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主日説教集

2011年  トップへ
1月〜12月

1月2日 過ぎ越しの祭り 出エジプト記12:1〜14 トップへ

 イスラエルの民はエジプトで非常に苦しみを受けました。夢がありませんでした。地獄の苦しみでした。男の子が生まれるとナイル川に捨てなければなりませんでした。イスラエル人がエジプトのために意味もなく働かなければなりませんでした。その苦しみの中でかれらは神様に叫びました。その叫び声を聞いて、神様は過越を通して救ってくださいました。
 
1.過越の子羊であるイエス・キリスト。
 「あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。」(本文5節)この子羊はイエス・キリストです。バプテスマのヨハネが「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1:29)と言いました。また「私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。」(Tコリント5:7)私たちの贖いのために傷のないイエス・キリストが来られました。イエス様は100%神様であり、また100%人間でした。過越の祭りのために、子羊は家族と4日間共に生活しました。4という数字は苦難を意味します。40年間の荒野の生活、400年間のエジプトの生活といったようにです。そのような私たちの苦難の生活を贖うために、イエス様は来られました。イエス様は過越の子羊が殺される午後3時頃に十字架にかかって死なれました。
 
2.過越のイエス様の血潮。
 「その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。」(本文7節)そうすればエジプトを打つために来た滅びの災いが、通り過ぎるということでした。過越とは、災いが通り過ぎるということです。門柱とかもいに血がつけられている家は、災いが通り過ぎるのです。私たちの中でイエス様を信じる人々には、私たちの心の門柱とかもいに聖霊様が血をつけてくださいます。イエス・キリストは水と血とによって来られた方です。これを証する方は聖霊様です。「神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。」(Uコリント1:22)この血潮がつけられている人々には、サタンが悪い思いを入れることはできません。なぜなら、イエス様の血潮を聖霊様が証するからです。サタンの思いが通り過ぎるからです。私たちは血潮をつけているとすべてのことに勝利することができます。
 
3.私たちの苦しみを贖ってくださったイエス様。
 十字架上でイエス様の骨が砕かれなかったということは、骨を砕く前にイエス様はすでに死なれていたということです。イエス様は十字架につけられる前にも、非常な苦しみを受けられ、鞭打たれました。ほふった子羊を「その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。」(本文8節)イエス様は地獄の火の苦しみを受けられました。私たちが苦菜を添えて食べるということは、イエス様の苦しみを覚えながら、イエス・キリストの聖餐を一緒にすることを意味します。
 
4.これをあなたがたの年の最初の月とせよ。
 過越の祭りのイエス・キリストが私たちの中に入ると、私たちの人生が新しくなります。歴史の上でBC(Before Christ)とAD(イエス様が来られた年)が分かれるように、イエス様を信じる人は新しくなります。以前、私たちはサタンの支配下にあるものでしたが、古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。自分が新しくなったセルフイメージをいつも持たなければなりません。イエス様の血潮をつけて、2011年を新しい勝利のスタートとしていきましょう。


出エジプト記12:1〜14

12:1 主は、エジプトの国でモーセとアロンに仰せられた。

12:2 「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。

12:3 イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。

12:4 もし家族が羊一頭の分より少ないなら、その人はその家のすぐ隣の人と、人数に応じて一頭を取り、めいめいが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。

12:5 あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。

12:6 あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、

12:7 その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。

12:8 その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。

12:9 それを、生のままで、または、水で煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。

12:10 それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、火で焼かなければならない。

12:11 あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。これは主への過越のいけにえである。

12:12 その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。

12:13 あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。

12:14 この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。あなたがたはこれを主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない。




1月9日 聖徒の生きる目的 エペソ2:10 トップへ


1.3種類の生きる目的。
 @生物学的な生存の段階。何を食べるか何を楽しむかということが生きる目的です。A自慢できるこの世の成功の段階。この世の基準で成功しようと努力するのが生きる目的です。B神様が目的。クリスチャンは@、Aの目的では満足しません。なぜなら、クリスチャンの人生は神様がおられるからです。神様が目的としたことを見つけるまでは、満足がないし、幸せがありません。イエス様は私たちに目的を持っておられます。イエス様は「わたしが来たのは羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10)とこのようにイエス様はご自分の生きる目的を言われました。パウロは「私が、自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」(使徒20:24)と言いました。神様が与えられた目的に支配される人生が聖徒の生きる目的です。

2.生きる目的を発見する事の有益。
 @座折感がありません。座折感は選択の余地が多いから起るのです。A目標がはっきりしていると迷いがありません。迷いがなく物事を決めることができる人生は幸せです。B浪費しません。私たちの人生を全力投球することができるからです。レーザー光線が鉄板を切るほど強いのは一点にだけ集中するからです。パウロは「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどとは考えてはいけません。ただこの一事に励んでいます。」(ピリピ3:13)と言いました。このような人生は審判の時、後悔することはありません。神様は私たちに与えられたタラント、力に対して審判の時、“イエス・キリストのために何をしたか。どのような動機でしたか。”と聞かれます。そのような時にも神様の前に大胆に立つことができます。

3.どのようにしたら聖徒の目的を発見できるか。
 @神様が私を目的があって造られたということを信じることです。私を通して神様がなさろうとすることがあるのです。 Aイエス様の十字架の愛を受け入れることです。私がイエス様に罪を告白し、イエス様を殺したのは実は私でした。イエス様は私のやまいや呪いを背負って十字架で死なれたからです。Bこの愛を受けた私はその愛をもって互いに愛し合うべきです。「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」(Tヨハネ4:11)イエス様が私の罪を背負って死なれながらも私の罪をゆるしてくださったように、私も人をゆるさなければなりません。そのために悔い改めなければなりません。愛さなかったことが罪です。そのために祈り、聖霊を求める時、聖霊様の憐れみが注がれ、至聖所でその人のためにとりなすことができるのです。


エペソ2:10

2:10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。




1月16日 主を愛せよ 出エジプト20:1〜10 トップへ

 神様が私たちを愛するという表現を十戒で示してくださいました。ねたむ程、愛の深い神様であり、新約では神様の御子さえも惜しまずに私たちに与えてくださった愛なる神様です。“私たちをサタンの手から救い出してくださった良き神様を愛しなさい。”と主は言われます。

1.わたしのほかにほかの神々があってはならない。
 神様は良き神様、真理の神様です。非真理の神々を置いてはならないと言われました。日本では先祖を神として仏壇を置いていますが、気に入らないものがあれば、子どもにたたって交通事故に会わせるとか、呪いがあると言って恐れています。どうして死んだ親が生前子どものために良くしたのに、たたるのですか。これはサタンだからたたるのです。日本全体がこのことでだまされています。人々の霊の目が開かれて見えるようにしなければなりません。

2.偶像を造ってはならない。
 神様は私たちを死ぬほど愛しておられます。愛はねたむ程の愛です。夫婦の愛の中で他のものが入ることを赦せないのと同様に、神様も神以外のものをもっと愛するとねたまれるのです。私たちが神様よりもっと愛するものがあればそれが偶像です。お金をもっと神様より愛するとそれが偶像になります。神様を愛する人がお金を持つと神様が喜ばれることにそのお金を使います。そして教会が建てられます。神様を愛さない人がお金を持つと金の子牛を作るようになります。これが偶像です。私たちが神様を愛すると富を築き上げる力が与えられ、貸すであろうが借りることがないようにしてくださいます。「謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。」(箴言22:4)私たちが人からの栄誉を求めても、また人気を求めてもそれらは私たちにとって何にもなりません。人から賞賛されて家に帰ると、急に淋しくなり、麻薬に手を出したりするのです。神様が私たちを愛し、じっと見守っておられます。神様から愛されることで充分です。

3.神様の御名をみだりに唱えてはならない。
 神様の名前は啓示ですし、力です。神様の名前を信じて呼ぶ者は救われます。神様の名前はいやし、勝利、平安、羊飼い、義、いつも共におられるという名前です。これらをみだりに唱えると祝福はありません。私たちがこれらの名前を信じて呼ぶと救われます。

4.安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
 神様は私たちのために6日間働いて7日目には休まれました。安息日は人間のために設けられました。安息日に神様は私たちに新しい力を与えてくださるのです。それで私たちはリフレッシュされます。安息日に愛の御言葉、いのちの御言葉、赦しの御言葉を頂きます。それで新たな力が与えられます。現代はストレスによって倒れてしまう私たちですが、安息日を守る人はいつも力が与えられます。「疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ40:29〜31) これが安息日の祝福です。ですから神様は主を愛する人々にもっといのちを与えるために十戒を与えてくださいました。


出エジプト20:1〜10

20:1 それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。

20:2 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。

20:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。

20:5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、

20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

20:7 あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。

20:8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

20:9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。

20:10 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。――




1月23日 互いに愛せよ 出エジプト20:12〜17 トップへ

 私たちはイエス・キリストの十字架の愛、犠牲によって救われ、いやされ、永遠のいのちが与えられました。神様の大きな愛を受けました。その愛を受けて私たちがその大きな愛を人々に与える通路になったのです。

1.あなたの父と母を敬いなさい。
 私たちは生まれて初めての人間関係を結ぶのが父と母です。敬うとは、恐れ尊んで愛することです。これは命令です。父と母が生きている間、私たちは親孝行をするのです。親を最高の愛で愛さなければなりません。そのためには、イエス様を信じて罪が赦され、永遠のいのちが与えられたように、私も親に対してイエス・キリストを伝えることです。イエス様を信じると親は罪が赦され、平安の中で過すことができます。

2.殺してはならない。
 人を生かすのが愛です。イエス様は私たちを十字架の愛で生かしてくださいました。死の奴隷になってはいけません。私たちは死からいのちに移されました。いのちの僕にならなければなりません。神様の霊は生かす御霊です。私たちは人を殺してはいけません。妊娠中小さないのちであっても中絶してはいけません。神様から授けられたいのちです。殺してはいけません。ストア哲学やエピクロス哲学の影響で自殺を賛美したりしますが、自殺することは罪です。切腹、自爆テロなど全部サタン的なものです。私たちは隣人を自分のように愛することが重要です。人を憎んではいけません。人を憎むことは殺人です。腹を立てることや敵を憎むこともイエス様は殺人だと言われます。“自分の敵を愛し、迫害する人のために祈りなさい。”とイエス様は言われます。

3.姦淫してはならない。
 人の幸せの基本条件は家庭です。結婚は神聖なものです。相手の家庭、自分の家庭を守ることが姦淫してはならないということです。「結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は、不品行な者と姦淫を行なう者とをさばかれるからです。」(ヘブル13:4)そのさばきは第2の死である火と硫黄との燃える池の中に投げ込まれるのです。私たちは情欲から勝利するためには、情欲の思いを抱くことから自分を守らなければなりません。すぐ悔い改めて自分を聖く守ることです。これが自分の家庭を守り、相手の家庭を守ることです。

4.盗んではならない。
 隣人のものを盗んで隣人を苦しめてはいけません。神様が人々に所有権を与えてくださっているのですからそれを守ることです。神様の所有は十分の一です。これを盗んではいけません。これは相手を愛することです。

5.偽りの証言をしてはならない。
 私たちが救われたのはイエス・キリストの恵みです。人間によってではありません。イエス・キリスト以外のものを誇るのはみな偽りの証言です。

6.あなたの隣人の家を欲しがってはならない。
 神様が私たちに定めてくださったものに対し、満ち足りる思いを持たなければなりません。感謝しなければなりません。他人と比較して劣等感や優越感を持ってはいけません。自分の妻、夫、子ども、金銭に対して私たちは満ち足りる思いをして感謝しなければなりません。私たちはイエス・キリストの愛を受けています。ですから人々にイエス・キリストの愛を流していかなければなりません。


出エジプト20:12〜17

20:12 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。

20:13 殺してはならない。

20:14 姦淫してはならない。

20:15 盗んではならない。

20:16 あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

20:17 あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」




1月30日 主の道を見せてください 詩篇139:16〜18 トップへ

 私たちが胎児の時に神様は私たちのためにいのちの書物にすべてを書きしるされました。私たちが救われ、永遠のいのちを得ること、またイエス・キリストの道を歩むことを神様は願っておられます。これは主が私たちに用意しておられる道であります。私たちが自分勝手に行けば滅びの道に行きます。しかし、主に導かれていけば勝利します。

1.主の道はみ言葉によって見せてくださいました。
 神様の道を知りたい人は神様のみ言葉を読むことを知ることをしなければなりません。エマオにくだっていく二人はみ言葉を信じませんでした。よみがえられたイエス様はモーセおよびすべての預言者から始まって聖書全体の中でご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされました。それを聞きながら二人の心は燃えました。今の時代に私たちはイエス様の再臨のことに心を集中しなければなりません。アメリカでは健康医療法案を通して666のベリーチップを体の中に入れようとしています。これを私たちが受けると滅びると神様ははっきり言われます。私たちが666を受けないように祈らなければなりません。今の時代ベリーチップを通して世界を収めようとする悪しき力が働いています。

2.神様が示してくださったいのちの道を歩むように祈らなければなりません。 
 自分の決心だけでは勝利することはできません。私たちは祈らなければなりません。主のみこころを祈らなければなりません。イエス様はゲッセマネで祈られました。そして神様が示しておられた十字架の道を歩まれました。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころとおりにしてください。すると、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた。イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」(ルカ22:42〜44)この祈りによってイエス様は勝利されました。

3.御霊が力を与えてくださいます。
 「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」(ピリピ2:13)「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)この世の道は広いし、通りやすいのです。しかし、イエス・キリストの道は狭いのです。狭い道を歩むように力を与えるのは聖霊様です。エノクのようにエリヤのように聖霊様の力が働いて、イエス様が雲に乗って来られる時に、私たちを引き上げてくださいます。ダニエルの3人の友だちのように、この世の中で7倍強い火の中に入れられても、彼らは妥協しないで信仰をつらぬき通しました。その結果、イエス様が火の中に現われて彼らと共にいてくださったので、髪の毛も服も焼けることなく、全員救い出されました。私たちはイエス・キリストによって勝利します。私たちは地上で深酒や快楽におぼれて、眠る信仰に落ちてはいけません。信仰の目を覚まして、私たちは天に向けてイエス・キリストを求め、いのちを求める生活をしなければなりません。


詩篇139:16〜18

139:16 あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。

139:17 神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。

139:18 それを数えようとしても、それは砂よりも数多いのです。私が目ざめるとき、私はなおも、あなたとともにいます。




2月6日 幕屋の祝福 出エジプト25:1〜8 トップへ

  モーセはシナイ山で神様から十戒と幕屋を授かりました。十戒を幕屋の契約の箱の中に入れました。律法が完成される場所が幕屋の至聖所の契約の箱の中だということです。この至聖所は夫婦の寝室のような所です。神様と私が一つになる場所です。イエス・キリストと教会はそのような関係です。神様は「彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。」(本文8節)と言われました。

1.幕屋は私たちが捧げたもので建てられました。
 奉納物は自ら進んで捧げられるものです。いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心から喜んで捧げる時、神様の住まいとなり、神様の宮となるのです。神様が幕屋を建てる時、金、銀、青銅、青色、紫色、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材など色々な物が用いられました。特にじゅごんの皮は幕屋の一番上に覆う幕でした。その幕はまるでイエス様の姿のようです。イエス様は見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない方でした。そのイエス様が私たちを救ってくださいました。

2.中庭と外庭。
 縦50m横25mが幕屋のサイズですが、東側に10mの門がありました。イエス様は「わたしは羊の門です。」(ヨハネ10:7)と言われました。その門はとても広く大きい門です。あがりかまちもなく、重くもなく、たいらで軽い幕の門です。東側にユダ族が陣をしいていてそのユダ族からイエス様は来られました。外庭から中庭に入るとその人は神様に属する者になります。神様のものになります。

3.祭壇から至聖所。
 祭壇から至聖所というのは救われた人が成長して栄光の座に進むことです。そして、神様とひとつになって神様の仕事をするのです。祭壇はいけにえを捧げる所です。いけにえの上に手を置いて罪を転嫁します。いけにえをほふって血を流し、殺します。そして灰になるまで燃やします。これは神様が私のために身代わりとなって死んでくださったことを意味します。洗盤は手と足を洗う所です。水は御言葉です。私たちが御言葉を読む時、その御言葉で自分を洗うのです。しみや傷のないものになるためです。それから聖所に入ります。そこには備えのパンがあります。これはイエス様の御言葉です。パン種を入れないパン、即ち、この世のものや、思想が入っていないことを意味します。香壇で御言葉通りになりますようにと祈ります。御霊が私たちを通して御言葉が輝くようにしてくださいます。御霊の実は愛、喜び、平安です。この御言葉がこの世の中で光となります。「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:16)至聖所では契約の箱に血を7たび注ぎます。契約の箱には十戒、マンナの入った金のつぼ、アロンの杖が入っていました。これらはイエス・キリストが私の義、私のいのち、私のよみがえりを意味します。イエス様と一身同体となってイエス様と一緒にとりなしの祈りをします。エポデの胸当てをつけるのですが、エポデの肩にはしまめのうが両肩にあり、また胸には12の宝石があります。これは私たちが12族の名前を呼びながら救われるように祈り、とりなすことです。また肩にとりなす人を乗せて、自分の十字架を負うことです。私たちはイエス様の花嫁としてイエス様ととりなしの祈りをし、また、宣教していくことです。皆さんが幕屋の祝福を受けられますように、主の御名によって祝福します。


出エジプト25:1〜8

25:1 主はモーセに告げて仰せられた。

25:2 「わたしに奉納物をささげるように、イスラエル人に告げよ。すべて、心から進んでささげる人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。

25:3 彼らから受けてよい奉納物は次のものである。金、銀、青銅、

25:4 青色、紫色、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、

25:5 赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、

25:6 燈油、そそぎの油とかおりの高い香のための香料、

25:7 エポデや胸当てにはめ込むしまめのうや宝石。

25:8 彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。




2月13日 聖徒の喜びの泉 ピリピ 3:1 トップへ

  泉は環境と関係なく湧き上がります。神様は私たちクリスチャンの心の中に喜びの泉が湧き上がることを願っておられます。そのためには、“主にあって喜びなさい。”と言われます。御霊によって喜ぶし、春夏秋冬どんな季節にも喜ぶことが聖徒の喜びであります。

1. 喜びの根源である神様との関係の回復。
 深い泉である神様との関係が断絶されることは罪です。人はアダムとエバの反逆によって喜びを失ってしまいました。「私の民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。」(エレミヤ2:13)神様から離れた人間はこの世のお金、権力、名誉、快楽の水ためを掘りましたが、ためることはできませんでした。ポルノをよく見ている人々は悪霊によって死にたいという思いがきます。御霊は人を生かす霊ですが、悪霊は人を死に追いやります。私たちはこの世の罪から離れて、神様が私たちの泉となるようにしなければなりません。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:14)とイエス様は言われます。

2. 感謝の生活。
 感謝は神様と私たちを連結します。また人と私たちを回復します。神様が私たちに求めておられるのは、感謝の生活です。「主に感謝して、御名を呼び求めよ。そのみわざを国々の民の中に知らせよ。」(詩篇105:1)感謝は思いから出てくるのです。「主が行なわれた奇しいみわざを思い起こせ。その奇蹟と御口のさばきとを」(詩篇105:5)思い起こすと感謝することができ、神様との関係、人との関係が回復されます。「感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その人の道を正しくする人にわたしは神の救いを見せよう。」(詩篇50:23)と言われました。すべての関係の回復は感謝の中にあります。

