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  2009年12月20日  
「生誕の礼拝者たち」    ルカ2:8〜20

 イエス様がこの地上にお産まれになった時、最初の礼拝者たちがいました。マリヤとヨセフ、また星を見てついて来た東方の博士たち、羊飼いたちでありました。礼拝をした人々が特権を受けたように、私たちもこの地上に再び来られるイエス様の永遠の礼拝者になることを求めなければなりません。生誕の礼拝者たちと再臨の礼拝者たちは一緒です。

.イエス様を受け入れた人々が礼拝者になりました。

 マリヤとヨセフはイエス様を受け入れました。もしマリヤとヨセフがイエス・キリストがこの地上に来られるということを受け入れなかったら、この世はどのようになっていたでしょうか。クリスマスのお祝いはなかったと思います。マリヤとヨセフは婚約したばかりで、まだ一緒になっていませんでした。しかし、イエス・キリストが聖霊によってお産まれになりました。アダムの血が混じらない神の子、独り子としてお産まれになるイエス・キリストをマリヤは受け入れました。天使たちの知らせを受けた時「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりにこの身になりますように。」とマリヤは言いました。またヨセフもイエス・キリストを胎内に宿している婚約者のマリヤを受け入れました。受け入れたことによって、マリヤとヨセフはクリスマスの礼拝者となりました。

.約束を喜びとして従った人々のことです。

 東方の博士たちは「ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起り、モアブのこめかみと、すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く。」(民数記24:17)と言うメシヤの預言を信じた天文学者たちでした。彼らは星を研究していましたが、不思議な星が現れるのを見て彼らは星について行きました。彼らは星に従ってエルサレムに来ました。ヘロデの宮殿に入って王様がどこにお産まれになったのかを聞きました。ヘロデ王はびっくりして律法学者や祭司長たちを呼んでつきとめたところ、ベツレヘムでお産まれになったということでした。ヘロデ王は見つけたらすぐ殺そうという下心がありました。星が東方の博士たちを導いてくれました。「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」(マタイ2:10)私たちの行く道を星が照らしてくださいます。星はみ言葉であり、星を照らすのは聖霊の光です。彼らは確信を持ってベツレヘムに行き、幼子イエス・キリストを拝み、黄金、乳香、もつ薬を贈り物として捧げました。

.聖霊の感動にすぐ従順した人々です。

 野原の羊飼いたちはすぐ従順しました。彼らは人間的には知識もなく知恵もなくお金もない人々です。また彼らの生活は単純です。すぐ何かあったら従順しました。ヘロデの宮殿とエルサレムの人々は全部ヘロデに支配されていました。彼らは世の中に支配され、メシヤがお産まれになったと聞いても生活に追われて行くこともできなかったのです。感動を受けた時に単純に従順する生活が必要です。羊飼いたちはすぐ出かけました。イエス様は少しの間だけベツレヘムに滞在されました。なぜなら、ヘロデ王が殺そうとしていることを聞いてエジプトに避難したからです。私たちに聖霊の感動が与えられたら、すぐ従順することが必要です。聖霊の感動が来た時、無視しないですぐ応えると、再び来られるイエス・キリストと空中で会うようになります。

 

  2009年12月13日    「救い主イエス」       使徒4:12

 救いとは人間の完全な絶望的な状況から保護し、救助することを意味します。人間の絶望的な状況を私たちは知らなければなりません。

 

.アダムの堕落と絶望的な状況。

 初め神様はちりで人間を形造って、御霊を注いでくださいました。希望の御霊が共におられたので人間は希望であふれました。アダムは心の中で信仰、希望、愛があふれました。神様は「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:17)と言われました。しかし、このみ言葉に背いた結果、人間に恐れが生じました。劣等感が生じ、高ぶりが出てきて、バベルの塔を造りました。それで互いに殺し合い、絶望的なこの世を造ってしまいました。なにをしても呪いといばらが生えました。そして、サタンがこの世を支配するようになりました。これは永遠の地獄を意味します。このような絶望的な所から救ってくださったのがイエス・キリストです。

 

.救い主イエス。

 イエス様はベツレヘムの飼い葉桶にお産まれになりました。そして、私たちの罪を赦し、私たちを救ってくださるために人間としてこの世に来られました。イエス様は私たちのために十字架にかかって死んでくださいました。私たちのすべての罪を赦し、呪いから解放してくださいました。地獄から救い出してくださいました。「彼(イエス・キリスト)は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」(イザヤ53:5〜6)イエス様は私たちの救い主です。

 

.イエス様の救いは完全な救いです。

 イエス様の救いは部分的な救いではなく、完全な救いです。「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」(第3ヨハネ2節)たましいが恵まれるということは神様と私たちの関係が回復することです。神様の子どもとなり、パパと言えるようになる赦しの関係、信頼の関係、愛の関係となることです。神様が言われることは何でもアーメンと従順することです。そうすると神様のみ言葉が私たちを成功させ、歩むべき道のりを教えてくださいます。このようにして私たちはすべてが恵まれるようになります。すべてが恵まれることによってアブラハムの祝福があります。すなわちアブラハムを通してあらゆる民族が祝福されます。私たちが祝福のパイプとなるのです。その祝福を伝え、健やかになることが完全になることです。神様は宗教的儀式や哲学を教えたのではなく、命を与え、絶望の状況にあった私たちに救い主イエス様を送ってくださいました。魂、体、すべてが健やかであるようにという完全な救いをイエス様は与えてくださいました。



 2009年11月29日    土の器と宝」    Uコリント4:7〜10

 今日の本文に書かれている土の器と宝は、私と神様との関係をよく教えているみ言葉です。このみ言葉をよく悟り実践すると、私たちは勝利の人生を手に入れることがてきます。

.私たちは宝を入れる土の器です。

 イエス様が宝であり、私たちは土の器です。この関係をよく悟り、知ることが謙遜ということです。クリスチャンの最高の徳は謙遜です。神様が測り知れない力を持っておられる宝であり、私は土の器にすぎません。この関係を間違って考えると堕落します。アダムとエバはこの関係を忘れ、命のみ言葉に従順しなかったので堕落してしまいました。神様は“あなたは土の器だよ。あなたの鼻にわたしは聖霊の息を吹き込んだ。”と言われました。それでアダムとエバは神様をいつも仰ぎ見、礼拝しました。その時、彼らの生活はパラダイスでした。いつも計り知れない力を持っておられる神様と共に歩く人になったのです。しかし、彼らはサタンの誘惑に落ちて堕落してしまいました。聖霊様を離れた人間をサタンが支配するようになり、死が訪れました。サウルは初代王としての祝福を受けたにもかかわらず堕落してしまいました。しかし、ダビデは神様にいつも礼拝し、祈り、賛美を捧げていたので、聖霊様が神様との関係を彼に教えてくださいました。「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。」(詩篇18:2)「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」(詩篇23:1)このようにダビデは神様との関係を賛美や祈りを通して悟りました。また聖霊様がその関係をよく教えてくださり、ダビデは大いに祝福されました。

2.宝を持っている私たちはいつも勝利します。

 「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。」(本文8節)私の中に岩である神がおられるからです。私自身は紙一枚のような弱い、こわれやすい土の器にすぎません。しかし、岩なる神にくっついていれば薄っぺらな紙も岩と一体になって強固になります。私たちの中に宝がおられるのです。この宝はダイヤモンド一個分位のものではありません。主ご自身がおられ、また万軍の天使たちが私たちを取り囲んでいるのです。アラムの軍隊がエリシャを取り囲みましたが、エリシャはいつも平安でした。なぜなら彼の目には宝である万軍の主が共におられるし、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちているのが見えたからです。皆さんの周りにもこのような力ある神様が共におられるのであります。

.私たちは私たちの中におられる宝と交わらなければなりません。

 この宝は生きておられ、人格を持っておられる神様です。この方が私の中におられ、私の行く所どこにでも一緒に行かれます。私が食べる時も一緒に食べておられるのです。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼の所にはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(ヨハネの黙示録3:20)私たちは主が共におられるので、主を喜ばせる生活をしなければなりません。そうすると泉のように天国が私から沸き上がるのです。奇蹟の人生になります。私たちがいつもこの世で勝利しながら、土の器が壊れるその日、主が私を永遠の国へ入れてくださいます。これが土の器の中で宝を迎え入れた人の祝福であります。



  2009年11月22日    「聖霊の体験」     ヨハネ16:7〜11

 信仰生活は体験です。体験がない信仰はただ形式的、哲学的、教養的な信仰になってしまいます。私たちが聖霊を体験すると、聖霊によって賛美し、感謝し、祈り、伝道するようになります。聖霊の火に燃えて信仰生活することが大切です。

 

.聖霊様は私たちの中に来られ、信仰を助けてくださいます。

 イエス様を信じる私たちは霊によって新しく生まれました。新生した人を育てるのが聖霊様です。聖霊様は母のように私たちを教育し、イエス・キリストにならっていくように導びかれます。イエス・キリストの姿に似ていく者と私たちを変えてくださいます。聖霊様は私たちを叱ったり、賞賛したり、慰めたり、イエス様の言われたみ言葉を想い起こさせたりしてくださいます。聖霊様はやさしい方であり、人格を持った方です。私たちは従順を決心してその方について行かなければなりません。聖霊様を無視したり不従順すると聖霊様は悲しまれます。

 

.聖霊様は従順する人を通して力を現してくださいます。

 「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。」(使徒1:8)この力は、ギリシャ語でデュナミスと言ってダイナマイトのような力が現われます。聖霊様は私たちに賜物を現わしてくださいます。私たちはただこれを運ぶ人です。私たちが聖霊の感動を受けてこれを運ぶと、聖霊様がいやしや奇跡を現わしてくださいます。私たちは従順することが必要です。従順すれば私たちに聖霊を注ぎ、満たしてくださいます。「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」(エペソ5:18) 私の力は0%になって、聖霊の力が100%になることが聖霊充満です。私たちは聖霊を体験しなければなりません。

 

.聖霊様は罪について、義について、さばきについて認めさせます。

 罪とはイエス様を信じないことです。イエス様は私の罪を赦すために十字架にかかられました。このことを信じないと罪はそのまま残ります。信じると罪が赦され、永遠の命が与えられます。義については神様の前に立つことが義です。神様の前に立つと、信仰、希望、愛が満たされます。しかし、罪を犯したら聖霊様の臨在の光が消えてしまい、真っ暗やみになってしまいます。このようにして聖霊様は私たちに義について認めさせます。さばきはこの世を支配する者がさばかれたことです。サタンはイエス様がよみがえられた時、頭が砕かれました。イエス様がよみがえられたことによって死を打ち砕きました。このことを信じる人々にはサタンは何の力もありません。サタンは後で3年半、力を現わすのですが、それもイエス様の再臨の力によって滅ぼされます。サタンを恐がる必要はありません。イエス様は真の勝利者です。皆さんが聖霊の体験をされますように、主の御名によって祝福します。



  2009年11月15日   「私は誰か」    Tコリント1:1〜3

 私が神様の中にいる時は“私は誰か”という質問に答えることができます。私は神様から造られた者であり、祝福された者です。しかし、神様から離れた人間は投げ捨てられた絶望的な存在でした。どんなに努力してもイエス・キリストが救ってくださらないと希望がない存在でした。

1.神様に呼ばれて救われた私。

 パウロは「神のみこころによって、キリスト・イエスの使徒として召されたパウロ」と本文1節で言っています。彼は自分を召され、救われた存在と思いました。以前彼は自分は完璧で自分の力で何でもできると思った人でした。しかし、それはクリスチャンを迫害する力となりました。イエス様を信じる人々は恵みで救われ、聖霊を受けて顔に輝きがあり、喜びがありました。しかし、パウロは今までずっと努力してきたにもかかわらずその喜びがありませんでした。恵みによって救われる人々を見ると腹が立ち、その人々を迫害しました。しかし、彼は後で自分も罪人であることが分って悔い改め、救われました。そして自分は神様に呼ばれた者であり、救われた者であることが分ったのでした。

.人を祝福する私。

 神様から呼ばれ、救われた理由は人を祝福し、伝道するパイプとなるためです。パウロはいつも手紙の中で「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」と祝福しました。私たちは人を祝福するために呼ばれた者です。神様から愛されて神様とつながっている人が人々を祝福するのです。神様と関係がなく、呪われた思いをする人は絶対人々を祝福しません。神様が私たちをまず愛してくださったという十字架の愛を受けた私たちは人々を祝福し、愛します。人々を祝福するのに最高の祝福は福音を伝えることです。私たちが偏見をもってあんな人は祝福を受けることができないと思ってはいけません。「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。」(ピリピ2:3)私たちは皆救いが必要です。福音を伝えることが一番人を祝福することです。

3.祝福を受け継ぐ者である私。

 「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」(Tペテロ3:9)私たちは敵がいい人だから、その人を祝福するのではありません。「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。」(ローマ12:14)祝福すると敵の毒がぬけて変化をもたらします。私たちが人々を祝福すると、人々が私たちを祝福します。もし、人を呪ったら、その人が私たちを呪ってきます。私たちがある問題を祝福すると、その問題が私たちを苦しめる力を失ってしまいます。私たちの目に見えるすべてを祝福しましょう。特にユダヤ民族を祝福しましょう。ユダヤ民族は神様から選ばれた民族です。アブラハムを祝福する者は祝福されます。私たちはすべての聖徒を祝福します。教会を祝福し、牧師を、両親を祝福しましょう。神様までも祝福する者になって祝福を受け継ぐ者にならなければなりません。



  2009年11月8日    「ビジョン」      イザヤ54:2〜4

 神様が見るように示されたものを見るのがビジョンです。この世の人は自分が見たいものを見ます。しかし、私たちは神様が見せてくださるものを見るのです。これがビジョンです。

.あなたの天幕を広げなさい。

 これは教会の場所、福音の場所を広げなさいと言うことです。イエス様の十字架の福音を広げることです。イエス様の十字架の血潮は私たちの罪を赦します。血潮によって私たちはどんな罪も赦されます。それから“網を長くしなさい。”と言われます。私たちは聖霊充満の天幕を広げなければなりません。イエス様を信じた私たちは聖霊のバプテスマを受けることです。頭だけの信仰ではなく生活の中での体験、力を受ける信仰が必要です。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒1:)証人となる、とは英語でwitnessと言いますが、これは殉教を意味します。どんな試練の中にあっても証し人になることです。私たちが神様からビジョンを頂く時、アブラハムの祝福のビジョンが与えられます。どんな悲惨な中にあっても私たちがアブラハムの祝福のビジョンを頂いたら大丈夫です。“神様は鉄のくいを強固にせよ。”と言われました。鉄のくいは神様との愛の交わりのことです。愛がもっと深くなり、イエス様の御顔を拝見し、イエス様と私たちは夫婦のように一心同体となります。益々神様を愛してもっと強固になることです。

.あなたの幕を惜しみなく張り伸ばしなさい。

 これは神様から受けた十字架の愛をもっと広げ、人々に与えなさいということです。アガペの愛は与える愛です。「与えなさい。そうすれば与えられます。」この教会がチャーチスクールにたくさんのものを与えた結果、若者が増えました。若者のために与えたのでこれからは若者たちが引っ張って行ってくれると思います。ウィストンチャーチルが溺れた時、彼を救った若者がいました。彼を救った若者をチャーチルの父親はその若者に勉強させました。そして医学部を卒業しました。ウィストンチャーチルが首相になった時、彼は急性肺炎にかかりました。そのチャーチルをいやしたのはフレミングでした。ペニンリンを発見してその若者はチャーチルを二回救ったのでした。私たちは人を助けると結局自分を救うことになります。

.あなたは右と左にふえ広がりなさい。

 私たちが広がるためにはビジョンを持つことが必要です。私たちが夢を持ち続けると夢が私たちを引っ張って導くのです。学生は夢がないと勉強しません。事業家は夢がないと堕落します。夢のない国は滅びます。私たちはイエス様によって夢を持つことです。Boys be ambitious in Jesus Christ. イエス様の中で夢を持たない人はすべて野望となって滅びてしまいます。私たちがエルサレムから始まった福音がエルサレムに戻っていく夢を持つこと、また日本人一千万人が救われることの夢を持つことです。私たちには不可能に見えることでも、また谷間の干からびた骨々のように見えるけれども、これが聖霊によって可能になります。



 2009年10月25日  「祈りを教えてください」   ルカ11:1〜13

 弟子たちがイエス様から一番学びたかったのは祈りでした。イエス様は祈られると顔が輝き、喜び、平安であふれました。祈られた後、栄光、威厳、権威が現われるのを弟子たちはいつも見ていました。それで弟子たちはイエス様に「祈りを教えてください。」と頼みました。

.イエス様の祈りの内容。

 それは“主の祈り”です。「父よ。御名があがめられますように。」と私たちは父の名前をあがめる祈りを最初にしなければなりません。以前、私たちにしてくださった良いことを何ひとつ忘れてはいけません。これに感謝して御名をあがめると天国が開かれます。主の御名とは、私のためにむち打たれいやしてくださったいやし主、問題を解決してくださった勝利の主、平安、赦しを与えてくださる主、羊飼いとなってくださる主です。主の血潮によって私たちが栄光の御座に呼ばれ、主の臨在に感謝して祈る時に天国が臨みます。「御国が来ますように。御心が天になるごとく地にもなさせてください。」私たちはいつも御心を祈らなければなりません。天の御心はあと再臨だけです。主の再臨のために私たちは祈らなければなりません。日用の糧は霊、肉、魂の三つの糧があります。私たちは“日用の糧を与えてください。”と毎日祈らなければなりません。祈りの重要な項目は赦しです。私が赦されたように、私も人を赦さなければなりません。南アフリカのマンデラ大統領は何十年も彼を苦しめた人をゆるし、大統領の就任式の日に側近としてその人を迎えました。その結果、人々に感動を与え、たくさんのゆるしが現われました。私たちもこのゆるしの祈りをしなければなりません。「試みに会わないように悪より救い出してください。」と祈ることです。

.祈りの方法。

 真夜中に友だちが急に来ましたが、出してやるパンがありませんでした。それで金持ちの所に行って“パンを三つ貸してくれ”。と頼みました。しかし、彼は“寝ているのでめんどうをかけないでくれ”と答えました。しかし、あくまで頼み続けると彼は起き上がって必要なものを与えてくれました。このように私たちも求め続けることです。環境を見て退いてはいけません。求め続けると神様はみことばを与えて答えてくださいます。パンはみことばです。パンを手に入れたということは、みことばが与えられたということです。神様からの祈りの答えとして三つの答えがあります。@すぐ与える ANO B待ての三つです。私たちが祈り続けると神様はこの3つで答えてくださいます。

.祈る人には最高の最善の最大の物を与えてくださいます。

 それは神ご自身を与えるということです。「天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(本文13節)良き神様は聖霊を与えてくださいます。私たちが聖霊に満たされると、神の栄光が現われます。その時、私たちは人をゆるすことができ、幸せになります。



2009年10月18日  「土地の買戻しの権利」 ヨハネの黙示録5:1〜14

 神様は土地制度を貧しい人々のために作りました。買戻しの権利をつけて土地を売ったり買ったりするようにしました。急に貧しくなって自分の土地を失った人々が永久に失なうことがないように、また親戚かきてその土地を買戻すことができるようにその制度を作りました。

.罪によって土地の主権をサタンに渡したアダム。

 神様は万物を造られ、エデンの園をアダムに与えました。アダムは使用権利を持っていました。エデンの園はアダムの管理下にありました。エデンの園は神様の交わりがあり、豊かさがあり、永遠のいのちがありました。しかし、彼は罪を犯したことにより、この権利をサタンに売り渡してしまいました。それでこの世は呪われ、苦しみがあり、死んでいくものになりました。サタンはこの土地を支配して、死を要求したからです。この土地をどうやって取り戻すか、誰が取り戻すかとヨハネは嘆きました。取り戻す人は一人もいない、義人はいない、ひとりもいない、罪を犯したので誰も取り戻すことができないとヨハネは激しく泣いていました。

.福音。

 泣いてはいけません。イエス・キリストが失ってしまった土地文書を買い戻すことができるのです。イエス様がこの土地を買い戻すために人間となってこの世に来られました。私たちの罪のために十字架にかかり死んでくださいました。「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:5)イエス様はこのようにして私たちが失ったエデンの園の土地を取り戻してくださったのです。イエス様がすべて支払ってくださったので、この土地は正式に私たちのものです。

.土地を取り戻したイエス・キリストを信じてイエス様を享受しなければなりません。

 イエス様は失った土地を買い戻してくださいました。天国は法律的に私のものになりました。これは聖霊様が保証してくださるのです。イスラエルの時代は土地を買った人に保証としてスコップで土を掘り、袋に入れて渡しました。土の匂いを嗅ぎながら私の土地の匂いはこんなものだと思いました。この土地の匂いとして聖霊様が私たちに義、喜び、平安の天国を私たちの心の中に入れてくださいます。私たちは今天国を味わって生活するのです。天国はあっちだこっちだにあるのではなく、私たちの中にあるのです。私たちは取り戻された土地をいつも口ずさまなければなりません。昼も夜も口ずさまなければなりません。イエス様が十字架で支払ってくださった代価を、そして祝福をいつも思わなければなりません。昼も夜も口ずさんで自分が新しくなった姿をイエス・キリストにあって見るべきです。信仰とは望んでいる事がらの保証です。私たちはこのことを信じて告白しなければなりません。ゆるし、いやし、1000倍の祝福を宣言し、告白しなければなりません。否定的な言葉を言ってはいけません。神様の地境を広げましょう。「あなたの口を大きくあけよ。わたしがそれを満たそう。」(詩篇81:10)イエス様が再臨されたら私たちが取り戻したすべてを完成されるのです。イエス様が支払ったにもかかわらずサタンが不法占拠しているのです。イエス様を信じない者たちが占拠しているものをイエス様が再臨されると、私たちはすべて取り戻します。完全に取り戻すまでBack to Jerusalemのビジョンをもって進まなければなりません。



  2009年10月11日   「助け主 聖霊」    ヨハネ14:14〜18

 イエス様の時代の弟子たちにとってはイエス様が助け主でした。しかし、イエス様が十字架にかかって死なれた時、弟子たちはイエス様から捨てられた孤児のように思いました。イエス様は3日目によみがえられ、彼らと40日間一緒に過ごされました。この世を去って行かれましたがイエス様は“これはあなたがたにとって益なのです。” と言われました。なぜなら聖霊が臨まれるからでした。彼らは聖霊をもらうための祈りをした後で聖霊様が来られた時、彼らはイエス様が共におられた時と同じ臨在感を感じました。

.もうひとりの助け主。

 初めの助け主はイエス様であり、霊の形で来られたもうひとりの助け主は聖霊様です。聖霊様はイエス様と同じことをされます。つまり、罪人を赦し、病人をいやし、悪霊を追い出し、よみがえりの主であります。ですからイエス様はきのうも今日もいつまでも変ることはありません。聖霊様は私たちの中におられるので、私たちはイエス様の行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行なうとイエス様は言われました。聖霊様はもうひとりの助け主です。

.助け主聖霊様との交わり。

 聖霊様は愛の御霊です。聖霊様は人格を持っておられるので、私たちと交わりたいと思っておられます。交わりをするためには愛が必要です。イエス様の愛、また十字架の愛は聖霊様によって知ることができます。聖霊様の働きなしでは神様の愛が分りません。聖霊様は私たちにこの愛を注いでくださいます。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)聖霊様によって神様の愛を知ることが重要です。神様の愛を知ると人を赦し、愛することがてきます。自分の力でできるものではありません。聖霊の力、主の栄光の力、赦しの力、愛の力によってできるのであります。ダムを造ったら3年間は水をため続けます。いっぱいになってから水を放流します。これと同じようにまず先に私たちが神様の愛を受けるべきです。愛には恐れがありません。

愛は多くの咎を覆います。

.聖霊様の導きを受ける。

 聖霊様の導きを受けるためには聞く耳を持たなければなりません。聞くためには祈るべきです。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)神様の御前で静まることです。そうすれば神様が私たちに志を立てさせ、行く道を教えてくださいます。聖霊様の願いを私たちの願いとして与えてくださいます。聖霊様の願いは決して消えることがありません。私たちは神様の御前で静まることが重要です。神様の平安が私たちを支配するようにならなければなりません。そのためには、「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6)皆さんが聖霊様と愛の交わりを持ち、聖霊様の御前で静まり、導きを受けられますように主の御名によって祝福します。


