子供の足の癌を見ないで、癒し主、主イエス・キリストを仰ぎ見ました。それで、この子供に感謝するようにしましょうと。その子供が病院に行って検査したら足の癌が全部消えていました。このように主を仰ぎ見ると奇跡が起るのです。

.イエス様に感謝を捧げることです。

 詩篇50篇23節「感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人にわたしは神の救いを見せよう。」と言われます。私たちが環境を見て否定的になって不平不満をすると、全てが水の泡のようになってしまうのです。どんなに苦しみがあっても、私たちは感謝の祈りをしなければなりません。感謝ささげると、祝福の道が開かれます。私たちが続けて感謝をささげるとき、もっと良いものが与えられます。私たちがこの信仰の位置、感謝をもって告白することによって救われます。ローマ書10章10節「人は心に信じて、義と認められ、口で告白して救われるのです。」





ヘブル12:1〜2 

12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。






4月1日

ソロモンの一千頭のいけにえ

第Ⅰ列王記3:4〜15

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ソロモンは一千頭の全焼のいけにえをギブオンで主に捧げました。その後で,神様が彼を祝福してくださいました。知恵だけ求めたのに、知恵以上の富と誉れも与えてくださいました。

1.一千頭全焼のいけにえは感謝のいけにえです。

旧約の時代には、いけにえに自分の罪を告白します。そうしたら、すべての罪がいけにえに移りほふられ、火で焼かれて祭壇の上で灰になるまで燃やされます。ソロモンはそれを見ながら、イエス・キリストの恵みを見たのです。私の身代わりになって死んでくださった主よ、感謝致します。感謝のいけにえを捧げました。感謝しつつ主の門に、賛美しつつその大庭に入れ、と感謝を捧げるとそのように道が天まで開かれます。ソロモンは1日一千回感謝を捧げました。朝300回、昼300回、夜400回神様に感謝を捧げました。ユダヤ人たちは三度主に礼拝を捧げました。アイザック・ウォルトさんは「神様がおられる所は2つある。1つは天国、1つは感謝の心にある。」と言いました。 私たちが感謝を捧げると、ソロモンのように主が道を開いて祝福してくださる。あなたに何を与えようか願え、と主自らそのように言われるのです。

2.感謝しようと決心する。

感謝するには決心が必要です。私たちが状況に従って、環境に従って感謝しようとすると一生感謝することはあまりないのです。17世紀、フランスの有名な哲学者パスカルは神様に感謝して最高の祝福を受け幸せになることがわかっても感謝することができない。感謝しようと決心して決定しないといけないと言いました。一日1千回、一千頭感謝することをソロモンは決心しました。私たちもその決心が必要です。そうすると主が現れ、主が祝福して、主が私たちの願いを広げて、導いてくださるのです。韓国にアフリカ宣教師金ヘオンさんがいます。父親は「娘」だとして、酒に酔ってその子供を床に投げつけました。骨髄が病気になって成長が正常にできませんでした。成人になっても134cm、また、右足が左足より短い、勉強は小学校だけ、父は自殺し、母は精神病で14歳から自分がアルバイトをして弟四人を助けなければなりませんでした。しかし、イエス様を信じて感謝するようになりました。それで職業訓練を受けて、編み物の機械部門で一位になりました。やがて、宣教師になり、アフリカの一番貧しい所、ブツナワで14年間献身します。神様が彼女の道を広げて、コロンビア大学という名門校に入学し、大学、大学院まで卒業するようにされました。その後、神様が彼女をブータンに送りました。ブータンは「彼女が自分たちの希望だ」と受け入れました。そこにも職業訓練校をつくりました。いつも神様が寂しい時、悲しい時、彼女の所に来られて、彼女を慰めてくださいました。平安あれ、私はあなたと共にいる。あなたと私がここで一緒に住もうと言われました。私たちがどんな状況の中でも感謝すること、すべての事に感謝すること、「これがキリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」と言われました。私たちに手が二つあること、足が二つあること、耳が聞こえること、目が見えることいろんなことを当然のように考えてはいけません。それらは、感謝しなければならない。失ってみてからわかるものです。

3.感謝する人に願い以上のものを与える神様です。

ソロモンはただ、知恵だけ求めたのに、神様がソロモンの感謝の一千頭のいけにえを見て、心が感動しました。それで彼に、富も誉れも一緒に与えてくださいました。私たちが感謝するとボーナスがきます。パウロとシラスがピリピ牢に入り、鎖につながれていても、彼らは感謝を捧げてから、ピリピ牢の看守の家が全部救われました。これが感謝の祝福です。私たちが感謝するともっと深い恵みを与えてくださいます。10人のらい病の人々がいました。「イエス様、先生、私たちを哀れんでください。」その人々をイエス様が哀れんで「祭司に体を見せなさい」と言われました。祭司は医者でした。検疫官でもありました。行く途中で10人は癒されました。しかしサマリヤ人、一人だけがイエス様の足元に来て感謝の報告をしました。「10人癒されたのではないか、9人は何処にいるのか。いきなさい、あなたの信仰があなたを救ったのです。」永遠の命までも彼はもらいました。だから、私たちは決心して一日一千回、感謝することをしましょう。感謝する。歩きながら感謝する。寝ながら感謝する。感謝、感謝する。





第TⅠ列王記3:4〜15 

3:4 王はいけにえをささげるためにギブオンへ行った。そこは最も重要な高き所であったからである。ソロモンはそこの祭壇の上に一千頭の全焼のいけにえをささげた。

3:5 その夜、ギブオンで主は夢のうちにソロモンに現われた。神は仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え。」

3:6 ソロモンは言った。「あなたは、あなたのしもべ、私の父ダビデに大いなる恵みを施されました。それは、彼が誠実と正義と真心とをもって、あなたの御前を歩んだからです。あなたは、この大いなる恵みを彼のために取っておき、きょう、その王座に着く子を彼にお与えになりました。

3:7 わが神、主よ。今、あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし、私は小さい子どもで、出入りするすべを知りません。

3:8 そのうえ、しもべは、あなたの選んだあなたの民の中におります。しかも、彼らはあまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど、おびただしい民です。

3:9 善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。」

3:10 この願い事は主の御心にかなった。ソロモンがこのことを願ったからである。

3:11 神は彼に仰せられた。「あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちをも求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、

3:12 今、わたしはあなたの言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。あなたの先に、あなたのような者はなかった。また、あなたのあとに、あなたのような者も起こらない。

3:13 そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者はひとりもないであろう。

3:14 また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしのおきてと命令を守って、わたしの道を歩むなら、あなたの日を長くしよう。」

3:15 ソロモンが目をさますと、なんと、それは夢であった。そこで、彼はエルサレムに行き、主の契約の箱の前に立って、全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえをささげ、すべての家来たちを招いて祝宴を開いた。






4月8日

雲の中の虹

創世記9:11〜16

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ノアの時代に神様が洪水によって人類を滅ぼしました。ノアの家族だけが生き残りました。このノアはその後で箱舟から出て深刻な精神的な打撃を受けました。それで正常な生活ができませんでした。雲を見たりすると、驚いて箱舟に逃げる生活をしました。その時神様は「わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地の上に地との間の契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を起こす時、虹が雲の中に現れる。」と約束してくださいました。それを見ると、契約を思い出し、絶対洪水で人類を滅ぼすことはない。そのように約束してくださいました。それで人々は雲を見ても約束を信じて安心するようになりました。

.私たちは虹を仰ぎ見なければなりません。

 虹は神様の約束です。神様は契約の神様であり、絶対約束したことを破ることはありません。十字架の上でイエス様が私たちに5つの虹を約束してくださいました。罪の赦しの虹 「私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦しすべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:)という虹です。約束です。聖霊充満の虹 私たちが自分の弱さのゆえに“ああ、私は本当にみじめな者です。”と自分に対して失望する雲を見る時、また“神様の御言葉を守れない、神様の命令に従えない、心には願うけれども、行う力が自分にはない。”と嘆く時、聖霊様を送ってくださいます。聖霊様の力によって私たちが神様の命令、神様を愛することと隣人を愛することができるようにしてくださいます。いやしの虹 病の雲が私たちを覆ってもイエス・キリストの打たれた傷によっていやされたという虹を見ることができれば勝利します。呪いと貧しさの虹 現実の中で呪い、貧しさの雲が厚く覆っている時にも、主は私たちの一生を良いもので満たしてくださるという約束を握って虹を見る時、勝利します。永遠のいのちの虹 人生の中で一番黒い雲は死の雲です。しかし、死の雲の中にあってもイエス・キリストはよみがえりであり、いのちであることを信じることによって、雲の中で虹をみることができます。

.虹を見ながら、強く、雄々しくならなければなりません。

 人々は環境を見て、感覚を頼りながら震えるのです。ノアの家族もそうでした。しかし、虹の約束を握った後、虹を仰ぎ見ながらどんなに環境が暗くても御言葉を握って生きることでした。主は“強くあれ。雄々しくあれ。”と言われます。私たちはいつも約束を握って御言葉を口ずさまなければなりません。主が私たちと共におられる、どこにいても私たちと共におられるという約束です。環境の雲が、危険が、強迫や恐れがきても私たちはこの御言葉をしっかり握ること、約束の虹を握ることです。そうすれば勝利します。しかし、人間がその約束を信じないから、バベル塔を造りました。高く高く人間が神様の所まで高くなろうとしました。バベル塔は避難場所ではありません。神様は人間の造った避難場所はくずします。神様の中に避難場所があります。御言葉が避難場所です。

.虹はよみがえりの約束です。

 私たちが死や、絶望を見ないで希望を見ることです。ラザロの死を見て、よみがえりのイエス様が来られました。墓の石を取りのけなさい。それでラザロを呼びました。“ラザロよ。出て来なさい。”ラザロが死んだことでこの家族は絶望に包まれました。絶望である死んで4日なるラザロが出て来ました。その家が絶望から希望に変わりました。イエス様が触れられると、絶望が希望に変わるのです。400年以上日本は暗闇の中で支配されました。日本の教会は徳川家康の政策によって、今までずっと苦しみの墓の中にいました。しかし、今日のよみがえりの日に主は言われます。“日本の教会よ。よみがえれ!”2000万人救霊、万軍の主、王の王、救い主イエス・キリストによって日本は救われます。用いられます。このことを私たちが大胆に宣言しながら虹を見るべきです。私たちの信仰が1%しかない、からし種の信仰であっても主に不可能はありません。人間には不可能でも神にはできます。イエス様は「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」(マルコ9:23)と言われました。




創世記9:11〜16 


9:11 わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」

9:12 さらに神は仰せられた。「わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。

9:13 わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。

9:14 わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現われる。

9:15 わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。

9:16 虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」







4月15日

神様と私との関係

ローマ8:14〜16

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信仰生活で一番重要なものは、神様と私たちの関係を悟ることです。悪魔は私たちが神様を恐い神様としていつも刻もうとします。しかし、聖書は聖霊様によって私たちが「アバ、父。」と呼ぶ親密な愛なる主との関係を言っています。