3. とりなしの生活。
 罪を犯して断絶された人と神様とをつなぐ橋をつくるのが祭司長です。神様は私たちを祭司長だと言われます。私たちの特権は神様の御座に血潮をもって進んでいくことができることです。ですから、私たちは人のためにとりなしの祈りをしなければなりません。祈りは仕事です。すべての人のために祈ることです。一緒に座っている人、車の中で会う人、自分に対して良い人、悪い人、また失敗する人、迫害する人など、どんな人々をも祝福することです。私たちが言う言葉は山彦のように自分に返ってきます。すべての人々のために祝福しなければなりません。王や高い地位にある人は国を動かす運転手です。指導者である運転手を悪く言ったりすると運転ができなくなります。だから、私たちは、国のために祈らなければなりません。世界のため、特にイスラエルのために祈らなければなりません。イスラエルは神様の長子です。これは永遠に変りません。イスラエルは世界の終末の時計です。日本のリバイバルと深い関係があります。世界のため、イスラエルのため、日本のためにとりなし、祈っていきましょう。


ピリピ 3:1

3:1 最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。前と同じことを書きますが、これは、私には煩わしいことではなく、あなたがたの安全のためにもなることです。




2月20日 安息の備え ヘブル4:1〜11 トップへ

  神様は私たちを創造なさる時、すべてを用意してから私たちを造り、私たちに安息を与えてくださいました。これがエデンの園でした。神様は6日間働いて7日目にはエデンの園で私たちと共に休まれました。そして、安息を与えてくださいました。

1. 不従順によって安息を失ってしまいました。
 すばらしい安息の場所であるエデンの園でアダムとエバは神様と交わりながら神様のみ言葉だけ聞きました。二人はいのちのみ言葉の中でいつも安息がありました。しかし、サタンの誘惑に落ちて貪欲が入り、自分が神のようになろうとして善悪の知識の木の実をとって食べました。善悪の知識の木の実は従順をテストする木です。それをとって食べてから人間は呪いの中に入ってしまいました。いばらとあざみが生え、女性は子供を生む苦しみがあり、ストレスを受けた男性は女性を力関係で押さえました。だから安息がないのです。私たちは不信仰と不従順によって安息を失ってしまいました。

2. 安息の備え。
 神様はご自分の安息、シャローム(ヘブル語で安全、健全、平和、成長、繁栄という意味)そのシャロームを与えるために神様はアブラハムを呼びました。神様の名前を彼の子孫の中に置いてくださいました。彼を通してすべての人々が安息の祝福を受けるようにしてしくださいました。神様はイスラエルの人々をエジプトの奴隷の生活から救い出して乳と蜜の流れる安息の地に導くと約束してくださいました。その途中、雲の柱、火の柱で彼らを守ってくださいました。これは荒野で昼夜の温度の激しい風土の中にあって自然のエアコンの働きをしました。マンナを準備しました。これは移動食としては最高のものです。岩から水を出して祝福を与え、安息を与えてくださいました。それでカナンの地に着くことができました。今はイエス・キリストを通してこの世の生活の苦しみから私たちを救い出してくださいます。赦しの備え、いやしの備え、アブラハムの祝福の備えをしてくださいました。聖霊様は私たちに雲の柱、火の柱の働きをされます。神様は永遠の御国である涙もない苦しみもない場所を用意してくださっています。

3. 信仰と従順によって安息に入りなさい。
 イスラエルの人々がカナンの地に入ることができなかったのは、不信仰と不従順の結果でした。その中でヨシュアとカレブだけは信仰によってカナンの地に入りました。私たちもこの世で安息の場所へ行って安息を得る訓練を受けるのです。神様のみ言葉を聞いた時に、かたくなにならないで安息を得ることができる神様のみ言葉に従順し、安息日を守ることです。安息は従順する人々に与えてくださいます。従順は神様の安息が与えられる時、私たちに生じるのです。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)どんな波風がきても神様の平安を求めて祈る人、そのような人を神様は雲の柱、火の柱で守ってくださいます。イエス・キリストは岩の水になってくださり、避難場所になってくださいます。波風という患難は本物とにせ物を分けるものです。「手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよれられます。麦を倉に納め、穀を消えない火で焼き尽くされます。」(マタイ3:12)麦と穀を区別するために箕の中に入れた麦を上下にふり動かすと軽い穀は風と共に飛んでゆきます。しかし、実はざるの中に集められます。信仰と従順によって実となっていきます。どんな試練があっても私たちは主の懐の中に入れば安息を得ることができます。


ヘブル4:1〜11

4:1 こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。

4:2 福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。

4:3 信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。

4:4 というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。

4:5 そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と言われたのです。

4:6 こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから、

4:7 神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。

4:8 もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。

4:9 したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。

4:10 神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。

4:11 ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。




2月27日 地をいやす主 U歴代誌7:12〜15 トップへ

  ソロモンの神殿が建てられた時、神様は人々が神殿に来て悔い改める祈りをすれば、彼らの地をいやすと約束してくださいました。

1. 罪によって呪われた地。
 エデンの園には呪いはありませんでした。しかし、アダムとエバが堕落して罪を犯してからサタンが入り、呪いが始まりました。罪がある所には呪いや死が来ます。そこにはサタンの働きがあるからです。最近、オーストラリアに大暴風がきて、120年振りの洪水が起ったり、8cmの怪物のようないなごが襲ったり、韓国では口蹄疫の問題が生じたり、日本では宮崎県の新燃岳が爆発的な噴火活動を続けています。このような問題は人間の罪が熟しているから起るのです。「戦争が起り、民族には民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起ります。」(マタイ24:7)それは人間が続けて罪を犯すので神様が審判されるのです。「あなたがたは、なおもどこを打たれようというのか。反逆に反逆を重ねて。頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。」(イザヤ1:5〜6)そのような状態であります。

2. 悔い改めの祈り。
 神様は「わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」(本文14節)と言われました。悔い改めとは方向を変えることです。自分の道に行っていた私たちが神様の道に立ち帰ることが悔い改めるということです。つまり神様の所へ帰ることです。「『さあ、来たれ。論じ合おう。』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい紅のように赤くても、羊の毛のようになる。』」(イザヤ1:18)私たちが神様の所へ来てへりくだって、すべての罪を熱心に悔い改めることが必要です。これが神様の顔を求めることです。神様は「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」(ヨハネの黙示録3:19)と言われます。熱心に悔い改めると私たちは神様の御顔を拝見することができます。神様の御顔を拝見する人は信仰の力が生じます。神様と私たちの間にサタンの邪魔が入らないので大胆になります。地を満たすものをしかって追い出すことができます。

3. 地をいやす。
 私たちが悔い改めたら神様は私たちの地をいやしてくださいます。アメリカのワシントンDCは1993年までは、世界NO.1の犯罪都市でした。しかし、1999年に犯罪率が60%減りました。それは約6000人の都市の人々がその州のためにとりなしの祈りをしたからです。中南米のグァテマラに人口2万人のアルロモロンという都市があります。この都市は皆が貧しくアルコール中毒者で溢れていました。4ヶ所の刑務所は犯罪者でいっぱいでした。牧師を中心として神様の御顔を求める祈りを断食しながら熱心に祈りました。その結果、人々がいやされました。そして、いやされた人々が皆集まって町のために祈りました。それで町が祝福され、農作物の収穫量が1000倍も増えました。刑務所に入る人がいなくなり、酒屋もいらなくなりました。このように地がいやされる祝福がありました。私たちが熱心に悔い改めると神様が御顔を照らし、私たちの地をいやしてくださいます。


U歴代誌7:12〜15

7:11 こうしてソロモンは、主の宮と、王宮とを建て終え、主の宮と自分の宮殿に対して実施しようとソロモンが思っていたすべてのことをみごとに実現した。

7:12 すると、主が夜ソロモンに現われ、彼に仰せられた。「わたしはあなたの祈りを聞いた。また、わたしのために、この所をいけにえをささげる宮として選んだ。

7:13 もし、わたしが天を閉ざしたため雨が降らなくなった場合、また、いなごに命じてこの地を食い尽くさせた場合、また、もし、わたしの民に対して疫病を送った場合、

7:14 わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。

7:15 今や、わたしはこの所でささげられる祈りに目を留め、耳を傾けよう。





3月6日 聖徒の永遠の祝福

詩篇23:1〜6

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 この世の物はすべて一時的なものです。いつかはくずれ去っていくものです。しかし、神様の祝福は永遠です。永遠の祝福を受けるために今日の本文は私たちを正しい道に導いてくださいます。

1.主との関係を結ぶ祝福。
 「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」とダビデは告白しました。羊飼いをしていたダビデは羊をどのように守ったらいいかをよく知っていました。羊は目が悪く、道に迷いやすいし、一度倒れたら自分で起き上ることができません。自分を防衛する武器もありません。徹底的に羊飼いの保護がなくては羊は生きていくことができません。私たちが主を迎え入れて、イエス・キリストの御名を信じると、神様の子どもとされる特権が与えられます。神様はイエス・キリストを信じて洗礼を受ける人を祝福し、主との関係を結んでくださいます。「主は私を緑の牧場に伏させ」とは十字架の赦し、平安、いやし、贖いの牧場に伏させてくださるということです。

2.義の道に導かれます。
 主は私たちを神様の子どもらしく育ててくださいます。天国で天国人らしく生きるように、聖い、愛の人に変えてくださいます。私たちの目は視野が狭いので、自分で見たい物だけを見てしまいがちです。そんな私たちを間違った道から主のむちと杖が悔い改めの道へ導くのです。このような導きなしでは誰も神様の前に立つことはできません。私たちが神様の義の道に導かれると、悔い改めて主の恵みを頂きます。敵の前で私のために食事をととのえて祝福してくださいます。私たちの敵であった人と和解させてくださいます。イスラエルの人々は、一緒に食事をすることが和解を意味しました。神様と和解すると、敵であった人と和解し、友となります。ヤコブが神様と和解してからエサウが20年間ヤコブに対して復讐心があったのですが、敵対心がとけてなくなりました。すべての人間関係は神様と親密な関係になった時に解決されます。家庭の問題、夫婦、子どもの問題、事業の問題、病気の問題なども主との関係がよくなると、すべてが解決されます。

3.永遠の家の祝福。
 「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」(本文6節)いつくしみと恵みによって永遠の住まいの所に行きます。この地上のものはすべてこわれます。「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。」(Uコリント5:1)永遠の家の祝福があります。このような家が約束されている人は幸せです。パウロはそこに早く行きたいと思いました。そこに行くには、私たちの体が死ぬことです。イエス・キリストの中で死ぬ人は幸いな人だと言われます。永遠の家が約束されている人は祝福です。この約束がない人は地獄に行きます。地獄は渇きが激しく、硫黄の火があって苦しい場所です。イエス様を信じると言いながら闇の中を歩き続ける人は、天国に入ることはできません。神様の光の中を歩むと罪が照らされて罪を悔い改めるように導かれます。主のむちと杖が私たちを義の道に導きます。悔い改めると、イエス様の血潮ですべての罪を聖めてくださいます。罪がない人はひとりもいません。失敗しない人はひとりもいません。しかし、悔い改めると、ダビデのように、いつくしみと恵みが私を追って来るのです。私はいつまでも主の家に住まいましょうと告白することができるのです。


詩篇23:1〜6

23:1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。

23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

23:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。

23:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。





3月13日 謙遜と祝福

Tペテロ5:5〜11

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 20世紀の豪華客船であるタイタニックは1912年に建造されました。設計も完璧ですべての点で自慢するに値する船でした。15000人の労働者が3年かけて造った船です。しかし、出帆して4日目に氷山にぶつかって沈没しました。沈没の理由は高ぶりでした。ホワイトスターライン社が所有していたのですが、“神もこの船を沈没することはできない。”と高ぶった言い方をしました。「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」(本文5節)私たちは神様の御前で人間として自分の位置を確認しなければなりません。

1.聖書で言われる謙遜。
 「あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。」(本文6節)と言われます。ここでいうへりくだるとは、道徳的にへりくだることではなく、信仰的にへりくだることです。人の前でへつらうことではなく、全能なる神様の前で自分の限界を意識し、創造者と被造物の関係を知ることであります。「謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。」(箴言22:4)と言われます。私たちは高ぶってはいけません。ルシファーは被造物であったにもかかわらず自分が美しく造られていたので高慢になり、堕落しました。自分も神のようになろうとしたのです。

2.悪魔に立ち向かいなさい。
 悪魔に立ち向かうということは、高慢に立ち向かいなさいということです。イスラエルの初代王サウルは、初めは謙遜でしたが、戦いに勝利するにつれて高慢になり、堕落してしまい、すべてを失ってしまいました。ダビデは高ぶりに立ち向かったので神様から守られ、祝福されました。謙遜とは全能の神様を自分の前に置くことです。神様がダビデを守ってくださいました。神様が高くしてくださると、だれも低くすることはありません。神様が、ちょうど良い時に私たちを高くしてくださいます。いつも礼拝し、膝まずいて祈り、神様に栄光をお返しする生活をしなければなりません。

3.神様は謙遜な人を助けてくださいます。
 「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(本文7節)神様が私たちを心配してくださるのです。私たちは足りない所が多いのです。明日何が起るか分りません。しかし、私たちがへりくだって神様にお願いすると、神様が心配して私たちを守ってくださいます。神様をいつも前に置いて礼拝する人は、いつも神様が守ってくださいます。イエス・キリストの福音を聞き入れる素直な人は、天国に行きます。イエス様が私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、私たちの罪が赦され、永遠のいのちが与えられるということを素直に信じるからです。神様は謙遜な人、子どものように素直な人、赦しを受け入れる人を祝福してくださいます。神様によって成功し、祝福されたとしても神様は安全装置を働かせられます。いつも自分が弱い者であることを悟らせ、神様によって強くなるようにしてくださるのです。使徒パウロは、「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(Uコリント12:9)と言いました。これが私たちを謙遜にして神様の前で守られ、永遠に祝福されるためであります。


Tペテロ5:5〜11

5:5 同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。

5:6 ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。

5:7 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

5:8 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。

5:9 堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。

5:10 あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。

5:11 どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。





3月20日 後悔がない人生

2テモテ4:6〜8

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 使徒パウロが自分の霊的息子であるテモテに手紙を送りました。この手紙はパウロが死ぬ直前の手紙です。彼はネロ皇帝によってAD 67年に処刑され殉教しました。この手紙の内容を見ると、彼の人生は本当に後悔がない人生だったということが分ります。

1.世を去る時はすでに来ました。
 パウロは自分の殉教の時を見ました。「私は今や注ぎの供え物となります。」(本文6節)これは、ぶどう酒を主の前に注ぐことを意味します。人は死ぬ時に真実になります。彼は本当に幸せな人でした。自分はどこから来て、何のために生き、どこへ行くかをはっきり知っていました。だから主の前ですべてを捧げることができました。「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」(本文7節)と彼は言いました。死を恐がることはありませんでした。死は天国の始まりでした。何の未練もなく、後悔もなく、走るべき道のりを走り終え、「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」と言うことができました。

.走るべき道のりを走り終えました。
 私たちの人生は走るべき道のりは決まっているのです。これはある意味では運命的であり、聖書では予定とも言っています。母の胎内にいた時から、人の人生は決まっているのです。それぞれの道があり、コースがあります。そのコースは自分が決めるのではありません。ある人は男性として、またある人は女性として生まれ、日本で生まれる人もあり、イエス様の時代に生まれる人もあり、終末の時代に生まれる人もあります。これはすべて主が決めたことであります。このような予定の中で私たちが選択することがあります。これは最善を尽くして走り終えることです。走る人もいれば走らない人もいます。マラソンは走る道のりは決まっています。しかし、全部走り終える人もいるし、苦しいので途中で走ることをやめる人もいます。私たちは神様から任せられた日本人1千万救霊という道があります。私たちはその道を勇敢に戦い、走り終え、信仰を守り通さなければなりません。イエス様を信じると、揺るぐことのない永遠の国に入ることができるということを伝えなければなりません。イエス様を信じると罪が赦され、永遠のいのちが与えられるということを伝えなければなりません。アブラハムやヨブは信仰を守り通しました。ヨブは東方で一番のお金持ちでした。しかし、一日の内に全財産を失いました。健康も失いました。ヨブの妻も彼を呪いました。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1:21〜22)とヨブは信仰を守りました。

3. 栄光の冠の希望。
 パウロは「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」(本文8節)と確信に満ちて言いました。オリンピックの時に優勝して受ける月桂冠は最高の冠ですが、時が過ぎると朽ちてしまいます。しかし、イエス様から受ける義の栄冠は朽ちない冠です。いのちの冠、喜びの冠をイエス様が用意してくださいます。私たち一人ひとりには決められたコースがあります。私たちはこれを選択することができます。最善を尽くして勇敢に戦って、走るべき道のりを走り終えるか、途中で放棄するか、また、信仰を守り通すか、そうではないか。守り通した人には、イエス様が「よくやった。良い忠実なしもべた。」と賞賛してくださいます。これが後悔がない人生であります。


2テモテ4:6〜8

4:6 私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。

4:7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

4:8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。





3月27日 ヤイロの信仰

マルコ5:22〜43

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 会堂管理者であるヤイロは社会的地位があり、お金も名誉もありました。しかし、彼の12才の娘の問題は彼の手ではどうしても解決できない問題でした。彼はイエス・キリストの福音を聞きました。彼がイエス様の所に行った結果、彼の問題は解決されました。

1.信仰の祈り。
 ヤイロはイエス様の足もとにひれ伏して「私の小さい娘が死にかけています。どうかおいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って助かるようにしてください。」とヤイロは一生懸命イエス様に懇願しました。その当時、イエス様は権力者たちからねたまれ、批判される立場にありました。ヤイロは自分のプライドや面目や社会的なすべてのことを意識しないで、自分の娘をいやすために、イエス様の前にひれ伏して懇願しました。私たちは自分がどんなに絶望的な存在であるかをまず悟らなければなりません。私たちは絶望的であってもイエス様はいやされる方であり、問題を解決できる方であります。イエス様の所に来て、“私をあわれんでください。”という祈りは最高の祈りです。

2.信仰の試練。
 ヤイロは死にかけている娘のために、イエス様に一刻も早く来て頂きたい思いでいっぱいでした。イエス様が来てくださって、娘の上に手を置いてくださればいやされるとヤイロは信じていたのですが、途中で12年間長血をわずらっていた女性と出会いました。彼女はイエス様の着物のすそを触りました。そして、彼女はいやされました。イエス様は彼女の話を聞かれ、長く立って信仰の話をその女性にされました。“娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。”と皆の前で話されました。その間ヤイロは娘のことを案じて心配でした。その時、ヤイロの家から人がやって来て、「あなたのお嬢さんはなくなりました。」という悲しい知らせをヤイロは受けました。これが信仰の試練です。このような時に最後まで信じるか、あるいは放棄するかの選択を迫られます。神様は後ろに退くことを喜ばれません。イエス様は失望しているヤイロに向かって「恐れないで、ただ信じていなさい。」と言われました。イエス様と共に歩くと、イエス様の言葉によって信仰が与えられます。信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストの御言葉によるのです。それでヤイロは信仰を持ち続けることができました。信仰の試練を乗り越えるためには、聖書の御言葉を聞くことであり、口ずさむことです。そして、いつもイエス様と共に歩むことです。