2009年10月4日   「アブラハムの信仰」   ローマ4:17〜20

 アブラハムは信仰の先祖です。アブラハムの祝福は信仰によって受けるものです。

.無から有を創造される神様。

 アブラハムの信仰は無から有を創造される神様を信じる信仰でした。死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる神様を信じました。アブラハムは神様から聞く御言葉を信じました。私たちが信仰を持つためには創世記から黙示録までの御言葉を信じることです。その御言葉を聖霊様が私たちに語ってくださいます。神様からの信仰は贈物です。聖霊様が持っておられる信仰です。環境が悪くなってもアブラハムの信仰は弱りませんでした。それどころか益々彼の信仰は強くなりました。聖書を勉強する時、またメッセージを聞く時、いつも聖霊様が私に語られるようにしなければなりません。聖霊様が御言葉を語られる時に、喜びと平安が生じるのです。聖霊が臨まれる時、私たちは力を受けます。聖霊を受けるためには、私たちは祈らなければなりません。マルコの部屋で、弟子達は10日間一生懸命祈った時、聖霊が彼らの上に臨みました。聖霊様が与えられる時、私たちに十字架の愛が注がれます。その愛によって信仰が働くのです。

.信仰が与える祝福。

 アブラハムは目で何も見えないし、何も聞こえないし、何も手で触れることがないにもかかわらず、彼の信仰は弱まりませんでした。彼が100才になり、自分の妻が90才になって女性としてのすべてが終わったにもかかわらず、彼の信仰は益々強くなりました。これは聖霊様の信仰です。アブラハムは心の中で信じたことを口で告白しました。そしてそれは告白した通りになりました。神様が信仰を刻んでくださると、環境と関係なくこころに強い確信が生じるのです。以前神様の信仰を握って“教会に土地を与えてください。”“教育館ができるようにしてください。”“チャーチスクールができますように。”と祈っていたことが今ではすべて私たちの祈りに神様が応えてくださいました。今は“教会にもっと広い駐車場が与えられ、運動場が与えられるように。”と信仰をもって祈り続けているところです。

.信仰通りになるまで記憶しなければなりません。

 @信仰を持った後、必ず試練がきます。試練の時私たちは後ろに退いてはいけません。環境がどんなに悪くても前に進んで信じきることが大切です。私たちは信仰を放棄してはいけません。アブラハムは100才で自分の体が死んだも同然であっても、自分の子どもが生まれるのを見続けました。これが信仰です。

 A環境を恐れてはいけません。

 弟子たちが舟に乗って大波がきた時、イエス様は水の上を歩いて来られました。イエス様がペテロに“来なさい。”と言われた時、彼は水の上を歩きました。しかし、水や風を見て恐れた時、彼はおぼれそうになりました。環境を見てはいけません。信仰の創始者であり、完成者であるイエス様だけを見るべきです。

 Bイエス様が言われることに従順すべきです。イエス様はペテロに“来なさい。”と言われました。従順して一足踏み出すことが重要です。神様は私たちを愛するが故に命令されます。主の命令に従順すれば水の上を歩くことができます。この世ではいろいろな波風がありますが、神様の命令だけに従順していけば私たちも水の上を歩くことができます。



  2009年9月13日 「 マ ラ の 水 」  出エジプト15:22〜26

 マラはヘブル語でにがい、苦しみ、悲しみの意味です。イスラエルの民がエジプトから出て紅海を渡って初めて会った池がマラです。マラの水が甘くなりました。そのことに対して考えたいと思います。

1.神様がマラに導きました。

 イスラエルの民は神様に導かれて歩いたのに、マラに着きました。目的地であるカナンにすぐ入るのではなく、どうして神様はイスラエルの民をマラに導いたのでしょうか。神様はマラを通してイスラエルの民に最高の祝福と幸せを与えようとしておられました。「あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。」(申命記8:16)神様の計画は私たちが幸せになることです。私たちが謙遜になると、祝福を手に入れることができます。苦い経験は私たちを謙遜にさせます。そうするとどこに行っても何があっても感謝する人になります。私たちの苦い体験は私たちを砕いて私たちが神様から祝福を頂き幸せになるためのことです。

.感謝してマラを受け入れることです。

 神様を信じる人と信じない人の違いは不平不満するか、神様に感謝し、祈る人になるかの違いです。神様を信じない人はあなたのせいでこのようになったと相手を指差します。しかし、信じる人はすべてのことについて神様に感謝します。イエス様にもマラがありました。精力的に福音を宣べ伝えられた地域の福音化がうまくいかなかったからです。大人は信じなくてわずか幼子たちが集まってきました。それを見てイエス様は言われました。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵ある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです。父よ。これがみこころにかなったことでした。」(マタイ11:25〜26)このように感謝して受け入れると心の中が平安になります。感謝すると、道が開かれるし、神の救いを見せてくださいます。「感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。」(詩篇50:23)私たちはどんなマラに会ってもこれを感謝して受け入れることが大切です。

.一本の木を入れるとマラは甘くなりました。 

 一本の木とは十字架のことです。十字架はプラスです。私たちはこの世で色々な苦しみに会います。しかし、十字架を信じる者は問題が問題で終わるのではなく、プラスになります。いつもこのことを思うことが大切です。その苦い所にプラスを入れることです。神を愛する者、神のご計画によって召された者はすべてが益になるという信仰を持つことです。罪は義に変わり、病はいやしに、呪いはアブラハムの祝福に変わります。私たちはこの世でマラに会うことがあります。しかし、私たちが十字架を握っていけば解決されます。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(Tコリント1:18)いつもプラスを思い、問題に十字架を入れるとすべての問題は解決されます。



 2009年9月6日    「光り輝く花嫁」   ヨハネの黙示録19:6〜9

 女性は一番美しい時が結婚の時です。愛する花婿のために最善の準備をするからです。イエス様を信じる私たちはイエス様の花嫁です。イエス・キリストの婚礼の時、私たちは光り輝く麻布を着せられます。その麻布とは聖徒たちの正しい行ないであります。(本文8節)

.聖徒の正しい行ないは花婿を選んだことです。

 人生は選択です。自由意志を通して選択し、それに対する責任を負わなければなりません。光り輝く方を選んだら私たちも光り輝くようになります。しかし、悪いもの、私を苦しめるものに出会ったら、私は光りを失ってしまいます。サタンはこうかつで悪い者です。サタンにだまされて私たち人類は光を失ってしまいました。しかし、イエス様が苦しんでいる私たちの所に来られ、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んでくださいました。誰でもイエス様を信じる者は救われ、光り輝く人生になります。マイナスがプラスの人生に変わります。罪人が義人になり、弱い者が愛を受けて強くなります。呪われた人生がアブラハムの祝福を受けた人生に変わります。死がよみがえりに変わります。イエス様を受け入れた人は光り輝く人生になります。

.花婿のために用意をすることです。

 花嫁は花婿のためにすべてを用意します。私たちの心を用意しなければなりません。内なる人を飾る霊的美容は鏡を見て汚ない所を水で洗って聖霊の油をつけることです。旧約は後ろの鏡であり、新約は前の鏡です。鏡を見て自分の汚れた所を見つけ、水で洗うのです。水とはイエス様の脇から出た水と血です。水と血は私たちを聖め、神様に近づかせます。「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰を持って真心から神に近づこうではありませんか。」(ヘブル10:22)とイエス様は言われます。また、私たちは愛、喜び、平安の聖霊の油注ぎを受けます。だから顔が輝き、輝く新婦になります。

.花嫁の正しい行ないは花婿だけを愛することです。

 イエス様の愛は真実な愛です。その愛が不幸になったのはイエス様だけを愛さなかったからです。花婿を愛するけれども他のものも愛するという相対的な愛になってはいけません。初めのイスラエルは選ばれてイエス様の愛を受け入れた花嫁でしたが、偶像を拝んで堕落しました。私たちを救ってくださった花婿であるイエス様は死ぬほど私たちを愛するのに他の偶像を拝んだのです。それでイスラエルはバビロンに捕虜になりました。私たちはイエス様だけを愛することです。そうすれば婚宴に招かれます。純潔とはイエス様だけを愛することです。私たちはイエス様の愛をしたって求めると花嫁は子どもをもうけます。霊的子どもは伝道の実です。教会は霊的産婦人科です。神様の御国に伝道をした人々と一緒に上っていくことができるのです。



 2009年8月30日「ヤコブ・イスラエル・エシュルン」 イザヤ44:1〜2

 神様が一人の人を3つの名前で呼んでくださいました。私たちが救われてから神様は私たちを3つの名前で呼んでおられます。

1.ヤコブ。

 ヤコブは人間的であり利己主義的であり、競争心が強い人です。生まれる時自分が先になろうとして兄エサウのかかとをつかんで出てきました。それでその子をヤコブと名づけました。ずるい気持ちを持っている人です。兄エサウから長子権をエサウの弱点を利用して取り上げました。また父イサクをだまして祝福を奪い取りました。それでヤコブは兄エサウの怒りをのがれるために夜逃げしました。20年間苦しみの生活をしていました。おじラバンの家で苦しみに会った時、また夜逃げをしました。おじラバンの怒りに会い、ヤコブが殺されそうになった時、神様が止めてくださいました。兄エサウはヤコブが帰って来るということを聞いて400人の軍隊を引き連れてやって来ました。ヤコブは四方八方から攻められ生きる望みがありませんでした。自分はヤボク川の向こうにいて、妻や子ども、女奴隷たちは全部川を渡らせました。万一の場合は自分一人だけで逃げようと思っていました。これがヤコブ的な考えです。しかし、最後の逃げる手段であるもものつがいがはずれ、これ以上逃げることができなくなりました。人間的な方法手段に頼ることができなくなりました。

2.イスラエル。

 ヤコブは自分の手段方法を使ってやってみましたが、結局のがれる道が見つかりませんでした。それで彼は神様に祈り続けました。その時みつかいが「あなたの名前は何というのか。」と聞きました。「私はヤコブです。」とヤコブは答えました。「あなたの名前はもはやヤコブではなく、イスラエルだ。神に勝ったのだから。」とみつかいは言いました。これは恵みによって神様に勝ったのであります。人間的な方法、手段を何も持っていない、ただ神様の御手が彼を生かすか、殺すかという神様だけに頼った時ヤコブはイスラエルになりました。その時兄エサウは20年間の復讐心を捨ててヤコブを抱きしめました。私たちが人間的な手段、方法を全部捨てて赤ちゃんのようになると、抱きしめられるのです。これがイスラエルです。

3.エシュルン。

 神様が私の中で生きる状態がエシュルンです。昔の自分に死んで聖霊に満たされて生きることです。エシュルンは義なる者、愛される者という意味です。神様が私の義となってくださり、愛を受ける者にしてくださったのはただ恵みによることです。エシュルンは神様をずっと礼拝し続ける人のことです。エシュルンは祝福されました。「エシュルンよ。神はあなたを助けるために天に乗り、威光のうちに雲に乗られる。昔よりの神は住む家。永遠の腕が下に。あなたの前から敵を追い払い、『根絶やしにせよ。』と命じた。」(申命記33:26〜27)ヤコブのような人間であっても神様が住む家にしてくださいました。私たちが地獄に落ちそうになった時、私たちのためにイエス様が十字架につけられ、よみにくだられました。未来に敵がいてもそれを追い払ってくださいます。上を見ても下を見ても、過去、現在、未来を見てもすべてが恵みです。恵みがエシュルンの祝福です。「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」(エペソ2:6)私たちも恵みの御座に進んで行ってヤコブからイスラエルに、そしてエシュルンと神様から呼ばれるように主の御名によって祝福します。



  2009年8月23日  「幸福感と心の姿勢」    ルカ17:7〜10

 自分で幸せだと感じる人は祝福された人です。幸福感が無くなるのは不満があるからです。また感謝ができないからです。今日は幸福感と心の姿勢について一緒に考えてみたいと思います。

1.イエス様の心。

 イエス様の心はしもべの心です。イエス様は人に仕えられるためではなく、人に仕えるために来られました。イエス様は神様なのにこの世に人間として来られました。そして、イエス様は30才から病気のいやしを始められました。そのようなイエス様に対して人々は感謝するどころか殺そうとしました。イエス様は私たちのために、十字架の食事を用意されました。イエス様の心はこのような時にも幸せを失うことはありませんでした。いつも喜べ、絶えず祈れ、すべてのことに感謝しなさいという心の姿勢を持っておられました。イエス様はどんな時でもしもべの心を持っておられたので、幸福感がくずれることはありませんでした。

2.私たちもイエス様のようにしもべの心の姿勢をとらなければなりません。

 私たちは恵みによって神様の子どもとされる特権を与えられました。(ヨハネ1:12)私たちは天使たちも羨ましいと思っているほどの身分を与えられています。王の王、主の主の息子、娘になりました。しかし、私たちは自らすすんでイエス様のようにしもべになることができます。自らすすんでしもべになるということは、自分の思いは無くなって、神様の心に従うということです。イエス様は「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。」(ヨハネ6:38)と言われました。また「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」(ヨハネ434)と言われました。私たちもイエス様のように主の御心を成し遂げるために祈らなければなりません。“主よ、私の心ではなくあなたの御心のままを成し遂げてください。”と祈らなければなりません。自分の思いが無い人はイエス様の心だけを持つ人になります。しもべには所有権がありません。自分も主人の所有であり、自分の妻も子どもも主人のものです。時間も職場も成功も失敗もすべて主人のものです。そのようにすると心の中の恐れや不安は無くなります。しもべは主にゆだねた人生ですので、まことの平安があります。

3.主人に栄光を帰すしもべは幸せです。

 「しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。」(本文910節)このように、主人に栄光を帰すしもべは幸せです。私たちの主人は神様ですので、言われたことを全部すると偉大なことが起るのです。偉大な業績が起ったりします。パウロは“自分は罪人のかしらです。”と告白しました。しかし、“神様の恵みによって今の私になりました。”と言いました。すべて神様に栄光を帰す人生となりました。パウロは迫害されても心は平安でした。私たちもこのような心の姿勢を持たなければなりません。自分の名前を消したらその代りに主の名前が刻まれます。主の名前は勝利であり、平安です。この名前を持っている人はこの世でも後の世でも幸せを失うことはありません。



    2009年8月16日    「心の中の狐」     雅歌2:15〜17

 雅歌書はソロモンが書いた愛の歌です。単純な男女の愛の歌ではなく、神様との愛の関係を歌ったものです。神様と私たちが交わりを持つ場所は心です。心の中で神様と私たちの愛の花が咲くのですが、それが急に消えてしまうことがあります。それは狐のいたずらがあるからです。この狐は悪霊のことです。

1.否定的な思い。

 否定的な思いが狐です。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来ます。心から口を通して言葉が出ます。そしてそれが行動となり、運命になります。私たちは悪い思いを抱き続け、その思いが進んでいかないようにしなければなりません。「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。」(エペソ4:26)怒ったままにしないことが重要です。悪い思いを捨ててしまわなければなりません。

2.後ろを振り向く狐。

 狐は疑い深い動物なのでいつも後ろを振り向きます。私たちが過去にとらわれてはいけません。「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどとは考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、」(ピリピ3:13)私たちが失敗した過去や悔い改めたものに対してこだわってはいけません。それは忘れなければなりません。私が悔い改めたものに関しては神様は忘れてしまわれるのです。神様が忘れたものを再び思い起すのはいけません。神様は「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」(イザヤ43:25)と言われます。私たちは赦されたものに対して再び思い起してはいけません。

3.暗い穴の中に住んでいる狐。

 暗い穴から狐が出てくることがあります。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」(エレミヤ17:9)私たちの心の中に私たちの分からないものがひそんでいることがあります。私たちがその狐をとるのは難しいです。

4.狐をとるために穴の中に入れる火。

 私の心の中に火が入ることです。つまり聖霊の火がつけられることです。聖霊の火が入るとすべてが見えてくるのです。色々な狐の種類である「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。」(ガラテヤ5:19〜21)そういったものが見えてきて、私たちは悔い改めることができます。この狐を追い出すのは宗教でも哲学でも教育でもできません。聖霊の火によって可能になります。聖霊は私たちに神様を愛する炎を与えてくださり、また人を愛するようにしてくださいます。聖霊の火は心の中で暗やみを追い出し、愛、喜び、平安、御霊の実を結ばせてくださいます。聖霊の火によって喜ぶことは重要です。それで悪魔のすべてのしわざを追い出すことができます。私たちが自制することも御霊の働きによって可能になります。皆さんが心の中の狐を追い出し、御霊の実を結ばれますように、主の御名によって祝福します。

 



2009年8月9日      「恵みと汗」    創世記3:17〜19

神様は6日かかってすべての天地万物を造られ、人間を最後に造られました。そして7日目に神様はすべてのわざを完成されました。そして、すべてのわざを休まれ、安息に入られました。私たちはこのように神様によってすべてが備えられ、恵みの生活をするために造られたのです。しかし、私たちが罪を犯したことによって、汗を流して糧を得なければならなくなりました。エデンの園は恵みの汗、いきがいの汗、祝福の汗はありました。しかし、人間が堕落した結果、呪いの汗を流すようになりました。

.呪いの汗。

神様が造られたエデンの園は一つの家庭です。神様が主権者です。主を礼拝し、主と共に生きる時、秩序が保たれ、平安がありました。しかし、人間が堕落した結果、いばらとあざみが生え、顔に汗を流して糧を得なければならなくなりました。現実の世界は人間の手でどうしようもできない程、戦争、殺人、貧困、自殺などの問題がどんどん深刻になっていっています。

.人間は救い主が必要です。

 人間は自分の力でこのような呪いの所から脱け出すことはできません。救いが必要です。最近アメリカの2人の記者が北朝鮮の偶像や強制収容所の人権問題の取材のために北朝鮮の近辺で働いていました。しかし、北朝鮮に逮捕され、12年の強制労働の刑になりました。恐れと死の地獄の5ヶ月を過しました。北朝鮮からこの2人が救われる道はありませんでした。しかし、クリントン元大統領が飛行機に彼女たちの代価を払うべきものをたくさん積んで、北朝鮮に行き、2人を救いました。そして、彼女たちを飛行機に乗せて無事家族が待っているアメリカへ帰ることができました。同様にイエス様はこの呪われた世界から私たちを救うために、人間となってこの世に来られました。そして、すべての呪いを十字架の上で受けられ、すべての負債を支払ってくださいました。私たちはただ恵みによって救われました。自分の力で呪われた場所から脱け出すことはできません。力強い神様の御手が動いて、代価を払って私たちを救ってくださったのです。恵みをただ信じて乗って行けばいいのです。彼女たちが飛行機に乗って帰るとそこに家族が待っていました。このようにイエス様を信じて救われると、天国に行くことができます。天国に着くと会いたい人に会えるのです。

.汗が出る服を脱がなければなりません。

 「頭には亜麻布のかぶり物をかぶり、腰には亜麻布のももひきをはかなければならない。汗の出るような物を身に着けてはならない。」(エゼキエル44:18)これは律法主義を捨てなさいということです。私たちは恵みによって救われたのです。北朝鮮のような地獄から自力で逃げ出したのではなく、恵みによって救われたのです。ただ私たちは恵みによって救われ、恵みによってエデンの園に置かれているのです。エデンの園は感謝の生活です。問題がある時は素直に“ごめんなさい。”と言い、神様を愛する愛の生活をすることです。神様が救いの道を備えてくださっているのですから、静かに黙って神様についていくことです。真理があなたを自由にします。神様は私たちの過去、現在、未来のすべての罪を赦し、呪いから解放し、貧しさ、死の苦しみから救ってくださったのです。



  2009年8月2日  「ギデオンの献身」     士師記6:12〜26

 イスラエルが偶像崇拝する時には神様は敵の国を強くし、彼らが支配され、苦しみを受けるようにされました。ギデオンの時代もイスラエル人は主の前に悪を行ったので、主は7年の間彼らをミデヤン人の手に渡したので、彼らは苦しみを受けました。彼らは逃げてほら穴に住み、非常に弱くなりました。それで彼らは主に叫びました。神様は農業をやっている平凡なギデオンを選んで彼に力を注ぎ、300人の勇士をもって185000人の敵の軍隊を追い払って勝利しました。今日はギデオンがどのように用いられたかを一緒に考え、私たちも用いられるようにしましょう。

 

.ギデオンは主と出会う体験をしました。

 主の使いがギデオンに現れて「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」と言いました。しかし、ギデオンは「私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです。」と言いました。神様はそんな彼を“勇士よ。”と言われました。なぜなら神様の手が彼をそのように造り変えるからです。私たちが神様に触れられると無価値なものが価値あるものに変わるのです。イエス様の十字架を通して罪が赦され、私の心に聖霊の火がつくからです。神様は偉大な方です。弱い者を造り変えてくださいます。私が弱い時にこそ、私は強いのです。(Uコリント12:10

 

.ギデオンは神様に献身しました。

 神様はギデオンに偶像を壊しなさいと言われました。バアルとアシェラ像を壊しなさい。偶像とは神様以外のものを神様よりもっと愛することです。十字架を通して神様は私たちを死ぬほど愛しておられることを示してくださいました。私を愛してくださった方を愛さないで、別のものをもっと愛したとすれば、それは偶像になります。私たちは主だけを愛するという献身をするべきです。ギデオンは神様に心から献身しました。

 

.ギデオンは最後まで神様だけを頼りました。

 ギデオンがラッパを吹き鳴らすと32000人の人々が集まりました。しかし、神様はその数が多すぎると言われました。数が多いと人々は勝利の後で自分達の数が勝利をもたらしたと誇ります。それで神様は300人まで兵士の数を減らしました。敵は185000人です。敵は海辺の砂のような数です。ギデオンの兵士はわずか300人ですから人々に祈りを要請しました。初代教会にリバイバルが起ったのも祈りがあったからでした。祈る人を通して私たちが弱くても主が用いてくださいます。主を頼ることです。「終わりに兄弟たちよ。私たちのために祈ってください。主のみことばが、あなたがたのところで同じように早く広まり、またあがめられますように。」(Uテサロニケ3:1)“主のため、ギデオンを用いてください。”と祈ったように、私たちも祈って主に頼ると用いられます。



  2009年7月26日   「万事を益としてくださる主」  ローマ8:28

 私たちの人生で良い事も起これば悪い事も起ったりします。私たちクリスチャンは良き神様がおられるのですべて万事が益になります。どんな人に万事が益となるのでしょうか。

.神を愛する人々。

 @神を愛する人は証拠を持っています。愛には証拠があります。神を愛する人々は心の中心が神様にあります。心と体が神様と共にあります。礼拝の時間、私たちが神様の所に行って礼拝したいということが神様を愛することです。この愛は愛する人の側に行くことであります。愛は磁石のように引っ張るので、主が空中におられると私たちは空中に引き上げられるのです。

A愛の特徴は良い事だけを見ます。愛は多くの罪をおおいます。子どもを愛する両親は子どもの行動を大目に見ます。隣人を愛する人は隣人の咎を大目に見ます。神様には失敗はありません。神様が私にされたことで理解できないことがあっても大目に見るのです。すべてが益になります。B相手を喜ばせるために献身的に仕え、奉仕をし、犠牲します。教会のために時間と物質を捧げ、奉仕をします。奉仕をしても疲れがありません。これは愛する人の特徴です。

.神のご計画に従って召された人々。

 神様のご計画は十字架の救いの計画です。十字架は罪の赦しの道です。またいやしの道であり、アブラハムの祝福を与える道であり、永遠のいのちを受ける道です。主の御心を見ているとすべてのマイナスがプラスになるのが分かります。以前私にマイナスのようなことが起こってもそれがプラスに変わったことなど十字架のプラスを見れば分かります。主の御心は聖霊充満です。「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。(エペソ5:18〜19)これが主の御心です。その人を落胆させ、挫折させるものはこの世に存在しません。どんな試練、逆境にあっても、この世のものが私たちを苦しめることはありません。

.すべてを益にしてくださる神様。

 神様は神を愛する人、神のご計画に従っている人を益にしてくださいます。ヨセフは兄弟に憎まれ、いじめられ、ポティファルの家に売られ、さんざん苦しみを受けてました。また奥さんから誘惑され、汚名をかぶり、牢の中に入りました。牢の中でパロの長官の夢を解き明かして夢通りになったにもかかわらず、復職した長官がヨセフを完全に忘れてしまいました。そのようなことがあってもヨセフは神様との交わりがあったので、心の中にしこりがありませんでした。それで兄弟を赦し、自分の人生を新たに解釈することができました。「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」(創世記50:20)すべて自分の苦しみをこのようにプラスに解釈することができました。これが万事を益としてくださる神様を通して自分の人生を見たことなのです。皆さんがどんな環境の中にいても万事を益としてくださる主を体験されますように主の御名によって祝福します。



 2009年7月19日   「健康的な自己愛」   マタイ22:39〜40

 自己愛には2種類あります。間違った自己愛と聖書的な健康的な自己愛です。聖書には「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」と書いてあります。また「夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。」とも言っています。神様は自分を愛することは隣人を愛することだと言われます。では健康的な自己愛とはどのようなことでしようか。