.人間の堕落と神様との関係。

 初めの人間は神様がすべて造られたものを管理するようになりました。これが非常に神様は嬉しかったのです。“非常に良かった。”と神様は言われました。しかし、この中で反逆が起りました。善悪の知識の木の実を取って食べて管理者が主人になってしまいました。それでエデンの園から追い出されました。犯罪を犯した人間を神様は裁判官として審判をくださなければなりませんでした。「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べる時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:17)このように御言葉から離れた人間はちりにすぎません。ちりにすぎない人間を蛇であるサタンが支配するようになりました。うそつきのサタンに支配される人間は本当に自由がありませんでした。絶望でした。この絶望に落ちた人間を救うためにイエス様が来られました。

.神様の救いと神様との関係。

 絶望に落ちた人間を憐れんで主が救いの計画を立てられました。(創世記3:15)イエス様が来られ、サタンの頭を踏み砕きました。いつもうそをついて、うそで人間を支配し、恐怖の政治をする者を踏み砕きました。このイエス様を受け入れた者は新しく造られた者になりました。イエス様の名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになりました。これは主との新しい関係であります。この子どものために主はすべての代価を支払ってくださいました。私たちが犯した罪、咎、刑罰を十字架ですべて支払ってくださいました。

.「アバ、父。」と呼ぶように聖霊様が働いてくださいます。

 聖霊様は私たちの中に入って私たちと一緒に食事をし、私たちと一緒に生活されます。聖霊様は私たちを神の子どもとして「アバ、父。」と呼ぶように私たちに語ってくださいます。私たちが神の子どもであることは神ご自身が私たちの霊と共にあかししてくださいます。「アバ、父。」と言うことは“私の父、私のパパ”ということです。聖霊様は十字架を通して父の名前を私の霊に語るのです。“主があなたの身代わりになった。主があなたの代りにむち打たれ、あなたの病を背負った。あなたがどこに行ってもあなたと共にいて勝利を与える。”と聖霊様が語るのです。「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」(イザヤ43:2)また、私たちに平安を与える主です。ある時イエス様が来られるのに幽霊だと弟子たちが叫びました。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」とイエス様は言われました。私たちが主を正しく認識する時、恐れから解放され、平安が与えられます。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」(詩篇23:1)私たちは羊です。羊飼いなる主によって私たちは守られます。羊の特長は目が悪く、よくだまされるし、よく倒れます。倒れたら自分の力では立ち上がれません。利己的で方向感覚がなく、防衛力もありません。羊のような私たちを主は羊飼いとして憐れみと慰めといつくしみと恵みを最後まで与えてくださいます。そして、主の家に永遠に住まうようにしてくださるのです。




ローマ8:14〜16 

8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。







4月22日

唯一なる神様

出エジプト20:1〜3

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神様が私たちを救ってくださって、それから十戒を与えてくださいました。十戒は神様の愛の表現です。方位磁針です。道に迷った人が方角をすぐとりもどすことができるのは、方角を示すものがあるからです。十戒はそのようなものです。

1.わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

 天地万物を創造されたのは、ただひとりなる神様です。「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:)と聖書に書いてあります。ほかの神々とはなんでしょうか。聖書にはサタンが高慢になって神になろうとして堕落したことを言っています。“明けの明星”だと言われます。この者が自分が神になろうとして堕落しました。神様はこれを汚なく思って神の国から追い出し、天使の3分の一が反逆して追い出されました。この者たちが追い出されてから神様は人間を造り、人間に神の栄光を賛美するようにされました。だからサタンは力の限り人間を苦しめ、迷わそうとしているのです。こんな人間を救うために神様は御子イエス・キリストを贈ってくださいました。サタンは人間が自然を崇拝するように導き、人間を惑わすのです。日本には800万匹の神々が存在します。人本主義、権力、お金、人気、快楽などもサタンが使っている神々の種類です。こんな神々があってはなりません。なぜなら人間をだまして苦しめるからです。本物ではありません。本当に私たちに平安を与え、喜びを与えるのは主だけです。私たちは惑わされてはなりません。

.主だけ礼拝しなければなりません。

 私を愛して死んでくださったほどに私を愛する方はイエス様です。イエス様が私たちを認めてくださる時に、私たちの中で平安と喜びが生じます。「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」このように主が私を認めてくださる時に、アウシュビッツ収容所にいても感謝感激があるし、獅子の窟の中にあっても喜びがあります。石で打たれて死んで行くステパノの顔は天使のような顔になり、死んだ顔はまるで眠るような顔でした。聖霊充満になれば、このようにすべてが柔らかくなるのです。死んだ顔がかたくなり青くなると、これは天国に入る顔ではありません。私たちは主の御顔を見ながら私たちの顔が主の顔に変わって行くのであります。主の愛の目をいつも意識して生活しましょう。ヨセフはポティファルの妻が誘惑する時に主の目を意識しました。コランデオということはいつも自分の前に主を置く生活です。ペテロがイエス様を3回否認してからイエス様と目が会いました。その時彼は激しく泣き出しました。悔い改めました。このように主の目を意識すると、誘惑から守られるし、悔い改めをすぐするようになります。私たちはほかの神々を私たちと主との間に置いてはいけません。主をいつも礼拝し、主を見上げると、どんな人気者になっても、権力を手に入れても神様から目をそらすことはありません。

.私たちの人生を誰に捧げたらいいでしょうか。

 私たちはピアノのような存在です。誰が私のピアノを弾くかによって地獄の音も出すし、天国の音も出します。私たちは手と足を主に捧げなければなりません。「また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」(ローマ6:13)私たちを通して天国の音が出るようにしなければなりません。アフリカのネルソン・マンデラさんのように自分を27年間牢の生活をさせた白人たちを赦し、大統領になった時に国家を和解の場所にしました。そしてノーベル平和賞を授与された人になりました。このように私たちを愛する方、唯一なる主に自分を捧げることが大切です。




出エジプト20:1〜3 
20:1 それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。

20:2 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。

20:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。







4月29日

偶像を造って、拝んではならない

出エジプト20:4〜6

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  第一の戒めは私たちを愛してくださった方は唯一なる神様であり、イエス・キリストだと学びました。その方を礼拝する真の方法を教えてくださいます。神様を礼拝する正しい方法として「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:24)と言われました。神様と私たちの間に間違ったものを置いてはいけません。私たちが神様に近づくためには聖霊と御言葉によって、可能であります。

.偶像を造ってはならない。

 偶像は人間が神様に行くために造ったものであります。神様に礼拝する方法は聖霊と御言葉によってだけであります。しかし、その道に偶像を造ったら邪魔になるのです。偶像は私たちに間違ったメッセージを送ります。靖国神社を参拝すると戦争をしたくなります。外交的に解決する方法を模索しないで戦争したいということになるのです。仏壇の前では、呪いとたたりがあります。自分の先祖を愛する心ではなく、たたりが恐くて間違った行動をとるのです。これは真理ではありません。真理はイエス・キリストの十字架の恵み、御言葉の約束であります。それを私たちが知ると自由が与えられます。聖霊様はそのことを私たちに教え、正しい礼拝ができるようにされます。聖霊様が正しく信じる信仰を与えて御言葉なる主を礼拝するようにします。

.偶像を拝んではならない。 

 神様は私たちの愛の矛先が間違った所へ行く時に傷を受けます。ねたむのです。ねたむほど私たちを愛しておられるのです。神様が私たちをねたむほど愛して救ったのに、言葉もできない偶像に奪われたくないのです。私たちは正しく主だけにすべての愛を注がなければなりません。「そこで、イエスは彼に言われた。『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなた の神である主を愛せよ。』(マタイ22:37)ひとつの的に絞って矢をかまえる、真剣にかまえて矢を打つ姿勢です。イエス様は私たちをそのように愛しておられるし、私たちも矢の矛先が主だけにしぼる時に私たちに祝福があります。

3.神様を愛する人は千代まで祝福されます。

 神様が施してくださる祝福は千代です。神様を愛さないで間違った方向に行ってしまうと、呪いがあります。放蕩息子が家出して快楽を求めて財産を全部使い果たしてしまいました。彼は飢え死にしそうになり、豚の世話をして、豚の食べるいなご豆を食べたりしました。これは呪いです。しかし、我に返った彼は、父のもとに行きました。すると父も彼を迎えに来ました。彼を見つけ出したのは父でした。このように私たちがイエス様を求めると、イエス様は私たちにご自分を与えてくださいます。シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴが偶像を拝まないので、7倍熱くした火の燃える炉の中に投げ込まれた時、そこにイエス様がおられました。私を愛しておられるイエス様です。そのイエス様を頂くことが千代の祝福です。永遠の祝福であります。私たちが今、心の中で決めている方向が千代の祝福が決まる道であります。“悔い改めなさい。”“矢の矛先を主に向けなさい。”主は私たちが主だけを愛すると主ご自身を私たちに与えてくださいます。





出エジプト20:4〜6 

20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。

20:5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、

20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。






5月06日

主の御名を、みだりに唱えてはならない

出エジプト20:7

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私たちが信じて仕える神様は良き神様です。神様はひとり子イエス・キリストを贈ってくださり、十字架で私たちの身代わりとなって私たちを救ってくださいました。また、それだけではなく、主の御名によって一生豊かな恵みと愛を注いでくださいます。ですからその御名を私たちが賛美し、感謝し、礼拝するのであります。御名をみだりに唱えることは呪いです。

1.神様の名前。

 神様の名前にはエルとヤーウェがあります。エルの複数形であるエロヒムは三位一体の神様を意味します。ヤーウェのヘブル語の文字は象形文字であります。“手、見よ。釘、見よ。”という文字です。即ちヤーウェの意味は十字架のイエス・キリストを見なさいということです。十字架のイエス様を見ると、私たちの供え物となったことを信じるようになります。イエス様の打たれた傷によって私たちはいやされます。イエス様の十字架はサタンに打ち勝った勝利です。イエス様がこらしめられることによって私たちは平安を持つようになります。イエス様は、私たちのために貧しくなられ、十字架で私たちを富む者にしてくださいました。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」これは主の良いわざにあふれる者とするためです。イエス様の流された血潮によって私たちは義人となります。十字架のイエス様を見ると、そこにおられ、一番高い輝く父の御座の右におられます。「彼らは大声で言った。『ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。』(黙示録5:12)

.御名をみだりに唱えてはならない。

 御名によって私たちは救われました。私たちのために愛して死んでくださったほどのイエス・キリストの御名をみだりに唱えることは呪われたことです。西洋ではイエス様の名前を使って悪口を言ったりします。イエス様の名前をそのように冗談に軽々しく、信じないまましゃべるものではありません。イエス様は私たちの身代わりとなってくださった方です。いばらの冠を受けられて、イエス様がののしられて、私たちを救ってくださったその御名を愛し、私たちが大切にすることです。「主は、御名をみだりに唱える者を罰せずにはおかない。」と言われます。