3.信仰の勝利。
 イエス様が会堂管理者の家に着くと、ヤイロの娘が死んだというので、人々が取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしていました。しかし、イエス様は「なぜ取り乱して泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」と言われました。人々は医学的、科学的でないイエス様の話をあざ笑いました。しかし、これはイエス様の信仰でした。ヤイロはイエス様の信仰の側に立ちました。私たちは人々から批判されても、あざ笑われても、イエス様と共に苦難を受け、イエス様と共に栄光を受けるのです。イエス様は信仰を共にするペテロとヤコブとヨハネ、そして両親だけを連れて娘の部屋に入って行かれました。否定的な人々は全部外に出しました。この信仰の輪の中でイエス様は少女の手をとって「タリタ、クミ」(少女よ。あなたに言う。起きなさい。)と宣言されました。すると少女はすぐさま起き上がり、歩き始めました。家庭の涙は感謝と賛美に変わりました。悲しみは喜びに変わりました。神様は日本のためにイエス様の側に立って祈り続ける人を探し求めておられます。絶望的な日本の地上でイエス様の信仰を持つ人と共にイエス様は“日本よ。起き上がりなさい。”と言っておられます。私たちもヤイロの信仰を持つように主の御名によって祝福します。


マルコ5:22〜43

5:25 ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。

5:26 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。

5:27 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。

5:28 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。

5:29 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。

5:30 イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。

5:31 そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか。』とおっしゃるのですか。」

5:32 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。

5:33 女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。

5:34 そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」

5:35 イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」

5:36 イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」

5:37 そして、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。

5:38 彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、

5:39 中にはいって、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」

5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へはいって行かれた。

5:41 そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ。」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味である。)

5:42 すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。

5:43 イエスは、このことをだれにも知らせないようにと、きびしくお命じになり、さらに、少女に食事をさせるように言われた。





4月3日 災難を克服したパウロ

使徒の働き27:9〜26

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 私たちの人生には、勝利や喜び、失敗や悲しみなど色々なことが起ります。パウロはユーラクロンという暴風にあいましたが、信仰によって勝利しました。

1.パウロはどうして災難にあったのでしょうか。
 「皆さん、この航海ではきっと、積荷や船体だけではなく、私たちの生命にも危害と大きな損失が及ぶと私は考えます。」このようにパウロは主から与えられた啓示を伝えたのですが、百人隊長はパウロの言葉よりも航海士や船長の話を信用しました。これは学問の高ぶりです。科学的なデータや船長の経験を信じたのです。また荷物を早く売ってもうけたいという貪欲な心がありました。クレテの港ピクニスの方が今の港よりも大きいし、遊ぶ所もあるので、そこに行こうとしました。結局この災難は人間の欲望からきたのです。今回の巨大な東日本の地震、東京電力の放射線の問題を考える時、政府はこのことを想定外だったと言っていますが、そうではありません。2007年スマトラを襲った津波の高さをもって警告がなされていました。政府は1〜2mの津波の高さを予想していましたが、今回の津波の高さは14mの津波でした。2007年の警告では“15mの防波堤を造りなさい。”ということでした。しかし、政府の高慢と東京電力会社の貪欲が重なってこの災難が起きたのであります。

2.災難を克服したパウロ。
 皆が苦しんでいる中で、パウロは立ち上がって言いました。「皆さん、元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う者はひとりもありません。失われるのは船だけです。昨夜私の主で、私の仕えている神の御使いが私の前に立って言いました。」このようにパウロが神に仕えていた時、絶望の環境に中にあっても希望を見い出すことができました。そして、「皆さん、元気を出しなさい。」と人々を励ますことができました。パウロは神様の御声を聞き、全員が助かると信じました。今、悲惨な状況の中にあるこの日本に対して、パウロが皆を元気ずけたように、今こそ教会が立ち上がって、人々を元気ずける時です。私たちは全能なる良き神様に仕えています。私たちは私たちのためにほふられたイエス・キリストに仕えているのです。私たちのためにイエス様は十字架でいばらの冠をかぶらされ、血を流され、両手両足を釘打たれ、むちを打たれました。私たちもパウロのように災難にあった人々に主にあって「皆さん、元気を出しなさい。」と人々を励ますことができます。

3.使命。
 私たちがこの世に残された理由は使命があるからです。全世界に福音をのべ伝え、最後にイエス様が再臨されます。わたしたちはどんな災難にあっても主から与えられた希望の福音をのべ伝えることです。神様は私たちにたくさんの人々を任せました。使命がある人の周りの人々は救われ、守られます。災難に打ち勝つためには、私たちが神様のみ声を聞き、使命観をもって福音をのべ伝える時に勝利することができます。


使徒の働き27:9〜26

27:9 かなりの日数が経過しており、断食の季節もすでに過ぎていたため、もう航海は危険であったので、パウロは人々に注意して、

27:10 「皆さん。この航海では、きっと、積荷や船体だけではなく、私たちの生命にも、危害と大きな損失が及ぶと、私は考えます。」と言った。

27:11 しかし百人隊長は、パウロのことばよりも、航海士や船長のほうを信用した。

27:12 また、この港が冬を過ごすのに適していなかったので、大多数の者の意見は、ここを出帆して、できれば何とかして、南西と北西とに面しているクレテの港ピニクスまで行って、そこで冬を過ごしたいということになった。

27:13 おりから、穏やかな南風が吹いて来ると、人々はこの時とばかり錨を上げて、クレテの海岸に沿って航行した。

27:14 ところが、まもなくユーラクロンという暴風が陸から吹きおろして来て、

27:15 船はそれに巻き込まれ、風に逆らって進むことができないので、しかたなく吹き流されるままにした。

27:16 しかしクラウダという小さな島の陰にはいったので、ようやくのことで小舟を処置することができた。

27:17 小舟を船に引き上げ、備え綱で船体を巻いた。また、スルテスの浅瀬に乗り上げるのを恐れて、船具をはずして流れるに任せた。

27:18 私たちは暴風に激しく翻弄されていたので、翌日、人々は積荷を捨て始め、

27:19 三日目には、自分の手で船具までも投げ捨てた。

27:20 太陽も星も見えない日が幾日も続き、激しい暴風が吹きまくるので、私たちが助かる最後の望みも今や絶たれようとしていた。

27:21 だれも長いこと食事をとらなかったが、そのときパウロが彼らの中に立って、こう言った。「皆さん。あなたがたは私の忠告を聞き入れて、クレテを出帆しなかったら、こんな危害や損失をこうむらなくて済んだのです。

27:22 しかし、今、お勧めします。元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う者はひとりもありません。失われるのは船だけです。

27:23 昨夜、私の主で、私の仕えている神の御使いが、私の前に立って、

27:24 こう言いました。『恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです。』

27:25 ですから、皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています。

27:26 私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます。」





4月10日 愛の奴隷

出エジプト21:2〜6

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 神様の方法は人間の方法と違います。自由を得るために自ら勧んで奴隷になるという愛の奴隷の制度を聖書は教えています。

1.主人の愛の故に愛の奴隷になります。
 「しかし、もしその奴隷が『私は、私の主人と私の妻と私の子どもたちを愛しています。』」(本文5節)このように愛しているから奴隷になるのです。愛のくびきの中に入るのです。奴隷は安息年に自由の身になるのですが、愛の故にその権利を放棄して自分の愛してくれた主人の奴隷になるのです。他の人は安息年に自由になることを喜ぶのですが、この奴隷は主人から離れるのがいやで心が痛み泣くのです。私たちがイエス・キリストとひとつになったことは、愛の鎖によってです。イエス様は強制的にはされません。私たちが受けた十字架の愛、赦しの愛、そのような愛によって自ら勧んでこの鎖から離れたくないのです。パウロはイエス様を信じる人々を捕えて迫害しました。それなのにイエス様は彼を赦し、使徒にまでしてくださった愛にしばられました。パウロはこの愛から離れることはできないと告白しました。「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。高さも、深さも、そのほかどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:35と39)

2.愛の奴隷は自らすべての権利を放棄します。
 愛の奴隷は“自由の身となって去りたくありません。” と自ら勧んですべての権利を放棄しました。神様は私たちに自由選択意志を与えてくださいました。私たちはロボットではありません。天国を選ぶこともできるし、地獄を選ぶこともできます。自由です。強制されることはありません。自らキリストの愛を無限に受けることを選ぶこともできるし、拒否することもできます。自分の選択によって決まるのです。強制的に命を捧げなさいということはありません。イエス様は自ら自分の命を父に捧げると言われました。私たちは神様に礼拝を捧げる自由があるし、そうしない自由もあります。自ら勧んで自分の自由を放棄して神様に捧げる時、神様は喜ばれます。

3.愛の奴隷のしるしがあります。
 「その奴隷が、『私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません。』とはっきり言うなら、その主人は、彼を神のもとに連れて行き、戸または戸口の柱のところに連れて行き、彼の耳をきりで刺し通さなければならない。彼はいつまでも主人に仕えることができる。」(本文5.6節)主人は奴隷の耳をきりで刺し通して、しるしをつけます。すると、この奴隷は永遠に主人のものになります。イエス様は私たちに「あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」(エペソ4:30)と言われます。また「イエスの焼き印を帯びている。」(ガラテヤ6:17)とも言われます。私たちは主のものだとはっきり言うならば、煩わされることはありません。「だれも私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。」なぜなら、私たちにはイエス様の焼き印が押されてあるからです。私たちが自分の自由意志を使ってはっきり“主の奴隷です。”と宣言することが大切です。


出エジプト21:2〜6

21:2 あなたがヘブル人の奴隷を買う場合、彼は六年間、仕え、七年目には自由の身として無償で去ることができる。

21:3 もし彼が独身で来たのなら、独身で去り、もし彼に妻があれば、その妻は彼とともに去ることができる。

21:4 もし彼の主人が彼に妻を与えて、妻が彼に男の子、または女の子を産んだのなら、この妻とその子どもたちは、その主人のものとなり、彼は独身で去らなければならない。

21:5 しかし、もし、その奴隷が、『私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません。』と、はっきり言うなら、

21:6 その主人は、彼を神のもとに連れて行き、戸または戸口の柱のところに連れて行き、彼の耳をきりで刺し通さなければならない。彼はいつまでも主人に仕えることができる。





4月17日 イエス様の平安

ルカ8:22〜26

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 今日の時代は不安な時代です。だから眠れないのです。しかし、イエス様は大暴風にあわれた時も深く眠っておられました。イエス様は私たちにこの平安を与えると言われました。

1.イエス様の平安は信仰から来ます。
 イエス様は父なる神様がひとりの人を救うために向こう岸へ行くように言われたということを信じました。それですべてを主にゆだねました。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37:5)私たちが信仰をもって深い眠りについて主にゆだねると、すべてがその方向で成就されます。

2.イエス様を信じることです。
 イエス様は信仰の創始者であり、完成者であります。イエス様の十字架を信じるのです。十字架が私たちの罪を聖めてくださることを信じることです。聖霊様が私たちと共におられ、私たちを保護し、私たちをひとりにはされません。私たちの中で話される方は聖霊様です。聖霊様は私たちに信仰を与え、感動を与え、孤児のような気持ちにならないようにしてくださいます。私たちは聖霊様がいつも共におられるのだということを信じていかなければなりません。イエス様の打たれた打ち傷を見ながら、私の病はイエス様に移されたということを見るのです。またイエス様がわたしの呪いを背負ってくださいました。先祖のたたり、日にちのたたり、方角のたたりなどがイエス様に移されたので、私は呪いとはいっさい関係がありません。私にはアブラハムの祝福だけがあります。私たちが信じることによってアブラハムの祝福を受けるのです。イエス様が十字架で死なれ、3日目によみがえられました。イエス様のよみがえりは私のよみがえりです。イエス様は神様の御座に座られました。私たちもイエス様と共に御座に座っているのです。これは宗教的な修業や努力でできることではなく、ただ信じることによってできるのです。

3.イエス様に祈ることによって平安が来ます。
 弟子たちがイエス様と同じ船に乗っていた時、急に突風が起りました。それで弟子たちは急いでイエス様を起しました。するとイエス様は風と荒波とを叱りつけられました。すると風も波も治まり、なぎになりました。イエス様が風や波を治められたのです。私たちの人生にもこのような突風が襲うことがあります。ダビデの人生の中でも突風が起りました。誘惑によって罪を犯し、ダビデの船は沈みそうになりました。しかし、ナタン預言者の指摘を受けて、彼は悔い改めました。彼は赦されました。そして平安という名前の子ども、ソロモンが与えられました。また、ヒゼキヤ王は良い王様でしたが、急に病気になりました。突風が吹いてきたのです。彼は泣きながら神様に祈りました。ヒゼキヤの涙の祈りを聞かれた神様は、彼の命を15年間延ばしてくださいました。彼はいやされました。私たちの人生の中にも突風が起ることがありますが、イエス様に祈ることによって平安が来ます。眠れない生活から眠れる生活に変わります。不安な生活から平安な生活に変わります。イエス様が“静まれ!”と言われるからです。皆さんがイエス様の平安を持つことができますように、主の御名によって祝福します。


ルカ8:22〜26

8:22 そのころのある日のこと、イエスは弟子たちといっしょに舟に乗り、「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう。」と言われた。それで弟子たちは舟を出した。

8:23 舟で渡っている間にイエスはぐっすり眠ってしまわれた。ところが突風が湖に吹きおろして来たので、弟子たちは水をかぶって危険になった。

8:24 そこで、彼らは近寄って行ってイエスを起こし、「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです。」と言った。イエスは、起き上がって、風と荒波とをしかりつけられた。すると風も波も治まり、なぎになった。

8:25 イエスは彼らに、「あなたがたの信仰はどこにあるのです。」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

8:26 こうして彼らは、ガリラヤの向こう側のゲラサ人の地方に着いた。





 4月24日 虹の契約  創世記 9:11〜17   トップへ

人は虹を見ると喜びます。無意識のうちに創造主の約束を思い出すからです。虹は祝福であります。大洪水の後、神様はノアに虹を見せて神様の愛を表現してくださいました。虹は永遠の神様との契約です。

1.契約の神様。
 契約とはヘブル語で“切る”という意味があります。古代中東では契約する時、動物をまっぷたつに切って当事者がそれを見ました。違反したら自分たちもこのようになるのだと見せるためでした。神様はアブラハムに祝福の契約をしました。地上のすべてのものがアブラハムによって祝福されるという契約でした。これを確かにするために神様はアブラハムに仰せられました。“あなたは動物を真っ二つにに切り裂きなさい。”神様は燃えているたいまつのように切り裂かれたものの間を通り過ぎました。これは聖霊様です。そこを通ってアブラハムとの契約を確かにされました。神様は真実な方、うそがつけない方です。そのような契約を見せる理由は私たちが信じるためです。虹の約束、十字架の約束はすべて私たちのためにあるのです。


2.虹の契約。 大洪水の後で箱舟から出てきたノアは神様に礼拝を捧げました。神様は虹を表わし、“二度と地上の人々を滅ぼさない。”と言われました。すべての生き物に対する約束でした。まるで東北の津波の現場のようにノアが箱舟から外に出ると、すべてが変わっていました。以前の土地ではなく、泥だらけで何も残っていない悲惨な状態でした。このような絶望の中でノアに生きる勇気を与えたのは虹でした。それは神様からの祝福の約束でした。私たちも神様の約束を信じることによって、その約束を自分のものにすることができます。

3.十字架とよみがえりの契約。
 イエス様は契約を果たすことができなかった私たちのために十字架にかかって死なれました。そして神様の約束である祝福を与えてくださいました。これが虹であり、5つの祝福であります。@罪の赦しA聖霊充満B病気から健康C貧しさから富D死から永遠の命。イエス様はこの5つの祝福を約束してくださいました。私たちも約束を記憶することが大切です。神様も思い出して契約を果たしておられるのです。私たちも契約を思い出さなければなりません。その契約のみことばをいつも口ずさむことです。神様の虹はみことばであります。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしはあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(イザヤ41:10)と言われます。ある人が夢でイエス様と海辺を歩いていました。二人の足跡が砂浜に残っていました。しかし、ある所には足跡が一つしかありませんでした。それは私が最も苦しかった時でした。なぜ足跡が一つしかないのかイエス様にたずねました。“わたしは一度もあなたから離れたことはない。あなたが一番苦しい時、わたしはあなたを抱いて歩いた。この1つの足跡はわたしのものだ。”とイエス様は言われました。東日本では今、災難、患難が続いていますが、どんな時にも主と共にいること、神様は私たちが苦しんでいる時、私たちを抱いておられることを握っていきましょう。


創世記9:11〜17

9:11 わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」

9:12 さらに神は仰せられた。「わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。

9:13 わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。

9:14 わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現われる。

9:15 わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。

9:16 虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」

9:17 こうして神はノアに仰せられた。「これが、わたしと、地上のすべての肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」





5月1日 ただ祈りなさい

ルカ8:22〜26

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ユダの王ゼデキヤの時代にバビロンの王ネブカデレザルの攻撃を受けました。預言者エレミヤは主からの啓示が与えられました。“ユダの王ゼデキヤはバビロンの王の手に渡され、ユダは攻め取られる。”と預言しました。しかし、エレミヤはゼデキヤ王の怒りを受けて、ユダの王の家にある監視の庭の牢に監禁されていました。なにもすることができない時、エレミヤは神様から再び啓示が与えられました。

1.地を造られた主、それを形造って確立させた主。
 私たちが生活しながら大きな錯角をする時があります。私の運命は私の力で何かをするのだと思う事です。しかし、歴史というのは、神様によって始まり、神様によって確立するものです。神様がアルファでありオメガであります。そのことを知らずに自分の力で解決しようとする時、私たちはいろいろな牢に閉じ込められる時があります。病の牢、失敗の牢、絶望の牢です。その時、私たちは地を造られ、それを形造られ確立されたのは主であると悟るのです。これが絶望から希望なる主に顔を向ける祝福であります。

2.わたしを呼べ。
 ただ私たちがすることができるのは、祈ることだけです。1番目にも祈り、2番目にも祈り、3番目にも祈りです。祈ることによって、神様の道が見えてくるのです。神様が私たちのために備えられたものがあります。「あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」(詩篇139:16)と主は言われます。祈る人だけがイエス様の血潮によって神様のもとに近づくことができるのです。

3.神様の答え。
 「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」(本文3節)あなたの知らない、理解を越えた大いなる事とは奥義です。神様の啓示が必要です。祈る人には神様がエレミヤのように啓示を与えてくださいます。この啓示の奥義とはイエス・キリストのことです。イエス様は私たちの罪のために刺し通され、血潮を流されました。イエス様を信じる者は永遠のいのちが与えられます。この罪が赦された人に聖霊を与え、聖霊様は私たちにいろいろな知恵を与えてくださいます。この知恵は私たちの思いと異なり、はるかにもっと高い知恵です。十字架がその知恵であります。イエス様は私たちに“恐れてはいけない。しっかり立ちなさい。この問題がもうあなたを苦しめることはない。”と言われます。聖霊様がこのように私たちに語ってくださるし、物を運んでくださいます。イスラエルの民が肉を食べたいと言った時に、神様はうずらを運んでくださいました。このような事が起るのです。聖霊の風です。私たちは日本のリバイバルのためにどうしたらいいか絶望しています。しかし、主の霊によって日本のリバイバルは可能です。「しかし、ついには、上から霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。」(イザヤ32:15)エゼキエルの谷間に干からびた骨々がたくさんありました。骨々が主の霊によって生かされました。主が来られるとリバイバルが起ります。私たちが偶像礼拝する日本に失望、落胆していても、神様は祈る人に主の霊が日本に注がれ、教会を果樹園のようにし、森のようにすると言われます。


エレミヤ33:1〜3  


33:1 エレミヤがまだ監視の庭に閉じ込められていたとき、再びエレミヤに次のような主のことばがあった。

33:2 「地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主である方がこう仰せられる。

33:3 わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。





5月8日 まことの希望に対する信仰

マルコ10:46〜52

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バルテマイという盲人の物ごいが道ばたに座っていました。彼は絶望の人生の中にいました。しかし、イエス様と出会って絶望が希望に変わりました。