.神様の愛によって愛すること。

 神様は私たちを愛しておられます。私たちが罪人であるにもかかわらず、愛しておられます。「私たちが罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8)。私たちは神様の愛によって自分を愛さなければなりません。神様が私を抱きしめようとする時、それから逃げてはいけません。預言者ホセアはゴメルを愛して罪深いゴメルと結婚しました。これと同じようにイエス様は罪深い私を愛して私と結婚してくださいました。私たちは遊女であるゴメルのような存在です。イエス様が罪を赦してくださることを受け入れることが大切です。ゴメルは3人の子どもを生んでから家を出て行きました。それにもかかわらずホセアはゴメルを探してつれ戻し、愛し続けました。これが神様の愛です。イエス様を3回否認したペテロはこの愛を受け入れました。しかし、イスカリオテ・ユダはこのイエス様の愛を拒否して自殺しました。私たちはイエス様が私たちの罪を赦してくださったことを受け入れなければなりません。

.自分に対する尊敬心を持つこと。

 イエス様を信じる私たちは普通の人ではありません。私たちは宇宙万物を創造された創造主のパートナーであり、イエス様の花嫁です。この健全なプライドを持つことが大切です。ロバート・シュラー先生は「あなたがあなた自身を尊敬しなければ、人もあなたを尊敬しません。」と言われました。私たちが立派なことをするために自分を尊敬しなければなりません。私のためにイエス様は血潮を流してくださったので、私のいのちはイエス様のいのちを持っているのです。私たちはイエス・キリストの価値、永遠のいのちの価値を持っているのです。その価値を発見した人は岩のような人生になります。ペテロがイエス様の赦しと愛を自分の中で発見した時、岩のような堅固な弟子になりました。ヨハネも雷の子と呼ばれた性格が変わって愛の人になりました。イエス様は「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)と言われます。

.すべてを美しく見る目を持つこと。

 神様が私たちを愛してくださったその愛をもって、あなたも私も美しく造られた作品であることを知って、人や自然を愛し、また祝福することができます。ミュージシャンのルイ・アームストロングはタイムズ誌の20世紀を動かした100人の中の1人に選ばれました。彼は黒人であり、少年時代はひどく貧しい生活を強いられました。しかし、イエス様と出会ってからすべてが新しく変わりました。自分を愛する人になりました。彼のヒットソングの中にある“What a wonderful world!”では何とすばらしい世界でしょうと主が造られた世界を愛しました。人に対する愛を知りました。人の成長を見守る愛の人になりました。私たちがこのように愛し合うことがクリスチャンのしるしです。この愛がある人は毎日が感動の世界にいるのです。

 



2009年7月12日「イエス様の平安を得よ」   マルコ4:35〜41

 ガリラヤ湖は急に突風がよく起こる所です。イエス様と弟子たちが乗った小舟は激しい突風が起こった時に、波をかぶって大変な状態になりました。しかし、イエス様は舟の中でぐっすり眠っておられました。環境にゆり動かされないこのイエス様の平安を私たちも今日頂きたいと思います。

.突風の中で平安に眠っておられるイエス様。

 イエス様には二つの力があります。大波を静める力と大波の中でも平安に眠っておられる奇蹟の力です。この平安は創造主の天の安息であります。イエス様が私たちを招いてくださったのは、私たちにこの安息と平安を与えるためです。「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)とイエス様は言われました。これは天地万物を創造された時に来る満足であり、完成から来る平安であります。イエス様は十字架上で“すべて完了した“すべて支払ったと言われました。私たちの救いがすべて完了した時にこの平安があるのです。聖霊様と一緒に歩む平安です。「向こう岸へ渡ろう。」とは御霊の導きでした。それに従う平安です。

.イエス様の平安を得るためにイエス様を起こさなければなりません。

 イエス様を受け入れた私たちはイエス様と一つです。イエス様と私たちは新郎と新婦の関係です。ですから私たちの問題はイエス様の問題になるのです。しかし、弟子たちは同じ舟の中にいても自分たちだけで楽しんでいました。突風が来て死にそうになった時、初めてイエス様に助けを求め、祈りました。弟子たちはイエス様を起こして「私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」と言いました。その時この問題はイエス様と分ち合う問題になりました。私たちが同じ家に住んでいても交わりがないと別居状態になります。私たちがイエス様と交わる方法は祈ることです。自分の事情を正直に言い表わすことです。そうすれば聖霊様が右へ行け、左に行けと導いてくださいます。

.イエス様が平安を命令します

 イエス様は起き上がって風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われました。すると風はやみ、大なぎになりました。私たちがこの世で生活する時、いろいろな波風が起こります。イエス様は私たちの祈りを聞いて起き上がって波風を静めます。私たちの心の中で急に不安が起こったり、ねたみ、嫉妬が起る時、それは悪霊から来るのです。これはイエス様の大能の力によっておさえることができます。「主にあって、その大能の力によって強められなさい。」(エペソ6:10)私たちは主にあって静まることです。イエス様のひと言によって嵐が大なぎになり、平安になりました。私たちがこの世の中で事業や学業をよくしても平安がなければ幸せではありません。どんなに権力があっても平安がない人は幸せな人ではありません。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。」とイエス様は言われました。イエス様と私たちが新郎と新婦の関係を結んで、私たちの事情を正直に吐き出したらイエス様が私たちに平安を命じ、私たちの心の中に平安が生じるのであります。今日皆さんがイエス様の平安を得ることができるように主の御名によって祝福します。



2009年7月5日   「積極的な信仰の力」   マルコ7:24〜30

積極的な信仰には神様の能力が現われます。スロ・フェニキヤ生まれのギリシャ人の女性がイエス様に出会って積極的な信仰を告白しました。その時イエス様は彼女の告白に感動を受け、その積極的な信仰を通して神様の力を現わしてくださいました。

.イエス様に対する積極的な思い。

 その当時ユダヤ人はユダヤ人以外の異邦人とはつきあいませんでした。しかし、この女性はイエス様に対して積極的な思いをしていました。ユダヤでいやしを与え、愛を与えるイエス様を思い出し、イエス様ならきっと悪霊につかれた自分の娘をいやしてくれると思いました。イエス様は神様の計画によってユダヤ人が先に救われること、そしてその後で異邦人に救われることが神様の摂理であることを言われました。イエス様は彼女の要求を断られました。断られても彼女はイエス様のいやし、赦し、永遠のいのちを思い続けました。その結果、彼女の娘の病気はいやされました。

.積極的な信仰。

 一歩イエス様の方に踏み出すことです。ユダヤ人は異邦人を犬と表現しました。彼女の娘を子犬と呼びました。この雰囲気の中で彼女は失望して後ろに退きませんでした。「主よ。その通りです。でも食卓の下の子犬でも子どもたちのパンくずをいただきます。」と言いました。彼女は一歩イエス様の方に前進しました。イエス様は喜びがある時だけ喜びなさいとは言われません。神様の命令は私たちの気持とは違う命令をされます。私たちが積極的に一歩踏み出し従順する時、奇蹟がついてくるのです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。」(Tテサロニケ5:16〜18)条件が合う時だけ祈りなさいと言うことではありません。いつも祈りすべてのことに感謝することです。環境が厳しくても祈る時、奇蹟が後からついてきます。

.積極的な告白。

 私はお腹がすいています。食卓から落ちるパンくずでもいいから必要です。私の家に恵みのパンをください。と彼女はイエス様に積極的に言いました。信仰を告白する時そこに神様がおられます。群れの法則により仲間が仲間を呼びます。カラスはカラスを、雀は雀を呼びます。暴走族は暴走族を呼びます。祈る人は祈る人を呼びます。積極的な信仰告白にはイエス様が共におられます。イエス様は彼女の積極的な告白をとても喜ばれました。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われます。」「わたしは必ずあなたがたに、わたしの耳に告げたそのとおりをしよう。」(民数記14:28)私たちがイエス・キリストを告白し、天国を言うと、その場所にイエス様がおられます。赦しを告白すると赦しの神様がそこにおられます。いやし、永遠のいのちを告白すると、いやし、永遠のいのちの神様がそこにおられます。人は98%が言葉によって支配されます。各器官は私たちの言葉に聞き従います。言葉の器官はすべての神経を支配します。ですから私たちは否定的な言葉ではなく、肯定的な言葉を告白しなければなりません。日本一千万救霊はなります。なぜなら、イエス様が再臨されるための道だからです。日本がリバイバルされるように主の御名によって祝福します。



 2009年6月28日    「神様の栄光のため」   ヨハネ9:1〜13

 イエス様は道の途中で生まれつきの盲人を見られました。弟子たちは彼についてイエス様に質問しました。「先生、彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエス様は「この人が罪を犯したのではなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」と答えられました。苦しんでいる人に対して神のわざがこの人に現れるためだという新しい視点で物事をとらえることを教えてくださいました。

.傷害は神様の栄光を表わすためです。

私に傷があるのは、神様の栄光を現す材料です。私の傷は神様の栄光を現わすマイナスの材料なのです。マイナスの材料であってもそこに上からイエス・キリストを入れるとプラスの材料に変わります。イエス様の目で見るとすべて新しく見えます。神様の目で人を見て、他人と比較しないことです。私が人の目でどんな風に見えても私は大切な存在なのです。私と同じ人間は一人もいません。ですから、人と比べて劣等感で人をねたんだり、高慢になって人を見下したりしないようにしなければなりません。私は神様の良いわざを現わすために、主が造られた神秘的な神様の作品なのです。

.イエス様は傷ついた人を通して神様のみわざを現わされます。

 イエス様は苦しんで傷ついている人を見て“このことは、神様のわざが現われるためである。”と言われました。傷ついた人のために何かをすることは神様の仕事をすることであります。罪のゆえにエデンの園を失い、神様の目を失った人間のためにイエス様が来られて、人間の光になってくださいました。視力を取り戻すことができるようにしてくださいました。イエス様は地面につばきをして、そのつばきで泥を作り、その泥を盲人の目に塗って言われました。「行って、シロアムの池で洗いなさい。」そこで洗うと目がいやされ、見えるようになりました。シロアムとはイエス・キリストの体である教会を意味します。救われた人々が集まる所であり、イエス様の血潮が人をいやし、赦します。また人を新しくするのです。

.いやされた人は神様の栄光を現わす人生になりました。

 いやされた彼を見て人々が言いました。“これはすわって物ごいをしていた人ではないか。あなたの目はどのようにしてあいたのですか。今あなたは喜びであふれ、平安と愛があふれています。”新しく造り変えられた彼を見て人々はこのように言いました。彼はこのように答えました。「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい。』と私に言われました。それで、シロアムに行って洗うと見えるようになりました。」シロアムはイエス様を信じる教会のことです。“教会に行ったらこんなに幸せになりました。”ということです。彼の証を聞いたパリサイ人たちは怒りました。彼は会堂から追い出されましたが、イエス様が彼を見つけ出して祝福し、彼に永遠の命を与えてくださいました。皆さんがイエス様を大胆に証して、神様の栄光を現す人生となりますように、主の御名によって祝福します。




2009年6月14日  
「乏しいことがない生活」  詩篇23:1〜6

 聖書の言う“乏しいことがない生活”とは、満足する生活、幸せな生活を意味します。

これはお金で買うものではなく、神様と人間との関係によって生まれるものです。

 「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」(1節)私たちが人生を神様にゆだねて生きるとかつてアダムとエバがエデンの園で味わったような愛、喜び、平安が心の中に満ち溢れます。私たちが乏しいことがない理由は、主は私の羊飼いだからです。羊飼いがいるので乏しいことがありません。羊飼いである主は、私たちが眠っている間も私たちを守り、満たし、祝福してくださいます。「若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。」(詩篇34:10)イエス様はご自分の栄光の富をもって、私たちの必要をすべて満たしてくださるので、乏しいことはありません。

 「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」(2節)私たちは恐れたり、空腹になったりしたら眠ることができません。しかし、主は私たちを緑の牧場に伏させてくださるので、よく眠ることができます。これが乏しいことがないということです。「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」(3節)

私たちは悪い道をさまよい歩くことがあります。しかし、羊飼いである主は私を生き返らせ、義の道に立たせてくださいます。

 「死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」(4節)主がともにおられるので、私たちはわざわいを恐れません。主の杖で私たちを危ない所に行かないように、導き守ってくださいます。主が私たちといつもともにおられるので、“それが私の慰めです。”と告白することができるのです。

 「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。」(5節)敵が私を攻撃してきて傷ついても、主はその傷ついたところをいやす食事をととのえてくださいます。食事とは神様のみ言葉のことです。イエス様の打たれた傷によって私たちはいやされます。イエス様の流された血潮によって、私たちは赦されます。私たちをアブラハムの祝福で満たしてくださるのだという食事があるのです。み言葉とともに聖霊の油そそぎがあるので、私たちの杯はあふれ、乏しいことがありません。敵が私たちを傷つけた時、それを通して主は私たちに食事を与え、その食事を他の人に配るようにしてくださいます。

 「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」(6節)この世の残りの時間は、いつくしみと恵みが追ってきます。主ご自身がミサイルのように私たちを祝福するまで追ってきます。主の熱心が私たちがさまよい、苦しんでいる時でも、私たちを探し出して永遠の主の家に入れてくださいます。私たちがさまようことがあっても、いつくしみと恵みとが追ってきて、私たちを勝利者にしてくださいます。皆さんが詩篇23篇のように乏しいことがない生活をされますように、主の御名によって祝福します。

 

 2009年6月7日 「出エジプト・荒野・カナン地」Tコリント10:1〜11

 旧約時代はイエス・キリストの模型であります。エジプトから出て荒野を通ってカナンの地に入ることは、私たちイエス様を信じる者がこの世の中で生活しながら天国へ入る模型を示しています。

1.出エジプト。

 イスラエルの民はエジプトで430年間絶望的な奴隷の生活をしました。そこから救われたのは過越しの祭りの事件があったからです。羊の血を門柱とかもいにつけたらすべての災いが過ぎ越しました。これと同じように小羊イエス・キリストを信じる私たちは十字架で流された血潮によってすべての呪いを過ぎ越してくださいます。これは救いの喜びです。私たちは完全にサタンから解放されて救われました。今はエジプトの呪い、病、貧しさ、死は消えてしまいました。この喜びをもって天国に向かって前進することが私たちの信仰生活です。

2.荒野。

 イスラエルの民はエジプトから出てすぐカナンの地に入ったのではありません。同じように私たちもイエス様を信じてからすぐ天国である永遠の御国に入ることではありません。私たちは荒野であるこの世の中で生活しなければなりません。神様は私たちを一人にしないで共に歩いてくださいます。イスラエルの民が雲の柱、火の柱で守られ、また毎日与えられるマナ、荒野での湧き水を与えられたようにイエス様を信じると聖霊が与えられ、私たちを保護し、導いてくださいます。イエス様を信じる私たちはみ言葉が与えられ、み言葉を悟る時、喜びがわき上がります。祈ると岩からわき出る聖霊の水を飲むことができます。砂漠のようなこの世の中で霊的乾きから解放されます。わき水のように私たちから喜びがわき上がります。この喜びが私たちを勝利に導きます。私たちはその喜びの側に立って罪を打ち消すことです。イスラエルの民は偶像崇拝、姦淫、不平不満をしながら滅ぼされました。私たちはこのようなことを全部釘づけて勝利しなければなりません。それらを釘づけて勝利する方法は栄光の喜びです。救いの喜びをもってこれらを打ち消すのです。またすべてのことに感謝するのです。そのことを通して私たちは荒野の生活を勝利することができます。

3.ヨルダン川。

 ヨルダン川は私たちが最後に入る天国の門です。祭司たちが契約の箱をかついでヨルダン川に入っていきました。 するとヨルダン川はせきが立ちました。この契約の箱はイエス・キリストを意味します。イエス・キリストの契約の箱に血を注ぐことによって私たちは天国に入ります。私たちが天国に入るための条件はただひとつ血潮だけです。イエス様の血潮には義、いのち、よみがえりがあります。イエス・キリストを信じる人々は天国に入ります。天国はイエス・キリストの国だからです。イエス・キリストは私たちを自分の所におらせてくれます。「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来てあなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所にあなたがたもおらせるためです。」(ヨハネ14:3)とイエス様は言われました。救いの喜びと天国の喜びを抱くことが荒野の生活に勝利する秘訣であります。私たちはこの荒野で救いの喜び、天国の喜びをもって勝利していかなければなりません。


  2009年5月31日    「主の臨在体験」    箴言4:20〜24

 多くの人々はイエス様に一回会ったら自分は信仰が強くなると思っています。しかし、聖書には「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」と書かれています。肉眼で見る信仰には限界があります。弟子たちがそうでした。彼らはイエス様といつも一緒に行動していましたが、彼らの信仰は弱いものでした。ペテロはイエス様を3回否認しましたし、マルコは裸のまま逃げたりしました。そのような弟子たちが聖霊を体験してからは大胆に福音をのべ伝える者に変わりました。では聖霊を体験するためにはどのようにしたらいいのでしようか。

.み言葉を注意深く聞くことです。

 イエス様はよみがえられて40日間弟子たちの所に現われ、み言葉を教えられました。彼らはそれらのみ言葉を注意深く聞きました。み言葉に集中しました。それでイエス様が天に上られる時、「あなたがたは父からの約束である聖霊を待ち望みなさい。」と言われました。み言葉を握って彼らが祈った結果、ペンテコステの日に聖霊が臨まれ、彼らは聖霊に満たされました。私たちがみ言葉を聞く時、飢えかわきをもって、み言葉を吸い込むように集中して聞くことが大切です。

.み言葉を心の中に保つことです。

 み言葉を心に保つ者は全身が健やかになり、いのちの泉が心からわきあがります。私たちの耳や体を通して入ったみ言葉は私たちの心の中に住むのです。聖霊は私たちの心の中に住んでおられます。心の中でどのようにしてみ言葉が宿るのでしょうか。祈ることによってみ言葉が心に宿るようになるのです。み言葉を祈りながら口ずさむ時、心の中に泉がわきあがります。イエス様がいばらの冠をかぶらせ、両手両足を釘づけにされ、脇腹をやりで刺され、頭の上から足の先まで血潮が流れていることを見てください。そうすれば私たちの頭から足までの否定的な思いが全部消えてしまいます。イエス・キリストの打たれた傷によって私たちはいやされます。私たちは祈る時にイエス様の御名によって祈ります。イエス様の御名は約束です。1つ1つの約束を握ってください。イエス様の打たれた傷によって私たちはいやされ、イエス様のよみがえりによって勝利が与えられ、平安が与えられました。また私たちの羊飼いとなって乏しいことかないようにしてくださいました。イエス様は義なる主であり、私たちと共におられる栄光の主です。

.見い出したみ言葉を告白し、宣言する時、主の臨在を体験します。

 「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:10)私たちが口に出す言葉は霊の言葉です。霊は火です。火は人を熱くします。私たちがみ言葉を告白してイエス・キリストをのべ伝えると、赦し、いやし、祝福、永遠のいのちが火として人につけられます。しかし、否定的な言葉を言うと、自分も死ぬし、それを聞いた人も死んでしまいます。ですから大胆に赦し、祝福、永遠のいのちを宣言してください。聖霊充満を受けることを宣言してください。そうすれば皆さんは主の臨在を体験することができます。



2009年5月24日 「良い子になりましょう」  エペソ6:1〜4

私たちが父なる神様の恵み、また地上の父と母の恵みを知って親孝行すると、この地上で幸せになり、長生きすると言われます。

1.父や母を敬うことは主の戒めです。

 これは道徳ではなく、永遠に変わらない神様の命令です。この命令は絶対命令です。私たちが父、母を敬うことに対して選択の余地はありません。アブラハムがイサクをいけにえとしてほふろうとした時、イサクは素直に従順しました。天には父なる神様が御子イエス・キリストを人間のためにこの地上に送り、死ななければ、この地上に希望がないということを聞いた時、イエス・キリストは十字架で死ぬ決心をしました。このように理解できないことがあっても素直に従順することです。従順する人は祝福されます。しかし、不従順する者に対しては「自分の父をあざけり、母への従順をさげすむ目は谷の烏にえぐりとられ、わしの子に食われる。」(箴言30:17)と言われます。聖書は私たちに親が生きている間、親孝行することを命令します。

2.親の恵みを思い出さなければなりません。

 目に見える親、目に見えない親に対する恵みを感謝する時、私たちは本当に幸せになります。御子イエス・キリストの恵み、聖霊の恵み、私たちを愛してくださった父や母の愛の恵みに感謝しなければなりせん。神様の犠牲的な愛に一番似てる愛が父や母の愛であります。私たちはこの愛を悪く思ってはいけません。日本では偶像崇拝の教えがあって、正月と盆の時、先祖が仏壇の所に戻ってくるということを教え、きれいな水や花を供えないとたたると教えています。自分の子どものために死ぬほど苦労した親がどうして子どもにたたるのですか。悪魔がたたりをもたらすのです。親は自分の子どもにたたったりしません。親が死んでこちらに戻ってくるということはあません。死んで地獄に行った者はこちらにくることはできません。子どもは親が生きている間、親孝行しなければなりません。そして、親が犠牲し、苦労して子どもを育てることを思いださなければなりません。

3.主にあって親孝行しなさい。

 主は十戒の中で他の神々を拝んではならないと言われます。十戒に書かれていることに関して、親が従順せずに子どもを叱ると子どもたちは怒るのです。「父たちよ。あなたがたも子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」(本文4節)と主は言われます。主にあって親孝行することです。親が永遠のいのちを持つようにイエス様を伝えることです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)イエス様が十字架で犠牲して血を流されたことを親が信じると、親は永遠のいのちを得ることができます。本当の親孝行は親が永遠のいのちを持つことができるように、信仰を持つように導くことです。



 2009年5月17日   「良い妻になりましょう」  創世記2:18〜25

 人は生まれて墓に入るまで人の助けを受けて生きるものです。人の助けとは神様からくる助けということです。妻を得た人は助け手を得た人です。神様の助けを得た人は祝福された人です。家庭でお母さんの助けを受ける子どもは神様の助けを受ける子どもでありますし、妻の助けを受けている夫は神様の助けを受けているのです。このように女性は助ける精神を持つように神様から創られたのです。

1.良い妻は信仰を助けます。

 良い妻は夫に神様を良く信じるように信仰を助けてあげます。初めのアダムが堕落したのはエバが間違って助けたからです。女性が男性よりもっと宗教的です。どの宗教を見ても女性の人数の方がが多いのです。女性が堕落すると男性は無批判的に堕落してしまいます。妻は夫を助けて夫がしっかり神様の道を歩むようにしなければなりません。マルティン・ルターは殉教の覚悟で宗教改革ができたことは妻の助けがあってのことでした。韓国のチュギチョル先生が神社参拝に反対して殉教するところまで行けたのも、妻の助けがあったからでした。

.良い妻は精神的な助けとならなければなりません。

 夫が淋しくならないように、いつも側にいて夫についていくことが大切です。安心の安という漢字は家に女がいるということです。家に妻がいることによってその家は平安を得ます。私たちはどこかへ行く時には家にメモを残すべきですし、夫が家に帰りたいと思うような雰囲気を作らなければなりません。夫は家が平安であり、慰めがあれば家に帰りたいと思います。自分の夫をビジョンをもって賞賛すべきです。妻から賞賛される夫は勇気をもらい、どんな環境の中にあっても勝利者となります。批判されると夫は落胆します。毎年3万名以上の人々が自殺しています。それは家に家族がいないし、友人もいなくて誰も自分のことを悲しむ人がいないからです。側で精神的にしっかり助ける人がいれば自殺者はいなくなります。精神的な助けが必要です。

.助けを良くした人は神様から賞賛されます

 最後の審判の時「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。」(マタイ25:21)と助けを良くした人は神様から賞賛されます。私たちはこの最後の時の賞賛の言葉を今、聞くことができます。「その子たちは立ち上がって、彼女を幸いな者と言い、夫も彼女をほめたたえて言う。」(箴言31:28)子どもは立ち上がってお母さんに“私をよく助けてくれました。”と言い、夫も妻を賞賛します。私たちは信仰でしっかり立って人々を助けていかなければなりません。家庭の中で神様が幸せのために助け手を送りました。これが妻であり、母であります。子どもたちの天使は母、夫の天使は妻であります。“私のすばらしい天使だ。”と妻を賞賛する時、妻を創った神様が栄光を受けられるのです。私たちがこの地上で良い助け手となるようにイエス様の御名によって祝福します。


 2009年5月10日  「良い夫になりましょう」     エペソ5:22〜32

 イエス様は教会の花婿、教会はイエス様の花嫁です。私たちはイエス様から良い夫の姿を学ぶことができます。

.夫は妻の頭(かしら)です。

 イエス様が教会の頭であるように夫も妻の頭です。頭がどうして頭になるかというと天を思うからです。夫という漢字を見ると天の上に頭があるのです。天を思う頭が夫になるのです。夫になるためには天を思わなければなりません。「あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」(コロサイ3:2)と言われます。天にあるものはキリストです。愛、真理、聖さは天にあるものです。これらをもって私たちは妻と出会うと妻は夫に服従します。異邦人の世界で無理やり服従させるのとは違います。イエス様は教会のために犠牲して死んでくださいました。夫は妻のために犠牲すること、頭と体は一つです。体が痛んだら頭も痛くなるような犠牲関係が夫が尊敬されることです。