.私たちは交わりを通してイエス様の人格に似ていかなければなりません

 神様はイエス・キリストを通してご自分を現わされました。イエス様は私を見た者は父を見たと言われました。父なる神様は犠牲的な愛をもって私たちを愛されました。「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」(ローマ8:29)イエス様を通して私たちが御子の姿に似ていくことを主が願っておられるのです。私たちが御子の姿になるためには、私たちが御子をじっと見続けることです。ヤーウェの名前で“見よ”という文字が2回出てきます。仲の良い夫婦は似ていきます。いつもお互いを見ているからです。夫婦は同じ価値観、関心を持つので、性格が似ていきます。正反対の性格であっても、お互いが配慮しながら似ていきます。このように神様の目標は私たちがイエス様に似ていく者になることです。イエス様は私たちを赦すために手に釘跡を持っておられるのです。私たちも一緒に住んでいる家族を赦すことです。それで赦しの傷跡がイエス様に似ていくのであります。




出エジプト20:7 

20:7 あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。






5月13日

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ

出エジプト20:8〜11

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私たちを愛するイエス様が十字架にかかって、私たちを救ってくださいました。これを最高の価値として礼拝するのです。主を礼拝する日、主と会う日が安息日です。

.安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

 “神様を礼拝する日を聖くしなさい。神様とデートする日を聖くしなさい。”と主は言われます。これは主を第一として優先順位を決めなさいということです。私たちがこのことを忘れるのは、私たちが安息日を大切にしないからです。もし私たちが大統領と会うことになれば、その日を大切にして、他の用事を入れたりしません。王の王であり、主の主である方とお会いする安息日を聖なる日として私たちは守らなければなりません。

.安息日は人のために設けられました。 

 神様が天地万物を創造されて、6日目に人間を造られました。そして7日目に休まれました。人間の1日は安息から始まりました。神様が安息日を祝福されました。安息日は6日働いて7日目は安息することです。アメリカのカリフォルニア州でゴールドラッシュがあった時のことです。東部の人々が黄金を求めて走り続けました。黄金がある土地に杭を打って囲んだ土地は自分たちのものになりました。だから人々は休まずに走り続けました。しかし、その中に清教徒(ピューリタン)であるクリスチャンの群がいました。彼らは6日走って、7日目は休んで主に礼拝を捧げました。目的地に到着してみると、他の人々は途中で力尽きて倒れ、土地を持つことを放棄してしまっていました。馬も動けなくなっていました。しかし、清教徒たちは目的地に到着し、黄金を手に入れることができました。このように私たちの体は6日働いて7日目には聖霊様に触れられることが重要です。聖霊様に触れられると力がでます。安息日を守らないで走り続ける人に対して神様は強制的に安息に入らせます。イスラエルの民は強制的にバビロンに捕囚として移され、神様はイスラエルに70年間の安息を与えました。それで土地が安息を取り戻しました。安息日を守ることが祝福です。

.安息日は再創造の祝福があります。

 私たちが神様の日を守り、聖霊に触れられる時、喜びがあります。祝福や平安が与えられます。この日私たちが主からいやされるのです。この日は千日にまさります。また“主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。”(Ⅱペテロ3:8)私たちが主日礼拝に来て聖霊様に触れられる時間は永遠の時間です。主は永遠の神様であり、私たちは永遠の祝福を受けます。御言葉を悟る時に喜びや感動が与えられます。ペンシルバニヤ州の医学チームが癌をいやし、痛みを柔らげるエンドロフィンより4千倍強いホルモンを発見しました。これがダイドロフィンです。私たちが聖霊様に触れられる時にこのダイドロフィンを体験します。主日礼拝を捧げる時に私たちはいやされます。いやしのホルモンが聖霊様によって与えられるのです。安息日はいやされる日であり、主に触れられる永遠の時間です。




出エジプト20:8〜11 

20:8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

20:9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。

20:10 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。――

20:11 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。






5月20日

人間関係に関する戒め

出エジプト20:12〜17

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十戒の1から4の戒めは人間と神様との関係です。5から10の戒めは人間関係の戒めです。初めの人 間関係は親子の関係です。

.父と母を敬え。

 人は生まれてから両親との関係で人格が形成されます。傷もたくさん受けるし、愛もたくさん受けます。両親との関係がうまくなっていくと、私たちはこの地上で長生きし、祝福されます。私たちが親子の中で受けているその傷は、イエス・キリストが私たちを赦してくださったように、その赦しをもって親を赦すことが重要です。その赦しを通して私たちはすべての関係を乗り越えることができます。すべての関係がうまくいくと、この地上で祝福されます。

.殺してはならない。

 人の命はとても大切です。イエス様は、一人の命は宇宙より大切だと言われました。ですからイエス様は今も失われた羊を探しておられるのです。イエス様が死んでくださった程に私たちを愛しておられます。イエス様が愛する命を私たちが簡単に殺してはいけません。自殺してもいけません。日本では自殺を名誉ある行為とするサムライの文化があるのですが、これは間違っています。また私たちが人に対して怒ったり、兄弟に向かって腹を立てたり、“ばか者”と言う者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。これは殺人の罪です。人を見下して高ぶっているのは、その霊が地獄に移されていることであります。ですから私たちはいつも悔い改めて人を赦し、尊敬する思いを持たなければなりません。

.姦淫してはならない。

 神様は家庭を一番大切にしておられます。人間を幸せにするために神様が家庭を設けてくださいました。「結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚しではいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行なう者とをさばかれるからです。」(ヘブル13:4)姦淫は他人の家庭を破壊します。夫婦は愛し合うことです。若い時に得た妻を喜び楽しみなさい、夢中になりなさい。私たちが更年期になっても愛し合うことが大切です。情欲を抱いて女性を見ることも姦淫の罪です。今ポルノがはやっていますが、ポルノを見ると、正常な夫婦生活ができなくなります。前頭葉が壊れるからです。正常な判断で待っていたり、理解して夫婦関係を結ぶことが不可能になります。私たちは若い時に自分の体を御言葉で守ることが大切です。

.盗んではならない。

 他人の経済生活に損害を与えることが盗むことです。他人と比較して自分を不幸だと思うから自分に対して満ち足りる思いをなくして盗むのです。神様のものを盗んだり、人の物を盗んではいけません。神様のものは十分の一と安息日です。「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」(エペソ4:28)

.あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

 偽りの父はサタンです。悪魔は私たちに“おまえはだめだ。おまえの罪は赦されていない。おまえは救われていない。”とそのような責め方をするのです。しかし、聖霊様は慰め主です。十字架を通していつも私たちを慰めてくださいます。“あなたの罪は十字架の血潮で赦された。イエス様の打たれた傷によってあなたはいやされた。永遠の命はあなたのものです。”このようにするのが真理の御霊です。サタンはいつも私たちにうそを言って不安を与えますが、だまされてはいけません。

.あなたの隣人の家を欲しがってはならない。

 どうして他人のものを欲しがるのですか。それは神様から自分に与えられたものに感謝しないからです。「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」(Ⅰテモテ6:6)今神様から私たちに与えられているものに感謝しましょう。不平不満を言わないことです。他人と比較しないで、人のものを欲しがることがないようにしましょう。





出エジプト20:12〜17 

20:12 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。

20:13 殺してはならない。

20:14 姦淫してはならない。

20:15 盗んではならない。

20:16 あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

20:17 あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」






5月27日

聖霊のバプテスマを受けなさい

使徒の働き1:4〜8

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 聖霊様がペンテコステの日、臨んでくださいました。それで教会が誕生しました。教会のリバイバルの秘訣は聖霊様です。初めも、二番目も三番目も日本2千万人救霊の鍵も聖霊様です。

.聖霊のバプテスマは父の約束です。

  イエス様は「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」と言われました。私たちが聖霊のバプテスマを受けると、主が私たちに与えようとしておられることをすべて信じるようになります。罪の赦しを信じるようになります。病がいやされる信仰が与えれます。イエス様を信じられない人は今、聖霊様がいないからです。御霊によらなければイエス様を主として告白することはできません。すべてが聖霊様によってであります。日本のリバイバルも聖霊様が臨まれる時にできるのであります。イギリスのウエルズにリバイバルが起りました。イバン・ロバートさんは10年以上1人で聖霊様が臨んでくださるように切に祈りました。1904年春、彼は草原に火がついて燃え広がり、ウエルズで10万人が救われるという幻を見ました。このことを牧師先生に話しました。牧師先生は聖徒たちに水曜礼拝の後、彼の話を聞きたい人は残るように言われました。17人の人が残り、祈ったところ聖霊の火がつきました。彼らを通してウエルズリバイバルが起り、イギリス全土に、また全世界にリバイバルが広がったのであります。金山先生のお母さんは5時間以上祈られる方でした。また金山先生のスタッフのサブリナさんも日本のために祈っておられます。私たちが本当に日本のリバイバルを望むのであれば、このように祈る人が必要です。

.聖霊を求めなさい。

 聖霊は求める人に与えられます。聖霊様が臨まれるとリバイバルが起ります。聖霊様を求める人が聖霊を受けるのです。「してみると、あなたがたも、悪い者であっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11:13)チョーヨンギ先生が聖霊を求め、聖霊充満になってから世界的な器になりました。D.L.ムーディー先生も聖霊充満になって、アメリカやヨーロッパで大きく用いられる器になりました。聖霊様が鍵であります。聖霊様は求める人に聖霊を満たしてくださいます。

.イエス様の証人。

 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(本文8節)聖霊様は天国の喜びや希望を無限に注いでくださいます。それで私たちが喜びをもって主の証し人になります。殉教は呪いでもみ怒りでもありません。主の臨在が強くなるので、殉教までもできるようになるのです。私たちに聖霊様が臨んでくださると、天の恵みを伝えるようになります。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。」(ゼカリヤ4:6)トニージョーンズの本の中である青年が御言葉通りに生きることができないので悩み、ある年寄りの修道士を訪ねました。修道士は彼に1日3000回“主よ。私を憐れんでください。”という祈りをしなさいと言いました。彼がその祈りをなしとげた後、次は6000回、その次は1万2000回祈り続けなさいと言いました。青年の舌は感覚がなくなり、あこがはずれそうになりました。しかし、この祈りが青年の呼吸のようになりました。寝る前にも起きてからも昼歩いてもこの祈りが彼の呼吸のようになりました。彼は会う人々にイエス様を伝え、人々を愛することができるようになり、この祈りを人々に教えました。それでリバイバルが起ったのであります。私たちが聖霊充満になると、呼吸のように聖霊様を認め、生活の中でいつも聖霊様を人格的に求めるようになります。このように聖霊様と一緒にすると主が私たちを用いてくださいます。