1.バルテマイは希望を聞き続けました。
 イエス様のことを聞くと希望が生まれます。イエス様は罪人の罪を赦し、病人をいやされました。38年間病気で伏せっていた人の前にイエス様が現われ、彼をいやされました。イエス様に対するそれらの話を聞いてバルテマイはイエス様に希望を持ちました。自分の前にもイエス様が現われたら自分の人生は変わるという希望を抱きました。希望は信仰へと変わっていきます。信仰の言葉を聞くためには、イエス様の言葉を聞かなければなりません。「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについての御言葉によるのです。」(ローマ10:17)ですから私たちはイエス様の御業を聞く時、信仰が生まれるのです。彼は希望に向かって叫びました。

2.バルテマイは希望を叫び続けました。
 弟子たちと多くの群衆は叫び続けるバルテマイを黙らせようとしました。しかし、彼はますます大声で「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び続けました。このように私たちは希望に向かって叫び続けることが重要です。絶望して退いてはいけません。「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえている。私の救い、私の神を。」(詩篇42:11)私たちはイエス様に向けていつも前進していかなければなりません。

3.希望がバルテマイを呼びました。
 「すると、イエスは立ち止まって、『あの人を呼んで来なさい。』と言われた。」(本文49節)絶望しないで叫び続けると、希望なるイエス様がバルテマイを呼びました。すると弟子たちはバルテマイを呼んで“心配しないでよい。さあ、立ちなさい。イエス様があなたをお呼びになっている。”と言いました。あきらめないで前進すると、希望の方から私を呼び、道が開きます。「すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。」(本文50節)上着というのは当時ローマ政府が物ごいに与えた身分であり、法的にこの人は物ごいができると国が認めたものです。しかしバルテマイはその上着を脱ぎ捨てました。“私はもう物ごいをする人生ではない。祝福される人生となり、与える人生になるのだ。”という彼の決心がそうさせたのでした。私たちの心が重要です。心の中でいのちが湧き上がるのです。心の中に花を置くと、ハチが飛んで来ます。しかし、ごみを置くと、ハエが飛んで来ます。自分に対する以前のセルフイメージを捨てなければなりません。イエス様はバルテマイに「わたしに何をしてほしいのか。」と聞かれました。彼は「先生。目が見えるようになることです。」と答えました。私たちの心の中にあるものを告白することが重要です。
人が心に信じて義と認められ、口で告白して救われます。私たちは否定的なことに耳をかさず、いつも肯定的な信仰を持つことが重要です。希望なるイエス様に向かって前進していくと、希望が私を呼びます。


マルコ10:46〜52

10:46 彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。

10:47 ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。

10:48 そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。

10:49 すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい。」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」と言った。

10:50 すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。

10:51 そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」

10:52 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。





5月22日 青銅の蛇とイエス・キリスト

ヨハネ3:14〜18

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聖書全体を福音だと言っています。聖書全体を要約している所がヨハネ3章14節から18節です。小福音と言われています。ここでは救いが何であるかをはっきり教えています。

1.モーセが荒野で蛇を上げたように。
 民数記の中でこのことが語られています。民数記は7つのサイクルからなっています。民数記の11章1節から2節が第1のサイクルです。「さて、民はひどく不平を鳴らして主につぶやいた。主はこれを聞いて怒りを燃やし、主の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くした。」(民数記11:1〜2)それで民は悔い改め、祈りました。すると火が消えました。最後の7サイクル目にイスラエルの民は不平不満して燃える蛇にかまれました。彼らが悔い改めたら神様はモーセに言われました。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者はそれを仰ぎ見れば生きる。」(民数記21:8)イスラエルの民は7回(完全数)罪を犯し、完全に堕落しました。しかし、彼らが悔い改めると神様は彼らを7回赦し、完全な救いをもたらしてくださいました。イエス様も“7の70倍でも赦しなさい。”と言われました。

2.青銅の蛇はイエス・キリストです。
 青銅は審判を意味します。蛇は罪を意味します。イエス様は私たちの罪を負って罪人となられました。それで審判を受け、青銅の蛇となられました。旗ざおの上につけられたということは、十字架につけられたことを意味します。青銅の蛇は私たちを審判しません。イエス様がこの世に来られたのは世をさばくためではなく、イエス様によって世が救われるためです。燃える蛇はサタンです。サタンは私たちを苦しめたり、殺したりします。しかし、イエス様は私たちを生かすためにご自分が審判を受けられました。

3.青銅の蛇を仰ぎ見れば生きます。
 モーセが荒野で蛇を上げたように、イエス様も十字架に上げられました。これを信じる者は永遠のいのちを持つことができます。サタンに罪を告発される時、私たちはその痛みから解放される道はありません。“おまえは生きる価値がない。おまえはもう赦されない。”そういった言葉が私たちを苦しめます。しかし、イエス様を仰ぎ見れば私たちはいやされ、生かされます。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Tヨハネ1:9)私のために十字架にかけられたイエス様を信じるだけで私たちは救われます。私たちの修業や努力によって救われるのではありません。私のために審判を受けられたイエス様を信じることだけで救われます。教会に初めて来られた人もイエス様を信じることだけで救われ、永遠のいのちが与えられます。十字架は力であり、知恵であり、いのちであります。私たちの中に流れている毒が消されるのは、御霊の働きです。御霊が私の中に入ると、“あなたは神様の子どもですよ。あなたの罪は赦されたのです。あなたはいやされたのです。”と語ってくださるのです。私たちはイエス様を仰ぎ見ながら、いやされ、生かされるのです。イエス様は、私たちの呪いやたたりも負ってくださいました。日本では先祖のたたり、方角のたたり、日にちのたたりなどいろいろなたたりがあります。しかし、私たちはアブラハムの祝福を信じるのです。なぜならイエス様が十字架にかけられ、呪われた者となってくださったからです。私は祝福のパイプとなり、祝福を人々に流す者となります。アブラハムの祝福は私のものとなります。私たちはイエス様の十字架を仰ぎ見れば、死の恐怖から解放されます。クリスチャンでありながら死の恐怖がある人は信じないからです。信じないとさばきがあるのです。イエス様が私のためにもうすでにさばきを受けてくださったと信じる者はさばかれません。永遠のいのちが与えられるのです。


ヨハネ3:14〜18

3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。

3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。





5月29日 感 謝 の 力 

ピリピ4:11〜13

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神様は信じる私たちに主の臨在とともに感謝の力を与えてくださいます。すべてのことに感謝するとどんな境遇にあっても満ち足りることができ、勝利することができます。

1.すべての境遇に満ち足りることです。
 パウロは“どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。”と言いました。彼は権威ある家紋の家に生まれ、ローマ市民権を持っていました。優秀な学校で学び、サンヘドリンという国会でも認められた若者でした。人間的には将来の展望が保証された人でしたが、彼は満足がなく、不平不満し、クリスチャンを迫害しました。彼はダマスコへ行く途中にイエス様と出会い、自分が罪深い者であることが分りました。そこで彼は悔い改めたので、その罪が赦され、救いの喜びを得ました。彼は主の臨在の中で感謝の力を頂き、感謝の人に変わりました。むち打たれても、牢の中に入れられても感謝しました。主だけで満ち足りることを学びました。彼はあらゆる境遇に対処する秘訣を心得る人になりました。

2.感謝は使命の道を歩ませます。
 パウロは“貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っている。”と言いました。なぜ自分がそのような道を歩くのか、彼は知っていました。それは神の国を広げるための宣教の道でした。王の王、主の主の御心を成し遂げるための道でした。いつも主が共におられること、また主がいつも助けてくださることが分ったので、彼はどんな環境の中でも感謝することができました。パウロは主の道を広げ、喜びの年を伝えるために歩んだので、いつも感謝することができました。

3.感謝は救いを与えます。
 「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(本文13節)パウロは多くの苦しみの中にあっても主から与えれた感謝の力によって感謝することができました。「感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、私は神の救いを見せよう。」(詩篇50:23)私たちがどんな環境の中でも神様の前で感謝すると、問題は解決されます。パウロはピリピで伝道している時捕えられ、むち打たれて牢の中に閉じ込められました。しかし、真夜中ごろ、パウロとシラスは神様に祈りつつ、賛美の歌を歌っていました。その時突然、大地震が起って、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、皆の鎖が解けてしまいました。問題の扉が開き、問題の鎖が解けたのです。私たちが感謝すると、このような力が現れるのです。


ピリピ4:11〜13


4:11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。

4:12 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

4:13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。





6月5日 喜びの源 

詩篇 16:8〜11

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 第一次世界大戦の時、後にイギリスの首相になるウィンストン・チャーチルは軍の将校たちに、“いつも喜びましょう。”と喜ぶことを勧めました。“喜べない人は無理にでも喜んでください。それでもできない人はここを出て行ってください。”と言いました。このようにチャーチルは喜びを強調しました。その結果、イギリスはドイツに勝つことができました。私たちは神様によって環境を越えた喜びを持つことができます。

1.喜びの根源は神様です。
 ダビデは厳しい人生を送った人ですが、喜びの根源は神様であることを悟りました。ダビデはサウル王からねたまれて何度も殺されそうになりました。荒野の洞窟の中で生活したこともありました。人間的に見ると、ひとつも喜ぶ所もないのですが、神様に喜びを見出しました。「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。わたしの身もまた安らかに住まおう。」(本文8〜9節)とダビデは告白することができました。喜びの源である神様と交わるためには私たちがまず罪を悔い改めて血潮で聖められ、至聖所に入ることです。至聖所は神様の喜びの御座です。

2.聖霊充満を求めることです。
 私たちが毎日喜びの根源である神様を求め続けることです。神様はみ言葉です。み言葉を毎日読み続けることです。そして、真理を悟った時、無限の喜びが起ります。その喜びは奇跡を呼びます。この喜びは医学的にエンドロフィンの4000倍のダイドロフィンが出ると言われています。聖書を読む時は聖霊様に祈りながら読むのです。そうすると、私を苦しめた二酸化炭素が外に出て行きます。そして酸素である聖霊を私の中に受け入れるのです。いつも瞬間瞬間この世で仕事をしながら運転しながら祈っていくことが大切です。

3.聖徒の交わり。
 礼拝が終わってから一緒に食事をし、お互いにみ言葉の喜びを分ち合うとその喜びが60倍、100倍になっていきます。教会で奉仕をする時、喜びで満たされます。「きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です。」とネヘミヤは言いました。 教会に来て一緒に交わり、奉仕をする時に不思議な喜びがわき上がるのです。神様は私たちを用いて私たちの周りを祝福するのです。私たちの中にある喜び、平安をもって輝いてください。家でも職場でも輝いてください。この世を輝かすのは、私たちクリスチャンです。


 詩篇 16:8〜11

16:8 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。

16:9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。

16:10 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。

16:11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。





6月12日 いのちの水の川 

ヨハネの黙示録 22:1〜5

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 私たちがこの世の体を脱ぎ捨てる時、私たちが行く所である新しいエルサレムのことが今日の本文に書かれてあります。父なる神様と御子なる小羊の御座からいのちの水の川が流れ出るというすばらしい霊的世界を見せています。イエス様を信じる私たちの心の中にもこのいのちの水の川が流れるのです。今日ペンテコステの日に私たちの中にいのちの水が川のように流れるように祝福します。

1.いのちの水の川は父と御子の御座から出ます。
 「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。」(本文1節)と書かれています。イエス・キリストの恵みの十字架からいのちの川、聖霊の川が流れるのです。み言葉によって私たちは罪を指摘されます。罪人となった私の身代わりに死んでくださったイエス様に対して感謝と賛美がわきあがります。イスラエルの賛美を住まいとしておられる神様です。イスラエルの賛美の中に来られて御座を作ってそこにおられる神様です。私たちが神様の御座の前で賛美を捧げることは、すばらしいことです。御座におられる小羊イエスに栄光と誉と賛美がありますように祈ります。

2.この水が流れる所で実ができました。
 いのちの水が流れる川の両岸には、いのちの木があって12種の実がなり、また、その木の葉は諸国の民をいやしました。私たちがイエス・キリストの恵みを受けていやされ、実を結ぶのです。12種の木とは教会を意味します。川が流れる所で実ができました。ペンテコステの日に聖霊様が来られてから教会が始まりました。水がなければ実を結ぶことはできません。川が流れる所はすべてのものが生きるし、魚がいっぱいあふれます。これはリバイバルを意味します。もはや呪われるものは何もありません。私たちはイエス様を信じて呪いから解放されました。いつも御顔を仰ぎ見ることです。御顔は主の御名です。主の名前が私たちについてきます。もはや夜がありません。私たちが神様のみ言葉の中でいつも悔い改めるので、光の中で全部明らかになるからです。この世の中で苦しみがあるのですが、私たちは圧倒的な勝利者となることができます。神様の名前は勝利だからです。

3.霊的世界は祈る人に与えられます。
 霊的世界は約束です。約束をもらうまで祈らなければなりません。イエス様は弟子たちに「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」(使徒1:4)と言われました。「聖霊があなたがたの上に臨まれる時、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)弟子たちが10日間熱心に祈った時に聖霊がくだりました。聖霊充満になったペテロが出て行って説教すると、3000名が救われ、また出て行って説教すると
5000名が救われました。神様のみ言葉を握って祈ることが重要です。人のためにとりなしの祈りをすることも重要です。国のため、家族のため、私たちが祈る時、奇跡が起ります。


 ヨハネの黙示録 22:1〜5

22:1 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、

22:2 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。

22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、

22:4 神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。

22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。





6月19日 アバ、父 

ローマ 8:14〜16

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 父の日は、父に感謝し、父を喜ばせる日です。私たちを造り、救いを成し遂げてくださった霊的父に感謝しましょう。

1. 私たちが“アバ、父”と呼ぶことができるのはイエス様の恵みです。
イエス様は父のことを“アバ、父”と呼びました。その当時人々は父なる神様が恐くて呼ぶことができませんでした。旧約聖書では14回神様のことを“父”と呼んでいますが、これは個人的な呼び方ではありません。イエス様が来られてから天の父なる神様を“パパ、父”と呼んだので、その当時の人々はこの呼び方は神様を冒?するのだと言ってイエス様を十字架につけたのでした。イエス様はゲッセマネの園での祈りの時も“アバ、父”と呼びました。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」(マルコ14:36)イエス様が私たちの罪の杯を飲まれてから神様は私たちを罪人ではなく、義人にしてくださいました。私たちが神様を父と呼ぶことができるようにしてくださいました。イエス様は十字架の上で大声で叫ばれました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)イエス様はこの時以外はこのように父を呼ばれたことはありません。いつも“アバ、父”と呼ぶようにイエス様が贖いとなってくださったのです。

2. 御霊ご自身が私たちの霊とともにあかししてくださいます。
 聖霊様が来られて“あなたは神様の子どもですよ”とあかししてくださいます。それで私たちが“アバ、父”と呼ぶことができるのです。私たちの心の感情はそのことを拒むことがあります。しかし、私たちが悔い改めて、イエス・キリストを受け入れると、神様の子としてくださる特権が与えられます。悔い改めることが重要です。私たちは罪を犯したので神様の前で子どもの資格はないのですが、聖霊様は私たちの霊に“あなたは神様の子どもですよ。”と語りかけてくださいます。これを受け入れることが大切です。放蕩息子が自分の
財産の分け前をもらって遠い所へ行き、そこで放蕩して湯水のように財産を全部使ってしまいました。食べることにも困って豚の世話をするようになりました。豚は罪を意味します。彼は罪の世界で世話をする者になりました。地獄のような苦しみから彼は我に返って、父の家のことを思い出し、父の所に帰って行きました。すると父は彼に走り寄って彼を抱き、口づけし、良い着物を着せ、指輪をはめさせ、靴をはかせてくださいました。子どもとしての特権を取り戻してくれました。私たちは天に対して罪を犯し、また父に対して罪を犯しました。子どもと呼ばれる資格はありません。しかし、神様は悔い改めて帰ってきた者には子として扱ってくださいます。

3. 奴隷の霊から解放されなければなりません。
 放蕩息子の長男は父に「長い間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って子山羊一匹下さったことがありません。」(ルカ10:29)と言いました。長男は父と一緒にいても感謝もないし、喜びもありませんでした。父の戒めを破ったら罰を受けるという恐い思いを持っていました。これが奴隷の霊です。私たちは人を恐れる奴隷の霊から解放されなければなりません。またこれは、宗教の霊でもあります。教会生活をするのは地獄に行かないためだという思いで生活するのです。喜びも幸せも感謝もない生活です。父が一番幸せに思う時は、子どもが熱心に仕事をする時ではなく、父と一緒に親しく過す時です。父の日の一番大きなプレゼントは父を親しく呼ぶことです。パパと呼ぶと父は喜びをもって私のことを楽しみ、父は高らかに歌って私のことを喜ぶのです。


 ローマ 8:14〜16

8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。





6月26日 霊の目を開いてください 

II 列王記 6:14〜19

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 私たちの霊の目が開くと、どのような不安、心配、絶望、恐怖の問題があっても、それに打ち勝つことができます。なぜなら、その問題よりもっと多い天の恵みの軍隊が存在するからです。霊の目が開かれることが大切です。

1. 私たちの目には見えない霊の世界があります。
 私たちの世界は肉眼では見えない霊の世界があります。霊の世界には、二種類の世界があります。一つは、私たちを祝福し、保護する神の軍隊と天使たちの世界です。もう一つは私たちを破滅させようとする悪魔の軍隊の世界です。これは私たち人間を惑わし、罪を犯させ、支配しようとするサタンの世界です。「こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。」(ヨハネの黙示録 12:9) これは天使の三分の一が堕落した勢力です。しかし、あとの三分の二は軍隊長官のミカエルと天使長のガブリエルが神様の民をまもっているのです。イエス・キリストを信じる人々は、心の中が神様の宮になります。そして、その宮をいつも天使たちが主のために守っているのです。

2. 御言葉を信じて命令するとその通りになります。
 御言葉は神様ご自身です。御言葉が人間となられた方がイエス・キリストです。私たちの中にイエス様がおられて私たちの信仰告白を通して命令が出ると、その御言葉がそのまま天使たちによって実現されます。 "この山に向かって、動いて海に入れ。" と信じて言うと奇跡的なことが起こって、その通りに動きます。これは私たちの力で出来るのではなく、主が天使に命令してそのようになるのです。「それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、全ての道で、あなたを守るようにされる。」(詩篇91:9〜11) 私たちが神様の御言葉を信じてそれを告白すると、癒しの天使が動いて癒されるのです。「主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みと哀れみとの冠をかぶらせ、」(詩篇 103:3〜4) と言われるように、主の命令によってそのような働きがされるのです。

3. 御言葉を信じられるように祈らなければなりません。
 エリシャはアラムの軍隊が攻めて来た時、エリシャの心は平安でした。しかし、彼の僕はあわてて言いました。「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう。」エリシャは「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいるものよりも多いのだから。」と言いました。そして、エリシャは祈って「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主が彼の目をひらかれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていました。この霊の目は祈ることによって開かれます。祈りなしで霊的世界にはいることはできません。聖霊充満のために祈ると御言葉を信じるようになります。御言葉を信じるようになると、真理という御言葉の世界がはっきり見えてきます。真理は私たちを自由にします。実際、天使たちは動いてアラムの軍隊の人々を盲目にして、エリシャは彼らをイスラエルの首都であるサマリヤに一人で連れてきて捕虜にしました。これはエリシャ一人の力で出来たのではなく、天使が動いたからでした。私たちの霊の目が開いて、私たちを取り巻いている天使たちが見え、いつも平安であるように主の御名によって祝福します。