.夫は妻を自分の体のように愛しなさい。

 ここで愛しなさいという愛はアガペの愛です。エロスの愛とは違ってイエス様の愛、犠牲的な愛のことです。エロスの愛は利己主義的な愛で愛するという愛です。夫に対する命令は妻をアガペの愛で愛しなさいということです。恋愛の時のエロス的な愛、利己主義的な愛は結婚生活には成り立ちません。結婚は契約です。最後まで妻を自分の体のように愛することが結婚生活です。相手の足りない所を満たすことです。私たちは相手の足りない所を見たらそこを満たす使命があるのです。これを学ぶ所が家庭です。神様の愛を学び、犠牲を学ぶ所が家庭です。

. 夫は妻を栄光ある存在にしなければなりません。

 栄光ある存在とは栄光ある教会として、イエス様はしみやしわやそのようなものの何一つない、聖く傷のないものとされました。だから私たちが神様の御座に行くことができるのです。イエス様はみ言葉により水の洗いをして教会をきよめて聖なるものとされました。初めのアダムは善悪の知識の木の実をとって食べないように主から命令されたにもかかわらず、妻エバにそのことをしっかり教えませんでした。それで悪魔の誘惑に会い堕落してしまいました。アダムは妻からもらった木の実を食べて、神様の栄光から離れてしまいました。神様の栄光から離れた悲惨さ、苦しみを2番目のアダムであるイエス様が来られて、それを背負ってくださいました。イエス様は十字架につけられ、苦しみを受けられ、神様から離れることはどんなに神様の審判があるのかを、私たちに教えてくださいました。しみやしわ、傷だらけの私たちをイエス様の血潮によって覆ってくださり、良いことだけ残して、悪いことは赦してくださいました。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」(イザヤ43:25)イエス様は悪いことは覆って思い出さないし、良いことだけ記録してくださる良い夫です。私たちは良い夫の働きによって栄光の場所、神の御座まで行くことができるのです。私たちは真珠の門がある天国まで行くのです。私たちはこの地上で家庭を持っています。イエス様を学ぶためのことです。まもなくイエス様が迎えに来られます。イエス様を愛し、イエス様に心を向けていると天に引き上げられます。磁石に鉄が引き上げられるように私の愛する方の所に引き上げられます。

2009年5月3日   「十字架の血潮の力」      ヘブル9:22

聖書が言われる神様の救いの力は、十字架から流れます。使徒パウロは「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(Tコリント1:18)と言いました。いつも十字架を誇りました。私たちも十字架の血潮の力を誇る私たちにならなければなりません。

1.十字架の血潮は罪の赦しの力。

 「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」(本文)とイエス様は言われました。私たちの罪は神様に背いたことです。神様に背いた者は血を注ぎ出すことが必要です。旧約の時代には、罪を犯した人がいけにえの羊の上に按主してほふりました。自分の罪の故に罪がない羊が血を流して死んでゆくのを見て、これからは決して罪を犯してはならないという思いをしたのです。また、大祭司が一年に一回いけにえの血を至聖所に注ぎました。これはイエス・キリストを象徴するものです。バプテスマのヨハネはイエス・キリストを見るやいなや「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。」と言いました。イエス様はご自分の血をもって至聖所に入られました。永遠の贖いを成し遂げられたのです。「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。」(ヘブル10:19)まことの聖所に入って、私たちは神様から“あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜びます。”という声を聞くことができます。私たちはこの愛の力によってこの世の苦しみ、悲しみ、迫害、飢えがあっても圧倒的な勝利者となります。

2.十字架の血潮は癒しの力。

 イエス様の打たれた傷によって私たちは癒されました。イエス様が打たれたむちの先には鉄があって肉を裂き、体はボロボロになるほどでした。その痛みの中で流された血潮が私たちの心も体も癒してくださるのです。イエス様の血潮には力があります。私たちはこのイエス様の血潮がとても重要です。

3.悪魔に打ち勝つ力。

 悪魔は神様のみ言葉にいつも抵抗して、私たちにしきりに告発してきます。その告発を心の中から追い出さなければなりません。私たちはその悪魔と戦わなければなりません。サタンは私たちが罪を犯すように誘惑し、一旦罪を犯したらその罪を告発するのです。その告発から私たちが解放され、勝利する秘訣はイエス様の血潮の赦しを続けて告白することです。私たちの罪は赦されましたし、今赦されていますし、これからも赦されるのです。このように常に罪の赦しを告白することです。サタンは“おまえはだめだ。おまえは捨てられた。”というような言葉をしきりに言ってくるのです。しかし、私たちは悪魔を恐れてはいけません。イエス様の血潮によって悪魔を撃退してください。悪魔はイエス様の血潮によって逃げ去ります。血潮は悪魔の手足を縛り、歯を抜いてしまいます。罪のない方の手足を縛って、十字架に架け噛んだからです。その結果、悪魔は滅びました。ですから、もう悪魔は私たちに何の力もないのです。私たちはこの血潮の力をいつも告白しながら毎日成長していくようにしてください。イエス様の血潮によって私たちは天国に入るようになります。これが最後の勝利であります。イエス様の血潮によって私たちは圧倒的な勝利者となるのです。



 2009年4月26日  「心配を主にゆだねなさい」  Tペテロ5:6〜9

 私たちが信仰生活しながら心配に捕らえられたら信仰生活に失敗してしまいます。悪魔はほえたける獅子のように私たちに心配を与えて、私たちを絶望させようとします。聖書には“心配しないで喜びなさい。”という命令を550回記録しています。私たちが神様のみ言葉に従順すると勝利することができます。

.あなたの心配を主にゆだねなさい。

 “ゆだねなさい。”ということは“投げ捨てなさい。”ということです。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(本文7節)私たちが神様にすべてをゆだねると、神様が問題を解決してくださるというのです。心配は悪魔から来ます。私たちが自分一人で心配と戦うと、私たちは益々深い沼に落ちてしまうのです。「あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神がちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」(本文6節)自分で問題を解決しようとしないで神様の力強い御手にゆだねることです。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37:5)とみ言葉にあるようにすべてをゆだねて生活すると主が成し遂げてくださいます。

.祈りによってゆだねることができます。

 祈りによって私たちは、問題をすべて神様にゆだねることができます。心配が生じる時は祈りなさいという信号であります。神様の中でゆだねると、その問題を解決してくださいます。問題が起ったらすぐその問題を神様の御座に持って行きます。祈って神様にゆだねたら私たちの霊の状態が赤ちゃんのようになります。主に抱かれて静かになり、平安になります。しかし、祈らない人は霊が大人のようになって全部自分が責任をとってサタンと戦って解決しようとするのです。神様はわたしたちに「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)と言われます。これは“祈りなさい。”ということです。祈れば問題は解決され、聖霊が与えられ、平安、喜びが与えられます。

.信仰の宣言。

 「堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。」悪魔は常に疑いの矢を放ちます。“祈ったのにどうして環境はそのままなの? どうして痛みが残っているの?”と悪魔は疑いを投げかけてきます。罪責感を与えます。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Tヨハネ1:9)私たちはイエス様の血潮を握って、証しながら悪魔と戦わなければなりません。私たちの心の奥底の至聖所から勝利の声が聞こえます。「イエス・キリストの打ち傷によって、私たちはいやされた。」と告白しましょう。私たちはアブラハムの祝福を受けています。先祖のたたり、方向、日にちのたたりとはいっさい関係ありません。地獄の刑罰から、死から解放されました。「見い出す者にはそれはいのちとなり、その全身を健やかにする。力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:22〜23)私たちの心の中がバラバラになり心配で一杯にならないように、心をみ言葉でひとつにまとめ、宣言することです。そうすれば悪魔に打ち勝ち、勝利することができます。



  2009年4月19日   「悔い改めの祝福」    ルカ15:11〜24

 放蕩息子が家の財産の分け前をもらって遠い国に行き、財産を湯水のように全部使ってしまいました。その国に大ききんが起こり、食べるにも困って豚を世話するようになりました。しかし、豚の食べるものも与えられなくて死にかけていました。それで彼は我に返って父のところに帰りました。これが悔い改めです。

.放蕩息子の悔い改めの動機。

 放蕩息子は父の家の命令をいやがって家から遠く離れて行きました。それで自分勝手な生活をすると楽だと思ったのに結局何もかも失って豚を世話する者になりました。即ちサタンの奴隷になってしまいました。死にかけている彼のもとに父から手紙が届きました。「わたしはあなたを愛している。家に帰って来るように。」という手紙でした。そこで彼は悔い改めました。父の手紙は十字架の福音が書いてある聖書を意味します。彼は父のことを思い出しました。父のところにはパンのあり余っている雇い人が大ぜいいるし、そこには喜びがあり、楽しみがあり、豊かさがあるということを思い出して父のところに戻ることができました。

.悔い改めは正直に自分を告白することです。

 自分は父を傷めたと、十字架が父の涙であり、自分がイエス・キリストを苦しめたという告白です。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私はあなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」(本文18〜19節)と彼は告白しました。神様が私たちに求めておられるのは弁明することではなく、自分は秩序を破壊してあなたにとても痛みを与えたという悔いた心、砕かれた心であります。「神へのいけにえは、砕かれたたましい、砕かれた、悔いた心。神よ。あなたはそれをさげすまれません。」(詩篇51:17)私たちが弁明すると、神様に捨てられます。しかし、イエス・キリストの痛みを見ながら自分も痛みをもって悪かったと悔い改めると神様はそのいけにえを受け入れてくださいます。だから神様が言われたら弁明しないで、“私が悪かったのです。あなたを傷めました。私のために十字架があったのです。”と心の苦しみを表現する時、心がいやされ、幸せになります。

.悔い改めの祝福。

 砕かれて家に帰った息子を父は走り寄って彼を抱き、口づけしました。受け入れてくださいました。一番良い着物を着せ、指輪をはめさせ、くつをはかせ、子どもの資格を全部取り戻させました。そして祝宴を始めました。私たち罪人が悔い改めて砕かれた心で帰ると、天国では宴会が開かれます。「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない99人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」(ルカ15:7)放蕩息子は家に帰って新しい心が与えられました。これは父が自分のためにどんなに犠牲したかということが分かったからです。十字架の犠牲と苦しみ、それに自分も砕かれ、悔い改めたら聖霊様が来られ、感動が与えられます。自分の固執、自分の国を建てようとすることを捨てて父に従うことが聖霊充満です。聖霊で満たされ、心から進んで父に従順し、忠実に神の国の人になることを神様は願っておられます。

 

2009年4月12日「わたしはよみがえりであり、いのちです。」

                        ヨハネ11:25〜26                                                         この世にはいろいろな宗教がありますが、よみがえりといのちを語られたのはイエス・キリストだけです。イエス様ご自身が「わたしはよみがえりです。いのちです。」と言われました。

.イエス様は聖書で預言されたようによみがえられました。

 「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また葬られたこと、また聖書に従って三日目によみがえられたこと。」(Tコリント15:3〜4)とあるように聖書に従ってイエス様は死んでよみがえられました。偶然の事件ではありません。神様のご計画でした。私たちの罪を赦し、私たちを生かしてくださるためにイエス様は聖書に語られた通りに来られました。旧約聖書全体はイエス様の十字架とよみがえりをあらわしています。イスラエルの人々の今残っている祭りを見てもそれが分かります。

.イエス様ご自身がよみがえりであり、いのちであることを証明されました。

 イエス様に触れられた人は死んだ人もよみがえりました。またいやされました。会堂管理者ヤイロの娘は死にかけていましたが、、イエス様によってよみがえりました。またナインの町にやもめの一人息子がいました。その青年は死んでいました。この死んだ悲しい群にイエス様が現われ、この青年を生かしてくださいました。よみがえりました。イエス様はラザロが死んで4日目になった時、大声でラザロを呼び、生き返らせてくださいました。死んで4日目になったにもかかわらずよみがえりのイエス様が呼ばれたら彼はよみがえりました。このようにイエス様も十字架で死なれ、三日目によみがえられました。その日マグダラのマリヤが墓に行きましたが、墓は空っぽでした。イエス様はよみがえられたのです。墓が空っぽだったのが、よみがえりの証拠です。イエス様を信じる人々は墓参りをしません。なぜならイエス様はよみがえられたからです。

.信じる人にはよみがえりといのちが与えられます。

 信じない人はよみがえって審判があります。信じる人はよみがえっていのちが与えられます。よみがえりは2つあります。「善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者はよみがえってさばきを受けるのです。」(ヨハネ5:29)永遠のよみがえりがあり、永遠のばつのよみがえりがあります。イエス様を信じる人、愛する人はイエス様の所に行きます。しかし、イエス様を信じない人はイエス様に対して暴言をはくし、嫌ってイエス様から離れていきます。「のろわれた者ども、わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。」(マタイ25:41)イエス様の所にはよみがえりといのちがあります。いのちは楽しみと喜びの永遠の国です。しかしイエス様を信じない人は悪魔のいる所、火の池に行くしかないのです。イエス様は「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」と言われます。イエス様を信じる人々は永遠のいのちに入り、信じない人々は永遠の滅びに入るのです。これは永遠に変わらない真理です。


  2009年4月5日   
「思いの方向を変えなさい」  マタイ4:17

 人は自分の思い、考えが口から出ます。それで清いことを思っている人は清い人となり、悪いことを思っている人は悪い人になります。神様は霊であり、霊は人の思いの中に働きます。

.堕落した人間の思い

 人間は初めにちりから造られ、聖霊を受けて神様の形に造られ、神様の霊を受けました。それで神様の思いと一致しました。いのちの木の実をとって食べる生活をしました。自然界も祝福されました。しかし、サタンの誘惑により善と悪の木の実をとって食べてから不幸が始まり、神様のみ言葉とくい違う生活が始まりました。すべての環境は呪われてしまいました。人間の力や哲学、宗教でなおそうとしましたが、できませんでした。エデンの園である天国を取り戻すことは不可能でした。

.悔い改めなさい。

 イエス様は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と言われました。人間が失った神の国をイエス様が持って来られ,、思いの方向を変えなさいということでした。いつも自分で善と悪を決めて、自分が神のようになることを捨てなさい。自分の思いを捨てなさい。それでイエス・キリストを受け入れなさい。イエス・キリストの御名を信じなさい。御名は罪を赦す御名です。「この方を受け入れた人々、すなわちその名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)イエス・キリストを受け入れることは神の国を受け入れることです。悔い改めて神様の国を受け入れると心の中に神の国が生じます。

.従順。

 従順を通して私たちの思いを神様に向けることができます。イエス様を信じて私たちは生まれ変わりました。私たちがしなければならないことは従順です。私たちは自由意志がありますが、神様のみ言葉に従順しなければなりません。私たちは神様を愛すること、人を愛することの命令を神様から受けています。イエス様は死に至るまで従順されました。神様はイエス様に高い名前を与えました。私たちが従順すると、神様は私たちを高い所に導いてくださいます。私たちが天国に入ることは御名を信じ、イエス様の血潮を信じるからです。私のために流された血潮によって過去、現在、未来のすべての罪が聖められます。私たちは救われた神様の愛を思い出しながら従順して行なうと、その行いによって神様が天国で報いてくださいます。イエス様の血潮が私たちのすべての罪を消してくださいます。私たちが従順したことによって報いが決まります。「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。」(エゼキエル36:26〜27)私たちは聖霊に満たされ、固い心を捨てて従順することができます。皆さんが思いの方向を変えて悔い改め、神様のみ言葉に従順できますように、主の御名によって祝福します。




 2009年3月29日  「苦い水を甘い水に」 出エジプト15:22〜27

400年間エジプトで奴隷の生活をしていたイスラエル人は神様によって救い出されました。彼らは紅海を渡ると、神様を賛美し、喜び踊りました。しかし、三日間歩いても飲む水がなく、やっと見つけた水は苦くて飲むことができませんでした。それで彼らは不平不満を言い始めました。400年間の圧迫の苦しみから解放されて喜んだのはわずか三日間だけでした。なぜなら彼らは潜在意識の中に苦い記憶があったからです。

.苦い水は潜在意識からわきあがります。

私たちの過去から現在までに起こったすべての事件や事故、欲望のデーターベースが潜在意識となって私たちの心の中に潜んでいます。私たちが生活しながら得た感覚器官や情報がひとつ残らず刻まれているのです。潜在意識の中に潜んでいたものが現在意識の中で同じ場面に出くわすと急に苦い水がわきあがるのです。ですからその部分をいやさなければなりません。

.神様が示された一本の木。               

神様が示された一本の木を苦い水の中に投げ入れると水は甘くなりました。これは十字架を意味します。イエス様は罪なき御子としてこの世に来られ、私たちの苦い水である苦しみを負って十字架につけられました。そして私たちに甘い水を流してくださいました。イエス様を信じると、私たちの心がいやされます。罪責感が赦しに変わります。憎しみが愛に、うつが喜びに、体の苦しみがいやしに変わるのです。呪いがアブラハムの祝福に、地獄が天国に変わります。イエス様は私たちの過去、現在、未来すべてをいやしてくださいます。一本の木を投げ入れるとは過去の傷の場所にイエス様を迎え入れることです。そうすれば私たちはいやされます。

1.聖霊充満といやしの生活。

 いやされた昔のものが甘い水になってわきあがります。イエス・キリストを受け入れたからです。イエス様を受け入れると、聖霊が臨んでくださいます。そこには、12の水の泉と70本のなつめやしの木があったと記されています。12の水の泉は聖霊様を意味します。イエス様を信じて受け入れた人々は赦され、甘い感謝の聖霊の水がわきあがります。周りの人々をいやします。私たちが聖霊を受けると潜在意識がいやされます。私たちの傷から出る嘆き、叫び、苦しみなどの声を用いて聖霊様がうめきをもってとりなしてくださいます。「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」(ローマ8:26)「まことに主は、もつれた舌で外国のことばで、この民に語られる。主は、彼らに『ここにいこいがある。疲れた者をいこわせよ。ここに休みがある。』と仰せられたのに、彼らは聞こうとはしなかった。」(イザヤ28:11〜12)異言を語る時にいやしが現れます。潜在意識の中で子供の時から経験した悲しみ、苦痛、圧迫、挫折、罪責がすべて異言を語る時にいやされ、流れるすべてのいやしの水によって70本の実が結ばれます。12とは12弟子を意味し、70本は70人の長老、つまり教会を意味します。イエス様を信じた人々は聖霊で満たされ、病気がいやされ、幸せな生活を過すことができます。個人がリバイバルされ、教会がリバイバルされ、日本がリバイバルされます。



2009年3月15日  「失望しないで祈りなさい」  ルカ18:1〜8

イエス様は私たちにたとえ話をして私たちがいつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えられました。

.やもめ。

 やもめは、社会的に弱い立場の人です。問題が起った時、それに対処する方法も手段もありません。やもめは物を買ってお金を支払ったのに、相手が物をくれません。相手を裁いて彼女を守ってくれるようにしきりに裁判官に訴えても聞いてくれません。やもめは自分の祈りが無視されるように思えました。私たちも祈る時、やもめのような気持ちになることがあります。

.不正な裁判官。

 不正な裁判官は祈りの妨害者です。聖書には「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」だと言っています。神様が定められた法律を無視するし、人がお金に見える人、それでお金をもらわないと裁判をしない、これはサタンのしわざです。サタンは堕落した天使です。美しく造られましたが、高慢になって神様に反逆し、神様の審判を受けて天から追い出されました。終わりの時代に火と硫黄に投げ込まれるものです。ですから必至に自分の国を守るために祈る人を妨げるのです。クリスチャンが祈って神様の真理を悟るとサタンの国が崩れてしまうので、必至に祈りを妨げるのです。サタンはメディア、スポーツ、スクリーン、セックスを通して祈りができないようにするのです。祈りは呼吸運動です。呼吸ができないと祈りは霊的に死んでしまいます。祈っても神様から答えられないのだと私たちは失望して退くのですが、イエス様は「人の子が来た時、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」(本文8節)と嘆いておられます。やもめのように粘り強く祈る信仰がなくては神様を喜ばせることはできません。

.失望しないで祈りなさい。

神様は私たちが失望しないで祈ることを願っておられます。不正な裁判官のことで私たちは失望するのですが、私たちは私たちの問題のためにイエス様がすでに支払ってくださった血潮を握って祈るべきです。イエス様の血は今叫んでいます。イエス様は“わたしはすでに支払いました。わたしの願いを聞いてください。”と神様の前で祈っておらるのです。だから私たちもイエス様と同じ祈りをしなければなりません。「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼(サタン)に打ち勝った。」(黙示録12:11)不正な裁判官に打ち勝ったということです。私たちはイエス様の血の叫びの要求を告白しなければなりません。私の頭にイエス様の血が流れ、イエス様の血は私たちが聖霊の火を受けることを強く叫んでおられます。手は私たちが貧しい人や教会のために用いられる祝福の手、いやしの手になることをイエス様の血は叫んでいます。脇から流れる血と水はゆるしを川のように流すこと、足は血潮の福音を携えて行く所々、神の国が臨むことをイエス様は願って叫んでおられるのです。だから私たちもその祈りが聞かれるまで祈らなければなりません。ダニエルは21日間祈り続けました。ダニエルが祈った時、その祈りが聞かれて、天使ガブリエルに答えを託しましたが、空中を支配するサタンがその答えを妨害しました。しかし、ダニエルが粘り強く祈ると神の軍隊長官であるミカエルが助けたので、彼の祈りが答えられました。祈りは一日も休んではいけません。一日休んだら50日分の祈りが無くなってしまうのです。祈りの時間を減らしてはいけません。私たちはダニエルのように失望しないで粘り強く祈らなければなりません。



2009年3月8日    「からし種とパン種」   マタイ13:31〜33

 イエス様はよく比喩を用いて天国のことを話されました。私たちが死んだ後で行く天国もありますが、この地上の天国もあります。イエス様は天国はパン種とからし種のようなものですと言われました。

1.天国は小さい者を大切にします。

 からし種もパン種も小さいものですが、天国では小さいものを大切にします。「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実である。」と神様は言われます。私たちが小さな事に従順し、忠実であれば神様は私たちに大きな事を任せてくださいます。神様は小さい者を大切にしてくださり、小さい者を通して働いておられるのです。たとえ自分が小さくても、また手に入れたものが少なくても失望しないで希望を持つことが大切です。

2.天国は生長力があります。

 からし種は目に見えないほど小さい種ですが、やがて4m位まで大きく生長します。パン種はパン粉に入れたらとても大きくふくらみます。イエス様の天国の運動は初めはからし種やパン種のような小さな運動でした。イエス様は小さな村であるベツレヘムの飼い葉桶でお産まれになりました。イザヤ書はイエス様の姿を次のように表現しています。「彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ53:1〜3)イエス様の天国の運動はついに世界の歴史をBCBefore Christ)とADに分けました。ADは主の年という意味です。今年はAD2009年です。イエス様が歴史の基準です。イエス様は12弟子を残しました。そして70人、500人、3000人、5000人、10000人とイエス様を信じる人々が増え続け、ついにはローマ帝国がキリスト教国家になりました。弟子たちは小さい者でしたが、生命力があったので、増え続けています。天国は神様のいのち、よみがえりの力、聖霊の力があるからです。からし種は何千倍も大きく生長します。パン種は内面の生長を意味します。私たちが聖霊を受け、永遠のいのちを受けて成長するのです。聖書を愛する誠実さ、教会に出席する誠実さ、魂に対する情熱、福音を伝える姿、み言葉を分かち合おうとする姿を通して成長が目に見えます。「あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしよう。」(Tテモテ4:15)私たちが教会に出席すること、祈る生活、奉仕の生活、伝道するために自分を捧げる生活をする事が成長なのです。

.天国は成長した結果です。

鳥たちが飛んで来て枝に巣を作り、そこに住みつき、鳥たちがそこで安らぎを得、さえずり歌うのです。イエス様はぶどうの木であり私たちは枝です。イエス様と私たちは一身同体ですので、イエス様の平安と癒しを私たちは手に入れる事ができます。イエス様の国が私たちの中に臨んだら、その実を皆に分け与えるのです。天国の祝福は分け与えるためのものです。木は実を結ぶのですが、木がその実を食べることはありません。他の人がとって食べるのです。他の人を祝福すると私たちは祝福されるのです。私たちは他の人を祝福しながらイエス様の祝福に満たされるのです。