使徒の働き1:4〜8 

1:4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。

1:5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」

1:6 そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」

1:7 イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。

1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」






6月03日

いつも主にあって喜べ

ピリピ4:4〜7

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 もともと人間は喜びのために生まれました。しかし、人間の堕落によってこの喜びを失ってしまいました。主の中は喜びで溢れています。主の御前には喜びが満ち、主の右には喜びがとこしえにあります。私たちは主にあって喜びを回復しなければなりません。

.罪を悔い改めること。

 イエス様は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と言われました。私たちは罪によって喜びを失ってしまいました。罪を悔い改めて、罪の処分を受けなければなりません。罪は祭壇の火によって燃やされます。また洗盤の水によって聖められます。私たちが罪を告白し、徹底的に悔い改めると、主が祭壇の火でその罪を燃やし、洗盤の水で洗ってくださいます。それで私たちに聖霊を与えてくださいます。聖霊様が来られると信仰が与えられます。否定的な思い、絶望的な思いが希望に変わります。

.絶えず祈りなさい。

 絶えず祈るということはいつも主のことを思うことです。集中して主を思い出すことです。愛する対象である方を思い起すことです。これが祈りです。「主よ。私をあわれんでください。私は一日中あなたに呼ばわっていますから。あなたのしもべのたましいを喜ばせてください。主よ。私のたましいはあなたを仰いでいますから。主よ。まことにあなたはいつくしみ深く、赦しに富み、あなたを呼び求めるすべての者に、恵み豊かであられます。」(詩篇86:3〜5)このように絶えず祈ると喜びが与えられます。主が恵みを与えてくださいます。私たちが絶えず祈ることによって赦しを得ます。私たちは主から1万タラントの赦しを頂きました。1デナリは1日の賃金です。1タラントは6000デナリです。これは計算すると、16年間の賃金になります。1万タラントはなんと16万年の賃金になります。私たちが主から永遠に赦されたように私たちも人を赦さなければなりません。私が喜びを得るためには、もらおうとすることより、与えることが祝福です。喜びは天国のものだからです。悪魔は利己主義的で自分だけもらおうとします。私たちは献金を捧げながらも、感謝して捧げるのです。イエス様はご自分を十字架で捧げながらも感謝を捧げました。人を喜ばせようとする時に喜びが与えられます。「あなたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。」(本文5節)

.感謝すること。

 感謝すると、主が私たちの心を守ってくださいます。私たちが主に感謝を捧げると、私たちの心をばらばらにしようとする悪魔のしわざが断ち切られます。天使たちが私たちの心を守ってくださいます。私たちが感謝を捧げると、私たちの心が平安になって喜びが与えられます。チャールズ・ウェスレーがアメリカのジョージア州に2年間住んでいました。1736年イギリスに帰る時、船が暴風に会い、沈みそうになりました。その中でモラビアン教徒たちが感謝を捧げるのを見ていました。彼らが平安を保っている姿を見て、ショックを受けて、賛美歌を作りました。“愛するイエスよ。かくまいたまえ。”という賛美でした。私たちが祈ったらすでに受けたと信じることです。「だからあなたがに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」(マルコ11:24)受けたと信じる行動は感謝することです。私たちがどんな時でも感謝し、主にあって喜べるように主の御名によって祝福します。





ピリピ4:4〜7 

4:4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

4:5 あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。

4:6 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

4:7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。






6月10日

共におられる主が成し遂げられる

出エジプト3:9〜12

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神様は契約の神様、約束の神様です。その約束は必ず果たされます。私たちが信じる時、主はその約束を喜んで成し遂げられます。サタンはそれを妨害するのに必死です。

.モーセの錯角。

 神様はモーセにビジョンを与えました。「今、行け。わたしは、あなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」(本文10節)と言うビジョンでした。モーセは自分のことを考えてびっくりしました。80才の羊飼いである自分にエジプトのパロの所に行ってイスラエルを救い出しなさいとはいったい私は何者なのでしょうか。私にそのようなことができるはずがないと思いました。これは彼の錯角でした。神様はモーセに自分の力でするように言われたのではありません。神様が彼と共にいてイスラエルの民をエジプトから連れ出すということでした。信仰生活も自分の力だけでしようとするとみじめなものです。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:24)と叫ぶようになるのです。しかし、私たちが主に頼っていくと「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは、決してありません。」(ローマと8:)と叫ぶようになります。キリストの愛がすべて圧倒的な勝利をもたらすようになります。

.神様の約束は、神様が必ず成し遂げられます。

 神様はアブラハムに子孫を夜空の星のように増やしてくださることと、また彼らが住む土地を与えるという約束をしました。その時アブラハムはこのことを信じる保証をくださいと言いました。その時、神様はアブラハムに「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」(創世記15:)と言われました。そしてそれらを真っ二つに切り裂き、真っ二つになった所に火が通りました。「さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。」(創世記15:17)これは至聖所にある主の臨在の栄光の雲を意味します。イエス様が十字架につけられたことは真っ二つになったことであります。イスラエルの中東地域では族長が契約を結ぶ時に、動物を真っ二つにしました。もし契約を守らなかったならば違反した者はこのように真っ二つになるということでした。イエス様が私たちに真っ二つになったのは、父の約束を証明することでした。十字架は父の約束が真実なことであることの保証なのです。神様が言われたことは必ず成就されます。十字架を通して罪の赦しは必ず成ります。聖霊充満の約束、いやし、祝福、永遠のいのちは必ず信じた通りになります。

.私たちは神様にますますより頼まなければなりません。

 主が約束されたことは命かけて守られます。私たちは主が言われた言葉を信じなければなりません。私が信じなければ道端に落ちた種のようにサタンが来てその種をすぐ持ち去ってしまいます。また薄い岩地に落ちた種は、夢を見てすぐ喜んだけれども根を張ることができず、枯れてしまうのです。いばらの中に落ちた種はこの世の心配でふさいでしまうのです。ですから神様の御言葉は必ず主が命かけて守られるということを私たちも信じなければなりません。私が道端、岩地、いばらのような心を悔い改め、どんな試練があっても神様の御言葉を信じることが重要です。そのためには私たちが主に近づくことです。主に近づいて主を愛し、主から愛される時に、愛によって信仰が働きます。私たちが人本主義や信じない部分を悔い改め、それを十字架につけて、主に毎日近づかなければなりません。主の御顔を求めなければなりません。そうすれば共におられる主がすべてを成し遂げてくださいます。





出エジプト3:9〜12 

3:9 見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。

3:10 今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」

3:11 モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」

3:12 神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」






6月17日

聖霊様と対話しましょう

詩篇27:7〜11

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イエス様を信じて罪が赦されて、霊が生かされている人は聖霊様の声を聞きます。説教を聞く時、“アーメン”と言うし、聖書を読む時、聖書が蜂蜜のように甘く感じられます。これが対話です。

.聖霊の顔を求めなさい。

 「あなたに代わって、私の心は申します。『わたしの顔を慕い求めよ。』と主よ。あなたの御顔を慕い求めます。」(本文8節)どのようにして慕い求めるのですか。信仰によって慕い求めるのです。信仰は望んでいる事がらの保証です。主が私たちの前におられることを信じることです。主は私たちと共におられるという御言葉を信じることです。聖霊様は人格を持っておられます。知識、感情、意志を持っておられる方と人格的に交わることができます。聖霊様の顔が見えない人や聖霊様が恐いという人は罪の問題を解決しなければなりません。主はイエス・キリストをこの世に贈ってくださって、罪の問題を全部解決してくださいました。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すへでの悪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)真実な方がこのように約束しておられるのです。罪の赦しを信じて24時間聖霊様の顔を求めましょう。

2.聖霊様と対話しましょう。
 
聖霊様は御言葉を書いた著者です。御言葉を口ずさむことです。“ここに書かれている御言葉の意味は何ですか。”と聖書を読みながらいつも口ずさむのです。これが主と対話することです。聖霊様は御言葉によって私たちと対話されるのです。私たちが祈ったり、聞いたりしたことを聖霊様は眠っている間も教えてくださるし、祈りの中でも教えてくださいます。「まことに主は、もつれた舌で、外国のことばで、この民に語られる。主は、彼らに『ここにいこいがある。疲れた者をいこわせよ。ここに休みがある。』と仰せられたのに、彼らは聞こうとはしなかった。」(イザヤ28:11〜12)私たちは何を語ればいいいか、また自分の心の内をどのように表現したらいいか分らないけれど、私たちが異言で語る時、すべて解決してくださいます。ある兄弟が自分の家族を赦すことができなくて、主に祈りました。苦しくて祈ることができないので異言で祈りました。あとで、その家族を憐れむことができました。これは聖霊様が異言を通して心をいやされたことです。私たちはこの世のニュースを聞きながら聖霊様に祈るのです。イランの問題やギリシャやスペインの問題など主に祈ることができます。そうすれば聖書を通してこれらの問題について主が私たちに教えてくださいます。

.聖霊様と共に歩きましょう。

 聖霊様と共にいつも認める生活をすることです。ダビデは戦争に行く時も会議をする時もいつも聖霊様を認めました。“聖霊様教えてください。”“聖霊様、Let’s go!”といつも聖霊様に語りかけることです。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37:5)主は私たちにいつも主の霊で知恵を与えます。「その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。」(イザヤ11:2)主はいつも私たちと共に歩んでくださいます。だから私たちも聖霊様のように自制心をもって謙遜に歩かなければなりません。聖霊様と親密な交わりをし、従順していけば主が私たちを用いてくださいます。 




詩篇27:7〜11 

27:7 聞いてください。主よ。私の呼ぶこの声を。私をあわれみ、私に答えてください。

27:8 あなたに代わって、私の心は申します。「わたしの顔を、慕い求めよ。」と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。

27:9 どうか、御顔を私に隠さないでください。あなたのしもべを、怒って、押しのけないでください。あなたは私の助けです。私を見放さないでください。見捨てないでください。私の救いの神。

27:10 私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。

27:11 主よ。あなたの道を私に教えてください。私を待ち伏せている者どもがおりますから、私を平らな小道に導いてください。






6月24日

救われた者の生き方

ガラテヤ2:20

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誰でもイエス・キリストを信じる者は永遠の命が与えられ、神の子どもとなります。聖書ではこのことを新しく造られた者だと言われます。その人々は古いものは過ぎ去り、新しくなりました。私たちは新しい生き方をしなければなりません。

.以前の私は死んだという信仰を持つことです。

 「私はキリストとともに十字架につけられました」と言うことは、私は死んだということです。イエス様の死は私の死ということです。イエス様は私たちのいやなものを背負って十字架につけてくださいました。私たちは肉体の死による葬式があるのですが、また霊的な葬式があります。霊的な葬式とはイエス様と共に十字架で死に、イエス様と共に葬られることです。聖霊様がこのことをしてくださいます。聖霊様が2000年前に私たちはイエス様と共に死んだと言われます。人々は宗教的に努力し、修業して、昔の自分、自我と別れようとするのですが、いくら努力しても無駄です。しかし聖霊様がそのことをしてくださいます。十字架に付けられたと言われる時に私たちは新しくなります。聖霊様によって昔の自分が死ぬということです。そのようになるとどんな人間も変えられます。