 II 列王記 6:14〜19

6:14 そこで王は馬と戦車と大軍とをそこに送った。彼らは夜のうちに来て、その町を包囲した。

6:15 神の人の召使が、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう。」と言った。

6:16 すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と言った。

6:17 そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。

6:18 アラムがエリシャに向かって下って来たとき、彼は主に祈って言った。「どうぞ、この民を打って、盲目にしてください。」そこで主はエリシャのことばのとおり、彼らを打って、盲目にされた。

6:19 エリシャは彼らに言った。「こちらの道でもない。あちらの町でもない。私について来なさい。あなたがたの捜している人のところへ連れて行ってやろう。」こうして、彼らをサマリヤへ連れて行った。





7月3日 正しい律法の理解 

ヨハネ 8:1〜11

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 律法は神様のみ言葉であり、命令です。十戒でもあるし、イエス様のゆるしの言葉でもあるし、聖霊様のいのちの力ある言葉でもあります。律法を正しく理解していく時、私たちはいのちを得、またそれを豊かに得ることができます。

1.律法と律法主義。
 律法は宇宙の裁判官である神様のみ言葉であります。律法は私たちが神様の命の位置を離れた時、そのことを教えています。罪を犯したアダムに神様は「あなたはどこにいるのか。」と彼に呼びかけ、アダムが神様から離れていることを教えました。レントゲンは私たちの体の中で目には見えないけれど潜んでいる病気をあらわにします。律法はレントゲンのように死の病気である罪を探し、私たちはイエス様のいやしとゆるしが必要な存在であることを教えています。しかし、真の律法に照らされることがなく、自分は大丈夫だと言っている人が律法主義者です。自分だけが正しいと思って人を裁いたり、イエス様を必要としないと思う人が律法主義者です。

2.真の律法なるイエス・キリスト。
 神様のことばが人間となられて地上に来られた方がイエス・キリストです。イエス様は神様であり、み言葉ご自身であります。この方を受け入れた者は、神様の子どもとされる特権が与えられます。しかし、人々は光として来られた方を拒みました。自分の中にある罪があるからです。主の栄光を見る時に私たちは自分の罪を悟ります。使徒パウロは主の光に照らされて自分の罪を悟る前は、サウロと名乗って自分は大きい者、高い者だと思いました。しかし、自分の罪を悟った後では自分は小さい者であると分り、パウロ(小さい者)と名前を変えました。神様の栄光を見る時、私たちは自分の中にある罪が見えてくるのです。それで主イエス・キリストを求めるようになります。律法の働きは私たちこそイエス様のゆるしが必要であると分ることです。イエス様は姦淫の現場で捕まえられた女性をゆるしてくださいました。彼女はイエス様の側でゆるしを切に求めながら悔い改めました。イエス様は「わたしもあなたの罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(本文11節)と言われました。彼女の罪を負ってイエス様は十字架で死んでくださいました。

3.いのちの御霊の原理が真の律法です。
 私たちが決して罪を犯すことがないようにされたのは、聖霊様です。「こういうわけで、今はキリスト、イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ8:1)御霊が肉によって無力になった私たちをイエス様の所に連れて行って律法にはできなくなっていることを、イエス様はしてくださいました。御霊の原理は私たちを生かします。罪と死の原理は私たちを殺します。私たちを罪に定めて攻撃し、滅ぼそうとするのはサタンです。御霊の原理は真の律法です。私たちはイエス様から受けた愛を流さなければなりません。「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」(Tペテロ4:8)人を愛することによって律法が全うされるのです。


ヨハネ 8:1〜11 

8:1 イエスはオリーブ山に行かれた。

8:2 そして、朝早く、イエスはもう一度宮にはいられた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。

8:3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、

8:4 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。

8:5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」

8:6 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。

8:7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」

8:8 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。

8:9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。

8:10 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」

8:11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」〕






7月10日 祈って失望しないこと 

ルカ 18:1〜8

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 私たちは祈っても答えがなかったりするとすぐ失望してしまいます。失望は霊的風邪のようなものです。

しかし、これを軽く見てはいけません。失望をよくおさめなければなりません。イエス様はいつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、ひとりのやもめのたとえを話されました。神を恐れず人を人とも思わない裁判官の所にやもめが来ては「私の相手をさばいて、私を守ってください。」と叫び続けました。裁判官は「うるさくてしかたがないからこの女のために裁判をしてやることにしよう。」と言いました。このように夜昼神を呼び求めて祈る時、祈りは必ず答えられます。

1.失望しないで祈るためには、神様の約束を握って祈ることです。

 神様は真実な方、約束を守る方です。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(ヨハネ15:7)み言葉は神様です。神様のみ言葉が私たちに滞まるためには、み言葉を口ずさまなければなりません。み言葉を目標にして私たちが祈らなければなりません。レーザービームのように一点に集中して祈ることです。私たちの目標をはっきりして、やもめのように「私を守ってください。」と粘り強く祈ることが重要です。

2.不正な裁判官。

 神様は良き神様なのに、どうして不正な裁判官としてここに表現したのでしょうか。それは私たちが祈ってもその祈りが答えられない時、神様が不正な裁判官のように見えるからです。イエス様は私たちの信仰が純粋になることを願っておられます。「人の子が来た時、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」とイエス様は言われました。信仰が純粋になるためには、忍耐という火の中に入らなければなりません。金が純金になるためには、何度も火の中に入れられるのです。「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ1:2〜4)悪魔は私たちの祈りを邪魔するので、神様が不正な裁判官のように見えることがあります。しかし、どんな試練の中にあっても私たちが忍耐すれば完全な信仰の人になります。

3.祈りを放棄してはいけません。

 祈りを絶対あきらめてはいけません。神様の約束を握って、それを目標にして、このやもめのように夜昼放棄しないで祈り続けることです。裁判官がとんなに自分を無視しても、やもめのように粘り強く祈り、叫び続けることです。天国に行って見ると、受取人不明の品物がたくさんあるそうです。私たちが祈ったら神様はすぐ天使に答えを届けさせるのですが、祈った人が答えが来ないと思ってその祈りを放棄してしまうことが多いのです。天使は答えを持ってきても受取人がいないので、、そのまま天国に持って帰るそうです。私たちは祈る時、どんな試練があっても、失望しないで祈り続けると必ず答えが来ます。




ルカ 18:1〜8 

18:1 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。

18:2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。

18:3 その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。

18:4 彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、

18:5 どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。』と言った。」

18:6 主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。

18:7 まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。

18:8 あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」





7月17日 過去からの解放 

第Tテモテ 1:12〜17

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 私たちの生活の中で過去の記憶を思い出すことがあります。これが私たちにいろいろな影響を与えます。 特に罪責感、刑罰意識、呪い意識、被害意識、恐怖などを引き起こします。過去から解放されることは、とても重要です。

1.積極的な悔い改め。

 パウロは神様の前で“私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。私は罪人のかしらです。”と積極的に悔い改めました。自分がどんな者であるかを神様と論じ合いました。「『さあ、来たれ、論じ合おう。』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。』」(イザヤ1:18〜20)“私の罪は緋のように赤いのです。”とこのようにパウロは自分の罪を積極的に言い表しました。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)神様は“罪を聖めた者の罪は、もう思い出さない。”と言われます。これが神様の方法です。しかし、悪魔は私たちに罪責感を与えて、攻撃してきます。そして、過去の悪い記憶を引き起こします。それで慈善事業をしたり、ボランティアをしたりして、その記憶を消そうとするのですが、自分が良いことをしたことによって、今度は人を批判するようになります。これは罪と死のサイクルであり、本当の解決にはなりません。私たちが悔い改める時、イエス様は私たちを赦し、すべてを新しくしてくださって、完全に罪から解放してくださいます。

2.イエス様の赦しを積極的に自分に適応すること。

 悔い改めて罪が赦されたことを、自分に積極的に適応することです。十字架の血潮によって、自分の過去、現在、すべての罪が赦されたのですから、劣等感、挫折感、刑罰意識から解放されなければなりません。私たちが悔い改めると、神様は私たちに永遠の命を与えてくださいます。その永遠の命は消されることはありません。神様は私たちを捨てることはありません。イエス様の手の中に入った人を奪う者はありません。その事実に対して、私たちは自分のセルフイメージを良くすることが大切です。

3.積極的に他の人の罪を赦すこと。

 私たちが神様から赦されたように、私たちも隣人を積極的に赦さなければなりません。イエス様は主の祈りの中で“我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。”と言われました。私たちも積極的に敵を赦し、祝福することが重要です。また、積極的に人をいやし、差別しないで人を祝福することです。アブラハムは神様に出会ってから、主によって名前が変えられました。アブラム(尊い父)からアブラハム(多くの国民の父)へ、またサライ(尊い母)からサラ(多くの国民の母)になりました。祝福されたアブラハムは“誰を祝福しようか。”と積極的に祝福する人を探しました。ある暑い日、アブラハムは天幕の入り口に座って、祝福する人を探していました。すると、3人の旅人を見つけ、喜んで家へ招き入れ、ご馳走を作って彼らを手厚くもてなしました。その時、ひとりの人が「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」(創世記18:10)と言いました。アブラハムはイサクの祝福を頂いたのです。また、ソドムとゴモラがあまりにも堕落しているで、まもなく滅ぼされるという秘密を聞き、ソドムとゴモラのためにアブラハムは積極的にとりなしの祈りをし、ロトを救うことができました。私たちは積極的に悔い改め、積極的に自分を赦し、積極的に隣人を赦さなければなりません。そうすれば、過去から解放されます。





第Tテモテ 1:12〜17 

1:12 私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。

1:13 私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。

1:14 私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。

1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

1:16 しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。

1:17 どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが世々限りなくありますように。アーメン。





7月24日 神様の臨在の栄光を見よ 

出エジプト 14:15〜25

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神の栄光とは神様が神様であることを現わされることであり、また、神様が神であることを知ることです。

1.危機と問題を神様が作られます。

 神様はエジプトのパロ王の心をかたくなにして、パロとその全軍勢がイスラエルのあとを追ってくるようにされました。危機は神様が作られました。このことはエジプトに対して神様が神様であることを現わすためでした。紅海が分かれてイスラエルの人々はそこを渡りました。しかし、エジプトの全軍隊は紅海に入って全部水に流され、滅ぼされました。イスラエルは救われ、エジプトの軍隊は葬られました。神様の計画はこのように目で見ると危機的なことがあります。神様の計画を私たちが全部知ることはできません。パウロに与えられた肉体のとげは、いつもパウロが説教する時に突然倒れたりすることでした。そのことがないようにいつもその願いを神様に頼りながら祈りました。パウロはその弱さの故に強くなりました。神様の栄光は私たちの中で危機的な問題をもってそれを益にし、神の栄光を現わしてくださいます。

2.しっかり立って神様の栄光を見ることです。

 神様の栄光が下ってこないのに私たちが勝手に動くと後で疲れはてて倒れてしまいます。だから神様から力が来るまで私たちはまず座ることです。神様の栄光を見ることです。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしはあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(イザヤ41:10)神様が全能の力をもって私たちを造り、救おうとしてイエス・キリストを贈りました。イエス・キリストの十字架を通して私たちの罪を処分し、呪いから私たちを解放し、永遠の命を与えてくださいました。私たちはそのことをただ信じればいいのです。信じることさえも私たちの力ではできません。だから神様は私たちに聖霊を贈ってくださいました。聖霊によって私たちは神様を信じるようになり、神様の栄光を見るようになります。奇蹟の中の奇蹟は神様のみ言葉が来ることです。神様のみ言葉がアブラハムに来て、アブラハムは100才で奇蹟的に子どもが与えられました。このように私たちが神様の栄光をみるためにまず座ると、上から力が注がれます。イエス様は弟子たちに「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」と言われました。聖霊が私たちの上に臨まれる時、私たちは力を受けます。“力”とは“立つ”ことです。立ってから主の命令が来ました。“前進せよ”“杖を伸ばせ”“エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで”とまず命令が来てから次に従っていけば必ず勝利します。この順番を間違ってはいけません。先に行動を起すと、失敗します。まずしっかり主の栄光を見ることです。


3.神様の栄光は早天に現われました。

 イスラエル人を400年間苦しめたエジプトの全軍勢は紅海で水に流され滅びてしまいました。イスラエルは完全にエジプトから解放されました。人生の問題、苦しみの問題が一挙に解決されたのは早天です。イエス様も早天の祈りをされてから公生涯を勝利に導かれました。あのようなうなじのこわいイスラエルを導くのにモーセはストレスを受けませんでした。なぜなら早天に力を受けたからです。「どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。」(詩篇90:14)モーセの指導力は神様の御座の喜びの力から来ました。詐欺師のヤコブの名前がイスラエルに変わったのも神様の御顔が早天にあったからです。夜明け前の早天の頃、神様の創造が現われるのです。一日の初めの時間を神様に捧げることです。私たちは早天の力を受けて、立ち上り、神様の命令によって動くことです。





出エジプト 14:15〜25 

14:15 主はモーセに仰せられた。「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。

14:16 あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に差し伸ばし、海を分けて、イスラエル人が海の真中のかわいた地を進み行くようにせよ。

14:17 見よ。わたしはエジプト人の心をかたくなにする。彼らがそのあとからはいって来ると、わたしはパロとその全軍勢、戦車と騎兵を通して、わたしの栄光を現わそう。

14:18 パロとその戦車とその騎兵を通して、わたしが栄光を現わすとき、エジプトはわたしが主であることを知るのだ。」

14:19 ついでイスラエルの陣営の前を進んでいた神の使いは、移って、彼らのあとを進んだ。それで、雲の柱は彼らの前から移って、彼らのうしろに立ち、

14:20 エジプトの陣営とイスラエルの陣営との間にはいった。それは真暗な雲であったので、夜を迷い込ませ、一晩中、一方が他方に近づくことはなかった。

14:21 そのとき、モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた。

14:22 そこで、イスラエル人は海の真中のかわいた地を、進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった。

14:23 エジプト人は追いかけて来て、パロの馬も戦車も騎兵も、みな彼らのあとから海の中にはいって行った。

14:24 朝の見張りのころ、主は火と雲の柱のうちからエジプトの陣営を見おろし、エジプトの陣営をかき乱された。

14:25 その戦車の車輪をはずして、進むのを困難にされた。それでエジプト人は言った。「イスラエル人の前から逃げよう。主が彼らのために、エジプトと戦っておられるのだから。」






7月31日 弟子の道 

ルカ 14:26〜27

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 私たちの主は私たちが単純に救われただけで満足されたのではなく、弟子の道を歩むことを願っておられます。弟子は主のみ言葉を心の中にとどめる人であり、またそれを実行する人です。それで実がたくさん結んだら主が栄光を受けられます。それが弟子の道です。

1.弟子の道は利己主義を憎むことです。

 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることはできません。」(本文26節)イエス様は“自分の両親を愛しなさい。”と言われたのに、ここで“憎まない者は”とあるのはなぜでしょうか。それは利己主義的な条件付きの愛のことを言われたのです。利己主義的な愛を憎まないとアガペの愛ができないからです。イエス様は条件を付けない愛で私たちを愛してくださいました。その愛をさまたげ、邪魔するものは利己主義的な愛です。自分の判断で愛するとか、愛さないを決めるのは自己中心的な愛です。それではイエス様の弟子になることはできません。

2.弟子の道は自分の十字架を負うことです。

 十字架には二種類の十字架があります。イエス様は地獄へ行くべき私たちを贖ってくださいました。地獄の苦しみから私たちを救い出してくださいました。地獄は核発電所の核を燃やすように罪を燃やす場所です。そこにサタンが入って力を受けるのです。人間を苦しめれば苦しめる程、サタンは力が増してくるのです。イエス様が私たちをその苦しみから救い出してくださいました。永遠の幸せと祝福の中に私たちを入れてくださいました。だからイエス・キリストの御名の他に救いはありません。大きな愛を受けた私たちが自分の十字架を負うことです。自分の十字架はキリストのために、また教会のために自分を犠牲することが自分の十字架です。「ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。」(コロサイ1:24)神の国を広げるための苦しみが自分の十字架です。

3.弟子の道は赦しを実践する生活です。

 1万タラントのあるしもべが王様の所に連れて来られました。しもべの主人はかわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやりました。ところがそのしもべは出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会いました。彼はその人をつかまえ、首を絞めて“借金を返せ”と言いました。しかし、彼は承知せず、借金を返すまで牢に投げ入れました。この話を聞いた主人は彼を同じように牢に入れました。このように1万タラントの借金を負った私たちは永遠に返すことのできない罪をイエス様によって赦されました。1万タラントとは20万年の労働者の賃金です。イエス様によってたくさんの罪が赦された私たちは周りの人を赦さなければなりません。100デナリとは100日分の労働者の賃金です。「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父もあなたがたに、このようになさるのです。」(マタイ18:35)私たちが牢に入ってしまうのは、私たちが心から私の周りの人を赦さないからです。弟子の道には色々の祝福があります。弟子の道を歩くと、力ある祈りができます。また、主の臨在の栄光を見ることができ、生き生きしたよみがえりの力を体験します。弟子の道を歩きながらいつも喜ぶことができます。自分を迫害する人や悪口雑言を言う人を赦すことができます。どんな時にも“喜び踊りなさい。”と主は言われます。

これらが弟子の祝福であります。





ルカ 14:26〜27 

14:26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。

14:27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。







8月7日 主の愛を悟った者 

第Tヨハネ 4:19

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 使徒パウロ以来偉大な宣教師であるフランシスコ・ザビエルは宣教で大きな業績を残しました。彼がこのように働くことができたのは、イエス・キリストの愛を深く悟ったからです。イエス・キリストを愛することで宣教に励みました。イエス様を愛すること、また隣人を愛することが宣教でした。

1.罪人であった私たちを愛された神様。

 私たちがまだ弱かった時、罪人であった時、敵であった時、神様は先に私たちを愛されました。私たちが罪人であった時、イエス様が私たちのために死んでくださったことにより、神様は私たちに愛を示されました。イエス様は十字架上で「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」と祈られました。これはペテロの罪からイスカリオテ・ユダの罪まで、また、宗教指導者であるポンテオ・ピラト

の罪や十字架にかけられた強盗の罪まで全部含めて赦しました。イエス様の祈りの言葉を受け入れたのは一人の強盗だけでした。多くの人々がイエス様をののしり、悪口を言っていたのです。しかし、赦しの恵みが十字架にかけられた一人の強盗に注がれました。彼はイエス様の愛を悟りました。イエス様は彼に「まことにあなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)と言われました。それで彼は救われました。彼の罪を背負ったイエス様は捨てられ、地獄の火の苦しみを受けられました。イエス様は「わたしは渇く。」と言われ、すべての負債を支払われました。この恵みを信じるものは救われます。信仰も聖霊様が与えてくださいます。聖霊の恵みが私たちにとどまるように、“私をあわれんでください。”“信仰をください。”といつも謙遜に求めなければなりません。

2.「あなたはわたしを愛しますか。」

 イエス様は私たちがアガペの愛で心を尽くし、力を尽くして神様を愛するように願っておられます。イエス様が捕らえられた時、ペテロは「そんな人は知らない。」と言って3度イエス様を否認しました。その後よみがえられたイエス様は落胆しているペテロに現われ、イエス様の愛を回復するために「あなたはわたしを愛しますか。」と三度言われました。「はい、主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存知です。」「わたしの羊を飼いなさい。」(ヨハネ21:15〜17)イエス様のアガペの愛がペテロを回復させ、殉教するまで導かれました。