 2009年3月1日  「アブラハムが受けた祝福」  創世記14:14〜20

 アブラハムの時代に4ヶ国連合軍と5ヶ国連合軍の間に戦争があって、4ヶ国連合軍が大勝利を収めました。その軍隊がロトが住んでいるソドムとゴモラを攻撃してロトの家族や財産を全部奪いました。そこでアブラハムは彼の家で生まれたしもべたち318人を連れて戦い、4ヶ国連合軍を打ち破り、略奪されたものを全部取り戻すことができました。アブラハムが戦いに勝利して帰って来る時、メルキゼデク王はパンとふどう酒を持ってアブラハムを祝福しました。

.アブラハムは聖餐の祝福を受けました。

 メルキゼデク王は奇跡的に勝利をして興奮して帰ってくるアブラハムに神様を礼拝するためにパンとぶどう酒を持って迎えに出て来ました。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」(本文19〜20節)と彼は聖餐の恵みを教えました。私たちの勝利や今まで守られたことはイエス・キリストの十字架の恵みなのです。神様に礼拝を捧げることが本当の祝福です。聖餐を通してアブラハムの霊的目が開き、神様を賛美する礼拝者になりました。神様に栄光を帰すことが大切です。

.アブラハムの信仰告白。

 アブラハムはメルキゼデクの聖餐を通して霊的また物質的な勝利の背景には神様がおられることが分かりました。それで神様に賛美を捧げ、戦利品の中から十分の一を捧げました。十分の一は信仰告白です。十分の一を通して神様に栄光を帰すのです。また神様が私たちを祝福されるかどうか試してみなさいと主は言われます。“私が私になったのは主の恵みです。”という目に見える信仰表現が十分の一であります。「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。」(ヤコブ2:26)私たちは十分の一を捧げて神様に栄光を帰さなければなりません。

.神様の答え。

 信仰表現として十分の一を捧げたアブラハムに主のことばが幻のうちに臨んで「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」(創世記15:1)と言われました。神様の答えは“恐れるな。”ということです。将来どうなるか分からないから不安、恐れがあるのです。しかし、神様は“恐れるな。”と言われます。全知全能なる神様がアブラハムの盾となってくださるからです。夜の恐怖、昼に飛び来る矢、暗やみに歩き回る疫病、真昼に荒らす滅びがあっても、神様が大盾となってくださるので恐れる必要はありません。(詩篇91:4〜6)暗やみは予測できないものです。昼に飛び来る矢は目で見えてもどうすることもできないものです。しかし、そのすべての所から私たちを守り、神様ご自身で報いてくださると言われます。神様は私たちに永遠のいのちを与えてくださり、愛、喜び、平安で私たちを満たしてくださいます。神ご自身である聖霊をくださるということが報いであります。私たちは瞬間、瞬間恵みを味わいながら生活していきたいものです。皆さんが神様と喜びの生活をすることができるように、主の御名によって祝福します。



 2009年2月22日  「しるしが意味する目的」  ヨハネ6:24〜29

 ヨハネの福音書に書かれている奇跡は単純な奇跡ではなく、しるしです。しるしはその中で主が教えようとする目的を持っている神様の道具です。5つのパンと2匹の魚で2万名を食べさせた奇跡は目的があったのです。

.イエス様の奇跡の目的。

 イエス様は群衆をあわれんで食べさせました。イエス様は彼らに5つのパンと2匹の魚で食べさせたのには目的がありました。十字架にかかられたイエス様を信じることによって永遠のいのちが与えられることを信じるという目的がありました。イエス様は天から下ってきたいのちのパンとご自分を紹介されました。私たちが永遠のいのちであるイエス・キリストを配る責任があります。私たちはいろいろなボランティアや奉仕をするのですが、魂を救うことが必要です。奉仕だけを目的とすると疲れてしまいます。なぜ私が慈善事業をするのかということの目的、これは私たちの主イエス・キリストの永遠のいのちのパンを与えるためです。「見よ。その日がくる。神である主の御告げ。その日、わたしはこの地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に主のことばを聞くことのききんである。」(アモス8:11)と主が言われます。私たちは肉体的なパンのためだけに働くのではなく、永遠のいのちのパンを与えるために働かなければならないのです。「それゆえあなたがたは行ってあらゆる国の人々を弟子としなさい。」(マタイ28:19)あらゆる国ということは貧しい国や富む国などすべての国々です。人々はアフリカがかわいそうと思って次々にアフリカに福音を伝えました。それで今アフリカは70%がクリスチャンとなりました。しかし、日本のクリスチャン人口はわずか0.1%しかありません。イエス様のいのちのパンが必要な国はこの日本です。

.あなたが食べさせなさい。

 20才以上の男性が約5000名、女性と子供を合わせると約2万名が3日間何も食べずにいたのです。パン工場もないへんぴな所であり、またで弟子たちも何も持っていないのを承知でイエス様は“あなたが食べさせなさい。”とピリポに言われました。これはイエス様ご自身が彼らをたべさせようとすでに決めておられて言われた言葉でした。主がなさろうとすることを私たちに見せてくださるのです。それで私たちが一緒に加わるように呼びかけられるのです。勿論主は私たちがいなくても奇跡を起されるのです。しかし主は私たちを呼んでパートナーにしてくださるのです。これは何という恵みでしょう。日本は年々クリスチャン人口が減っていきます。私たちは何も持っていないものです。

.主は誰を用いられるのでしょうか。

 ピリポは2万名が少し食べても200万円はかかるとすぐ計算しました。計算しても解決する道はありません。アンデレは積極的に食物を探しまわりました。そして少年の5つのパンと2匹の魚のお弁当を見つけました。イエス様はそのお弁当を持って来るように言われ、祈って祝福されました。その時奇跡が起こりました。2万名が食べて満腹して12かごが残りました。このように私たちも小さいものであっても、また持っているものが少しであってもイエス様の御手に乗せられて祝福されると用いられます。私たちが自分は弱い者と言っても主の祝福を受けると大きく用いられます。1千万人救霊のために用いられます。ではなぜ小さい弁当を用いられたのでしょうか。それは主に栄光を返すためです。自分の力でこんなことをしたと自分を自慢して主に栄光を返さないことが多いのです。それで無に等しい者を選んで主の栄光を現わされるのてす。

 



2009年2月15日    
「霊の目が開く祝福」  U列王記6:14〜17

 同じ環境や問題に直面してもある人は心が平安であり、ある人は不安で恐れます。北イスラエルの預言者エリシャとその僕ゲハジの態度からこの2つの心の動きをはっきり見ることができます。

.肉の目と霊の目。

 この世を見る目には肉の目と霊の目があります。霊の目が開いたエリシャは敵のアラムの軍隊がどのように動くかキャッチしてそれをイスラエルの王に知らせました。アラムの軍隊がいつも作戦に失敗し、敗北する理由はエリシャにあると分かってエリシャを捕らえるために奇襲作戦をしました。夜中に馬、戦車、大軍を送りました。エリシャの僕であるゲバジは自分の町が包囲されているのを見て恐れました。しかし、エリシャは平安でした。エリシャは「恐れるな。私たちと共にいる者は、彼らと共にいる者よりも多いのだから。」と言いました。エリシャはゲハジの目を開いて、見えるようにしてくださいと神様に祈ったところ、彼の目が開いて、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いているのを見て平安になりました。

.霊の目が開くためにはどうしたらいいでしょうか。

 霊の目が開くためには、新らしく生まれ変わることが必要です。イエス様は「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(ヨハネ3:6)と言われました。「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)とあるように霊の目を頂くためには、生まれ変わることが必要です。「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることはできません。」(ヨハネ3:5)水はみ言葉なるイエス様ご自身であり、御霊は私たちにイエス様を啓示し、イエス様を見せてくださる光であります。イエス様を信じるためには、御霊の助けが必要です。私たちの霊の目が開くと、神様が私の父であることを信じるようになります。天と地を造られた主が私と共におられるので乏しいことはないし、私の頭の毛さえも数えておられるので恐れることはないという信仰が生まれます。イエス様の十字架の贖いが私のためだと霊の目で分かるようにしてくださいます。私の罪が赦されたこと、永遠のいのちが与えられたこと、病がいやされること、乏しいことがないことが分ります。神様のみ言葉が宝のように思えます。聖書の中にはすべての約束が書かれてあるからです。聖書を読む時、霊の目が祝福されます。

.霊の目を続けて使わなければなりません。

 霊の目が開いて折角イエス様が見えたのに、それを使わなかったら、霊の目を持っていない人と同じになってしまいます。この霊の目は続けて訓練しなければなりません。遠い神様の御国と近くの私たちの生活の中で主が与えられるみ言葉を信じてゆだねる生活をすることです。神様のみ言葉を口ずさみ、いつも神様の世界を思い出し、見ることによって神様を見る霊の視力が強くなります。この霊の目を私たちは頂いたので、この視力をもってすべてのことの中にあっても圧倒的な勝利者となるのです。最後の敵である死が私を取り囲んでもそれをものともせず勝利することができます。

ステパノが歯ぎしりしながら自分に石を投げる人々を見ないで、天におられるイエス様を仰ぎ見ました。天軍天使の応援を見ました。それでステパノは彼らの罪を赦してくださいと祈った後、眠りにつきました。これが最後の勝利であります。私たちの目がいつもイエス様から離れないように霊の目の訓練をし続けなければなりません。



2009年2月8日    「ベテスダのイエス様」      ヨハネ5:1〜9

 ベテスダとは恵みの家、憐れみの家という意味です。その池の周りにはいろいろな病気にかかっている人々が伏せっていました。そして水がかき回されるのを待っていました。なぜなら水がかき回される時、一番先に入った人がいやされるからです。38年間病気だった人もそこに伏せっていました。しかし、彼は自分の力ではどうすることもできない絶望的な状況でした。しかし、イエス様はその彼を完全にいやしてくださいました。

.イエス様は38年間病気だった人を選びました。

 38年は絶望を意味する数字です。イエス様は彼を見て、その病気が長い間のことを知って彼を選びました。彼の力では何もできないので、神様の助けが100%必要でした。神様は自分の力ではどうしようもできないと思っている人を選ばれます。それは私たちを通して他の人が救われ、祝福されるためです。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、」(ヨハネ15:16)と神様は 言われます。「先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」(マルコ10:31)とみ言葉にあるように、先の者である私たちを通して後の者であるチャーチスクールの若者たちがもっと祝福されることを期待しています。

.イエス様は希望の光です。

 イエス様が彼に「よくなりたいか。」と言われた時、彼の心に光がさしました。今まで38年間誰からもそのように言われたことはありませんでした。“私はいやされたいのです。でも水がかき回される時、先に人が入ってしまうので今は絶望的な状態です。”と彼は答えました。その時イエス様は彼に「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」と言われました。その言葉を聞いた時、彼の心の中がかき回されました。私たちがイエス様のみ言葉を聞き、それを受け入れる時、このように心がかき回され、わくわくするのです。その時、彼の心は熱くなりました。イエス様は希望の光です。イエス様が言われると死んだ者がよみがえります。この世の大波が静まります。イエス様のみ言葉を聞くことによって信仰が生まれるのです。

.イエス様は罪の代価を支払われました。

 彼がいやされた時、その日は安息日でした。律法学者やパリサイ人たちは、なぜ安息日に彼をいやしたのかとイエス様を攻撃しました。イエス様はただで彼に安息を与えたのではありません。イエス様は38年間の苦しみを受けた人の絶望を全部背負ってくださいました。「彼(イエスキリスト)は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:5)ここで平安というのは安息を意味します。イエス様が私たちのために苦しみを受け、引き裂かれる悲惨な代価を支払われました。イエス様の十字架の苦しみ、流された血潮は私たちの罪の代価です。イエス様は十字架の上で全部支払われました。ですから私たちは罪がゆるされ、病がいやされるのです。



2009年2月1日    「信者の確実な保証」  ローマ8:26〜30

今は変化の時代、不安な時代、何か確かなものが全然ない時代です。確実な職場、事業、力はこの世には存在しません。しかし、確実なことを約束しておられる全能の神様がおられます。

.弱い祈りを助ける保証。

 私たちはどう祈れば良いか分かりません。しかし、時になって助けてくださる主、答えてくださる主がおられます。今すぐ与えなければならないことは私たちが祈ったら主はYESと言われます。しかし、今与えなくてもいいものは“待ちなさい。”と言われます。また危ないものを求めると主はNOと言われます。このように神様はいつも私たちを助け、主の御心にかなう祈りに答えるために深いうめきをもってとりなして祈ってくださいます。神様は私たちの弱い祈りを助ける方です。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐなわたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手であなたを守る。」(イザヤ41:10)と言われます。

.すべてを益にしてくださる保証。

 すべて良いことも悪いことも益となります。この世の人々は自分の目で良いものならば良いというのですが、信じる人々はマイナスのものもプラスになるということを信じるのです。神様が私たちに与えられるものはすべて良い実です。種をまくとその種は雨や風や太陽を通して実を結び、こうべをたれるのです。この実は主のものでしたと言えることが私たちには益なのです。ですから信者にとってすべての試練は意味があるのです。ヨセフは兄弟から憎まれ、エジプトに売られ、汚名をかぶって牢に入れられそこで長く苦しみを受けました。しかし、彼は今まですべての通った道は結局エジプトの総理大臣となって多くの人々を助けるための道であったということが分かりました。神様がこれを計画されだのだと神様にこうべをたれて祈る真の礼拝者になりました。真の礼拝者になることが益であり、祝福です。

.信者に栄光を与える保証。

 栄光の光は主です。栄光の光が照らすと私たちは鏡のように反射します。光の本体は主です。私たちはただの土の器です。器の中に光をともすと、器は光を放ちます。この栄光の光はみ言葉です。私たちがみ言葉を頂くと、み言葉が私たちに栄光を与えるのです。「彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。」(詩篇91:14)神様は掃除機のように私たちの罪を吸い込んでくださいます。私たちが罪を告白し、神様の方向を見ると、呪い、たたり、失敗、病、地獄を全部神様の体に吸い込んでくださいます。またイエス様はよみにくだり、燃やしてしまわれます。イエス様は三日目によみがえられて私たちに“シャローム(平安よあれ)”と息を吹きかけられました。イエス様のよみがえりによって罪が義に、死がいのちに変わりました。イエス様の誉の冠を私たちに与えてくださいました。いばらの冠を受けられたイエス様が赦しと祝福の冠を私たちに与えてくださり、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」と言ってくださいます。これが確実な神様の約束であり、保証であります。



2009年1月25日     「わたしを呼べ」  エレミヤ33:1〜3

ユダの王ゼデキヤの第10年にバビロンのネブカデレザル王の軍勢がエルサレムを包囲し、攻撃してきました。その時エレミヤはあちらこちら飛び廻って悔い改めを勧めていたのですが、王の怒りをかって牢に閉じ込められました。その牢は自力では脱出できないほど深い穴でした。その中でエレミヤは神様から不思議なみ言葉を頂き、そのみ言葉によって慰めを受けました。

.地を造られた主、それを形造って確立させた主。

歴史(history)の主は神様です。人間ではありません。神様の(Hisstoryです。神様はアルファ(初め)でありオメガ(終わり)であり、すべてです。私たちが今、病気、失敗、子どもの問題などの牢の中にいる時、私たちはエレミヤの牢のような心境になります。その時、私たちは主を仰ぎ見ることができます。すべてを造られた主が天からおりて来られ、よみにある私たちをよみがえらせるために十字架につけられ、死んでよみがえられました。今も生きておられるその方が深い牢の中から私たちを救い出してくださるのです。私たちは主が救ってくださるのを静かに落ち着いて待ち、主を信頼することが大切です。

.わたしを呼べ。

 私たち人間がすることはただ主だけを呼ぶことです。一人で苦しまないでわたしを呼べと命令されます。そうすれば、神様は私に近づいて来られ「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37:5)と言われます。私たちはいつも主が導いてくださいます。私に対する主の計画をしきりに問うこと、右にも左にも行かないで主の道を行くことです。主が言われた道に行くと、汽車がレールを走るように行くのですが、主の道ではない所に行くと疲れてしまいます。ダビデは子どものようにいつも主に行くべき道を聞きました。それでダビデは祝福された人生を送りました。小さいことでも大きいことでも主に祈って主が言われたことをするのが真理であり、それが祝福です。

.神様の答え。 

 「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたの知らない理解を超えた大いなる事をあなたに告げよう。」(本文3節)「天が地よりも高いように、わたしの道はあなたがたの道よりも高く、わたしの思いはあなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:9)と主は言われます。エレミヤが神様から人知をはるかに超えたみ言葉を頂いた時、心が安定しました。“ユダは偶像崇拝の罪のためにバビロンに行かなければならない。しかし、70年後には、主の不思議な御手によってエルサレムに戻って来る。”という神様からのみ言葉でした。それで彼は土地を買いました。私たちの目が見たことのない、耳が聞いたことのない、そして人の心に思い浮かんだことのない、すばらしい祝福のみ言葉でした。今、イスラム圏でもこのような奇跡が起こっています。これは主の再臨が近いからです。これは権力によらず、能力によらず、主の霊によってであります。テロリストたちが主の幻を見て、次々に救われ牧師になっています。今、日本では0.1%しかないクリスチャン人口ですが、主がなさると奇跡が起こります。収穫の時が来たので、若者たちは収穫の働き手になることが知恵です。一番弱い者が1000を作ると言われます。日本にリバイバルが起こり、1千万人が救われるためには10万人の指導者が必要です。そのために用いられる私たちとなるように主の御名によって祝福します。



2009年1月18日「善悪の知識の実・いのちの木の実」創世記2:15〜17

神様は初めエデンの園に人間を住まわせ、二種類の食べ物を示されました。それらは食べても良いいのちの木の実と食べてはならない善悪の知識の木の実でした。食べて死ぬ物を示してくださったのは神様の愛の表現でした。しかし、人間は神様の命令に背きました。このように神様の命令に従わないのが罪なのです。

.罪の起源。

 罪は初め神様のみ言葉から脱落したサタンによって生じました。サタンはもともと美しい存在として造られました。また神様に栄光を返し、礼拝を担当する者として造られました。彼は自分が美しく造られたのを見てうっとりして自分の本分を忘れてしまいました。そして、神の御座を奪おうとしました。それで神様は彼を天から投げ落としました。その後で神様はちりをとり、人間を形造りました。そして人間の鼻に神の息を吹き込みました。人間は生き物となって神様を賛美するようになりました。神様はサタンが受け持っていた働きをちりで造られた人間に任せました。それでサタンはあらゆる手段を用いて人間を堕落させようとして、神様のみ言葉から離れるように仕向けました。神様は“善悪の知識の実をとって食べたら必ず死ぬ。”と言われたのに、サタンは女を誘惑して“あなたがたは、決して死にません。”とうそをつきました。“あなたがたが神のようになることを神が知ってねたんでいるのです。とって食べなさい。”と言いました。

.善悪の知識の実をとって食べた結果。

 善悪の知識の実をとって食べた結果、神様のみ言葉が聞こえなくなりました。「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」という言葉がずっと聞こえていたのにそれが聞こえなくなってしまいました。善と悪を自分の基準で決めるという間違った世俗的な価値観になり、相手を批判し始めました。愛の目が無なくなり、赦しが無くなり、相手を批判するようになりました。それで夫婦げんかが絶えなくなりました。その中で産まれたのがカインとアベルです。カインは弟のアベルを殺しました。こうして神様と人間の関係が壊れると夫婦の関係、子どもの関係も壊れました。また土地は呪われてしまいました。サタンは絶望、憎しみ、不平不満の言葉で人間を支配するようになりました。

.いのちを与えるイエス様が人間として来られました。

 イエス様が来られたのはサタンを打ち破るためでした。サタンはイエス様を十字架にかけましたが、イエス様は3日目によみがえられ、私たちに信仰、希望、愛を与えてくださいました。十字架から流れるメッセージはいのちのみ言葉です。罪が赦され、病がいやされました。呪いは祝福に、絶望は希望に変わりました。いのちの実をとって食べるためにはイエス様の福音を信じることです。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)私たちは善悪を自分で決めるのではなく、イエス様だけを仰ぎ見てイエス様を信じることです。

.いのちの木の実の生活。

 いのちの木の実の生活はこの世の物を求めず、イエス様だけで満足する生活です。そのような人々にはサタンが触ろうとしません。お金や権力、成功だけに価値を置く人や高慢な人をサタンは触ります。欲望を捨てイエス様だけに集中して満足する生活をすることです。「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」(Tテモテ6:6)私たちはイエス様だけを仰ぎ見て、今ある物で感謝する生活ができるように、主の御名によって祝福します。



2009111日  「幸福な家庭のビジョン」   エペソ5: 2233

今、多くの家庭が壊れ、大人も子どもも悲惨な苦しみを受けています。大人の傷が子ど

もに傷となり、その子どもがまた傷を受けるというように、不幸の連鎖が続きます。私たちは信仰によってその不幸の連鎖を断ち切るべきです。神様は私たちが幸福な家庭のビジョンを握って祈ることを願っておられます。神様は壊れたものを建て直す、いやしの神様です。聖書で教えている幸福な家庭のビジョンを握って祈るべきです。

1.幸福な家庭は夫と妻の良い関係から生まれます。

 聖書は妻や夫に対して次のように勧めています。「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。」(本文22節)「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも自分の妻を愛しなさい。」(本文25節)イエス様は十字架で死ぬほど愛してくださった妻や夫を愛しなさいと言われます。それならば誰が先に愛すべきでしょうか。“夫は妻のかしらです。”(本文23節)とあるようにかしらの夫が先です。イエス様がまず十字架で私たちに愛を示し、犠牲してくださいました。人類の初めのかしらはアダムであり、アダムは妻エバに神様の教えを教えませんでした。それで失敗しました。イエス様はみことばにより、私たちをきよめて聖なるものとしてくださいました。夫はみことばをもって家族を導くべきです。みことばをもって祈ると聖霊により力が与えられ、御心が成し遂げられます。

2.謙遜と従順。

 「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」(ピリピ2:3)世俗的な価値観で自分はこの部分では人よりもっと優れていると思うと高慢になります。夫と妻は役割が違います。夫は外の仕事をするし、妻は家の仕事をしながら子どもを産み育てます。だからお互いに尊敬しあい、謙遜になり、従順すべきです。イエス様が私たちにお手本を見せてくださいました。イエス様は神様なのにご自分を無にして仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。十字架の死にまでも従われました。それゆえ神様はイエス様を高く上げてくださいました。このように夫が謙遜になると妻が夫を尊敬し従順するようになります。妻がへりくだり従順すると夫が妻を尊敬し、すべてを任せるようになります。高慢になればお互いが壊れるだけです。

3.主の教育で教えるべきです。

 「父たちよ。あなたがたも子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」(エペソ6:4)どうして子どもが怒るのですか。それはこの世の教育をするからです。この世の教育は進化論的で強い者だけが優勢となり、弱者に押しつけるのです。どの子どもも誕生する時、神様から頂いた賜物があるのに、それを生かさないで大人は自分の成し遂げたいものを子どもに押しつけるのです。そこで問題が生じるのです。また結果だけを強調するので強者が残り、弱者を切り捨ててしまいます。これがこの世の教育です。この世で成功しても金儲けのためになんでもするような利己主義な人を育てることになります。そして結局は不幸な人間になり、神様からは「愚か者」と呼ばれるようになります。「良くやった。良い忠実な僕だ。」と神様から言われる人は本当に幸せな人です。子どもたちが幸せになるように私たちは主の教育で子どもを教えるべきです。



20081221「イエス様 インマヌエル」  マタイ1:1825

 私たちが神様から受ける最高の恵みはインマヌエルです。神様が私たちと共におられるという意味です。このインマヌエルはイエス様がこの地上に来られる700年前に預言者イザヤが神様から頂いた啓示です。イエス様は処女マリヤより生まれ、人類の罪を救うために聖霊によってお産まれになると神様が言われました。

1.インマヌエルは私たちの希望です。

 イエス様は飼い葉おけでお産まれになりました。私たちが希望をなくし、どのようにすればいいか途方にくれていいる時に、イエス様は私たちの所に訪ねてくださいました。もしイエス様が宮殿でお産まれになったとすれば私たちには希望はありません。貧しさ、苦しみのあるくさい臭いのする飼い葉おけでイエス様は命のパンとしてお産まれになりました。この方を信じる者は永遠の命が与えられ、過去、現在、未来のすべての罪が赦されます。たとえ私たちの現実がどんなに絶望で苦しくても、落胆しないで私たちと共におられるイエス様を仰ぎ見てください。この方を礼拝して下さい。そうすればメリークリスマスになります。この方を信じて受け入れると罪が赦され、病がいやされ、永遠の命が与えられます。

2.インマヌエルは愛です

 初めのクリスマスは喜びでもあり、悲しみでもありました。なぜなら私たちにとっては喜びのクリスマスですが、神様にとっては独り子であるイエス様が十字架にかかって死なれるためのクリスマスだからです。私たちの身代わりとなって死んでくださったその愛の中にインマヌエルがあります。私たちがイエス様から受けた愛を人々に与える時、これがインマヌエルです。全き愛には恐れがありません。自分を全部与えようとするからです。イエス様が私たちにすべてを与えられたように私たちも人々にすべてを与える覚悟をすれば恐れることはありません。全き愛は恐れを閉め出します。