.私の内にイエス・キリストが生きておられます。

 自分の死を宣言した人は、その人の内にイエス様が生きるのです。御霊と御言葉によって生きるのです。御言葉が御霊によって与えられるのです。異言の祈り、黙想の祈り、叫ぶ祈り、このような祈りを通して悪魔サタンが攻撃する思いを打ち砕くのです。神様の聖霊によって神様の愛が私たちに注がれるのです。「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:5)この愛によって私たちの心の病がいやされます。十字架の愛がすべての病をいやします。

.イエス・キリストを自分の主として忠誠を尽くします

 忠誠は御霊の実です。イエス様が天の父に忠誠を尽くされたように、私たちも忠誠を尽くすことが重要です。私たちのために命を捧げられたイエス様に、私も私の主として命を捧げるのです。イギリスのヴィクトリア女王はイギリスを一番繁栄へと導いた女性です。19世紀イギリスは日が沈まない国と言われる程栄えました。彼女は“イエス様は私の命、私のすべて、私の幸福”と告白しました。彼女は国民を愛し、国を愛しました。神様を愛する女王でした。ある日、彼女はやもめの家を訪問しました。やもめは彼女の訪問を申訳ない気持ちで顔もあげないでいました。女王はやもめに聞きました。“あなたは今までのお客様の中で一番大切なお客様はどなたですか。” “もちろん、女王陛下です。”女王は失望した顔で言いました。“イエス様があなたにとって一番大切なお客様でしょう。”その時やもめはほほえみながら言いました。“陛下、イエス様はお客様ではありません。イエス様は私の主人です。”ヴィクトリア女王はやもめの言葉に感動して宮殿に帰ってひざまずき、泣きながら祈りました。“私は今日やもめを慰めるために行ったのですが、すばらしい信仰の人を見ました。私もイエス様を私のお客様ではなく、私の主、私の王とします。イエス様よ、この国を永遠にあなたのものにしてください。私が生きている間に再臨してください。この王冠、この国、すべてをあなたに捧げます。”この信仰がイギリスを世界的な国にしたのであります。日本の陛下もこのようになることを信じます。私たちがイエス様に忠誠を尽くす時に主は私たちを大きく用いてくださいます。





ガラテヤ2:20 

2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。






7月1日

あなたの心を守りなさい

箴言4:23

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「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(本文)いのちの泉は永遠のいのちです。イエス・キリストの御言葉と永遠の聖霊様が住まわれる場所は心です。ですから心を守ることは重要です。悪魔サタンはほえたける獅子のように私たちの心を奪おうとしています。だから私たちは心を守ることに専念しなければなりません。


1.イエス様の血潮で心を守ります。
 
私たちの頭に血潮をつけることです。汚れた思い、高ぶりの思いを全部イエス様の血潮で洗うことです。力である腕にイエス様の血潮をつけることです。力の根源はイエス様にあります。血潮をつけないと私の手の力が富を築き上げたと自分を誇るのです。自分の手や足の力と言っていることが高ぶりです。私たちは家族に教会に国に血をつけることです。韓国は130年振りに干ばつに見舞われ、雨が降らない日が続きました。しかし、先週から大雨が降り始め、問題が解決しました。これは祈る人々を通して神様が韓国を救われたのです。このように祈れば神様はその祈りに答えてくださいます。


.イエス様に対する肯定的な信仰を持つことです。

 イエス様は良き神様です。イエス様は私たちにいのちを与え豊に与えるために来られました。「わたしはあなたがたに立てている計画をよく知っているからだ。-主の御告げ。-それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29:11)イエス様の御言葉はいのちであり、将来と希望を与えるためのものです。しかし、その御言葉に対する否定的な態度は、自分の滅びを招くのです。カナンの地を偵察した12人の中で10人はカナンの地に対して悪く言いふらしたので、イスラエルの全会衆は大声で泣きながら神様に対して、またモーセやアロンに対してつぶやきました。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」(民数記14:2〜3)本当に彼らがつぶやいた通りになりました。40年間彼らは荒野をさまよい、彼らは死にました。しかし、ヨシュアとカレブは「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。」と言いました。神様は子どもである私たちに最善の最高の贈り物を与えてくださいます。わたしたちの心によって運命が決まるのです。死といのちは心の中にあります。私たちは力の限り心を守らなければなりません。心の思いは磁石のように環境を引っ張ってきます。私たちが“できない”という否定的な思いをすると、否定的な環境になってくるのです。しかし“できる”と言うとできる環境になるのです。私たちは主の御言葉である「イエス・キリストはよみがえりです。いのちです。」という御言葉をいつも握り、将来と希望を心の中に受け入れることです。


.心を守るために聖霊充満になることです。

 私たちに試練や失敗があった時、私たちの状況を理解させ、忍耐させて慰めてくださるのは聖霊様です。主に愛される者も問題や失敗に会います。ラザロはイエス様から愛される者でした。しかし、彼が病気だと言ってもイエス様は4日目にラザロの所に来られました。そして、死んだラザロに向かって“ラザロよ。出て来なさい。”と言われた時、ラザロはよみがえりました。これはラザロを通してイエス様が栄光を受けられるためでした。私たちが否定的な思いをし、死んで4日目ですといった思いをする時、その思いをイエス様の血潮で悔い改め、“イエス・キリストはよみがえりです。いのちです。”との御言葉を頂き、祈ると私たちの中で沸き水となり、それが川となり、いける水の川が流れるようになります。その人の心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになります。私たちの否定的な思い、臭った思い、死の思いが全部生かしてくださる川によって変えられ、生き返えるのです。生ける水が流れると皆生き返ります。




 箴言4:23


4:23 力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。




7月8日

苦難の有益

詩篇119:71〜73

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人生は山あり谷ありです。逆境の日もあれば順境の日もあります。「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。」(伝道者の書7:14)と言われます。クリスチャンであっても苦難に会います。しかし、神様を信じる人と信じない人では苦難に対する態度が違います。いつも私たちは苦難であっても益になります。

.苦しみに会ったことは私にとって幸せでした。

 なぜでしょうか。それは神様のおきてを学ぶことができたからです。苦しみの中で悔い改め、神様の御言葉を学び、体験することができるからです。私たちはそのままであれば神様の御言葉より目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢の生活をするようになります。しかし、神様が愛のむちを与え、私たちは悔い改め、神様の御言葉に戻るようにしてくださるのです。ヨナが神様の命令にそむいてニネベに行きなさいという命令とは反対の方向のタルシシュに行きました。彼が乗った船が暴風に会い、破船しそうになりました。それで全部の積荷を捨て、ヨナが原因だということでヨナは海に投げ捨てられました。大きな魚の口に入り、上ったり下ったりしながら三日三晩苦しみました。真っ暗やみの魚の腹の中でヨナは悔い改め叫びました。それで神様の御言葉を学び、従順するようになりました。苦難に会うことによって神様の御言葉を学ぶのでこれが幸せです。

.苦しみによって礼拝するようになります。

 一番価値あるものとして御言葉を頼るのです。ダビデは多くの苦しみを通して、詩篇のほとんどを書くようになりました。ダビデはいろいろな苦しみを通りました。サウル王から逃げまどう日々、いつ死ぬか分らない状況でした。その中でいつも主に頼りました。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」(詩篇23:)主の御言葉は幾千の金銀にまさるものです。自分が苦しんでいる時、自分を救うのはこの世のものではなく、神様の御言葉の約束であることを学びました。

.信仰の成長。

 祈る人になりました。人は自分の手段方法を頼って生きようとするのでなかなか祈ろうとしません。しかし、苦しみが自分の手段、方法である不純物を全部溶けるようにします。それでただ主に祈る人に変えてくださるのです。大きな1トン位の大きな鉱石を1000℃の炉の中に24K3度入れて40日かけてすると24Kが15g〜20g位とれます。このように私たちが火を通っていくと純粋になっていきます。ヨフがそのような人でした。ヨブの中には主から賞賛される所もありましたが、不純物もありました。主の御言葉を耳で聞いて知識で分った人でした。彼は多くの苦しみを通して祈る人になり、「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。」(ヨブ42:)と告白しました。ヨフが友だちのためにとりなしの祈りをした時、主はヨブを元どおりにし、さらに主は彼の所有物をすべて二倍に増されました。息子、娘も10人与えられ、彼らに相続地を与える程豊になりました。これが神様から与えられる苦しみに対する態度によって与えられる祝福です。











7月15日

新しく生まれる

ヨハネ3:3〜7

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 今日の本文ではイエス様がニコデモに新しく生まれることを強く言われました。3節、5節、7節に3回繰り返して“新しく生まれなければならない。”と強調されました。“You must be born again。”新しく生まれなければ神の国を見ることもできないし、神の国にはいることもできません。

.肉によって生まれた者は、肉です。

 ニコデモはユダヤ人から尊敬される国会議員、サンヘドリン会員でした。自分は天国に入る資格があると思ったのに、イエス様は意外にも新しく生まれなければ天国を見ることも入ることもできないと言われました。それでイエス様は「肉によって生まれた者は肉です。」と言われました。アダムから生まれた者はユダヤ人であってもギリシャ人であっても、また勉強した人であっても勉強をしなかった人でも天国に入れません。アダムから生まれた者は罪の工場です。カインが生まれ、カインがアベルを殺しました。化粧品の工場から出るものは化粧品です。酒の工場から出るものは酒です。度数は違うけれども酒は酒です。アダムから生まれた者はアダムの罪を犯します。いくら人間的に理性的、道徳的であっても罪人です。

.新しく生まれなければなりません。

 新しく生まれるとは、水と御霊によって生まれることです。水とは水と血によって来られたイエス・キリストです。御霊とは水と血をあかしする聖霊様の働きです。神様のひとり子が人間となって来られ、私たちのために身代わりとなって十字架で死んでくださいました。その時、水と血が流れました。水と血を信じる者は救われます。聖霊様のあかしによってこのことを信じることができます。イエス・キリストは水と血によって来られました。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。御霊が私たちに“あなたは神の子どもですよ。”とあかししてくださいます。私たちが悔い改めてイエス様を受け入れると、私たちの中で聖霊様が“あなたは神の子どもですよ。”とあかしされるのです。「セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子を

エノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。」(創世記4:26)エノシュの意味は死ぬしかできない存在であり、ちりにすぎない者である私を憐れんでください、という意味です。主の御名を呼ぶ者は救われます。御霊によって私たちは救われました。御霊は私が神の子であることをあかしします。創世記5章はアダムの系図です。アダムは子どもを生んでそれが死んだと書いてあります。しかし、イエス・キリストの系図は生んだことだけで死んだと書かれてありません。なぜなら、イエス様はよみがえりであり、いのちだからです。イエス様の系図に入ると、イエス様のいのちの中に入るのです。イエス・キリストによって生まれることがborn againであります。