3.「わたしの羊を飼いなさい。」

 よみがえられたイエス様は初めはペテロに「わたしの小羊を飼いなさい。」と言われ、2回目は「わたしの羊を牧しなさい。」と言われました。また3回目は「わたしの羊を飼いなさい。」と言われました。小さな小羊から大きな羊まで全部飼いなさいということです。イエス様は私が弱い時、敵であった時、私を愛されました。まず私たちが神様の恵みを体験しなければなりません。私が体験したいやしの愛、赦しの愛、祝福の愛、永遠のいのちの愛を人々に与えることができるのです。また人々を飼うことができるのです。その体験したものをもって周りの人たちが異端に落ちないように、また初めて来た人が続けられるように守ることができます。私たちは毎日イエス様の深いアガペの愛の海に入ることができます。赦しを体験することができます。悔い改めて神様のあわれみを受けることができます。愛を悟ってその愛を周りの人々に与えることができます。




第Tヨハネ 4:19 

4:19 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。






8月14日 シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ 

ダニエル 3:18

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 お盆になりました。日本全体がサタンにだまされて死んだ先祖を拝む時期です。先祖に間違ったものを捧げると、たたりがあると言っている時期です。私たちは信仰を学んで信仰の道を歩んでいかなければなりません。

1.信仰は選択です。

 神様は私たちにいのちの道を与えてくださいました。いのちの木の実を取って食べることも善悪の知識の木の実を取って食べることも祝福も呪いも私たちが選ぶことができます。ネブカデネザル王はすべてをまとめるために宗教を利用しました。巨大な像を造ってそれを拝むように命令しました。もし拝まなければ火の燃える炉の中に投げ込むと言いました。しかし、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは、この命令に反対して主の命令に従うことに決めました。信仰は選ぶことです。私たちは両親を愛しています。しかし、両親が偶像を拝むことを強要する時は従うことはできません。私たちは王を愛します。しかし、王の命令が主の命令に反対する時はそれに従うことはできません。


2.信仰は告白です。

 私たちが信じる神様を告白することです。「私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。」(本文17節)信仰告白すると、主が私たちに御言葉を成し遂げるために天使を送ります。告白はとても重要です。イエス・キリストの打たれた傷によっていやされると私たちが信じると、その通りになります。燃える病の炉の中から私たちを救い出します。貧しさの炉の中から救い出されます。「しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」(本文18節)“神様が私たちを救ってくださいます。もし、目で見える形で救ってくださらなくても私たちは偶像を拝みません。”ということです。それはもっとすぐれたよみがえりを得るためにしたのでした。ハ・ヨンジョ牧師先生は歩く総合病院だと言われる程たくさんの病気をかかえておられた先生でした。チョー・ヨンギ先生は彼のことを生きている殉教者だとも言われました。しかし、ハ・ヨンジョ牧師先生は完全ないやしを信じました。今は天に召されて、永遠のいやし、永遠の祝福に入っておられます。だから私たちは信仰告白をしなければなりません。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:10)


3.神様の救い。

 ネブカデネザル王は怒って炉を普通より7倍熱くせよと命じました。3人を連れて来た者たちは、その炎に焼き殺されました。3人は縛られたままで、火の燃える炉の中に落ち込みました。すると、火の中をなわを解かれて歩いている4人の者が見えました。しかも彼らは何も害も受けていません。第4の者の姿は神の子のようでした。4人が火の中で踊っていました。天国での宴会のようでした。その栄光を見たネブカデネザル王は悔い改めました。彼らが自分の命令にそむいたことを感謝しました。私たちが信仰の道をまっすぐに行くと、初め私たちの信仰に対して怒っていた人が後で感謝する日が来ます。その人が救われるからです。ネブカデネザル王は、彼らの宣教に協力し、彼らを栄えさせました。彼らの人生は祝福された人生になりました。魂が恵まれ、すべてに恵まれ、健やかになりました。




ダニエル 3:18 

3:18 しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。





8月21日 みことばと信仰 

ルカ 8:22

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 本文にはぐっすり眠っておられる平安なイエス様とあわてて苦しんでいる弟子たちの姿が見えます。

1.イエス様は永遠に変わらないみことばに信仰を置かれました。

 イエス様は「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。」

(マタイ24:35)と言われました。イエス様は永遠に変わらない父のみことばに信仰を置き、聖霊様の保証によってぐっすり眠ることができました。しかし、弟子たちが移り変わる環境に信仰を置いたので死にそうになりました。二つの山の間にあるガリラヤ湖に突風が吹きおろして来たので、弟子たちは水をかぶって危険になりました。私たちは変わっていく環境に信仰を置いてしまったら、いつも問題が起きてパニックになってしまいます。何が起こっても“神様のみことば通りになる。”と信じると平安で前に進むことができます。

2.悔い改めて祈りました。

 イエス様を眠らせたのは弟子たちがイエス様と話をしなかったからです。祈りとはイエス様との対話です。彼らは近寄って行ってイエス様を起し、「先生。先生。私たちはおぼれて死にそうです。」と言いました。イエス様は起き上がって、風と荒波をしかりつけられました。すると、風も波も治まり、なぎになりました。私たちが祈らなかったことを悔い改めて祈ると、イエス様が私たちの代わりに働いて私たちに平安を与えてくださいます。イエス様は平安の神様です。イエス様が命令すると、すべてなぎになり、平安になります。

3.「あなたの信仰はどこにあるのですか。」

 イエス様はあなたの信仰の有無を聞かれたのではなく“あなたの信仰の場所をどこに置いているのですか。”と聞かれました。弟子たちがパニックになったのは、信仰をみことばに置かないで環境に置いたからです。信仰の創始者であり、完成者であるイエス・キリストに置かなければなりません。イエス様は私たちの罪と呪いのために、この地上に来られて血潮で贖ってくださいました。代価を支払ってくださったのです。私たちは父と和解した結果、神様の子どもとなり、イエス様の花嫁になりました。聖霊を与えてくださって、神様の子どもとなり、ダイナマイトのような力ある賜物を持って生きる者になりました。イエス様の新婦としてイエス様の人格を学んでいくように、イエス様は私たちを毎日導き、教えてくださいます。私たちが毎日悔い改めて変わっていくようにしてくださるのです。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。私の父の家には、住まいがたくさんあります。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所にあなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14:1〜3)とイエス様は言われました。イエス様は私たちを再び迎えに来られます。


4.イエス様のように大胆に命令しなければなりません。

 イエス様は風と荒波とをしかりつけられると、風も波も治まり、なぎになりました。私たちが心の中で信じたことを宣言しなければなりません。ヨシュアはエモリ人と戦いながら時間がたりませんでした。それで、彼は宣言しました。「日よ。ギブオンの上で動くな。月よ。アヤロンの谷で。」すると「民がその敵に復讐するまで、日は動かず、月はとどまった。こうして、日は天のまなかにどとまって、まる一日ほど出て来ることを急がなかった。」(ヨシュア10:12〜13)また「イザヤが主に祈ると、主はアハズの日時計におりた日時計の影を十度あとに戻された。」(Ⅱ列王記20:11)このように宣言することによって天使たちが動くので、奇跡が起こります。死んだ者もよみがえります。イエス・キリストはよみがえりであり、いのちです。私たちは信仰を宣言することが大切です。





ルカ 8:22〜25 

8:22 そのころのある日のこと、イエスは弟子たちといっしょに舟に乗り、「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう。」と言われた。それで弟子たちは舟を出した。

8:23 舟で渡っている間にイエスはぐっすり眠ってしまわれた。ところが突風が湖に吹きおろして来たので、弟子たちは水をかぶって危険になった。

8:24 そこで、彼らは近寄って行ってイエスを起こし、「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです。」と言った。イエスは、起き上がって、風と荒波とをしかりつけられた。すると風も波も治まり、なぎになった。

8:25 イエスは彼らに、「あなたがたの信仰はどこにあるのです。」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」






8月28日 イエス様との願いの一致 

マタイ 8:1〜17

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 「ふたりの者は、仲がよくないのに、いっしょに歩くだろうか。」(アモス3:3)イエス様と私たちの願いが一致しないと私たちは一緒に歩くことはできません。イエス様の願いは十字架を通して私たちにはっきり見せてくださいました。


1.イエス様はいやしの救いを願っておられます。

 ひとりのらい病人がイエス様にひれ伏して「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。」(本文1節)と言いました。イエス様は手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われました。らい病の人は当時汚れた人として人々から扱われていました。彼らは道を歩く時は「私は汚れている。私は汚れている。」と叫ばなければなりませんでした。人々から1.8m以上離れて生活しなければなりませんでした。イエス様はこのようならい病人がいやされることを願っておられます。ある時ひとりの百人隊長がイエス様の所に来て懇願して言いました。「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」イエス様は「行って、直してあげよう。」と積極的ないやしのことばを言われました。またイエス様が異邦人が住んでいる向う岸に危険をおかしながら行こうとされたのも悪霊につかれ、墓に住みついていたふたりを救うためでした。イエス様によって悪霊が追い出され、ふたりは救われました。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)これがイエス様の願いです。


2.私たちもいやしの救いを強く願わなければなりません。

 らい病人はいのちがけでイエス様に近づきました。いやされるためです。百人隊長はイエス様の前に来て懇願しました。このように私たちが熱い願いをもってイエス様の所に行くと、イエス様が私たちをいやしてくださるのです。“あなたの願いは何ですか。”“はい、私はいやされたいのです。目が見えるようになりたいのです。”“あなたの信仰通りになれ。”信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。


3.私も他の人を祝福しなければなりません。

 イエス様の愛の特長は与えることです。自分がいやされたとすれば、いやしを与え、自分が赦されたとすれば、赦しを人に与えることです。与える時、30倍、60倍、100倍祝福されます。「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。」(ガラテヤ6:8〜10)私たちは御霊によって種を蒔く人々です。エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで種を蒔かなければなりません。天国を見て帰って来た人の話では、よく働いている天使たちもいれば、ゆっくり働いている天使たちもいるし、休んでいる天使たちもいるということです。私たちがこの地上でイエス様のことを伝道し、種を蒔く時、天国では家が建てられるのです。しかし、イエス様の名前を恥としてあまり伝えなかった人は天使が天国で家を建てなかったということです。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(Ⅱテモテ4:2)私たちはこの地上で受けた愛を他の人々に与え、祝福しなければなりません。




マタイ 8:1〜17 

8:1 イエスが山から降りて来られると、多くの群衆がイエスに従った。

8:2 すると、ひとりのらい病人がみもとに来て、ひれ伏して言った。「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。」

8:3 イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに彼のらい病はきよめられた。

8:4 イエスは彼に言われた。「気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。ただ、人々へのあかしのために、行って、自分を祭司に見せなさい。そして、モーセの命じた供え物をささげなさい。」

8:5 イエスがカペナウムにはいられると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、

8:6 言った。「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」

8:7 イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」

8:8 しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。

8:9 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」

8:10 イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。

8:11 あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。

8:12 しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」

8:13 それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。

8:14 それから、イエスは、ペテロの家に来られて、ペテロのしゅうとめが熱病で床に着いているのをご覧になった。

8:15 イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。

8:16 夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。

8:17 これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」







9月4日 幸せな人 

申命記 33:29

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 幸せとはいつもあわれみがあって愛があふれ、満ち足りる思いと喜び、平安がある状態です。これは御霊の実です。この世からこの幸せを得ることはできません。神様から離れた人間は、いくら努力しても幸せを得ることはできません。「しあわせなイスラエルよ。だれがあなたのようであろう。主に救われた民。」(本文)幸せという言葉は救いと関連があります。

1.幸せは救われた人々にあります。

  幸せを失った理由は人間がエデンの園から追い出されたからです。エデンの園には幸せがありました。しかし、人間が善悪の知識の木の実をとって食べて罪を犯したので、エデンの園から追い出されました。それからサタンがこの世を支配するようになりました。不幸な者が私たちを支配したので、私たちの心の中はいつもよくない思いがありました。だから私たちはサタンの奴隷から解放してくれる救い主が必要なのです。イエス・キリストを受け入れることが重要です。イエス様を受け入れると、イエス様は私たちに勝利を与えてくださいます。心の中に聖霊様が来られて心の中が義、喜び、平安で満たされます。

2.主が自分の力になっている人は幸せです。

 “主はぶどうの木、私は枝です。”枝だけではなにも実を結ぶことはできません。勝利することはできません。枝はぶどうの木から栄養分をもらって実を結びます。私たちは主から祝福を頂き、主の導きを受けて勝利することができるのです。私たちは自分の努力や力によっては幸せになることはできません。私たちはちりのような存在ですが、主が与えてくださる力によってサファイアにもなるしダイヤモンドのようにもなります。私たちは神様の子どもになるし、イエス様の花嫁になることができます。アブラハムは神様の力によってわずか

318名を連れて4カ国の連合軍を打ち破り、勝利しました。その時、メルキゼデクが現われました。“私の祝福の背景には十字架があったのです。”と告白する人々が聖餐の恵みにあずかるのです。それを受け入れ、“主が私の贖いでした。”と受け入れる人が聖餐を受け入れるのです。アブラハムの勝利の背景にはメルキゼデクの力がありました。幸せは力が主にある人です。

3.幸せは十分の一の信仰にあります。  

 アブラハムはメルキゼデクからパンとぶどう酒の聖餐を受けた後で戦利品の中から十分の一を彼に捧げました。“私の持っているものはすべてあなたのものです。”という信仰が十分の一の信仰です。「すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。」と万軍の主は仰せられる。「彼らは、わたしのものとなる。わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。」

(マラキ3:12と17)事を行なうということはイエス・キリストの再臨のことです。再臨の時にイエス様は盗人のように来られ、宝を持ち去っていかれるのです。私たちが聖餐を受けて“私はすべてあなたのものです。”と告白する人が宝となるのです。あなたの宝のある所にあなたの心があるからです。主は私たちを宝と呼んでくださり、私たちを主の所に引き上げてくださいます。





申命記 33:29 

33:29 しあわせなイスラエルよ。だれがあなたのようであろう。主に救われた民。主はあなたを助ける盾、あなたの勝利の剣。あなたの敵はあなたにへつらい、あなたは彼らの背を踏みつける。」





9月11日 御国の福音 

マタイ 24:14

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「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」(本文)終わりの日まで福音をのべ伝えることは続けるのです。この世の終りまで福音をのべ伝える人と聖霊様は共にいてくださいます。

1.天地の創造主を伝えなければなりません。

 「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:)各種類のすべては目的があって造られました。人間は愛されるために尊い存在として造られました。しかし、進化論の考え方によってこの目的を失ってしまいました。進化論とはすべて偶然にできたという考え方です。アメーバが進化してすべて偶然にできたと言っています。それで簡単に罪を犯したり人を殺したり自殺したりするのです。進化論はサタンのものであり、うそつきのサタンが猿から進化して人間になったと主張しました。今や進化論は科学の進歩によってこれらがうそであることが判明されました。遺伝工学、生命工学など自分たちの理論では説明できないのでSomething Greatという言葉を使っています。しかし、中学、高校の教科書では今なお進化論を教えています。これは霊の戦いです。

2.ひとり子イエス・キリストの福音。

 サタンの誘惑によって人間は罪を犯しました。サタンの支配の中にあった私たちにイエス・キリストを送り、神様が人間となられました。イエス様は100%神様であり、100%人間であられます。イエス様は私たちの罪、呪い、咎を受け取り、葬られ、死なれました。イエス様の神性がイエス・キリストをよみがえらせました。罪がなかったので、私たちを十字架を通してすべての罪をゆるしてくださり、呪いから解放してくださり、永遠のいのちを与えてくださいました。イエス・キリストが死んで葬られ、よみがえり、天に上られ、再び来られます。それでイエス・キリストの千年王国が始まるのです。それが聖書が教えているメッセージです。

3.助け主聖霊様の福音。

 聖霊様は御霊です。聖霊様によらなければ私たちはイエス・キリストを主と告白することはできません。「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてしくださいます。」(ローマ8:16)聖霊様はイエス・キリストを証する力を与えてくださり、私たちをいのちの道に導かれます。福音をのべ伝える人をみ言葉によって守るのです。だから私たちは聖霊に満たされるために油断せずに祈らなければなりません。また、聖霊様は私たちに終わりのことを教えてくださいます。終わりの時代イエス・キリストの再臨はエルサレムでなければなりません。それで主がエルサレムを選びました。「主は、聖なる地で、ユダに割り当て地を分け与え、エルサレムを再び選ばれる。」(ゼカリヤ2:12)エルサレムを奪おうとする国連の動きやアメリカのオバマ大統領の動きに気をつけなければなりません。日本の国連大使がパレスチナに味方する発言をした後で日本に大地震が起こりました。オバマ大統領は1967年の6日戦争以前に戻ってパレスチナに土地を戻さなければならないと演説しました。このことはとても危ない発言です。アメリカに大きな地震が起ると予言されています。エルサレムの祝福を祈る者は祝福されます。私たちはエルサレムが祝福、繁栄されるように祈らなければなりません。




マタイ 24:14 

24:14 この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。





9月18日 イエス様だけを仰ぎ見よ 

ヘブル 12:2

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 ヤーウェ(YHWH)という神様の文字は“手、見よ、釘、見よ”という意味です。すなわちヤーウェ神様の名前は“十字架のイエス・キリストを見よ”という名前です。イエス・キリストの打たれた傷によって私たちを救ったという名前であります。

1.私の目をイエス・キリストに向けることです。

 悔い改め(メタノニア)ということは、方向を変えることです。私たちが自分を見たり、人を見たりして失望し、落胆し、恐れたりする環境を見ないで、私たちを救うために傷を受けられたイエス・キリストを仰ぎ見ることです。瞬間瞬間私たちが自分を見て失望した目をイエス・キリストに向けることがメタノニア(悔い改め)ということです。朝起きた時もイエス・キリストを仰ぎ見、仕事の時にも寝る時にもイエス・キリストを見るのです。夜中に夢を見て目が覚めた時もイエス・キリストを見ることです。このように私たちがいつもイエス・キリストを仰ぎ見ると、神の国が私たちに現れるのです。

2.聖霊の感動で見ることです。

 私たちが悔い改めて主を見ると、聖霊が感動を与えます。信仰の創始者であり、完成者であるイエス・キリストが私たちに信仰を与えてくださいます。イエス様が十字架で苦しみを受けられたのは、すべての私たちの罪を赦し、救うためなのです。罪によってくる呪い、刑罰、永遠の地獄はイエス様の十字架を通して赦されるという信仰が与えられるのです。これは御霊の働きです。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」(ローマ8:1〜2)聖霊の感動を受けると、私たちはイエス様を信じることができます。アブラハムの祝福を受けていることを信じることができます。イエス様の打たれた傷によっていやされたということを信じる信仰が与えられます。このようにして信仰がはっきりと心の中に刻まれていくのです。

3.続けて見るとイエス・キリストの焼き印があらわれます。

 夫婦は一緒に長く住んでいると、顔が似ていくものです。イギリスのリバプール大学の研究チームがこのことを科学的に証明しました。夫婦はお互いに喜び、怒りを同じように表現するので、顔の筋肉が一緒に発達して顔がだんだん似ていくのです。イエス・キリストと教会は花婿と花嫁の関係です。私たちがイエス様の喜びや悲しみを共有していく時、私たちもイエス様の傷あとの焼き印をもつようになります。イエス様が人を赦されたように、私たちも人を赦さなければなりません。ステパノが自分に向かって石を投げる人にひざまずいてイエス様と同じ祈りをしました。「彼らを赦してください。彼らは何をしているのか分らないのです。」私たちもイエス様の焼き印を身に帯びるために祈らなければなりません。イエス様の焼き印を身に帯びている人からは、命と安ぎと幸せを受けます。しかし、その反対の場合にはその人のことで非常に苦しむのです。そこから逃げたいと思ってしまいます。イエス様のように人に仕え、人を祝福する者になるためには、毎日自分の自我を十字架に付け、死ななければなりません。イエス様は私たちの自我を十字架で一緒に釘づけたと言われました。私たちはそれを告白しなければなりません。自我が死ねば主の臨在が大きくなってリバイバルが来ます。人が癒され、祝福されます。イエス様の焼き印とは赦し、愛、喜び、平安、聖さなどの御霊の実であります。私たちがこれらの御霊の実をたくさん結ぶように主の御名によって祝福します。