3.インマヌエルは永遠の勝利です。

 イエス様は十字架で死んで3日目によみがえられました。人類の最大の敵である死を打ちやぶってよみがえられたイエス様は勝利の神様です。イエス様は今も生きておられます。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)イザヤは700年前に神様の啓示により、次のように預言しました。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父。平和の君』と呼ばれる。」(イザヤ9:6)イエス様は生まれることも死ぬこともよみがえられたことも不思議です。良きアドバイザーです。どうすればいいか分からない時に私たちに知恵を与えてくださる力ある神様です。私たちが自分の道を主にゆだねると主が成し遂げてくださり、導いてくださいます。私の過去、現在、未来をいやしてくださる方であります。人間の父、母は自分も傷だらけですので、子どもを忘れたり、捨てたりすることがあります。しかし、永遠の父なるイエス様は私たちを捨てることは絶対にありません。イエス様は平和の君と呼ばれる方です。私たちがクリスチャンになると心の中に平安が生じます。現代は終末の時代で戦争、地震、疫病など恐ろしいことが次々に起こっていますが、私たちには平安があります。私たちはこの世が生きる所ではない時には空中にひき上げられ、主の所へ行きます。涙もない苦しみもない叫びもない所へ私たちは呼ばれて、そこで永遠に生きるようになります。インマヌエルなる神様が私たちの希望、愛、勝利となられますよう主の御名によって祝福します。



2008年1214日     「祈りと施し」    使徒10: 16

 人は高い地位になって人々に仕え、みんなを幸せにすることもあれば、高い地位になった人によって人々が不幸になるケースもあります。何のために成功したいのかその目的が重要です。百人隊長のコルネリオはそんなに高い地位でもないのに力尽くして神様を尊い、祈って自分の植民地の人々に多くの施しをしました。それが神様に知られ、神様は天使を送って彼を祝福しました。今日は神様が喜ばれる祈りと施しに対して考えたいと思います。

 1.祈りと施しは祝福の選択です。

 百人隊長は千人隊長、軍団長、総督の人々の成功するやり方を学ばないで、彼は神様に祈り、施す方法を選択しました。この世のものを選んでこの世の生き方で生きる人もいます。しかし、この世はお金や権力があるときは人は友だちになってくれますが、これらがなくなると友人たちは全部離れていってしまいます。フランスの英雄ナポレオンはロシア征服に失敗して一人ぼっちになりました。自分の愛する妻にも逃げられてセントセレナ島へ流され、そこで死にました。しかし、祈りと施しを選択すると、それは一時的なものではなく、永遠に残ります。また施しを受けた人は長くそれを記憶します。チョーヨンギ先生が小学生だった時、若い女の先生から慰めと励ましを受けたことを今でもよく覚えておられ、今もその先生を探しておられます。植民地だった時に先生から良い施しを受けたからです。このように施しは良い選択です。

2.祈りと施しの順番

 祈りなしで施しをするとすぐ疲れます。被害意識に苦しめられます。自分は力がないのに続けて要求されると思うからです。霊的な力がないのにただ施しはいいものだからと自分の力ですると、すぐ疲れてしまいます。だから祈りが必要です。祈りは霊的基礎体力をつけるものです。祈りは信仰、聖霊を与え、教会奉仕、献金、NPO法人の奉仕もできるようになります。私たちが施しをするのを神様は見ておられますし、祈りも神様は聞いておられます。神様を意識すると、右の手がしたことを左の手が知らないように神様の前で働くことができます。人を意識してすると、賞賛されるのですが、嫉妬の炎が起こって人間関係がすぐ壊れてしまいます。人の前でする施しではなく、神様の前でするべきです。

3.祈りと施しは関心を持つ時、可能。

 祈りは神様に対して関心を持つことであり、祈ることによって神様に近づくことができます。十字架に近づくと神様が私をどんなに愛してくださったかが分かります。イエス様の両手両足の傷を見ると愛の深さ、高さ、長さ、広さが伝わってきます。その時、私たちはイエス様の愛をもって悩んで苦しんでいる人々の所に近づいていくことができます。強盗に襲われ、半殺しになっている旅人を見て、かわいそうに思い近寄って介抱してやったサマリヤ人のように、私たちも苦しんで困っている人に近づいて宿屋である教会に連れて来て、助けてあげなければなりません。その人のために時間を使い、物質も使ってお互いに助け合い、親切にする時、教会が希望の場所となります。終末が近づき、世界的に苦しみの多い時代になりました。私たちがこの時代に苦しんでいる人々に近づいていき、教会で団結して助けることができます。

00811月23日   「主の祈り」   ルカ11: 1〜13

 イエス様はよく祈られました。祈られた後のイエス様は聖い光、喜び、神秘的な感動に包まれておられました。弟子たちは「主よ。私たちにも祈りを教えてください。」とイエス様に頼みました。今日は主の祈りを通して皆さんと恵みを分かち合って行きましょう。

1.父よ。

子どもが父に対して何の傷もない時、パパとお父さんに呼びかけます。イエス様は私たちに神様を父として、パパとして表現されました。父の御名があがめられますように、とあるようにその御名は贖い、いやし、勝利、平安、羊飼い、義、主の栄光の臨在の名前です。御国が来ますように、というその御国はイエス様が持って来られました。イエス様の中に御国がありました。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」天の御国はあちらこちらにあるのではなく、御霊によって義、喜び平安として私たちの心の中にあるのです。

御心の天になるごとくとあるように、神様は強い願いを持っておられます。それは私たちの永遠のいのちであり、私たちの救いです。罪人一人が救われることを天国で義人99人が喜ぶことよりも、もっと神様は喜ばれます。神様の御心は私たちが救われることです。人々が救われることを私たちの目標として祈れば神様が必ず答えてくださいます。「何事でも神の御心にかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」(Tヨハネ5:14

2.日用の糧の祈り。

私たちは神様の形に創造され、鼻にいのちの霊を吹き込まれました。私たちは霊的存在であり、肉的存在であります。ですから私たちは霊的と肉的の二つの日用の糧が必要です。霊的な糧は聖霊です。イエス様は私たちの友ですので、イエス様にこれらの日用の糧を粘り強く祈り求めることです。私たちは霊的三つのパンである祈り、御言葉、聖霊を求めることです。環境よりももっと大きい方を仰ぎ見ることが祈りです。その方から来る御言葉、聖霊は御言葉を持って来られる神ご自身であります。このように霊的三つのパンを求めれば、すべてが与えられます。肉的な糧は職場、教育、衣食住、交通手段など肉を持って生活するすべてを意味します。

3.赦しの祈り。

 私たちが祈ったすべてのものは祝福のパイプを通して答えが来ます。しかし、パイプを詰まらせるのが赦せない心です。私たちが兄弟姉妹を心から赦さないと私たちの心は縛られてしまいます。赦せない人が自分の人生を支配するのです。憎しみ、恐れによって人生が支配されるのです。赦すことが祈りの答えの秘訣です。

4.試みに会わせず、悪より救い出してください。

悪魔が私たちを誘惑する時は肉の欲、目の欲、この世の暮らし向きの自慢を使って誘惑してきます。私たちは常に祈って罪に対して自分は死んだ者であり、キリストに対しては生きているということをいつも自覚することです。この悪魔に勝つ方法は真理しかありません。真理によって私たちは勝利することができます。

5.国と力と栄えとはすべて限りなく主のものです。

私たちが今まで祈った“国と力と栄光はすべて主のものです。”と祈る時、私たちの心は主の栄光で満ち、喜びで包まれます。私たちは、主イエス・キリストが持っておられるものと同じ祝福で包まれるのです。



2008
1116日   「神様に感謝せよ」  申命記16:12〜17

 神様は救われた私たちに“神様に感謝せよ。”と命令されました。年3回種を入れないパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りを守るように主は言われました。収穫感謝祭のこの日に恵みを分ち合いたいと思います。

1.種を入れないパンの祭り。

 イスラエルの民がエジプトで400年間奴隷の生活から解放された祭りです。エジプトの生活は苦役でした。エジプトの墓を造るのに動員されてむち打たれ、いやな仕事をさせられました。人間は生きがいのある仕事をすると喜びがあります。墓を造る仕事にノルマがかけられて、自分の首をどんどん締めるようなむなしい仕事でした。女性たちは命がけで子どもを生むと、男の子ならばナイル川に捨て、女の子ならばエジプト人のために残すというような悲惨な生活をしました。これは私たちのイエス様を信じる前の霊的な状態です。私たちがサタンの罪の奴隷になって無意味な無価値な仕事ばかりしてついに死んでエジプトの地に葬られる、これはサタンの国である地獄へ行くのです。そこでイエス・キリストが来られました。イエス様を信じ、イエス様の血潮を門柱とかもいにつけている家は呪いから解放され、種なしの者となりました。種とは罪のことです。刑罰、呪いがない、種を入れないパンの祭りは罪が赦され、呪いから解放され、意味のない仕事、両手、両足の呪い、頭の呪い、そのところから解放されました。イエス様の打たれた打ち傷によっていやされました。仕事のストレスはありません。なぜならイエス様が打たれたからです。イエス様と共に歩いていくので私たちは楽しいのです。子どもをナイル川に捨てるのではなく、ヨルダン川に投げ、バプテスマを受け、イエス様と共に生きるようにするのです。これが種を入れないパンの祭りの祝福です。

2.七週の祭り

 五旬節、刈り入れの祭りであります。小麦を収穫して主に感謝する、種を主から与えられたし、それを育てる雨を降らし、太陽を照らし、実が結んだことを主に感謝する祭りです。これは信仰の種であるみ言葉を与え、み言葉の中で教えられ、思いおこし、それで守られました。聖霊様によってであります。御霊によらなければ、イエス・キリストを主だと告白することはできません。五旬節の日に教会が誕生しました。リバイバルが来ました。私たちの信仰が守られたのは、聖霊様の恵みです。私たちはこの恵みに感謝しなければなりません。聖霊様に感謝するのが七週の祭りです。

3.仮庵の祭り。

これはイスラエルの最大の祭りです。7日間仮の宿に住むことです。私たちの人生は仮庵に住む旅人のようなものです。私たちが行く国はカナンの永遠の国、乳と蜜が流れる永遠の父の国です。そこは涙も病も呪いもない国です。喜びと平安が溢れている国です。聖書には「こういうわけで、もしあなたがたがキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」(コロサイ3:1〜2)と書かれています。私たちは将来を考えながら感謝すべきです。

4.感謝を表現すること。

感謝を心に思うだけではなく積極的に表現することが大切です。私たちが積極的に感謝を表現すると、私の周りの人々が祝福され、幸せになります。神様も栄光を受けられます。感謝をささげると私たちはもっと深くもっと祝福が大きくなっていきます。神様に積極的に感謝を表現する私たちとなりますように、主の御名によって祝福します。




2008年9月28日    
「信仰の栄光体験」   マルコ9:1〜8

 人間は世の中でさまざまな問題に会います。それでその問題をよく対処できないとストレスによって負けてうつ病になってしまいます。これに打ち勝って勝利するためには私たちの心の中で恍惚な喜びが必要です。この恍惚な喜びは祈る時に神様が私たちに与えてくださる栄光体験です。

1.弟子たちの栄光体験。

 イエス様はペテロとヤコブとヨハネだけを連れて高い山に導いて行かれました。そこで弟子たちは神の国の体験をしました。イエス様の御衣が非常に白く光り、彼らの前で御姿が変りました。エリヤがモーセとともに現われ、イエス様と語り合っていました。モーセは律法の代表者であり、エリヤは預言者の代表です。律法と預言はすべてイエス様の十字架とよみがえりによって成就されました。この神秘な体験の後でペテロは「私たちが幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」と言いました。しかし、全能の神様であるイエス様と被造物であるエリヤとモーセを同じレべルに置くことは大きな間違いです。人間を神のレベルまで高めようとするのは神秘主義者たちです。神秘体験をした者を大きく扱い、高めてイエス様と同じレベルにしようとするのは間違った考えです。私たちはイエス様を礼拝し、イエス様に従うべきです。

2.信仰の栄光体験の力。

 神様を体験すると私たちは力を受けます。イエス様は弟子たちに「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」(使徒1:4)と言われました。また「聖霊があなたがたの上に臨まれる時、あなたがたは力を受けます。そしてエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまでわたしの証人となります。」(使徒1:8)と言われました。証人とはwitnessであり、殉教を意味します。信仰の栄光体験の力により私たちはイエス様の証人となるのです。イエス・キリストの栄光体験は私たちにこの世に打ち勝つ力を与えます。天国は御霊によって義、喜び、平安であり、私たちの心の中にあるのです。力を受けると、イエス・キリストをこの世で証しする人になります。罪の赦しの栄光体験をすると罪が赦され、自分が新しく生まれ変ります。病のいやしの栄光体験、アブラハムの祝福の栄光体験をするとイサクのようにどこに行っても祝福がついて来る人になります。よみがえりの栄光体験をするとイエス・キリストのよみがえりと共に私たちはよみがえるのです。これは死の恐れに打ち勝つ力です。

3.栄光体験の目的。

私たちは栄光体験をしてイエス・キリストだけを見るようにしなければなりません。これが私たちに栄光体験をさせてくださる目的です。私たちは従順の人となり、真の礼拝者になることです。この世と自分は消え去って、ただ私を救ってくださったイエス・キリストだけが残らなければなりません。イエス様は栄光体験をされた高い山から降りて来られ、十字架にかかられました。また私たちの病をいやしてくださいました。この世は罪責感や苦しみで問題だらけです。私たちもイエス様と共にこの世の中へ下りて行かなければなりません。栄光体験の後でイエス様だけを礼拝し、イエス様だけに従うようにしなければなりません。私たちは苦しんでいる人々の所に行って、人々が私たちを通して喜びのグッドニュースを聞くようにしなければなりません。



20089月21日      「祈りとは」     詩篇34: 1〜22

 祈りは霊的呼吸運動です。息を吸って息を吐き出すように私たちが主を求めると、主が心の中に入って来られ、私たちの恐れが吐き出され、消え去ります。ダビデは「私が主を求めると、主は答えてくださった。私をすべての恐怖から救い出してくださった。」(本文4節)と告白しました。

1.あらゆる時に主をほたたえること。

ダビデはあらゆる時に主をほめたたえました。これが祈りなのです。ダビデが信じた神様は良き神様でした。ダビデが主を求めるとどんな時にも主が彼を助け出してくださいました。ダビデはサウル王から追われ、敵地のペリシテ人の地域へ逃れました。しかし、そこでダビデの顔を知っている人がいたので、彼は恐れ、気違いを装うことによって助かりました。それで、主をほめたたえました。自分がどんなに人から悪く思われても主は良き神様だと信じ、主を誇り、証ししました。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」(詩篇23:1)とダビデは主を誇りました。これを聞いた貧しい人々は慰めを受け、喜びました。またダビデは「私の口には、いつも主への賛美がある。」(本文1節)と言いました。賛美とは曲をつけた祈りです。心を合わせて賛美を捧げる時、その祈りの賛美には力があります。

2.祈りとは主を求めること。

 私たちが主を求めると主はいのちなる方ですから、私たちにいのちの空気が入ります。すなわち、赦し、愛、いやし永遠のいのちの空気が入り、恐怖が逃げ去ります。これが祈りなのです。

3.祈りとは罪を吐き出すこと。

 神様は私たちをエジプトから救い出し、今、荒野であるこの世を歩かせておられます。この世の物を見ながら恐れたり、不平不満をしたり、エジプトに戻ろうなどと言ってはいけません。私たちはいつも罪を吐き出し、主の恵みに感謝すべきです。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」とダビデは自分の魂に言いました。これが祈りなのです。

4.祈りとは信仰告白すること。

 「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」(マルコ11:24)祈ったらすでにもらったと信じ、与えてくださった神様に感謝することです。「彼らが叫ぶと、主は聞いてくださる。そして、彼らをそのすべての苦しみから救い出される。」(本文17節)とダビデは告白しました。私たちが信仰告白することが祈りなのです。



 2008年11月9日   「幸福のための決断」  ヘブル13: 1〜6

 私たちの心はとても重要です。私たちの心の決断によって幸福も不幸も決まります。この世の価値観であるお金や成功、権力、快楽から離れる決断をしなければなりません。また、他の人と比較しながら自分は幸福だ不幸だと言うようなことから解放される決断をしなければなりません。私たちは主だけを求め、主が私と共におられるということだけで満足する人にならなければなりません。

1.主の臨在を私の幸福とする決断。

主は臨在しておられるので私に“わたしはあなたを愛する。わたしはあなたを喜ぶ。”と語りかけてくださいます。これは無条件的な主の愛のみ声であります。この世は条件付きですのでその条件を聞いてしまったら不幸になってしまいます。無条件的に愛してくださる主の声、聖霊によって注がれる声を聞くべきです。「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」(ローマ8:16)私たちは無条件的にイエス様に愛されています。毎日聖書を読み、御言葉を口ずさんで黙想してください。主の臨在を私の幸福とする決断をしなければなりません。

2.心の中のごみを掃除する決断。

私たちはこの世で生きる時、心の中がごみのようなものでいっぱいになることがあります。例えば憎しみ、怒り、不安、恐怖、否定的な思い、挫折感、私たちが理解できない程の失敗、苦痛、事故、どうして私にこのようなことが起ったのだろうかという思い等です。しかし、私たちは幸福と不幸を私の心で決めるのです。「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:23)と書かれています。私が不幸を不幸だと認めない限りは不幸にはならないのです。納得できないほどの大きな自動車事故に会った女子大生のイ・チソンさんは体の55%をやけどしてしまいました。あまりにも哀れな自分の姿に何度も死のうと思いました。しかし、彼女が立ち上がることができたのは、主を仰ぎ見たからです。“わたしはあなたのありのままを愛する。あなたがそのようなったのは、あなたのように絶望している人を慰める器になるためだ。”という主の声を聞きました。彼女はこの主から与えられた使命を握り、幸福を手に入れました。私たちも心のごみを掃除して、忘れるべきものは早く忘れ、使命を握って前進することです。

3.積極的に人に良いことをする決断。

 家族に温かい言葉、賞賛の言葉、励ましの言葉をかけることです。教会でもお互いに愛し合い、祈り合うことです。この兄弟愛はイエス様から来るものです。家族や教会を愛し、その愛を社会に広めていくのです。私たちはNPO法人の活動を通して社会の最も弱い人たちに愛の手を伸べることができます。生活の困窮者、アルコール中毒者、ハンディを持っている人たちを助けることです。このことは実は主を助けることになるのです。「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」(マタイ25: 40)とイエス様は言われました。私たちが幸福になるための決断をすることができますように主の御名によって祝福します。



 
200811月2日   
「箱舟に入りなさい」   創世記7: 6〜16

 イエス様はこの世の終末はノアの時代のようになると言われました。ノアの時代には罪があふれ、神様は人間を造られたことを悲しまれました。堕落してしまった世を嘆かれ、これを新しくするために雨を降らして洪水によって審判されました。神様はノアを愛し、箱舟を造るように命じられました。彼は箱舟を120年かけて造りました。彼と彼の家族は箱舟に入って7日後、神様は彼のうしろの戸を閉ざされました。それから40日40夜雨が降り続き、すべての生き物は死に絶えました。ただ箱舟にいたものたちだけが残りました。このように全地はすべて消え去ります。しかし、神様のみ言葉は永遠に残ります。1.箱舟は唯一の避難場所です。

 箱舟はただ水の上に浮かぶように設計されました。内と外を木のやにで塗りました。やにというのはカパールと言って覆う、贖うという意味です。イエス様の血潮で贖うことをカパールと言います。カパールで覆われた箱舟は洪水の審判で守られ、救われました。このように神様はイエス様の血潮で覆ってくださった教会を避難場所として造ってくださいました。箱舟の中には私たちのすべてがあります。この世に対しては全部失って捨てました。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私がこの世に生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20

2.箱舟に全家族が入らなければなりません

箱舟に全家族が入ることによって救われました。箱舟から離れたら救いはありません。ノアの家族は全部従順して箱舟に入りました。しかし、ロトの家族は審判のみ言葉を聞いても、娘婿たちはそれを冗談だと思いました。神様のみ言葉を冗談だとして軽々しく扱かうと滅びるのです。だから神様が再臨されるというみ言葉やこの世を審判されるというみ言葉を冗談だと思ってはなりません。ノアのように箱舟に入らなければなりません。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31

3.箱舟の中での生活。

箱舟は三階建てになっていて、最上階には天窓がついていました。一階は箱舟に入れてくださった神様をほめたたえ、救われた感謝の生活がありました。ニ階は食物がありました。この食物とはみ言葉を意味します。家族にみ言葉を与え、動物に食物を与えました。これは牧会を意味します。牧会は牧師だけがするのではありません。私たちが互いに愛し合って奉仕すること、これが箱舟の生活であります。三階は天窓があり、ただ上だけを見るように設計されていました。神様の御顔だけを見て生活することが箱舟の生活です。洪水で生き物が死んで行く神様の審判をノアが見続けていたとすれば、きっとノイローゼになっていたでしょう。私たちは信仰の創始者であり、完成者であるイエス様から目を離さないことです。そうすれば信仰と希望が与えられ、愛と喜びと平安が与えられます。私たちはいつも暗やみではなく、肯定的な明るい光を見るべきです。神様を愛する者はすべてが益となるからです。私たちはこのような箱舟の生活が終ったら、永遠の新しい天と新しい地に着くことになります。この世のいじめや悪がすべてなくなってイエス様の御国に入ることができます。その御国に行くために私たちは箱舟に乗りました。降りることはありません。天国へ行くまで進んでいくのです。




 2008年9月14日   「天国・宝・真珠」  マタイ13: 44〜46

今日の本文は神の国を宝・真珠として表現しています。神の国はイエス様が治める国です。イエス様が私たちの心を治める時、すばらしい宝を見つけることができます。

1.宝・真珠の例えの共通点。

例え話の中に“見つける”という言葉が出てきますが、これは価値を発見するということです。農夫は畑に隠された宝を見つけました。ユダヤの法律では見つけた人のものになります。しかし、畑は自分のものではないので、自分の持ち物を全部売り払ってその畑を買いました。また、良い真珠を捜している商人がすばらしい値うちの真珠を見つけたので持ち物を全部売り払ってその真珠を買いました。宝や真珠に価値を見出したからです。worshipとはworth 価値を置くこと、即ち礼拝のことです。イエス・キリストは私たちの罪の赦しであり、いやしであり、永遠のいのちであります。そして聖霊の実を与えてくださる宝であります。こんなにすばらしい宝の価値を知らない人々はかわいそうです。教会に通いながらもイエス・キリストを宝として見ることができない人はまだ放棄していないものがあるからです。イエス・キリストに価値を見つけ、すべてを売り払ってイエス・キリストが与える国を買うことができることはすばらしいことです。この二つの例えの共通点は価値を発見するということです。

2.この二つの例えの差。

 @農夫は宝を思いがけなく、期待もせずに偶然見つけました。ベツレヘムで羊飼いたちにメシヤの誕生が偶然知らされました。彼らは全然期待もしていませんでした。しかし、天使たちが「きょうダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:11)と知らせました。このように私たちは捜し求めなかったのに啓示が与えられ、イエス・キリストを見つけ出したのであります。「わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに見つけられた。わたしはわたしの名を呼び求めなかった国民に向って『わたしはここだ。わたしはここだ。』と言った。」(イザヤ65:1)A真珠を捜し求める商人は、一生懸命真理を求める人を意味します。東方の博士たちのようにメシヤの誕生を知らせる星を研究し、その星を見つけ星について行きました。すると、イエス様が誕生された所にたどり着くことができました。この二つの例えには差があるということが分ります。

3.発見した宝と真珠を所有するための決断。

 価値だけを知っていてそのままなにもしないでいると、宝と真珠は自分のものになりません。発見した宝と真珠を所有するためには決断が必要です。価値あるものを見つけたら、すべてを売り払って価値のあるものを所有すべきです。天国はそのような人々のものです。イエス・キリストは太陽のようです。太陽の光があればローソクの光は必要ありません。私たちが今まで楽しんでいたものは、神様が与えてくださる喜び、平安、祝福とは比べることができません。今まで楽しんでいたものは、価値のないものになってしまいます。イエス様を見つけた人は何もかも売り払ってイエス様を得ようとするのです。私たちはイエス様を見つけるのに邪魔するものを全部売ってイエス様だけを獲得し、愛するように主の御名によって祝福します。

 