.聖霊充満な生活です。

 イエス様のいのちはジョーエと言って永遠のいのちです。私たちの体のいのちはプシュケです。イエス様を信じた時、私たちは永遠のいのちであるジョーエを頂きます。御霊が私たちの中におられます。御霊が充満になると、御霊が来られて、賛美と感謝が沸き上り、泉が川になるように私の中でどんどん沸くのです。エルサレム、ユダヤ、サマリヤ、地の果てにまでどんどん広がって行きます。私たちが神様の国を味わって実を結んでいるのであります。ジョーエである主の命を持ち続けるのが聖霊充満です。どんな時にも主の御名を私たちが呼ぶようにしてくださるのです。666に打ち勝つ力はこの聖霊充満の力であります。










10月07日

エルサレムの平和のために祈れ

詩篇122:6

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エルサレムとは平安の根拠地、源泉、平安の基礎、平安の所有という意味です。平安は政治や経済によってなるのではなく、平和の王であるイエス・キリストによって可能になるのであります。

1.ユダヤ人と異邦人が一つになることです。

 人間の歴史は隔てをつくる歴史です。ユダヤ人と異邦人の間には隔てが多いのです。これは色々な規定や戒めの律法によってできたものです。ユダヤ人が持っているものと異邦人が持っていないものとの間に隔てがあり、異邦人が持っているものとユダヤ人が持っていないものとの間が隔てとなります。しかし、主はその隔てを打ち壊し、二つのものをご自身の十字架を通して私たちを新しい人に造り上げてくださいました。これは赦しによってです。ユダヤ人は異邦人を無視し、犬のような扱いをしました。福音の妨害をしました。また異邦人はエルサレムを奪回するために十字軍の戦争を起してたくさんのユダヤ人を殺しました。ルター教、カトリック教がヒットラーと共にユダヤ人を迫害して600万人を殺しました。だから本当の苦しみから解放されません。しかし、イエス様と出会った人々は赦し合い、互いが一つになってエルサレムの平和のために祈るようになります。

2.エルサレムの平和のために祈る人は栄えます。

 これは神様の約束です。神様はアブラハムの子孫を祝福されます。「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:3)イスラエルに関心をもって祈る時、イエス様の再臨の時のヒントを得ることができます。今がどのような時代であるのか、イエス様が戸口まで近づいておられることが分ります。AD70年ローマのテトス将軍によってエルサレムが陥落され、神殿が破壊されました。イスラエルは2000年間国を失っていました。1948年、イスラエルが建国されました。1967年にエルサレムを取り戻しました。これは主がなさったことです。主がなさったことに対して文句を言ってはいけません。主の前に静まれと言われます。異邦人の支配の終りが来ているからです。エルサレムが戻されました。エルサレムに対して文句を言っている人は祝福されません。しかし、エルサレムに対して祝福する人は祝福されます。アメリカが全世界の最高の国になったのは、ユダヤ人をたくさん受け入れたからです。日本の杉原千畝さんが1940年リトアニアで領事代理でした。彼は6000名のユダヤ人に命のビザを発給しました。ビザを通して救われた6000名の人々とその子孫たちが日本に対して恩を忘れません。それで日本も祝福されました。日本もユダヤ人に対して攻撃的なことをしてはいけません。祝福されるためです。

3.どうしてエルサレムであるのか。

 主がエルサレムを選んだからです。サタンを打ち滅ぼすために決戦の場所がエルサレムでした。イエス様が十字架に付けられた所もエルサレム、よみがえられた所もエルサレム、またペンテコステの時、聖霊様を送り、聖霊に満たされた所もエルサレム、イエス様の再臨の場所もエルサレムであります。ゼカリヤ14章の4節、5節を見るとそのことが分ります。だからエルサレムのために祈ることはイエス様のために祈ることです。イエス様の再臨によって悪魔サタンは逮捕されて、底知れぬ所に落とされ、まことの平和が私たちに訪れるのであります。平和の根拠地になるためには、イエス・キリストがエルサレムに来られることであります。マラナタ!










10月14日

会堂管理者ヤイロ

マルコ5:21〜24、35〜43

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イスラエルの人々は神殿を失ってからすべての事を会堂中心にしました。礼拝、律法、研究、祈り、裁判、学校など全部会堂でやっていました。その中で会堂管理者はとても高い地位にある人でした。会堂管理者ヤイロはイエス様の所に来てひれ伏して祈りました。死にかけている娘の病気のことで祈りました。それで恵みを受け、問題は解決されました。

1.ヤイロはイエス様に熱心に求めました。

 私たちは神様の福音を聞いたので、神様の御言葉と御心を知っています。私たちが知っている福音や神様の約束を集中して祈らなければなりません。私たちが祈る時、頭にあった知識が胸の中におりて来ます。その時、私たちの中で確信が生じます。私たちは御言葉の中にあってそれで充分ではないか、また、祈りは必要ではないのではないかという態度をとったりします。例えば、米は何もしないままあたたかい御飯になることはありません。火を通らなければなりません。米は祈りの熱い火の中で信仰の御飯になります。問題がある時、私たちは御言葉を握って問題を解決してくださるイエス様の前で懇願して祈ることが重要です。断食祈祷、徹夜祈祷、誓願を立てる祈祷、やもめのように集中して祈る祈りなど心の中で喜び、平安、確信が来るまで祈るのです。

2.主の時まで忍耐して待っていることです。

 すべてのことには時があります。神様は一番良い時と思われる時を計っておられるのです。会堂管理者の娘の病気をすぐ行っていやしたとすれば、人々はこれは偶然いやされたと思うかもしれません。イエス様は娘が死ぬまで時間を伸ばされたのです。その間に12年間長血を患った女性がイエス様の着物のすそに触った事件がありました。イエス様はその女性をいやし、また群衆に教えておられました。このように主は時を計っておられるのです。主の御手の中ですべてが変わるのです。「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。」(伝道者の書3:1〜3)死んで4日になったラザロがイエス様の時によってよみがえりました。私たちは主の時まで忍耐して待っていることです。

3.恐れないでただ信じていなさい。

 主の時まで私たちは暗やみの中を通ります。会堂管理者の家から人が来てヤイロに言いました。「あなたのお嬢さんはなくなりました。」すべてが終わったということです。ヤイロは絶望しました。しかし、イエス様はそのことを聞いても「恐れないでただ信じていなさい。」とヤイロに言われました。イエス様が言われたことを聞くか、医学的に死んだという言葉を聞くかどちらを聞くかということです。私たちが環境の否定的なことを聞くと、信仰は粉々になってしまいます。しかし、私たちはイエス様の御言葉に立つことです。イエス様は否定的なことを言う人々を追い出しました。泣いたり、取り乱したり、死を認めようとする人々を追い出しました。娘は死んだのではなくて、よみがえるということです。ヤイロはそれを信じました。イエス様は信じる娘の父と母とペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて娘の所へはいって行かれました。私たちも信仰告白し、信仰の言葉を聞くのです。その時、イエス様は「タリタ、クミ。(少女よ。あなたに言う。起きなさい。)」と言われました。すべて絶望が希望に変わり、死がよみがえりに変わりました。皆さんの家庭がタリタ、クミ! 教会、事業、日本がタリタ、クミ! ハレルヤ! 








10月21日

苦難の目的

申命記8:11〜18

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神様はイスラエルをエジプトから救い出してカナンの地に行くまで荒野を通らせました。荒野は試練と苦難の場所です。燃える蛇やさそりのいる恐ろしい荒野、水もない、かわききった地を通らせました。しかし、堅い岩から水を流れ出させ、主がマナを与えてくださいました。彼らが苦しめられた理由はついには彼らを幸せにするためでありました。

1.荒野での苦難は私たちを謙遜にされます。

 謙遜な人は幸せになります。荒野は謙遜を学ぶ場所です。人間の手の力でできるものはひとつもありません。神様が燃える蛇やさそりから守ってくださいます。また、雲の柱、火の柱によって熱さ、寒さから守ってくださいます。荒野ではただ主を仰ぎ見るだけで、人間がすることはひとつもありません。種をまくこともできないし、自分でできることは何もありません。ただ主が導かれるまま生活するのであります。それが荒野です。このように主だけ仰ぎ見る人は主の目的、主の道に導かれ、主が祝福してくださいます。

2.苦難は主を敬う心を学ばせます。

 人が食べて満ち足り、金、銀が増し加わっていく時、人は高慢になりがちです。私の力がこの富を築き上げたのだというようになり、偶像崇拝者になるのです。しかし、苦しみを受けると、そこから主に従順を学び、敬う心が与えられます。「キリストは、御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与えるものとなり、」(ヘブル5:8〜9)イエス様は多くの苦しみを受けられました。それで祈りの生活をされました。イエス様は奇跡を行われる前後は必ず祈られました。民のために祈って奇跡が起りました。その奇跡は天の父なる神からのものだったと主に栄光を帰されました。人々がイエス様を敬い、“先生”と言った時、イエス様は“敬い先生は天の父なる神様ひとりだけだ。”と言われて父を敬う礼拝を捧げました。多くの苦難がこのように主を敬う心、従順する心を与えたのであります。

3.苦難は新しい価値観を与えます。

 苦難を受ける前、人間はお金や名誉や地位、権力を頼って問題を解決しようとしました。しかし、どんな力でも解決できない問題にあった時に価値観が変わります。罪の赦しの問題、心の絶望感、不眠症、圧迫感はお金では解決できません。ただイエス・キリストの十字架の血潮の恵みと、それを私たちに証してくださる聖霊様の働きによって心の中で義、喜び、平安が生じるのであります。私たちがこの世のものではなく、主によって解決されることが分ります。それで主に価値を置くようになります。価値観が変ります。大切なものが何であるか分るのです。イエス・キリストによって与えられる喜び、平安の天国がこの世の中ですべてに打ち勝って勝利するのです。真の力がどこにあるか、真の価値がどこにあるかが分ります。永遠の命がこの世のものでは与えられないことが分るようになります。それでいつも主から離れない人になります。“あなたの神、主を心に据えなさい。”私たちが全部主から与えられたものであることを信じることです。それで私たちが今与えられたもので神様に栄光をお返しする生活ができるのであります。








10月28日

神を愛する者

ローマ8:28

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現代は不安な時代、自分の決定が正しいかどうか分らないし、明日に対する心配が多い時代です。聖書は“神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる。”と言われます。神様を愛することによってすべてのマイナスの材料はすべてプラスに変わります。

.神を愛するとは、神の国とその義をまず第一に求めることです。

 神様だけを求めることです。神の祝福を求める人には必要なものすべてを与えてくださり、また平安を与えてくださいます。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしはあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)主だけを求める人には主がすべて責任をとってくださいます。ハバククは自分の時代にバビロンが攻めてきました。それで全国を粉々にしました。しかし、ハバククを愛した主によってすべてを乗り越えました。経済が破綻して全部なくなったとしても「しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。」(ハバクク3:18〜19)とハバククは告白しました。今、日本は地震、富士山爆発、放射能の問題、経済の暴落など色々と不安な材料が多いのです。しかし、私たちが主を求めるとハバククのような祝福が与えられます。