ヘブル 12:2 

12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。






10月02日 御霊に従いなさい 

ガラテヤ 5:16〜26

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イエス・キリストを救い主として受け入れた時、御霊が来られて私たちは御霊によって導かれるようになります。

1.生まれ変った人の葛藤。

 イエス・キリストを救い主として受け入れた人は水と御霊によって新しく生まれました。自分が主導権を持って生きた人生からイエス・キリストを主とする人生に変りました。私のためにイエス様が十字架にかかって死んでくださったイエス様の愛を知り、今はイエス様を救い主として迎え入れました。イエス様を主として迎え入れた時、悔い改め、聖霊を受けました。それで新しく造られた者となりました。今は聖霊様が主となって聖霊様に支配される者となりました。この世には二種類の人がいます。自分が主となって生きる肉の人がいるし、聖霊様が主となっている霊の人がいます。私たちが聖霊様に従っていく時には肉の行いを押さえることができます。しかし、聖霊様に従わない人は、自分の行いや、努力では打ち勝つことはできません。イスラエル人がカナンの地に入って7部属と戦ったように私たちが御霊に従う時にだけ勝利します。しかし、そうでない時は、負けて肉の欲に支配されてしまうのです。

2.悔い改める生活。

 悔い改めには一生一回だけの悔い改めがあります。イエス様を主として受け入れた時の悔い改めです。その後では御霊が来られて私たちをイエス様に似た姿にして造り変えてくださいます。御霊は私たちに十戒を教え、聖霊の欲求によって生きるようにされます。そのためには、私たちがいつも悔い改めることが必要です。毎日足を洗う悔い改めが必要です。ペテロはイエス様に「決して私の足をお洗いにならないでください。」と言いました。イエス様は「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしの何の関係もありません。」と言われました。汚ない足をイエス様が洗ってくださいます。イエス様にすべてをゆだねることが悔い改めです。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:)私たちは肉の行いをいつも悔い改めなければなりません。「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。」(本文19−21節)悔い改める生活が必要です。

3.御霊に従うこと。

 御霊は私たちを十字架の愛のもとに、また、足を洗ってくださる所に導いてくださいます。悪魔はいつも自分の思い通りに生きるように誘惑します。誘惑に負けて御霊に不従順したら、その後で“おまえのように汚れた者はいない。”と言って悪魔は私たちを攻撃してきます。すると、私たちは否定的になり、主から遠く離れるようになります。私たちは主の前で汚ない足を洗ってもらって、み言葉を心に刻んでもらうように願っていかなければなりません。救われたクリスチャンであっても、「この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ7:25)このような私たちが肉の行いを押さえることができるのは、御霊によるのです。「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。」(ローマ8:)み言葉に集中することが大切です。私に語ってくださる御霊のみ言葉に集中すると、聖霊充満になります。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の天国で完全に満たされるようになります。その力によって私たちは伝道の実を結ぶようになります。人を愛することが伝道の実であります。




ガラテヤ 5:16〜26 

5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

5:17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。

5:18 しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。

5:19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、

5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、

5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。

5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、

5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

5:25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

5:26 互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。






10月09日 まことの信仰 

ヨシュア 3:13〜16

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 全能の神様と有限の人間が交わりをする唯一の道はまことの信仰です。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:)

.まことの信仰は最後まで従順することです。

 ヨシュアは神様から永遠に変わらない約束のみ言葉を頂きました。「全地の主である主の箱をかつぐ祭司たちのあしの裏が、ヨルダン川の水の中にとどまると、ヨルダン川の水は、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになる」(本文13節)契約の箱をかついだ祭司たちは、水の中に入りましたが、しばらくは水は流れていました。しかし、彼らがみ言葉に従順した時、すでに上から流れ下る水はつっ立って、遠い所でせきをなして立ち、流れ下る水は完全にせきとめられました。私たちは見えるところで信仰が止まってはいけません。見える所はどんな所であっても信仰によって立って歩くことです。環境を見て恐れ退くことを神様は喜ばれません。

2.まことの信仰は最後まで祈ることです。

 主はヨシュアに「あなたがたの戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声で時の声をあげなければならない。町の城壁がくずれ落ちたなら、民はおのおのまっすぐ上がって行かなければならない。」(ヨシュア6:2〜5)と言われました。まことの祈りはエリコ城を回ることと同じです。1回2回回って敵に批判され、あざけられても、エリコ城を回ることをやめてはいけません。信仰をもって約束を信じて最後まで回ることです。主の御名を呼ぶ者は救われます。この世の終わりに果たして地上に信仰が見られるだろうかと主は言われます。最後まで信じきっていくことです。7日目7回まわった時、エリコ城はくずれました。これが祈りの生活です。まことの信仰は最後まで放棄しない祈りです。

.まことの信仰は最後まで耐え忍ぶことです。

 エリコ城壁を偵察した二人は、遊女ラハブの家に身を隠しました。ラハブは終末の信仰を持っていました。罪があふれるエリコは必ず滅ぼされると信じました。これが終末信仰です。罪人は滅びるのだけれど、その中でも救われたいと思いました。イスラエルの攻撃から救われたいと思いました。神様の審判から自分だけではなく、家族も全部救われたいという気持ちで赤いひもの契約を偵察者たちと結びました。エリコ城壁の上から眺めて見るイスラエルの様子はただ城の周りを1日1回まわることだけでした。エリコの軍人たちはそれを見てあざ笑いました。これが群集心理となって、エリコの人々はイスラエルの人々をあざ笑いました。ラハブは彼女の父と母、兄弟、また父の家族を全部ラハブの家に集めていたのですが、彼らは自分の家に帰りたいと言い出しました。事業もやらなければならないし、家畜の世話もしなければならないと言い始めました。この時ラハブは家族が家から出ないように断固とした姿勢をとりました。ラハブは批判されながらも、攻撃されながらも最後まで耐え忍びました。私たちもイエス様を信じることによって家族から、また周りから迫害されることがありますが、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。最後のラッパが吹き鳴らされる時、私たちの名前が呼ばれ、私たちは救われます。




ヨシュア 3:13〜16 

3:13 全地の主である主の箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまると、ヨルダン川の水は、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになる。」

3:14 民がヨルダン川を渡るために、天幕を発ったとき、契約の箱をかつぐ祭司たちは民の先頭にいた。

3:15 箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、――ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが――

3:16 上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。






10月16日 深みに漕ぎ出しなさい 

ルカ 5:1〜11

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イエス様は群衆を教えるためにシモン・ペテロの船を選び、その船に乗られました。そしてシモンの船の上で群衆に教えられました。その後彼に「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われました。そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになりました。

.主は命令されます。

 イエス様はシモン・ペテロの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれました。この命令はこの世の中で罪から離れることを言われる言葉です。「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。」(詩篇1:)神様が人を祝福する時は、まず罪から離れるように言われます。アブラハムがロトと別れた後、主はアブラハムに“東西南北を見渡しなさい。あなたが見渡しているこの地全部を永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。"と言われました。私たちがこのように主の命令に従い、深みに漕ぎ出すと聖霊充満になります。足首までとらえられた人は教会に出席するようになります。膝までとらえられた人は膝を折って祈るようになります。腰までとらえられた人は力の源となり、他の所へ行かなくなります。そして、ついにはすべてを主に任せて泳げるほどになります。私たちが深い信仰に入るためには、聖書をたくさん読んで祈ることが重要です。深い海には静けさがあり、大きな魚がそこにはいます。

.主に従順することです。

 イエス様が“行きなさい”と言われれば私たちは行くし、“止まりなさい”と言われれば止まります。そうすると、祝福がついてくるのです。ペテロがイエス様に従順すると、ペテロの網にたくさんの魚が入りました。以前彼は魚をとろうとしましたが、うまくとれませんでした。しかし、彼がイエス様の命令に従順したら、魚の方から喜んで網に入りました。エリヤがやもめの家に行った時、やもめとその子どもは一回分の粉と油で食事をして死のうとしていました。しかし、エリヤはその食べ物を先に自分に持ってくるように言いました。彼女がそのことに従順した時、エリヤを通して言われた主の言葉どおりに、彼女の家のかめの粉は尽きず、つぼの油もなくなりませんでした。彼女は祝福されました。主に従順するとこのような奇跡が起ります。私たちがイエス様に従順すると、いばらとあざみの環境が祝福の環境に変わります。

.本当の自分を発見します。

 ペテロは自分が罪人であることを発見しました。今まではそのことに気がつきませんでした。自分は罪深いものであることを知ることは謙遜であり、祝福です。そのことを通して聖霊に満たされます。イザヤが「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびる汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」(イザヤ6:)と言いました。神様は聖霊の炭火で彼の口を聖めてくださいました。それでイザヤは預言の活動をすることができました。ペテロは「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」(使徒2:38)と言いました。聖霊に触れられてぺテロは人をとる漁師になりました。ペテロに与えられた祝福は人をとる漁師であり、伝道することでした。日本の船は空船です。これを満たすためには聖霊で満たされることです。本当の自分を発見する時、謙遜になります。自分が弱い人であることを発見したら、聖霊様により強い人になります。自分の罪が多いと分ればゆるしを求め、天国の人になります。主は謙遜な人を用いて主の御国の建設をされます。金牧師夫妻は、今まで25年間日本の宣教に情熱を注いできました。あと25年はもっと深みに漕ぎ出して深い信仰の道を歩いていきたいものです。





ルカ 5:1〜11 


5:1 群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、

5:2 岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。

5:3 イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟にのり、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。

5:4 話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。

5:5 するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」

5:6 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。

5:7 そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。

5:8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言った。

5:9 それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。

5:10 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」

5:11 彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。







10月23日 イスラエルの回復の祝福 

ローマ 11:11〜15

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イスラエルは尊い目的を持って生まれた民族であり、国であります。イスラエルは神様の祝福をみんなに          伝えるために選ばれた民です。イスラエルは祝福の通路として全人類の救いのためにメシアであるイエス・キリストを与えることでした。しかし、彼らはイエス・キリストを拒否しました。その結果、救いが異邦人に及びました。

 1.つまずいたイスラエル。

 イスラエルはどうしてつまずいたのでしょうか。それは、イスラエルが福音を信じなかったからです。彼らは伝統を守り、それが救いに至るのだと思っていたのでつまずきました。それで福音は異邦人に伝えられました。初めイエス様はユダヤ人に福音を伝えられ、ユダヤ人は異邦人に福音を伝えました。ペテロ、ステパノ、パウロ、ピリポなどはすべてユダヤ人でした。福音は今、異邦人の祝福となりました。異邦人は祝福を心ゆくまで頂きました。それを見たイスラエルにねたみが引き起こされました。自分たちがもらうはずの永遠のいのち、天国の相続財産、神様を“アバ父”と呼ぶ祝福を全部異邦人がもらったからです。そのねたみにより残り者である異邦人が救われました。

 .回復したイスラエル。

 神様は契約の神様であり、約束の神様です。イスラエルを研究しながら私たちが学ぶことは、契約を必ず守られ、約束を必ず守られる真実な神様だという感動です。2000年間散らされたイスラエルは、自分の土地に戻りました。これは世界で例を見ることができないことです。彼らに対する長い間のカトリックの迫害やその他の迫害にもかかわらず、神様の約束によって彼らは自分の国に戻りました。それで実を結び、世界の光となりました。全世界の人口の約0.2%がユダヤ人ですが、なんとノーベル賞授賞者の全体の

30%をユダヤ人が占めています。これは主が彼らに回復の約束をしておられるからです。主は彼らといつも共におられます。それでイスラエルはエデンの園のような国になりました。

 .イスラエルの回復がもたらした祝福。

 イスラエルが回復されるにつれて全世界の教会がリバイバルされ、祝福されました。1897年シオニズムの会議がありました。それに関連して1900年代に世界で大リバイバルが起きました。1948年イスラエルが独立しました。その時霊的指導者たちがたくさん出てきました。マーティン・ルーサー・キング牧師をはじめ、リバイバル師がたくさん出ました。1967年の6日間戦争の時、エルサレムは完全に回復しました。その結果、アメリカで黒人の人権運動の実が結ばれて、黒人は差別から解放されました。しかし最近、オバマ大統領がイスラエルは1967年の時点に戻らなければならないと言ってからアメリカは今、混乱に陥っています。イスラエルが回復されることによってよみがえりが起ります。よみがえりは異邦人の数が満たされることです。それから全イスラエルが救われます。私たちはイスラエルがねたむほど主と深く交わりをし、イスラエルまで宣教しなければなりません。彼らが本当に求めているものは、すべてイエス・キリストの中にあります。私たちは彼らがねたむほど霊的に祝福され、それが彼らのねたみとなって、彼らがイエス・キリストに帰ってくるようにしなければなりません。これが宣教です。




ローマ 11:11〜15 


11:11 では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。

11:12 もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。

11:13 そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。

11:14 そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。

11:15 もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。







10月30日 ユダヤ人の結婚式と再臨 

ヨハネ 14:1〜3

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ユダヤ人を知れば知るほどイエス様の真理がもっと明白になってきます。ユダヤ人の結婚の風習は、イエス・キリストの初臨と再臨について明白に教えてくれます。

1.婚約はイエス様の初臨を意味します。

 結婚を願う男性が花嫁の家に来ます。たくさんの結納金を払ってその家の娘と結婚するようになります。イエス様もこの地上に来られ、私と結婚するために十字架にかかって代価を払い、買いとってくださいました。ですから私たちは自分の体をもって神の栄光を現わさなければなりません。花嫁の父に結納金を払ったのですから花嫁は花婿のものです。同様に教会はイエス様のものです。杯とぶどう酒をもって“あなたのために命をかけますので、この杯を受け取ってくださいますか?私を受け入れてくださいますか?”とイエス様が私にプロポーズされます。これが聖餐式です。イエス様が十字架の上で血を流して私を買いとってくださったのですから私はイエス様のものです。花婿は家に帰ります。住まいができたら迎えに来ますと約束します。このことを信じていくことです。花婿であるイエス様は花婿を覚えるように聖霊様を送ってくださいました。婚約の期間は1年〜2年位です。その間私たちはお互いの愛を確認し、純潔を守り、忍耐することが必要です。

.結婚式は再臨を意味します。

 結婚式の日にちは父親だけが知っています。他の誰も知りません。準備ができたと思ったら父親は花婿に“花嫁を連れてきなさい。”と言うのです。夜中に花婿は角笛を吹きならして“花婿が来た。迎えに出よ。”と言います。夜中ですのでともしびが必要です。ともしびの油は1回入れると15分しかもたないので

たくさんの油を備えなければなりません。婚礼の宴会は7日間続きます。

.花嫁の準備。

 私たち花嫁はどのように準備したらいいでしょうか。イエス様は「あなたがたは心を騒がしてはなりません。」と言われました。サタンの誘惑が強くなり、“イエス様はもう戻って来ない。もう終わりだ。”とうそをつきます。その時私たちはイエス様を愛し、信じることが大切です。愛によって働く信仰です。イエス様のことを聞くと以前は感動したのにどうして今は感動がないのかと言うと、心の中に不純物が入ったからです。この世に中毒になったからです。中毒になると、頭の中で正常に快感を受ける部分が遮断されて異常な部分から快感を得ようとするのです。そうなると神様の恵みを感じなくなります。フラー神学校の心理学教授であるArchival.D.Hart博士がそれを発見しました。だからイエス様の花嫁として、イエス様にふさわしい思いをすることが大切です。人を憎んだり、審判する思いを持っていたり、ねたんだりしたらすぐ悔い改めることです。悔い改めは聖霊様の最高の恵みです。イエス様のようになることが目標です。悔い改めは花嫁の化粧です。また、イエス様が私たちを捨てることはなく、必ず迎えに来られることを信じなければなりません。いつ来られるかという日にちに関心を持ってはいけません。どんな状況の中にあっても主は私たちを守り、とりなしてくださって、日数を少なくしても私たちを救ってくださいます。私たちはエノクのように引き上げられるか、ステパノのように殉教するか、ノアのようにこの地上で長生きするかは主の主権の中にあります。イエス様は私たちの住まいができたら、私たちを迎えに再び来られます。「あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」(ルカ21:36)私たちは毎日悔い改めて、主の前に立つことができるようにいつも油断せずに祈ることが大切です。また、子どものため、他の人のためにとりなし祈ることが大切です。祈った子どもや伝道しようとする人が、悔い改めて主の前に立つことができるようにすること、これが私たち花嫁がすることです。




ヨハネ 14:1〜3 

14:1 あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。

14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。






11月6日 神を信じなさい 

マルコ 11:20〜25

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 ある日イエス様はエルサレムへ行く途中、いちじくの木を呪いました。翌日の朝早く、いちじくの木が根まで枯れてしまいました。イエス様はそれを見て質問するペテロに「神を信じなさい」と言われました。いちじくの木はイエス様のみ言葉を受け入れない罪を意味します。その罪が枯れてしまいました。罪によって来るのは呪いです。罪の報酬は死です。イエス様は死と呪いを全部根まで枯れてしまうようにされました。罪が消えると、魂が恵まれ、すべてに恵まれ、健やかになります。

.神を信じなさい。

  私たちの罪の問題や罪の根を解決するためには、神様を信じること以外はありません。イエス様を信じると、滅びることなく永遠の命が与えられます。イエス様は私たちが罪のない永遠の父のみもとへ行く道であり、真理であり、いのちなる方です。私たちの罪の問題が解決されるためには、神を信じることです。

私たちに聖霊様が来られて、信仰が湧き上るようにしてくださいます。人々が渇く理由は不信仰によってです。不安、苦しみが来ます。しかし、信じることによって私はたちは満たされます。

.信じるようになる。

 心の奥底から御霊によって信仰が湧き上ります。この山に向かって「動いて、海に入れ」と言って信じ続けることです。主が信じ続けるようにしてくださいます。祈って求めるものは何でもすでに受けたと信じることです。最後まで平安があって、これは必ず成ると信じ続けることは、主が与える信仰です。ですからこの信仰は賜物です。アブラハムは100才で子どもが生まれました。彼は主が子どもを与えられることを信じました。この信仰は主から来るものです。心の奥底から湧き上る水であります。

.信仰の泉を止める危機的な問題。

 信仰を邪魔するものは憎しみや恨みです。私たちの心の奥で信仰と希望が湧き上るようにするポンプの力が愛です。愛によって働く信仰が大事なのです。愛がないと、信仰は湧き上らないのです。愛があればどんなに山が立ちふさがっても、また私たちを苦しめても信じ続けることができます。これがイエス・キリストからくる愛であり、愛の涙です。それで私たちはイエス様を信じ続けることができます。この愛は消えることはありません。天国の法則では、愛は与えれば与える程、増え続けます。「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」(ルカ6:38)愛は与えるものだということを忘れないで与え続けることです。与えると、愛は益々強くなっていきます。今度この教会に来られたJP宣教チームの金ムヨル執事さんは人間的にみると、超人的な力をもって働らかれました。滞在中の三日間はほとんど休みもなく、人をいやし続け、説教し続けられました。その力がどこから来たかというと、日本に対するイエス様の愛の涙を見たからです。それが彼の力となったのでした。私たちもイエス様の愛の涙を求め続け、イエス様の愛を人々に伝えていきましょう。