2008年9月7日    「深みに漕ぎ出して」   ルカ5:1〜11

 イエス様はペテロに「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚を取りなさい。」と言われました。これは霊的に重要な意味を私たちに教えています。神様は私たちの信仰が浅い所でとどまるのではなく、もっと深い所に漕ぎ出すことを願っておられます。信仰は知識ではなく、体験です。ペテロは今日の本文のような体験をしてから、もっとイエス様を深く知ることができました。

1.シモン・ペテロのからの舟に訪ねて来られたイエス様。

イエス様はペテロの招待を受けて来られたのではなく、主権者として一方的にペテロの舟を選び舟に乗ってくださいました。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ15:16)ペテロは夜通し働いて魚をとろうとしたのですが、一匹もとれませんでした。その失望、失敗、疲れ、恐れがある舟の所にイエス様が来られたのです。ペテロのからの舟をイエス様が用いられたのです。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:3)ペテロの舟に来られたイエス様は、彼に群衆を教えるために陸から少し舟を漕ぎ出すように頼まれました。群衆に向っての話が終った後でイエス様はペテロに「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われました。これは漁師のペテロにとって、常識では考えられないことでしたが、従順しました。すると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになりました。そこで仲間の者たちに助けを求め、ニそうの舟は魚でいっぱいになり、沈みそうになりました。イエス様の祝福とは私が祝福されるだけではなく、仲間の友だち皆も祝福されるのです。

2.もっと深い信仰の世界に漕ぎ出しなさい。

魚がいっぱいになったことだけで私たちは満足してはいけません。私たちはもっとキリストの深い信仰の世界へ入らなければなりません。ペテロはイエス様をただ“先生”とだけ思っていました。しかし、この体験の後ペテロは、イエス様を“主”と呼び、ひれ伏しました。“私は罪深い人間です。”と私たちが神様の御前でひれ伏す時、それは人間として一番祝福された状態です。イエス様の足もとにひれ伏したペテロは罪が赦され、聖霊を体験しました。私たちがひれ伏すとそこに主がおられます。イエス様はベツレヘムという低い所に来られ、十字架の死にまで従われました。十字架の恵みはへりくだった人に罪の赦しとして、病の癒しとして、永遠の命として流れてきます。

3.イエス様から使命を与えられたペテロ。

 イエス様はペテロに「あなたはこれから後、人間をとるようになるのです。」と使命を与えられました。ペテロは何もかも捨ててすぐイエス様に従って行きました。その結果、聖霊を受けたペテロは、説教すれば3000名が救われ、またある時は5000名が救われました。ペテロという天国の網を通して教会がリバイバルされたのです。日本のリバイバルも同じです。神様の前でもっと深い所に漕ぎ出し、聖霊に満たされた人々が聖霊の網をおろした時、神様が与えられる祝福であります。人間をとるリバイバルが皆さんを通して起るように主の御名によって祝福します。


 2008831日    「人生の整備点検」  Tヨハネ4:18〜21

私たちは乗り物をいつも点検しなければならないように、人生も点検しなければなりません。すべて今あるものは原因があったから、その結果として今現われているのです。毎日整備点検をすることによって、平安な人生を手に入れることができます。

1.私たちの思い、考えの整備点検。

私たちの思い、考えは夢とビジョンになり、言葉となり、行動となり、運命となります。ですから思い、考えはとても重要です。「力の限り見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから沸く。」(箴言4:23)とあるように、毎日心で何を思っているかによって命と死が決まるというのです。否定的な思いは、サタンから来るものです。ですから私たちの思い、考えを整備点検しなければなりません。大富豪であったヨブは、神様に対して間違った考えをしていました。彼は財産をすべて失った後でこのように言いました。「私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。」(ヨブ3:25)恐れには刑罰が伴います。恐れを締め出すのは愛です。「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。」(本文18節)全き愛とは十字架の赦しの愛です。私たちに御子さえも惜しまずに与える愛、いやしの愛、祝福の愛、永遠の命を与える愛であります。いつも十字架の愛を仰ぎ見ながら、心の奥底からいつも愛の声が沸き出て、すべての恐れを追い払うようにしましょう。

2.夢とビジョンの整備点検。

他の人を不幸にしたり苦しめたりする夢は間違った夢です。神様を愛する夢や、また人を愛する夢は良い夢です。神を愛する夢、また人を愛する夢ならばそれは必ず実現されます。私たちは夢を点検しなければなりません。マーティン ルーサー キング牧師の夢は実現しました。キング牧師は“I have a dream. We shall overcome someday. Oh, deep in my heart, I do believe.”と夢を語りました。黒人解放のために夢見た夢が今、実現されています。アメリカの黒人大統領候補が誕生しようとするまで前進したのであります。

3.私たちの聞く耳の整備点検。

 間違ったことを聞くと争いや恐れが生じます。聖霊の声を聞くと力と強い確信で満たされます。「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」(Uテモテ1:7)私たちが聖霊様の力と愛と慎みの霊を受けるためには、熱心に賛美したり、聖書を読むことです。また説教を集中して聞くことです。そうする時、私たちの耳は点検され、いやされます。

4.言葉の整備点検。

「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」(箴言18:21)否定的な言葉を言っていると否定的な実を結びます。肯定的、信仰的な言葉を言い続けるとそのようになります。私たちは肯定的、信仰的になるためには、私たちの主イエス・キリストから目を離してはいけません。イエス様を仰ぎ見ると信仰告白することができます。しかし、イエス様から目が離れてしまうと、ペテロのように水におぼれ、死にそうになります。神様の導きとみ言葉を仰ぎ見ていつもできるという告白をして、前進していかなければなりません。私たちの信仰告白を神様が聞かれ、その通りに実現してくださいます。私たちの言葉をいつも点検して否定的にならないようにしなければなりません。私の口がいつも命の言葉、いやし、祝福、永遠の命の言葉で満たされるように主の御名によって祝福します。



2008824日     「捨てると得る」   ピリピ3: 4〜9

 「捨てて勝つ」という本の中で今までの常識や物質力、地位、官能的快楽等を捨てることによって勝利を得ることができ、また自分の命を捨てようとする時、まことの自分を見つけ、命を得ることができると書いてありました。イエス様は「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」(ヨハネ12:25)と言われました。すべてのものを捨てて、キリストを得ることが私たちの信仰生活の目標であり、まことの勝利であり、成功であります。神様は祝福しようとする人々にいつも捨てる訓練をしました。

 1.アブラハムの放棄と得たもの。

アブラハムは神様の召命によって生まれ故郷の自分の家を出て、神様が示す地へ行きました。そこは現在のエルサレムであり、イエス様が十字架にかかられた所、教会が誕生した所です。「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:23)このようにアブラハムは神様から祝福されましたが、彼は何度も捨てる訓練を受けました。イシュマエルとハガルを捨てました。また100才で産んだイサクを捨てました。しかし、神様はイサクを生かし、祝福してくださいました。アブラハムの子孫としてイエス・キリストが生まれ、全世界の数えきれない人々がアブラハムを父祖とするようになりました。このようにアブラハムはすべてを捨てた結果、神様から溢れるばかりの祝福を得ました。

 2.ヨセフの放棄と得たもの。

 ヨセフはポティファルの妻の誘惑を日夜受けましたが、主人から任されていないものには決して触りませんでした。神様がヨセフと共におられたのでヨセフはどこにいても成功しました。牢の中にいても祝福され、後には総理大臣になりました。神様はヨセフを通して成し遂げようとする計画を全部成就されました。ヨセフによってエジプトのゴシェンという地域に400年間過ごし、わずか70名のイスラエル人は繁栄し祝福され200万名にもなりました。このような神様の計画は、肉の欲、目の欲、この世の暮らし向きの自慢の罪を捨てる時、得られます。私たちも捨てるべきものを捨てると得ることができます。

 3.パウロの放棄と得たもの。

パウロは人間的にはきっすいのヘブル人で律法についてはパリサイ人であり、誰からも非難される所のない立派な偉い人でした。しかし、彼はすべてのものをちりあくたと思ってそれらを捨てて、キリストを得ました。異邦人の教会が誕生したことにより、ユダヤ人でない私たちも希望が持てるようになりました。もしパウロがユダヤ人であることに固執していたら私たち異邦人は救われなかったでしょう。パウロはキリストのためにすべてを捨てた結果、私たちが救われました。国家的祝福もあります。歴史家アーノルド・トインビーは、パウロを乗せた船はヨーロッパの文明を乗せた船だと言いました。ヨーロッパは野蛮な国々でしたが、パウロによって福音が異邦人社会に入るや否やすべての国々は文明国家になりました。アメリカもそうです。聖教徒たちが信仰の自由のためにアメリカに渡った結果、信仰の基盤に立った国となり、世界で一番影響がある国家になりました。私たちがキリストのために捨てたらキリストを得、100倍の祝福を受けます。



2008年8月17日    「安息日の祝福」     創世記2: 1〜3

神様が天地万物を創造された後、第7日目になさっていたすべてのわざを休まれました。そして、私たち人間に安息を与えてくださいました。

 1.安息日は創造の完成であり、人間の初まりの日です。

神様は6日間かかって天地万物を完成されました。そして、第7日目になさっていたわざの完成を告げられ、安息に入られました。神様は第6日目に人間を造られ、人間は目を開いて見ると安息が備えられていました。神様が人間を造られたのは、神様と一緒に安息するためであり、神様から愛されるためです。私たちがいばらとあざみの人生を送るためではありません。神様は安息日に愛と喜びと平安と安息を与え、6日間を打ち勝って生きる力を私たちに与えてくださったのです。

2.新しい契約の安息日は、よみがえりの主の日です。

 旧い契約は天地万物の創造が中心です。そして、第7日目に休まれました。しかし、人間が堕落した結果、この安息を失ってしまいました。イエス様はこの安息を取り戻すために天から下って来られました。イエス様は私たちの罪を背負って十字架に付けられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目によみがえられました。イエス様がよみがえられた日は旧約の安息の翌日であり、第八日目になります。私たちがre creation(再創造)される時間でありました。

 3.主日を守る人々は祝福されます。

神様は主日を守る人々を聖別してくださいます。神の安息を守る人々に神様が聖別して“あなたがたは主のもの”というしるしを付けてくださいます。(出エジプト31:13)私たちクリスチャンは安息日を守ることによって祝福され、この世の人々と聖別されます。@主日を守るとイエス様から罪の赦し、病の癒し、呪いからの解放を頂きます。A聖霊を受けることができます。人々に聖霊が臨んだペンテコステの日も主の日でした。「私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。」(ヨハネの黙示録1:10)聖霊が臨まれて、教会が誕生しました。パトモス島で強悪な囚人たちと一緒に生活したヨハネは聖霊によって彼らが皆、リバイバルされ、教会が生まれました。その当時、ヨハネが黙示録を書くためには膨大な財産と協力者がいないとできない時代でした。ローマの兵士たちもクリスチャンになったので、そこで黙示録が書かれるようになりました。B主日は永遠の命を得る安息日です。私たちは主の日を守ると永遠の命を頂くことができるのです。 

 4.どのようにしたら主日を守れるのでしょうか。

  「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」(出エジプト20:8)と神様は十戒の中で教えておられます。主の日を覚えることが大切です。パトモス島に島流しになったヨハネは主日を覚えていました。厳しい環境の中でも彼は主の日を覚えました。そして、その日を最優先しました。王の王、主の主との約束の日ですから、他のスケジュールは当然キャンセルすべきです。このようにいつも主を最優先して第一にもてなすことです。主を軽じると主も私たちを軽んじられます。「わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる。」(Tサムエル2:30)と神様は言われます。私たちは主の日を大切にし、その日を覚え守りましょう。



2008810日  「強くあれ、雄雄しくあれ」  ヨシュア記1:1〜9

私たちが知らない世界に入っていくためには勇気が必要です。神様がモーセの後継者ヨシュアに新しい約束の地に入る時に「強くあれ、雄雄しくあれ」と言われました。この大胆な信仰を持つための秘訣を皆さんと一緒に考えてみましょう。

1.主だけを仰ぎ見て前進することです。

 イスラエルの民は契約の箱が前に進んでいき、後についていきました。2000キュビト(約1km)後についていきました。契約の箱は神様の臨在です。神様の御座のある所です。神様の御座のある所を見ながらついていきました。それで勇気を失うことはありませんでした。私たちが勇気を失うのは、自分が今していることは本当に大丈夫なのか、方向は正しいのかということで不安に思っているのです。しかし、神様が共におられるし、私の前に進んでおられるのです。私たちの現在の契約の箱はみ言葉です。み言葉を読んでそれが自分に何を語っているか、また何を悔い改めたらいいか、そして自分にどのようにみ言葉を適応したらいいかをQT(黙想の時間)を通して学ぶことです。主のみ言葉が確信を与えるので強く、雄雄しくあることができます。

2.良き神様であることを信じることです。

 神様は十字架で私たちの身代わりとなって死んでくださるほど良き神様です。神様に対して間違ったイメージを持っている人々がいます。彼らはついていったら審判を受けるし、破滅するのではないかと思って恐れ、不安になるのです。「主は私の羊飼い。私は乏しいことはありません。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」私が間違った道に行く時に主は必ずむちと杖を用いて正しい道に導いてくださいます。「たとい死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。」人間は自分が決めたものや自分がやったものが本当に大丈夫かと失敗に対する恐れがあります。失敗したと思って自分を責めたりします。私たちはその必要がありません。失敗も私たちの限界もすべて神様の想定の中にあります。こういったすべてのものが神様の大きな設計を変えることはありません。すべてが益となります。だから私たちは神様が私たちのために決めて導かれることは必ず成るのだと思うと強く雄雄しくなります。一度決めたものを振り返って悔やんだりしないでまっすぐ進んでいきましょう。

3.主の喜ばれる生活をする時、大胆になります

 私たちが良心のかしゃくを受けないで主の前で大胆にやる時、私たちが出ることができるし、主を求めて主を喜ばせることができます。主を喜ばせることは神の国とその義です。これはユニバーサル教会です。ユダヤ人の救われた人々と異邦人の救われた人々が一つになって一人の人になることです。これはイエス・キリストの妻になることです。イエス様は夫です。そのために祈る人は神様が用いてくださいます。「主はシオンからあなたを祝福される。あなたはいのちの日の限り、エルサレムの繁栄を見よ。あなた子らの子たちを見よ。イスラエルの上に平和があるように。」(詩篇128:5〜6)イスラエルはユニバーサル教会です。そのために祈っている所にはこれらのすべてのものが与えられる、あちらこちらでこのような祈りをしている所で今リバイバルが起っているのを私たちは見ることができます。不思議なリバイバルが今、世界中で起っています。イエス様の再臨が近づいているからであります。私たちが住んでいる日本に希望が与えられるものです。どんな人でも悔い改めて主を喜ばせるようにすると、用いてくださいます。苦しんでいた日本も用いてくださいます。

 

2008年8月3日  「嫉妬から解放の道」   Tサムエル18:6〜16

嫉妬は私たちの全人生を破壊するほど強力なパワーを持っているエネルギーです。嫉妬

する人を思い出すたびに嫉妬の感情の沼に深く深く沈んでしまうのです。私たちは嫉妬から解放されるべきです。王サウルは「サウルは千を打ちダビデは万を打った。」という女性たちの歌を聞き、サウルはダビデに対して嫉妬しました。そして、この嫉妬により彼の人生は狂ってしまいました。嫉妬から解放される道を一緒に学んでいきましょう。

1.嫉妬は神様の前で悔い改めるべき罪です。

 嫉妬は悔い改めるべき罪であることを神様に告白しなければなりません。嫉妬に陥いると自分の可能性を全部失ってしまいます。サウルは神様から油を注がれるほどすばらしい賜物を持っていました。しかし、彼は嫉妬の故にその賜物を充分に発揮できず、失ってしまいました。嫉妬は初め羨ましいところから始まって妬みとなり、憎しみとなり、ついには怒り、殺人にまで大きく膨らんでいきます。これは悪い霊からきます。「神からの悪い霊がサウルに激しく下り、彼は家の中で狂いわめいた。」(本文10節)とあります。彼の手には人を殺す槍がありました。嫉妬は神様の前で悔い改めなければなりません。

2.私を造られた神様を覚えて、神様と交わりを持つことです。

神様が造られたものにはすべて意味があり、目的があります。私たちは人と比較してはいけません。ナンバーワンではなく、オンリーワンを目指すべきです。私たちは神様の目で自分を見、また他人を見るべきです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)と神様は言われます。私たちはイエス様の血潮によって贖われたものであり、尊い主の血潮が私たちの代わりになったのです。私たちはこの感情をずっと維持しなければなりません。そのためには主との交わりを持つことです。主にいつも耳を傾けるべきです。この世の中で耳を傾けるといつも嫉妬心が生じます。この世の価値規準で人を批判し、審いてはいけません。神様によって自分がどんなにすばらしく造られたのか、いつも主の前で祈り、主からそれを聞くべきです。そうすることによって私たちは家族を、そして隣人を愛することができるのです。

3.嫉妬から解放される道は相手を祝福することです。

 嫉妬は悪霊から出たものですから、悪霊が追い出されるのは私たちが積極的に相手を祝福する時です。私が決心するだけでは長続きしません。しかし、私たちが相手を祝福し、とりなしの祈りをすると、聖霊に満たされます。私たちは神様までも祝福することができます。私たちの心が祝福で満たされると悪霊が触わることができません。サウルが自分の心の中で神様に栄光を返し、神様を祝福し、賛美していたとすれば“サウルは千、ダビデは万”と比較して歌っても心が揺り動かなかったと思います。神様がダビデをこの国のために用意されたのだと神様を褒め称えたと思います。これが聖霊の働きです。聖霊の働きを受けたダビデはいつもサウルを尊敬し、どんなにいじめられても王サウルを大事にしました。ダビデは神様の御心に合う人になりました。サウルは自分中心の信仰生活をしたので、聖霊様が彼から離れてしまいました。私たちはダビデのように相手を最後まで祝福し、神様を賛美する人にならなければなりません。賛美の中に住まわれるイエス・キリストがダビデの子孫として来られました。相手を祝福すると私たちが祝福され、勝利します。



  2008727日「エルサレムの平和のために祈れ」詩篇122:5〜6

「エルサレムの平和のために祈れ」(本文6節)これは祝福をともなった神様の命令であります。エルサレムの平和のために祈ると私たちが栄えるというのです。

1.エルサレムは神様の御座があり、審判の座があった所でした。

神様は天から来られて、罪を審判し、私たちに平安を与えてくださいました。罪があるままでは平安がありません。エルサレムの平和のために祈る、どうして平和が来るかというと義と平和が口づけをするのです。義と平和は区別することはできません。一つです。この義は天から下って来ると言われます。(詩篇85:10〜11)天から神の子、イエス・キリストが来られて私たちに平安をもたらします。イエス様が罪を十字架で背負って刑罰を受けられました。シオンには審きの座があります。アブラハムがイサクを捧げたモリヤの山、ヘロデの聖殿があった所、イエス様がそこを壊しなさい、三日で建てると言われた所であります。イエスキリストは平和です。「彼(イエス・キリスト)はそむきの罪のために刺し通され、咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼への打ち傷によって私たちはいやされました。」(イザヤ53:5)イエス様なしの平和はありえないことです。ただ政治的、経済的、外交的手段で平和を得ようとするのです。ユダヤ人は第三の聖殿を建てて、これは反キリストです。あとで彼らは砕かれて、だまされたと叫びながら悔い改めます。第三の聖殿を建てようとするので、イスラム圏もテロを起して必至に戦っています。イエス様なしには平和はありません。

2.エルサレムは救いの完成地です。

神様が人類の救いの人を送ってくださいました。しかしユダヤ人たちはかたくなにこれを断りました。それで福音が異邦人である私たちに伝わりました。異邦人の数が満たされたら、ユダヤ人たちは7年の患難を通して救われるのです。エルサレムは今準備されているのです。エルサレムは最後のために神様が特別に守っておられるのです。一瞬のうちにエルサレムは建てられました。「だれが、このような事を聞き、だれがこれらの事を見たか。地は一日の陣痛で産み出されようか。国は一瞬にして生まれようか。ところがシオンは、陣痛を起こすと同時に子らを産んだのだ。」(イザヤ66:8)イスラエルは陣痛が起ると同時にイスラエルは建てられました。イスラエルは1948年5月14日に独立してから6日戦争が起りました。これは第一中東戦争であり、第二、第三中東戦争が続いたのですが、神様はいつもイスラエルに勝利を与えました。これは異邦人の終わりの時までであります。「人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。」(ルカ21:24)今異邦人の時が終りに近づき、ユダヤの時期が来ました。サタンは自分の時があまり残っていないことが分り、激しく怒ってこの地上に下ってきたのです。今世界中が大混乱で進んでいき、愛が冷たくなってきています。

3.私たちはエルサレムの平和ために祈るべきです。

私たち異邦人はユダヤ人たちに負債があります。ユダヤ人たちが私たちに福音を伝えたからです。聖書も伝えました。だからユダヤ人たちが救われるために今私たちはユダヤ人たちのために祈るべきです。イエスキリストを平和の王として迎え入れて、彼らが祝福され、永遠の命が与えられるように祈るべきです。そのような人々に神様は祝福を約束されておられます。イエス・キリストによって義・喜び・平安が、また再臨の時が分ります。時計です。最後の祭りがそこで終るのです。方向性が分るのです。Back to Jerusalemで生きるか、どうして食べるのか、目標が分るようになります。イエス様の再臨のためです。神様の約束は永遠に変ることはありません。私たちは1900年ぶりにイスラエルが建国されるのを見ました。神様の約束は必ず成就されます。国が一瞬の内に建てられます。神様が約束しておられます。「これらのことをあかしする。方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。」イエス様は約束通り再臨されます。



 20087月13日    「実が結ぶ信仰」    ルカ5:17〜26

イエス様はカペナウムのある家で説教されました。しかし、多勢の人のために中風で病んでいる人はそこへ行くことができませんでした。すべてのハンディキャップを乗り越えて罪が赦され、いやされました。この信仰の秘訣を考えたいと思います。

1.中風の人とその友だちの信仰は期待感を持っている信仰でした。

 「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)イエス様の所に来る時に私たちは期待感を持って近づかなければなりません。彼らは期待感を持っていたので、環境的な障害は何の問題もありませんでした。イエス様に会えばいやされる、赦されるという信仰でした。その信仰をもってイエス様に近づきました。多勢の人々がいたのですが、期待もせずただ見物し、批判する人は何の解決もありませんでした。期待をもって行った人々はいやされました。

2.彼らは愛の情熱を持っていました。

中風の友人を何とかいやしてあげたいと彼らは愛の情熱を持っていました。人をいやす愛の情熱、人が幸せになることを願って強く燃えていました。結局彼らに立ち塞がる問題は、問題になりませんでした。アイディアが浮かびました。不可能が可能になるアイディアでした。屋上に上って屋根を壊すというアイディアでした。神様も私たち人類を救う計画に燃えておられました。イエス様がひとりのみどりごとしてお生まれになるという計画です。力ある神、永遠の父がみどりごとなって私たちの罪を全部背負って十字架につけられ、私たちを救ってくださるという計画です。イエス様は葬られ、三日目によみがえられました。これは神様のアイディアです。知恵です。そしてイエス様は再臨されます。1900年間イスラエルは国がなかったのですが、神様の熱心によって回復されました。イエス様が再び来られるための土台です。Back to Jerusalemのために祈っていきましょう。

3.彼らはどんな犠牲をも払うことを決心しました。

 他の人の家の屋根を壊してしまったので、多額の修理費を払う犠牲を覚悟しました。お金よりもこの中風の友だちがいやされる方を優先しました。真の信仰は犠牲が伴います。イエス様は私たちのために一粒の麦として犠牲されました。そして多くの実を結んだのであります。犠牲することによって私たちは実を結ぶ信仰を持つことができます。イスラエルのアハブの時代にアシュタロス崇拝者たちが雨を降らすと言っていました。しかし、エリヤは神様の命令がなければ絶対雨は降らないと言いました。そして、本当に雨が降らなくなりました。神様がエリヤを貧しいツァレファテのやもめの所に行かせました。やもめに次のように教えました。「まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後にあなたとあなたの子どものために作りなさい。」(T列王記17:3)やもめは一握りの粉とほんの少しの油で一食食べて、子どもと一緒に死ぬつもりだったのでずが、この命令に従って犠牲した結果、やもめの家は長い間かめの粉は尽きず、つぼの油はなくなりませんでした。私たちは犠牲する信仰を持つことが大切です。



200876日    「拒絶感からの解放」  創世記28:10〜22

人間は誰でも拒絶感の傷をもっています。これは原罪のようなものです。アダムがエデンから追放された時からのものです。初めの人間は神の栄光の臨在で溢れ、愛、喜び、平安で満ちていました。主の臨在の中で人間は幸せに暮らしていました。しかし、サタンの誘惑によってその幸せを失ってしまいました。それで人間が感じたものは拒絶感でした。ヤコブの人生を通して拒絶感から解放される道を学んでいきたいと思います。