.神様を愛する愛がもっと深くなることです。

 神様との愛の交わりが昨日よりも今日が、今日より明日がもっと深くなることです。神様を愛する心をもっと深くすることです。神様を愛する者はもっと深く神様を愛したいし、神様を知りたいのです。それでもっと聖書を読みたいし、祈るし、もっと神様に近づくのであります。神様の愛が冷えてしまうと、信仰生活が楽しくないのです。ただ義務感だけが残るのです。聖書は私たちに初めの愛を取り戻しなさいと言われます。初めの愛から離れてしまい、愛が冷たくなると、信仰生活ができなくなります。喜びもないし、平安もなくなります。私たちは初めの愛を取り戻さなければなりません。そのためには悔い改めることです。「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」(黙示録2:4〜5)燭台は聖霊様です。聖霊様なしでは私たちはイエス様を知ることはできません。私たちは主と私たちの中に壁が生じないようにしなければなりません。罪が壁なのです。悔い改めて取りはずさなければなりません。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第Ⅰヨハネ1:)罪の悔い改めが初めの愛を取り戻す方法であります。








11月04日

聖徒のアイデンティティー

第Ⅱコリント5:17

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アイデンティティーとは環境、時間などによって変わらない自分に対する悟った思いのことです。クリスチャンのアイデンティティーはイエス・キリストによって新しく造られた者です。イエス・キリストの血潮によって古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

.赦されるアイデンティティー。

 イエス様を信じた時、過去のすべての罪は赦されました。今日も悔い改めを通して赦されています。明日も赦されるのです。恵みと憐みによって赦しを得て天国に入ります。“だれでもキリストイエスにある者が罪に定められることは決してありません。”(ローマ8:)

.イエス様の血潮によって聖霊様が共におられることです。

 私たちは血潮によって罪が赦され、聖霊様が私の中で共におられます。私の人格と聖霊様の人格が共に私の中におられるのです。この方はパラクレイトスです。私の側に共におられる助け主です。私を弁護し、私を導き、慰めてくださいます。イエス様の祝福を受けるように愛を注いでくださいます。それで私たちが宗教的な人ではなく、根本的に主を愛する者に変わります。主を愛して動く者になります。

.いやしのアイデンティティー。

 イエス様は私たちの病を十字架でいやしてくださいました。私たちの病を吸い込んでくださいました。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」(マタイ8:17)私たちの病は2000年前、掃除機のようにすべてのゴミを吸い込んでくださいました。健康のイメージを持つことが重要です。

.アブラハムの祝福のアイデンティティー。

 私たちは呪い意識、たたり意識から解放されます。イエス様が私たちのために呪いのいばらの冠を受けられました。イエス様は十字架で呪われた者となりました。それは、アブラハムの祝福を受けるためです。アブラハムの祝福を受けている自分をいつもイメージしてください。「あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。あなたは、町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。あなたは、はいるときも祝福され、出て行くときも祝福される。」(申命記28:2〜3、6)日にち、方角や先祖のたたりとは関係がありません。仏滅は祝福の日となります。

.いのちとよみがえりのアイデンティティー。

 罪人としている時には死はいやなものでした。絶望的な思いでした。死を思い出したくないのです。イエス・キリストにある死は新しいものです。イエス・キリストと共によみがえり、いのちにあずかるのです。主の中にある死者は幸いであると言われます。私たちの死は天国に入る門です。「彼らはその労苦から解き放たれて、休むことができる。」そのような祝福された死です。皆さん、幸せな死の準備ができていますか。「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)イエス様を人格的に受け入れ、神様の子どもとしてのアイデンティティーを持つように主の御名によって祝福します。









11月11日

主の心にかなった人

使徒の働き13:21〜23

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ダビデは主の心にかなった人だと言われました。主は“主の心にかなった人を通して主のみこころを余すところなく実行する。”と言われました。それはイスラエルに救い主を贈られることでした。それでダビデの子孫を通してイエス様が来られました。

.ダビデは悔い改める人でした。

 「悔い改めなさい。神の国が近づいた。」主は悔い改める人に近づいてくださいます。ダビデは私たちと同じように罪深い人です。自分の部下であるウリヤの妻と姦淫を犯し、そのことを隠すためにウリヤを戦場に送り死なせました。ナタン預言者がダビデの所に来て話した時、ダビデが“そのような男は死刑です。”と激しく怒りました。しかしナタン預言者が“あなたがその男です。”と言った時、ダビデは激しく泣き、悔い改めました。ダビデは神様に「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。」(詩篇51:)と告白しました。このような人がどうして主の心にかなった人になったのでしょうか。それは彼が悔い改めたからでした。自分は滅ぼされるべき者だと自覚しました。自分は生まれながら御怒りを受けるべき者だと告白しました。そのダビデに自分の身代わりとなって死んでくださったイエス・キリストが見えてきたのであります。これが悔い改めです。私たちが“自分は死刑囚です。”と告白する時、イエス・キリストが見えてくるのです。イエス様が近くにおられるのです。これが悔い改めであります。

.ダビデは赦す人でした。

 ダビデは赦された喜びをもって人を赦しました。私たちが赦された喜びを長く持ち続けることが人を赦すことになります。“私たちに罪を犯した者を私たちが赦すように、私たちの罪を赦してください。”と祈ることです。私が人を赦したら赦される喜びが湧き上がるのです。1万タラント(16万年分の賃金)の借金を免除された人が100デナリ(3ヶ月分の賃金)借金した人を赦せなかったのです。それで1万タラントの借金をキャンセルされました。“あなたも王様の借金をかえすまでは牢の中に入っていなさい。”と言われました。赦しがとても大切です。天国は赦される場所です。

.ダビデは従順な人でした。

 ダビデはいつも“どこに行くべきでしょうか。どこへ上がって行くべきでしょうか。”と主にだすねました。戦争の時も主に一つ一つ聞きました。このように私たちが主を認めること、聖霊様が私の主人であることを認めることです。聖霊様は聞こうとする人に語ってくださいます。イエス様もいつも天の父の御心を聞きました。時を聞きました。今何をするべきかも聞きました。十字架につけられる時も主に聞いて従いました。それで天が開き、聖霊様が臨み、“これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。”と言われました。

最後は主に栄光を帰す生活でした。ダビデは主に従うといつも成功し、繁栄しました。私たちは成功主義者ではありません。成功ばかり利用するのではありません。主に聞き従って成功するのです。その繁栄したものをもってダビデは主に捧げました。それがソロモン神殿になりました。私たちは食べるにも飲むにも何をするにもただ神様の栄光を現わすためにすることです。これが私たちの生きる目的であります。








11月18日

感謝のいけにえ

詩篇50:23

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「感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。」(本文)感謝の道を正しくすると主が私たちを救ってくださいます。

.全焼のいけにえ。

 私たちは自分勝手に善悪の知識の木の実を取って食べて神様に背きました。その結果、神様と私たちは断絶され、悪魔に支配され、呪いと病と死が私たちを支配し、サタンの奴隷になりました。こんな私たちのためにイエス様が人間となられて、この地上に来られ、全焼のいけにえとなってくださいました。イエス様が私たちのすべての罪をすべての病を背負われました。イエス様が受けられた苦しみ、それは実は私がイエス様を刺したのです。旧約の時代、罪を犯した人は主の前で若い牛をほふり、皮をはぎ、いけにえを部分に切り分けました。すなわち私がイエス様を殺した殺人犯なのです。私たちが“ごめんなさい”と言う時、イエス様に正しい感謝のいけにえを捧げることになります。

.穀物のいけにえ。 

 穀物のいけにえは主との交わりを意味します。粉々になった小麦粉、これは謙遜と従順を意味します。自我が砕かれ、自分が神になろうとしたすべてが砕かれることです。心の中に固い物はなく、主が言われるままに生きるのです。私たちは心の中にパン種や蜜を入れてはいけません。パン種は哲学、人間主義です。蜜は肉の欲、目の欲、この世の暮らし向きの自慢です。イエス様は“誰でもわたしについて来たいものは自分を捨て、わたしの十字架を負ってわたしについて来なさい。”と言われました。小麦粉に入れる物は油、乳香、塩の三つです。塩は契約の塩であり、御言葉です。私たちはいつも御言葉の生活、祈りの生活、聖霊様を頼る生活をするのです。これが穀物のいけにえです。

.和解のいけにえ。 

 和解のいけにえは、血は注ぎ、動物の脂肪だけを祭壇の上に燃やしてその他の肉は皆と一緒に食べます。和解し、宴会をすることであります。イエス・キリストの和解のいけにえによって私たちは神様と和解し、赦されました。私たちは16万年分の借金(罪)が免除されたのですから、私たちも赦しを人々に分け与えなければなりません。「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。」(Ⅱコリント5:18)救いの完成は私たちが和解のいけにえまで来る時です。自分だけ赦される全焼のいけにえでとどまってはいけません。和解のいけにえを通して救いは完成します。赦し、いやし、愛が完成されます。私たちは自分に対して罪を犯した人を赦すこと、また主からもらった愛を流すことです。私が人に傷を与えた場合は、その人に謝罪して、賠償しなければなりません。私は神様から赦されたとしても自分が傷を与えた人の心の痛みを覚えなければなりません。ユダヤ人のためにクリスチャンがしなければならないことがあります。ユダヤ人を苦しめたクリスチャンは謝罪しなければなりません。ドイツは600万人のユダヤ人を殺しましたが謝罪し、賠償しました。ホロコーストの生存者は10万名ですが、ドイツは彼らの生活費を今も援助しています。これは日本のリバイバルの鍵です。私たちも神様との和解、人との和解が重要です。私たちが感謝の道を正しくして、神様の救いを見ることができるように主の御名によって祝福します。









12月02日

仰ぎ見れば生きる

民数記21:4〜9

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今日の本文はイスラエルがエジプトから出てカナンへ行く途中、荒野で起ったことであります。イスラエルの民は不平不満をしました。それで燃える蛇にかまれて死んでいきました。それで彼らは悔い改め、主が解決してくださいました。

.不平不満は反逆の行為。

 神様が一番忌み嫌われるのは、偶像崇拝と不平不満です。イスラエルの民は神様が導こうとする道に対して反発し、不平不満しました。彼らがエジプトから出てカナンの地に行く最短距離はエドムの地を通って行くことでした。しかし主はエドムの地を迂回させました。戦争できないからです。それが主の導きでした。主は一番良い道に導かれました。それなのにイスラエルの民は直線で行けば良いのにどうして周り道をするのかと反発しました。どうしてという言葉を使うこと、それが善悪の知識の木の実を取って食べることであり、自我というものです。不平不満をするということは、神様の導きや決定に対する反逆であります。私たちが神様に感謝を捧げると、神様があがめられます。