マルコ 11:20〜25 

11:20 朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。

11:21 ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」

11:22 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。

11:23 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。

11:24 だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。

11:25 また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」






11月20日 まず神の国とその義とを求めなさい 

マタイ 6:29〜34

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人間は神様の形に造られた永遠の存在です。私たちが神様の御国に行くか、または地獄に行くかこの二つの中で一つを選ばなければなりません。私たちは罪を犯したので永遠の地獄に行くべき者でした。しかし、イエス様が身代わりとなって死んでくださったことを信じることにより、永遠の神様の御国に入ることができました。

.神の国とその義とを第一に求めなさい。

 私たちは永遠に変わらないものを第一に求めるべきです。一次的なものを先に求めることは知恵のないことです。なぜならそれはなくなってしまうものだからです。永遠の救いであるイエス様が私たちのためにこの地上に来てくださって、身代わりに死んでくださったことは恵みです。私たちはその恵みを信じる信仰によって救われるのです。神様の恵みを信じるとそれを神の義と認めてくださるのです。十字架の愛が御霊によって私に注がれ、私は聖さを愛するようになります。イエス様に似ていきたいと思うようになります。そのようにして神様の国が私に臨みます。私に臨んでくださった神様の国は契約です。イエス様との愛の契約です。

.神の国が皆に臨むように祈らなければなりません。

 神の国は一つの所にとどまるのではなく、動きます。神の国はイエス様から弟子へと伝わり、エルサレム、ユダ、サマリヤから地の果てまで広がっていきます。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)この愛が私にだけとどまるのではなく、家族、親戚、国が救われるように祈らなければなりません。

.神の国と共にすべてが与えられます。

 「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(本文33節)神様は御国のためにこの世に必要なものを豊かに満たしてくださる方です。「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」(ルカ6:38)とイエス様は言われます。神の国のために与える人を神様は豊かに祝福してくださいます。私たちはこの日本で神様から祝福を受けているのですから、神の国を広げなければなりません。



マタイ 6:29〜34 

6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。

6:30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。

6:31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。

6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。

6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

6:34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。






11月27日 カインとアベルのいけにえ 

創世記 4:2〜10

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カインとアベルはアダムの息子たちでした。同じ環境、同じ教育の中で学んだ人々なのに、一人は殺人者、もう一人は殉教者になりました。何がそのように分かれたのでしょうか。職業のせいでしょうか。性格の違いでしょうか。それは神様に捧げたいけにえの違いでした。

1.カインのいけにえ。

 アダムとエバの罪によって彼らの目が開かれて、いつもお互いを批判し始めました。この夫婦は神様の恵みを受けて、羊の皮を着せられました。それは神様から啓示された罪が赦される道でした。カインはこのことを信じなくて無視しました。自分の努力や自分の作った物で神様にいけにえを捧げました。しかし、神様はそれに目を留めませんでした。それでカインは怒りました。アベルのいけにえを神様が受け入れられたのは、罪の赦しの血潮があったからです。カインは嫉妬でアベルを殺しました。今、1年間に20万人のクリスチャンがイスラムの人々によって殉教しています。これはイスラムの人々が礼拝を通して、愛の神様と出会わないからです。

2.アベルのいけにえ。

 アベルのいけにえは信仰のいけにえでした。「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。」(ヘブル11:4)アベルはアダムによって啓示された羊をほふる道を信じました。「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10)と主は言われます。私たちは誰でも罪人です。アベルはそのことを知って、自分ひとりで神様に近づくことができなくて、最良の羊(イエスキリストの血潮)を持って進んでいきました。血を流すことによって、神様に近づきました。そのいけにえによって主の契約が結ばれました。「わたしの聖徒たちをわたしのところに集めよ。いけにえにより、わたしの契約を結んだ者たちを。」(詩篇50:5)イエス・キリストが私の罪、病、呪いを背負ったと信じる人々と主は契約を結びます。この罪を犯したのは、私なのに背負ってくださったのは羊である、イエス・キリストです。そのことが分ると悔いた心、砕かれた心が生じます。“こんな私のために、

ごめんなさい。”という悔いた心、砕かれた心を持っている人々の所に聖霊の愛の油が注がれ、包んであげ、癒してあげるのです。主はアベルとそのいけにえとに目を留められました。

3.アベルの血は叫んでいます。

 カインから殺されたアベルは、悪いことをしたから殺されたのではなくて、敬虔に生きるために、迫害され、殺されました。「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(Ⅱテモテ3:12) 迫害を受けて流された殉教の血は叫んでいます。アベルの血が叫んでセツが生まれ“報復してください。”と叫んでいます。これはサタンに報復することです。“サタンに縛られている兄弟を救ってください。”と言うことです。それでセツが生まれ、ノアが恵みを受けました。アブラハムが生まれました。ステパノの殉教によってパウロが救われました。日本には30万人の殉教の血が流されています。“日本を救ってください。”とアベルの血よりも、もっと大きな叫びがあがっています。「さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。」(ヘブル12:24)イエス様の血潮を信じて“私の罪をゆるし、病をいやし、呪いから解放してください。”と主張しなければなりません。サタンはいつも私たちを殺そうと否定的なことを告発します。しかし、私たちは小羊の血潮を主張しなければなりません。これがアベルのいけにえです。「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」(黙示録12:11)この真理を最後まで宣べ伝えると永遠の命が与えられます。



創世記 4:2〜10 

4:2 彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

4:3 ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。

4:4 また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。

4:5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。

4:6 そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。

4:7 あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」

4:8 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。

4:9 主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」

4:10 そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。






12月4日 イエス様に出会ったザアカイ 

ルカ 19:1〜10

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取税人であるザアカイはイエス様に出会いました。それでザアカイの人生がどのように変わったかを見てみたいと思います。

1.いちじく桑の木に登ったザアカイ。

 イエス様に対する飢えかわきがザアカイを木に登らせたのです。彼の心は罪責感でいっぱいでした。その当時の罪人と言えば遊女であり取税人でした。ザアカイは罪人の中の頭でした。ザアカイという名前は“私は清い。”という意味です。彼の両親は彼が清く生きることを願ってザアカイとつけました。しかし、罪人の頭になってしまった彼には今は清くなる道がありませんでした。彼は孤独で苦しみました。お金や権力があっても周囲の人々から冷たい目で見られ、苦しめられました。彼は心が砕かれて叫びました。彼がいちじくの桑の木に登ったのは好奇心からではありませんでした。彼の魂の飢えかわきの叫びでした。「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。」(詩篇34:18)「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」(詩篇42:1)

.イエス様はザアカイを呼ばれました。

 イエス様は「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうはあなたの家に泊まることにしてあるから。」(本文5節)と言われました。磁石が鉄を引っ張るように、ザアカイの飢えかわきがイエス様を引き付けました。イエス様がエリコを通られたのは、ザアカイに会うためでした。彼を早く祝福するためでした。イエス様の周りには群衆がたくさんいましたが、イエス様はザアカイを呼びました。イエス様は彼の家に泊まると言われました。イエス様の訪れは祝福です。ガテ人オベデ・エドムの家に契約の箱が入りました。ガテ人からゴリヤテが出ました。彼はペリシテ人です。契約の箱が運ばれる時、それが倒れそうになりました。それでウザが手を伸ばしてそれを押さえたため、ウザは不敬の罪で神様に打たれて死にました。神様を恐れた人々は誰も契約の箱を自分の家に受け入れようとしませんでした。しかし、罪人の代名詞であるペリシテ人の家がそれを受け入れました。その家に3ヶ月とどまったのですが、主はオベデ・エドムの彼の全家を祝福されました。この話がダビデ王の耳に入り、ダビデ王は積極的に契約の箱をオベデ・エドムの家からダビデの町へ運びました。主が呼んでくださって、主が入ってくださると奇跡が起ります。

.ザアカイの変化の秘密。

 ザアカイは自分が今まで探し求めた幸せがイエス様の中にすべてあることを見つけました。真珠を捜している商人が立派な真珠を見つけて、自分の財産を全部売り払ってそれを買ったように、ザアカイもイエス様を見つけて「私の財産の半分は貧しい人に施します。また、だれからでも私がだまし取った物は、四倍にして返します。」(本文8節)と言いました。イエス様は彼にお金のことは一言も言われなかったのに、自らこのように悔い改め、変化しました。このようにイエス様と出会うと私たちにも変化が起ります。殉教という厳しい所からも信仰を守り通そうということが起ります。もし少しでも自分が犠牲することがあれば、もう教会に行きたくないと思っている人がいれば、その人はイエス様とまだ出会っていないのかもしれません。イエス様と出会った人には祝福があります。聖霊様か私たちの霊に“あなたは神の子どもだ。”と語ってくださいます。聖霊様が私たちに証印を押してくださいます。それで大きな犠牲と殉教的な信仰生活をしながらも、天国に対する確信をもって生きるのです。「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけではなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」(Ⅱテモテ4:7〜8)とパウロは言いました。主は義の栄冠を私のために用意してくださるのだという救いの確信を持つことができるのです。



ルカ 19:1〜10 

19:1 それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。

19:2 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。

19:3 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。

19:4 それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。

19:5 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」

19:6 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。

19:7 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。

19:8 ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」

19:9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。

19:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」






12月11日 上のものを求めなさい 

コロサイ 3:1〜6

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価値観が変わると関心が変わります。求めるものが違ってきます。

 1.なぜ上のものを求めるのでしょうか。

 「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。 そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。」(本文1節)私たちが伝道されて、教会に来て神様のみ言葉と聖書の話を聞く時、よみがえりを体験します。永遠のいのちが与えられ、聖霊によってそれが私たちのものになります。しかし、伝道もできない、聖書も手に入らないような中東地域であるパレスチナやイスラエルでは、イエス様と直接出会った証をするのです。ある人はイスラムの会堂で祈っていた時、イエス様が横に立たれ、感動を受けました。そのような人が5人現れ、彼らは秘かに山に集まって一緒に礼拝を捧げました。その内の二人は見つかって銃殺されました。苦しんでいる人々がイエス様と出会って天国を求めています。私たちはイエス様と出会ってよみがえったから上のものを求めるのです。

.関心の対象が変わります。

 クリスチャンはこの世の関心から天国の関心に変らなければなりません。「あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」(本文2節)この世のものは肉の欲、目の欲、この世の暮らし向きの自慢だけです。この世で成功してもこれらを手に入れるだけです。しかし、私たちクリスチャンは天国で満たされるのです。私たちはイエス・キリストのように神の国ことを思い、関心を変えなければなりません。イエス様はバプテスマのヨハネが政治的な発言をして、イエス様が自分のようにならないので、疑っていました。イエス様は「だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」と言われました。地上にあるものを思うのではなく、天にあるものを思うことです。この悔い改めを通して天国が私たちに臨むのです。イエス様は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と言われました。

.天国が現実にならなければなりません

 天国は私たちクリスチャンの中にあるのです。天国が現実にならなければなりません。現実とは現在の実です。天国は私の生活を動かします。関心の的になることです。ある所でテロが起って家族が犠牲になったとしたら、私たちは飛行機のチケットをとってすぐそこに飛んでいきます。この事件が現実となるのです。このように私たちは天国に愛する方がいらっしゃるのですから天国のことを聞くと、深く関心を持ちます。天国を遠くに感じる人は天国の人ではありません。「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。」(黙示録22:1〜4)天国はいやされ、呪いがなく、ゆるされる所です。パレスチナやイスラエルのユダヤ人たちもイエス様を信じて自分たちを迫害する人々に愛を流しています。これはまさしく天国です。天国は乏しいことがありません。イスラエルの兵士たちによって殺されたパレスチナの家族がイエス様の愛とゆるしに触れられて、温かいスープをイスラエルの兵士たちに持って行きました。初めは受け取らず、迫害した兵士たちでした。続けてスープを持って行くうちについに、彼らもイエス様の愛に感動して20名の兵士たちがイエス様を受け入れたということです。このように天国は今も現実に動いているのです。




コロサイ 3:1〜6 

3:1 こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。

3:2 あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。

3:3 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。

3:4 私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。

3:5 ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。

3:6 このようなことのために、神の怒りが下るのです。






12月18日 終わりの時代の勝利者たち

黙示録 14:1〜16

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今イスラエルでは第3神殿が建てられようとしています。イスラエルは神殿を中心にしていつも動いています。彼らは神殿を建てて旧約のいけにえを捧げるようになると、終わりの7年がカウントダウンになるのです。しかし、反キリストは中間になるといけにえを捧げることを止めます。それで666の時代になり、チップを体に入れて人間を強制的に奴隷化にします。終わりの時代に私たちが勝利者になることが重要です。

.反キリストの独裁と聖徒の苦難。

 反キリストはNWO(新世界秩序)の体制により、宗教、政治権力、経済権力を一つにまとめて一つの政府を築き上げ、そこで独裁者になるのです。その目的は、聖書の神様を排斥することです。プリメーションが中心で邪悪なルシファーの子孫により、人間中心に行動し、バベルの塔を建てるのです。反キリストは666のシステムを作ります。そして、チップを受けていない人々にとって売ることも買うこともできない社会になります。私たちクリスチャンをテロリスト扱いにするようになります。イエス様だけを信じようとする人々をこのように攻撃するようになります。

.終わりの時代の勝利者と失敗者。

 本文に出てくる14万4000人はユダヤ人の伝道者であり、殉教者のことです。「あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って御座と小羊との前に立っていた。」(ヨハネの黙示録7:)と書いてあります。この人々はイエス・キリストに従っていく人々です。小羊が導く所にはどこにでもついていく傷のない童貞であります。彼らは666の世界に反抗して立ちます。殉教します。しかし、その殉教が勝利であります。死んでもよみがえります。しかし、3年半の政治のことで恐れて、それに従った者たちは永遠に苦しみを受けると今日の本文にあります。私たちは勝利を得なければなりません。

.勝利の秘訣。

 “ひとりの御使いがあらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。”(本文6節)福音とはイエス様の十字架、イエス様の死、よみがえりであります。また、聖霊を与えることとイエス様の再臨であります。「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」(マタイ24:14)福音を宣べ伝える人々によって世界が終わります。福音を持っている人がヒストリーメーカーです。サタンではありません。イエス様が再臨されて、来臨の力によって、来臨の輝きによって反キリストを滅ぼしてしまわれます。私たちが福音と共にいくと、イエス様が共におられ、どんな迫害の中にあっても勝利者となります。その人々を助ける、応援部隊を主は最後まで守られます。富の移動、所有は人間にあるものではありません。「銀はわたしのもの。金もわたしのもの。」(ハガイ2:)ヨセフが総理大臣になって祝福されたのは、イスラエルを守るためであったように、主は福音のためにビジネス宣教を祝福されます。主は福音を宣べ伝える人々を守られます。私たちはライフスタイルを変えなければなりません。初代教会のように共同生活をし、勤勉で節約してぜいたくしないことです。自分のためにお金を儲けようとする人は滅びます。私たちはすべて満ち足りる思いをして、主の御国のために用いられる人にならなければなりません。



黙示録 14:1〜16  

14:1 また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた。また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった。

14:2 私は天からの声を聞いた。大水の音のようで、また、激しい雷鳴のようであった。また、私の聞いたその声は、立琴をひく人々が立琴をかき鳴らしている音のようでもあった。

14:3 彼らは、御座の前と、四つの生き物および長老たちの前とで、新しい歌を歌った。しかし地上から贖われた十四万四千人のほかには、だれもこの歌を学ぶことができなかった。

14:4 彼らは女によって汚されたことのない人々である。彼らは童貞なのである。彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く。彼らは、神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである。

14:5 彼らの口には偽りがなかった。彼らは傷のない者である。

14:6 また私は、もうひとりの御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は、地上に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。

14:7 彼は大声で言った。「神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。」

14:8 また、第二の、別の御使いが続いてやって来て、言った。「大バビロンは倒れた。倒れた。激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。」

14:9 また、第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った。「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、

14:10 そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。

14:11 そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。

14:12 神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐はここにある。」

14:13 また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行ないは彼らについて行くからである。」

14:14 また、私は見た。見よ。白い雲が起こり、その雲に人の子のような方が乗っておられた。頭には金の冠をかぶり、手には鋭いかまを持っておられた。

14:15 すると、もうひとりの御使いが聖所から出て来て、雲に乗っておられる方に向かって大声で叫んだ。「かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから。」

14:16 そこで、雲に乗っておられる方が、地にかまを入れると地は刈り取られた。






12月25日 東方の博士のクリスマス

マタイ 2:1〜12

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東方の博士たちはユダヤ人から影響を受けてメシヤの星が現れるという信仰を持ちました。「ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみと、すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く。」(民数記24:17)それで彼らは不思議な星に従って行きました。彼らはイエス・キリストが誕生された所に来て礼拝を捧げました。イエス様が誕生されることと、再び来られることが聖書にはたくさん預言されています。私たちももうすぐ再臨されるイエス様を礼拝することができるように、東方の博士から学びたいと思います。

.東方の博士たちは行動ある信仰の人々でした。

 東方の博士たちはユダヤ人たちから星の福音を聞いて、期待しながら星に導かれました。アブラハムは神様の御言葉に従って自分の家から出発したように、東方の博士たちは星に従って歩みました。これは死の危険、強盗に襲われる危険がある旅路でした。しかし彼らは星に従って歩いて行きました。このように礼拝するためには、犠牲が伴うものです。イエス様も天の御座を捨ててこの世に来られました。十字架で死なれるためでした。いばらの冠をかぶらされ、両手両足に大きな釘を打たれ、むち打たれ、やりで脇腹を刺されました。イエス様の犠牲を通して、イエス様は私たちにいやしと赦しを与えてくださいました。このように礼拝は犠牲なくしては成り立たないのです。

.東方の博士たちは供え物を準備しました。

 その当時は紙幣がなく、物々交換の時代でしたので東方の博士たちは一番高価で価値ある黄金、乳香、没薬を贈り物として幼子イエス様に捧げました。お生まれになったイエス様が王であること、メシヤであることを知って、博士たちはこの方にふさわしい物を心から準備しました。私たちがイエス様の所に行って礼拝するためには、このような心をこめた物を準備することが大切です。東方の博士たちが準備した高価な品々は幼子イエス様がヘロデ王を避けてエジプトに下って生活した時の生活資金になりました。イエス様がヘロデ王が死ぬまでエジプトに長く滞在できたのは、彼らの贈り物があったからでした。イエス様や弟子たちの働きのために多くの女性たちが自分の財産を捧げ、援助しました。「すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ、ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか自分の財産をもって彼らに仕えている大ぜいの女たちもいっしょであった。」(ルカ8:2〜3)「前に、夜イエスの所に来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といしょに亜麻布で巻いた。」(ヨハネ19:39〜40)これらのことは世界中のどこででもこの福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるとイエス様は言われました。

.東方の博士たちが受けた祝福。

 博士たちは飼葉桶に眠っておられたイエス様を礼拝しました。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」(イザヤ9:6)とイザヤは預言しました。東方の博士たちは夢でヘロデの所へ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行きました。このようにイエス様に礼拝を捧げると、私たちをしっかり守ってくださり、永遠の目的地である天国へ行くことができます。「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。」(詩篇91:4〜5)地震、放射能の問題、経済的危機があっても私たちは礼拝を通して守られます。星の導きがはっきりしてきます。東方の博士たちは星を見てこの上もなく喜んだとあります。私たちもこのように星に従っていくと楽しいメリークリスマスになります。




マタイ 2:1〜12  

2:1 イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。

2:2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」

2:3 それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。

2:4 そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。

2:5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。

2:6 『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」

2:7 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。

2:8 そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」

2:9 彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。

2:10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。

2:11 そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。

2:12 それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。