.神様の審判。

 感謝を捧げると、私たちは主の御座まで行きます。「感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。」(詩篇100:)感謝はこのような祝福をもたらします。しかし、不平不満は悪魔サタンを呼びます。蛇が悪魔サタンです。不平不満をすると蛇が私たちをかみます。主は民の中に燃える蛇を送り、蛇にかまれた人々は体全体が熱であつくなり、死んでいきました。私たちが不平不満をするとこのような審判を受けます。

.仰ぎ見れば生きる。

 神様はモーセに「あなたは、燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」(本文8節)と言われました。そこでモーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけました。私たちが悔い改めて神様を求めると、道が開かれます。神様が見せられるのは青銅の蛇です。これはイエス・キリストの十字架のことです。滅びる人々には愚かに見えます。しかし、救われる私たちには神の力です。この青銅の蛇はイエス・キリストの十字架です。イエス様は私たちのために審判を受けられて蛇になられました。青銅とは審判を意味します。イエス様は私たちの罪となられました。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(Ⅱコリント5:21)イエス様が私たちの罪()となられて審判(青銅)を受けられました。私たちは十字架を仰ぎ見て、ここで救いと、自我を見ます。不平不満が蛇であることが分ります。蛇は頭を持ち上げます。高ぶり、サタンです。また冷血動物で、冷たいのです。淫乱であり、性欲のシンボルです。蛇は弱いものを攻撃して丸ごと飲み込む残酷なものです。私たちの自我は蛇のかたちです。いつも十字架のイエス様を仰ぎ見る時、自分の自我である蛇が十字架につけられたことが分ります。自分を主張することは蛇です。神様の御言葉に反発していつも自分を主張するのは蛇です。イエス様が罪となられ、呪いとなられて、イエス様が審判を受けられました。そして、悔い改めた私たちの罪を赦してくださいました。私たちが神様の御言葉に従順するためには、ゲッセマネの祈りが必要です。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」(Ⅰテサロニケ5:16〜18)サンドイッチのように喜びの御言葉とすべてに感謝するそのまん中に祈りをはさんで絶えず祈ることです。祈ることを通して私たちは御言葉に従順することができるようになるのです。







12月09日

救いの確信

ローマ8:14〜16

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イエス様を信じる人々に最も必要なものは救いの確信です。この救いの確信によって救われた人々が神様に栄光を帰すことが礼拝です。賛美を捧げ、救われた人々は喜びをもって奉仕をします。救いの確信は信仰生活の核です。

.救いの道。 

 聖霊様に導かれる人は誰でも神の子どもです。聖霊様は私たちが罪人であること、滅びる人々であることを教えてくださいます。それでイエス・キリストを信じるように言われます。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」(Ⅰテモテ1:15)イエス様はこのように聖霊様によって導いてくださいます。イエス・キリストが私たちの罪のために十字架につけられて死んでくださったという十字架の恵みを私たちに教えます。このことを信じる信仰を与えてくださいます。神の御霊に導かれる人は誰でも神の子どもです。御霊の働きによって、恵みによって、信じる信仰によって、私たちは救われます。これは私たちから出たものではなく、神の恵みです。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」(エペソ2:8)

.新しく生まれる。   

 人は水と御霊によって生まれます。水とはイエス・キリストであり、十字架の御言葉であり、赦しの御言葉です。それで御霊によって私たちは新しく生まれるのです。“born again”新しく造られた者になるのです。聖霊様が私たちにイエス・キリストの御言葉を語ります。“あなたは神の子どもです。”と私の霊に語ります。私たちは御霊によって「アバ、父。」と呼びます。ウィルバー・チャプマンさんは救いの確信がありませんでした。ムーディー先生が“イエス様を信じますか。”と尋ねると、“信じます。”と答えました。“そしたらヨハネ5章24節を信じますか。あなたには永遠のいのちがあります”と語りました。しかし、彼は、“私の感情はまだ納得できません。”と言いました。ムーディー先生は彼を叱って言いました。“あなたは高慢です。主が言われたらそれをそのまま受け入れるのです。それが悔い改めです。主が信じる人には永遠のいのちがあると言われればそのまま受け入れるのです。”それで彼は悔い改めて神学校に入り、ムーディー先生が引退された後、その教会の担任牧師になりました。

.救いの確信。

 救いの確信は従順によってどんどん強くなっていきます。荒野で人々が学んだものは従順でした。雲の柱、火の柱が動くとそれに従ってイスラエルの民は旅立ちました。雲の柱がとどまっている所に宿営をしました。その生活を学び、従順を学んでいきました。“アーメン”を学ぶ所が教会なのです。エジプトの思い、自我を釘づけて殺す所が荒野であり、教会です。 エジプトの習慣、偶像崇拝、肉の生活、奴隷の根性を全部打ち砕く所です。雲の柱、火の柱に従って歩んでいくのです。雲が動くと動きます。そうすると、彼らは暑さの中で守られ、寒さの中でも守られました。このように従順する人々がもらうものは喜びと平安です。これが私たちの救いの確信になります。私たちは御霊と共に歩む生活をしなければなりません。御霊が“とどまれ!”とすればとどまるし、“行け!”とすれば行きます。そうすればぶどうの木と枝のように、実を結ぶようになります。 









12月16日

マラの水

出エジプト15:22〜27

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イスラエルがエジプトから出て荒野を歩きながらマラという苦い水を体験しました。マラの水は救われた私たちが体験する以前の苦い記憶であります。潜在意識の中でそれが潜んでいて私たちがいろいろな状況に会った時にそれが上ってくるのです。罪責感、恐れ、不安、落胆、挫折、憎しみ、恨み、そういったものが苦い水です。苦い水にあった時に私たちがするべきことは叫ぶことです。

.モーセは主に叫んだ。

  モーセが主に叫ぶと一本の木が示されました。「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」(エレミヤ33:)理解を越えた大いなる事とは、十字架の恵みです。イエス・キリストの十字架を私の苦い記憶の中にある潜在意識の中に投げ入れると罪責感から解放されます。また恐怖、苦しみ、恐れ、落胆の所から解放されます。イエス様は私たちの罪を赦すためにこの世に来られました。「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。」(エペソ1:)十字架の木を投げ入れると、イエス様の打たれた傷により私たちはいやされます。また、この木は十字架でイエス様が呪われた木であります。十字架の木を入れると、アブラハムの祝福の心に変わります。いつも呪い意識、たたり意識、挫折感、恐怖などはイエス・キリストの十字架を入れると変わってくるのです。人間の最大の苦しみは死です。しかし、イエス様と出会って、一本の木を入れるとよみがえりが私たちの心の中に生じるのです。永遠のいやし、勝利はイエス・キリストと共によみがえることです。

.自分の十字架を負うこと。

 イエス様が私のために十字架を負って私たちに赦しを与え、天国の水、甘い水にしてくださいました。私も人を祝福することが重要です。人を祝福するblessingblood()から出ているのです。犠牲、赦しなしでは祝福にならないのです。どんなことがあっても私たちは人を赦し、祝福することが大切です。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令をに耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしは、エジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」(本文26節)いやしは私たちが赦し、愛する時に生じるのです。神様を愛し、隣人を愛する時に私たちにいやしが起るのです。ですから、私たちが和解のつとめをしなければなりません。「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」(マタイ5:9)

.エリムに着いた。

 マラとエリムは約10kmほどの近い距離です。そこには12の水の泉と70本のなつめやしの木がありました。1つの泉から12の泉になり、70本のなつめやしになりました。人を祝福して与えると与えられます。“与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人を祝福すると、30倍、60倍、100倍、1000倍祝福されます。”祝福すると祝福が返ってきます。人を赦すと自分に赦しがくるし、人をいやすと自分がいやされます。赦しの運動は初めは小さい運動ですが、国を生かすようになります。家族を赦し合い、近い人から赦し合い、愛し合うことが重要です。







12月23日

インマヌエルの恵み

マタイ1:18〜53

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インマヌエルとは神様は私たちと共におられるという意味です。共におられて眠ることもなくまどろむこともなく私たちを守り、パパのように私たちを救ってくださいます。ですから私たちは恐れる必要はありません。

.イエス様は飼葉桶にお生まれになりました。

 天の御座を捨てて、イエス様は宿屋の馬小屋の飼葉桶にお生まれになりました。なぜでしょうか。私たちが旅人だからです。私たちの故郷は天国にあります。この地上はしばらくの旅路であります。イエス様が飼葉桶にお生まれになったのは、私たちが汚ない堕落した人生のために赦しのかてとしてお生まれになりました。「マリヤは男の子を生みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(本文21節)イエス様は私たちの罪を赦すためにこの地上に来られました。私たちの罪を救ってくださるためでした。体は引き裂かれました。そむきの罪のために刺し通されました。その方はみどり子としてお生まれになりました。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」(イザヤ9:6)その方が再び来られます。反キリストによって地球が地獄のようになっていき、独裁者の国になっていく、その時主が再び私たちを救ってくださるために再臨されます。私たちを救ってくださるために共におられる主です。

.導きを受けなければなりません。

 インマヌエルの主の所に行くには啓示が必要です。野原の羊飼たちも天使たちから啓示を受けました。4000km離れている所から東方の博士たちは2年かけてイスラエルに来ました。それは彼らが御言葉を信じたからです。「私はしかし今ではない。私は見つめる。しかし間近ではない。ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起り、モアブのこめかみと、すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く。」(民数記24:17)それを信じている時に星が現われました。御言葉が実現されるその星でした。それを御霊が真理に導きました。彼らは心がワクワクしました。それで星を見ながらすべてを整理してそれに従って行きました。私たちは今、御言葉が実現されているのを見ています。これはイスラエルです。イスラエルは1900年間国を失っていましたが、イスラエルの国は一日の内に建てられました。このようにイスラエルは主の星のしるしです。私たちがイスラエルを祝福し、エルサレムを祝福する理由はイエス・キリストの再臨のことが分るからです。

.インマヌエルの主を認めることです。

 私たちの中で良いことも悪いこともたくさん起ります、しかし私たちは“なぜですか”とは言いません。すべてのことに感謝します。毎日会う良いこと悪いことのすべては主から来ることです。ヨセフとマリヤも婚約してから、自分たちが戸惑う言葉を聞きました。御霊によってマリヤがみごもるということを聞きました。しかしそれを命かけて受け入れました。その結果、イエス・キリストの誕生が成就したのであります。東方の博士たちも主に導かれましたが、失敗もしました。ヘロデの宮殿に入って“そこでメシヤがお生まれになりましたか”と尋ねました。しかし、そこではありませんでした。主の導きは飼葉桶にお生まれになったイエス・キリストでした。彼らは黄金、乳香、没薬を贈り物として捧げました。帰りはヘロデから守られるように夢の中で別の道から自分の国へ帰るように導かれました。私たちが主を礼拝すると私たちは国家権力である666から守られます。空中で来られる主の所に引き上げられます。