1.ヤコブを訪ねて来られた神様

 ヤコブとエサウは双子でした。ヤコブはエサウのかかとを握って出てきました。父イサクは長男エサウを二男のヤコブよりも愛していました。父の愛を受ける方法は長子の権利を所有するしかないと思いました。ヤコブは自分の手段、方法で長子の権利を奪い、父の按手までも受けました。それで自分も父から愛されると思いました。しかし、エサウの怒りをかって逃げる人生になりました。逃げて疲れて拒絶感で苦しんでいる時、神様が訪ねて来られました。天からはしごが下りてきて御使いたちが上り下りするのを見ました。アブラハムの神、イサクの神がそこに立っておられました。そしてヤコブを祝福してくださいました。

2.神様がヤコブをいやしてくださいました

 拒絶感で苦しんでいたヤコブに神様は「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこに行っても、あなたを守り、、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしはあなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」(本文15節)と言われました。私たちが拒絶感からいやされるのは、真の権威を持っておられる全能の神様から愛されているという愛を発見した時です。ヤコブは神様が自分を一度も捨てたことがないし、忘れたことがないということを確認した時、ヤコブのすべての傷は雪が溶けるように全部、溶けてしまいました。「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」(イザヤ49:16)わたしはあなたを忘れないと神様は言われます。ヤコブは神様のいやしを体験しました。

3.拒絶感から解放される道は礼拝です。

ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそぎました。そして、そこで礼拝を捧げました。礼拝というのはヘブル語でシャーハー(ひれ伏す、かがめる)英語ではワーシップ(価値がある、あがめる)と言います。礼拝とは、価値ある神様のみ言葉の前にひれ伏すことです。自分が受けた間違った教育、知識、感情、意志をすべて悔い改め、神様のみ言葉以外のものを捨てることです。この世的な価値観を捨て、自分のために天から下りて来られたイエス様に一番の価値を置くことです。石の枕とはイエス・キリストです。イエス様が私たちのためにこの荒野でのけ者にされ、捨てられ、打たれました。彼はそむきの罪のために砕かれました。イエス様が懲らしめを受けたことにより私たちは平安を持ち、イエス様の打たれた打ち傷によって私たちはいやされました。心も体もいやされました。私たちがイエス・キリストに価値を置いてひれ伏すと私たちは決して失望することはありません。「見よ。わたしはシオンに選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」(Tペテロ2:6)私たちはこの世の価値観で傷つけられることが多くありますが、礼拝によって皆さんが解放されますように、主の御名によって祝福します。



 2008年629日  「イエス様の感謝の祈り」 ヨハネ11: 41〜44

「すべてに感謝しなさい」これは神様の御心であります。この感謝の模範となられた方がイエス・キリストです。イエス様の感謝の祈りの生活について皆さんと一緒に考えたいと思います。

1.イエス様は天を仰ぎ見て感謝を捧げました。

「イエスは目を上げて」(本文41節)とは天を仰ぎ見たということです。イエス様は天を仰ぎ見て感謝を捧げました。天と地とその中のすべてを造られた創造主である父なる神様を愛し、敬いました。イエス様は「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。」と言われました。この信仰は父を愛した愛に働く信仰によるものでした。私たちが神様を愛すると、神様のすべてのものが、自分に与えられたということが信じられるようになります。神様の名前である備え、いやし、勝利、平安、羊飼い、義、共におられる主の御名が自分のものになります。これらの御名を握って感謝していきましょう。

 

2.イエス様は厳しい現実の前で感謝しました。

イエス様は死んで4日もたったラザロの墓の前で、天の父なる神様に感謝の祈りを捧げました。この絶望的な状況の中で、イエス様は神様のみ言葉を握って祈られたのです。イエス様は全人類が救われるという大きなビジョンを持ってこの地上に来られました。しかし、いつも行動を共にして愛し、育てた弟子たちは大事な時に皆、離れて行き、イエス様を一人にしました。「見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。」(ガラテヤ5:6)現実がどんなに厳しくても、イエス様は現実を見ないで主の約束を握って感謝されました。なぜなら、この現実はあとで主の栄光の材料となるからです。現実が厳しければ厳しいほど、あとで主の栄光が大きく現われます。私たちの現実がどんなに厳しくても神様の約束を握っていつも主が共におらることに感謝していきましょう。そうすれば奇蹟が起ります。

 

3.恵みを分ち合いながら感謝しました。

恵みを分かち合えば合うほど、恵みは増し加わります。与えなさい。そうすれば自分も与えられます。30倍、60倍、100倍に増えていきます。イエス様はご自分の体を主に捧げました。一粒の麦が地に落ちて死ねば多くの実を結ぶということでした。聖餐式の時、ご自分の体を私たちに与えながら感謝を捧げました。私たちも神様から与えられた恵みを人々に与えなければなりません。与える時、神様が大きく用いてくださいます。アラム王の将軍ナアマンは、誰からも愛され、尊敬されていましたが、らい病にかかっていました。彼はイスラエルの地から奴隷として連れて来られたひとりの若い娘から“イスラエルに行くと預言者エリシャによっていやされる。”という良い知らせを聞きました。彼はイスラエルに行っていやされ、イスラエルの神以外は拝みませんと信仰告白をしました。将軍ナアマンは信仰生活をしながら奴隷であった若い娘から教えを受けました。この若い娘のように、恵みを感謝して分け与えると、彼女は将軍ナアマンの霊的主人になりました。これが恵みを分ち合うすばらしい祝福です。私たちも恵みを分かち合うことによって、このすばらしい祝福が私たちのもになりますように、主の御名によって祝福します。

20086月22日「ただ御霊の力によって」   ゼカリヤ4: 6〜7

神様から離れた人間は、自分たちで理想郷であるユートピアを建てようとしました。しかし、誰が見てもこの世は今、ユートピアではなく、世の終末が近づいています。人間には限界があり、神様から離れては何もすることができません。では、どんな限界があるのでしょうか。

1. 罪の問題。

 人は罪を解決するために、教育と豊かさを求めました。どんなに立派な教育をしても、またどんなに豊かな国になっても、日本は罪が洪水のように溢れています。この罪の問題を政治や権力で解決することはできません。また倫理、道徳、宗教でも解決することはできません。「人の心は何より陰険で、それは直らない。」(エレミヤ17:9)とあるように、人間は神様から離れて、心が陰険になっています。その心が直るためには十字架の血潮しかありません。十字架の血潮で聖められ、私たちのうちに住んでおられる聖い御霊によって、私たちの心は変えられ、雪のように白くなります。聖霊様は私たちがイエス様に心を向け、この世と分離して聖い生活ができるようにしてくださいます。聖霊様によって私たちはこの世のすべての罪から解放されます。

 2. 死の問題。

人間は死の問題を解決することはできません。人間は長生きしようとしていろいろな良い薬や医療に頼るのですが、人間は生まれることも死ぬことも自分の力ではできません。私たちの死は、それぞれ自分の死の日が定められています。死んだ後には裁きがあります。永遠の命に入る人もいれば、永遠の滅びに入る人もいます。私たちがイエス・キリストのよみがえりは私のよみがえりであり、イエス・キリストのいのちは私のいのちになるためには御霊が必要です。私たちを御霊が生かしてくださいます。死者の中からイエス・キリストをよみがえらせた御霊が、私たちの信仰によって私たちの中に住んでおられます。私たちもイエス様のようによみがえります。

3. 憎しみの問題。

堕落した人間の心には憎しみがあります。カインはアベルを殺しました。自分の力で憎しみの心を押さえることはできません。この憎しみの問題は、私たちが御霊によってイエス様を仰ぎ見る時、解決することができます。ステパノが自分に向けて石を投げ、暴言をはく人々を見ないで、ただイエス様を仰ぎ見ることによって、彼らを赦すことができました。私たちの力では人を赦すことはできません。人が言った言葉や侮辱を受けた言葉を私たちが握って考え込むと怒りが爆発します。しかし、その時イエス様の方向を見ると、敵をも赦すことができ、勝利します。赦しの力が御霊からイエス様を通して来るのです。

4.不安と恐怖の問題。

 不安と恐怖の問題は、私たち不完全な人間が抱え込む問題です。今、急変しているこの世を見ると私たちは不安と恐怖に襲われます。しかし、イエス様は私たちに平安を与えるために来られました。平安があれば私たちは幸せです。イエス様は「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。」(ヨハネ14:27)と言われました。イエス様はシャローム(平安)の神様です。平安の主を私たちの主として私たちが全面的に任せると、私たちに来るのは平安です。明日がどんなであっても私たちが主にゆだねると、明日は私を十字架で死ぬほど愛してくださっている方が握っておられます。すべての問題に勝利することができますように、主の御名によって祝福します。



2008615「神様の御心にかなう祈り」  T列王記3: 3〜14

ソロモンは神様を愛して1千頭の全焼のいけにえを捧げました。神様は彼を祝福しました。「あなたに何を与えようか。願え。」と神様は言われました。その時、ソロモンが願ったことは神様の御心にかなうものでした。それで神様は願ったものはもちろん、願いもしなかったものさえも与えてくださいました。

 

1.ソロモンは神様の恵みに感謝する祈りをしました。

ソロモンは父ダビデと自分に施してくださった神様の恵みに感謝しました。ソロモンは父ダビデが一番罪深い生活の中で生まれた子どもです。ダビデは自分の罪が赦されたということでソロモン(平安)という名前をつけました。人は罪が赦されると平安になります。ソロモンは自分の父が赦され、また自分が赦されたから王になったのだと告白しました。私たちも十字架の恵みによって罪が赦され、神様の子どもとなりました。ソロモンが感謝のいけにえを捧げたように、私たちも感謝のいけにえを捧げると、神様が喜んでくださいます。感謝を捧げるとそこが天国になり、不平不満するとそこが地獄になります。

 

2. ソロモンは謙遜な祈りをしました。

ソロモンは神様に「このしもべを王とされました。しかし、私は小さい子どもで、出入りするすべを知りません。」と告白しました。“神様の御前では自分は幼な子であるのでどうか、私を助けてください。”と謙遜な祈りをしました。神様の前で自分の位置を知ることが謙遜であります。神様は創造主で、私は被造物です。人間がこの関係を超えようとすることが罪なのです。ソロモンは神様の前で1千頭の全焼のいけにえを捧げながら、そのことが啓示されました。私たちが神様の前に謙遜にひれ伏すと、イエス様が見えてきます。十字架を信じるようになります。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(Tコリント1:18)神の力と知恵がへりくだる人に与えられるのです。

 

3.ソロモンは正しい動機で求めました。

 ソロモンは自分の民が幸せになることを願って神様に賜物を求めました。彼は自分の利益や快楽のため、また自分の名前をあげるためにそれを求めたのではありません。自分が正しい政治をして、正しい判断ができるように、そして皆が幸せになるようにしてくださいと祈りました。私たちが神様に仕えるために、人間に奉仕するために賜物を使うと実を結びます。神様は私たちが正しい動機で求めることを願っておられます。ソロモンの祈りは神様の御心にかなったので、神様は彼に知恵の心と判断する心を与えられました。そのうえ、彼が願わなかった富と誉れをも与えてくださいました。私たちの賜物はもっと多くの人々を幸せにするために、また神様に礼拝を捧げるために与えられるのです。私たちがソロモンのように、神様の御心にかなう祈りをすることができますように、主の御名によって祝福します。



2008年6月8日「イエス様の再臨を迎える準備」 ルカ21: 33〜36

イエス様の再臨は宗教的な幻や夢ではありません。神様の計画であり約束です。聖書はイエス様が初めて来られた初臨のことよりも、再臨のことをもっと多く預言しています。イエス様が再び来られる理由は私たちを迎えに来られるためであり、この世を審判するためであります。イエス様が言われたみ言葉は一点一画も変わることはありません。イエス様を信じる私たちは喜びの冠、いのちの冠、朽ちない冠の報いを受けるのです。

 

1.イエス様の再臨の前兆。

マタイ24章でイエス様は、世の終わりの時にどんな前兆があるかを預言されました。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉と地震が起ります。」(マタイ24:7)今、このような前兆が世界中に起こっています。世界の歴史の時計はイスラエルと言われています。今年、イスラエルは建国60周年を迎えました。今の時代、イエス様の再臨の足音が刻々と近づいています。大リバイバルが起ろうとしています。ですから私たちはサタンやにせ預言者に惑わされないようにしなければなりません。

 

2.再臨の準備のラッパの声。

「あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです。」(本文3435節)とイエス様は言われました。今、私たちに目を覚ましているようにという時が来ているのです。これがラッパの声です。終わりのラッパが鳴り渡る時、私たちの体は一瞬の内に変えられるのです。「ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」(Tコリント15:52

 

3. 霊的に目が覚める生活。

霊的に目が覚める生活をするためには、花婿であるイエス様を迎えるために、私たちが準備しなければならないことがあります。それは聖い生活です。「目を覚まして、身に着物をつけ、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである。」(ヨハネの黙示録16:15)イエス様は私たちに義の服を着せ、イエス様の血潮で聖めてくださり、聖霊の油を注いでくださいます。このようにして、私たちはイエス様の新婦として整えられるのです。私たちが天国のレベルの結婚準備ができないので、私たちに恵みとしてイエス様の血潮と聖霊の油注ぎを与えて、新婦にふさわしい者にしてくださいました。私たちは自分の奥まった部屋にはいり、もっと祈りの生活をしていくべきです。神様を愛し、神様の声を聞く人にとって、再臨は盗人のようには来ません。イエス様の再臨の時、準備ができていない愚かな娘たちは嘆き、歯ぎしりします。しかし、イエス様の血潮で聖められ、聖霊で満たされた人は、再臨の時が最高の婚礼の祝宴となります。

主よ早く来てください。マラナタ !



2008年6月1日  「イエス様の喜びを得よ」    ヨハネ15:11

イエス様は私たちに“いつも喜べ”と命令されます。私たちが喜びをもって幸せに暮らすのは神様の創造の目的であります。イエス様の喜びは沸き上がる泉です。わきあがる泉はいたずらされて濁っても、すぐきれいになるように、イエス様の喜びを得るとこの世の罪、患難、病、呪い、死に打ち勝つことができます。イエス様は十字架の前でこの喜びを持っておられました。私たちはどのようにしたら、この喜びを得ることができるでしょうか。

 

1.喜びのイエス様を主として信じることです。

イエス様を信じる人々にはイエス様の喜びがわきあがります。信じるということは、飲むこと、食べること、体験することです。聖餐式で飲む、食べるということです。「わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う。わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。」(出エジプト記6:6〜7)この神様を信じることです。私たちはイエス様が与えられる喜びを決して誰からも奪われることはありません。

 

2.主と愛の交わりを通して喜びを得ます。

喜ぶ人と交わると喜びが来ます。悲しむ人と交わると悲しみが来ます。イエス様と交わればイエス様の喜びが私たちに来ます。イエス様の愛はいやす愛、赦す愛、祝福し、永遠の命に導く愛であります。これを私たちにくださると言うのです。私たちは主と交わり愛を受けると、花を見ても鳥や動物を見ても人間自身を見ても喜びがあふれます。しかし、私たちの喜びを奪うものがあります。それは偶像崇拝です。私たちが神様から離れて偶像を拝んで偶像と交わると私たちは喜びをなくしてしまいます。「いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。」(第Tコリント10:0)偶像崇拝は悪霊との交わりだとはっきり言われます。全世界的に偶像崇拝の666の世界が迫って来ていますが、最後まで忍耐すれば勝利します。私たちは主と愛の交わりを通して喜びを得ることができます。

 

3.希望の中で喜びを得ます。

喜びは未来志向的なものです。未来の祝福がないと今日の祝福は無意味です。明日は今日よりもっとよくなる、来月は今月より、来年は今年より、この世よりは後の世がもっとよくなるという希望を持つことができます。なぜなら希望なるイエス様が共におられるからです。明日に対する祝福を期待するから喜びがあふれるのです。この喜びによってすべてを耐え忍ぶことができます。明日に対するすばらしいことを主がなさいます。主が私たちを選び、私たちを主のものとしてくださって、将来と希望を計画しておられます。主が私たちの前を進まれ、険しいこの地を平らにしてくださいます。日本のリバイバル、新しいよみがえり、主の再臨などのこのようなすばらしい未来に対して、私たちは希望をもってお互いに慰め合うべきです。

イエス様を主として信じ、主と愛の交わりを通して、喜びを得ることができますように主の御名によって祝福します。



2008年5月25日     「幸いな目」    マタイ6:21〜24

人は肉眼で見えない世界を持っています。神様も肉眼で見えません。信仰の世界であり、霊的世界です。

1.信仰の目。

 「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)初めに神が天と地を創造したと言われます。人間の体も主によって造られました。人間の体は本当に神秘です。進化論では説明ができません。宇宙万物を見て、真実な科学者たちはSomething Greatと言いました。自然を見ると神様を思うことができました。しかし、人間はサタンの誘惑によって堕落しました。それで汚ないとか清いなどを自分勝手に決め、イエス様によって贖われた自分の体を虐待したりしました。私たちの体は汚れたものではありません。しかし、悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、ののしり等、口や心から出るものは人を汚します。これらはイエス様の血潮によってのみ聖められます。私たちはイエス様を見る目、すなわち信仰の目を持たなければなりません。

2.希望の目

希望なき民は滅びます。人は希望がないと病気にかかります。明日に対する夢を持つことができれば病気に打ち勝つことができます。神様は私たちにこの世だけではなく、後の世の世界も私たちに用意してくださいました。「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく悲しみ、叫び、苦しみもない、なぜなら以前のものがもはや過ぎ去ったからである。」(ヨハネの黙示録21:45)「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。」(ヘブル9:27)とあります。イエス様を信じて、希望の目を持っている人は天国に入ります。しかし、イエス様を信じていない人々は地獄に入ります。

3.愛の目。

私たちはイエス様を通して神様と和解し、神様を愛する者になりました。これはイエス様の恵みによってであります。神様を愛する人はすべての所と円満な関係を作ります。夫婦関係、親子関係、職場の関係もすべて円満になっていきます。これは愛の関係だからです。神様と愛し合う関係を持った人は長生きします。その人は幸せな人生を過ごします。

4.祝福された目を維持するためには。

光がないと私たちの目は暗くなります。光はイエス・キリストです。信仰、希望、愛の光です。私たちがイエス様を仰ぎ見、礼拝し、仕える時には、信仰、希望、愛から離れることはありません。しかし、私たちの目がこの世の権力、お金、物質を見て心が奪われた時には目が暗くなります。あなたの宝がある所にあなたの心があるからです。私たちは二人の主人に仕えることはできません。イエス様に仕えると乏しいことがなく、満ち足りる祝福で満たしてくださいます。祝福された目を維持するためには、信仰、希望、愛の光であるイエス様から決して目を離してはなりません。イエス様と共に歩く人生は、愛、喜び、平安の豊かな、幸せな人生の実を結ぶことができます。



2008年5月18日     「言葉の力」   箴言18:20〜21

私たちの脳細胞は98%が言葉によって支配されます。言葉を使うと脊推神経を通して行動に移るのです。行動は私たちの習慣となり、習慣は運命になります。ですから言葉はとても大切です。

1.否定的な言葉よりも肯定的な言葉を使うこと。

信仰が弱くなるとサタンに試みられて肯定的な言葉よりも否定的な言葉を話すようになります。イスラエルの民は乳と蜜が流れるカナンの地が見える所まで来ました。神様はイスラエルの民にそこを与えようとしておられました。カナンの地を探るためにまず、12人の偵察者をそこに送りました。そこを見て帰った人たちの中で10人は否定的な言葉を言いました。「そこは巨人が住んでいる大変な所だ。私たちはそこに攻め上れない。私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだ方がましだ。」とつぶやきました。神様は彼らの言葉を聞いて彼らが言った通り、荒野で死なせました。しかし、ヨシュアとカレブは違いました。彼らは肯定的に信仰的に告白しました。「恐れることはありません。私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」と言いました。「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」(本文21節)とあるように、ヨシュアとカレブはカナンの地を占領することができました。イエス様はいつも肯定的な言葉を言われました。病人を見てこれは死で終るのではなく、神の栄光のためだと言われました。またラザロが死んだと聞いても“彼は眠っているのです。”と言われました。私たちは何事も決して放棄してはいけません。日本のリバイバルは必ず興ります。ルーマニアはリバイバルが興った時、説教者が講壇にあがるのに3時間前から行っていなければならない程人々でいっぱいでした。日本にもそのような日が来ます。

2.批判の言葉よりも賞賛の言葉を使うこと。

この世には完璧な人はひとりもいません。誰でも長所もあれば短所もあります。人の良い所を見て賞賛する時、人は良くなっていきます。賞賛する時は@その場ですぐ賞賛すること A具体的に賞賛すること B結果よりも過程を愛する心をもって賞賛すること C正直に肯定的な考えをもって賞賛すること D人を励ますこと E時々自分のことも賞賛することです。神様をほめたたえると神様が喜ばれます。大いに神様をほめたたえていきましょう。

3.不信仰な事を言わないで信仰的なことを言うこと。

イエス・キリストの福音を信じ、イエスキリストの血潮によって罪が赦され、永遠のいのちが与えられ、病がいやされ、呪いから解放されます。私たちはそのような信仰を告白して信仰的に生活しなければなりません。

4.聖霊充満と霊の言葉を使うこと。

聖霊充満はイエス充満です。イエス・キリストの感謝の言葉を霊で表現することです。理性でも表現します。霊の言葉とは異言です。異言で祈ると私の霊は祈るのです。しかし、私の知性は実を結びません。(Tコリント14:1415)霊の異言を無視して知性主義にいくと人本主義の神学になってしまいます。私たちは霊において祈りました。知性においても祈らなければなりません。異言は祝福です。全体のハーモニーを考えてしなければなりません。自分一人大きな声ですると、うるさいシンバルになってしまいます。霊において賛美し、指揮者は聖霊様です。異言で人をとりなす祈りをすることもできます。言葉で言い表わせなくても私たちが霊によって人をとりなすことができるのです。



2008年5月11日「御霊を消してはなりません」Tテサロニケ5:19〜22

ペンテコステの日は聖霊様が臨んでくださった記念日です。イエス様は弟子たちに「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」と命じられました。

120人が集まって10日間祈りに専念していた時、聖霊様が臨まれました。聖霊に満たされたペテロは出て行って大胆に福音を宣べ伝えました。聖霊の力によって3000人が救われ、またある時は5000人が救われました。そして、聖霊様の力が全世界に広がっていきました。シンガポールでは20年前、約300人の教会が一番大きな教会でしたが、現在は3000人の教会が一番小さい教会と言われています。このことは聖霊様の働きによって可能になりました。

1.聖霊様は神様であり、人格者です。

聖霊様は三位一体の神様であり、人格者です。聖霊様は私たちの所に来られて、力を与え、リバイバルを興してくださいます。ただ力だけがある方ではありません。人格を持っておられ、私たちのすべての動機をも知っておられるし、私たちのために悲しんだり、喜んだりされます。また私たちの行く道を決めて私たちを導いてくださいます。聖霊様は福音宣教の戦略家でもあられます。今はBack to Jerusalemの時です。すべての福音は西の方向に動いてエルサレムに向っていくのです。イエス様の再臨に向って前進していくのであります。私たちもその波に乗って行かなければなりません。個人も家庭も事業も波に乗っていくと神様がその人を用いてくださいます。

2.聖霊を消してはいけません。

聖霊様は人格者ですので、無視されると離れていかれます。聖霊様は私たちにいのちの道を示してくださいます。罪について義について裁きについて教えてくださいます。しかし、それに対して無視し続け、悔い改めようとしないならば、聖霊様は離れていかれます。罪を犯したダビデは聖霊様に次のように告白した結果、神様から愛されました。「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。」(詩篇51:4)不平不満、憎しみは聖霊を消してしまいます。不平不満はすべての環境を壊します。夫婦関係、親子関係、また神様と私との関係を壊します。憎しみは霊的殺人です。聖霊様は愛なる方ですから殺人する人と一緒にいることはできません。「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」(ヤコブ1:20)どんな時にも怒ってはいけません。赦す心の中に聖霊様がおられます。また、偶像崇拝は霊的姦淫です。私たちの夫はイエス・キリストだけです。偶像礼拝をし続けると聖霊様は離れていってしまいます。肉体的な姦淫をし続けると、聖霊の宮である私たちの体は壊れ、滅ぼされてしまいます。

3.持続的に聖霊様と深く交わらなければなりません。

聖霊様と深く交わりをするためには、私たちは聖霊様に従順しなければなりません。一年に一回だけ会う関係、1ヶ月1回だけ会う関係、1日1回会う関係、瞬間瞬間会う関係、皆さんはどれを選びますか。私たちは瞬間瞬間聖霊様に会い、聖霊様にすべてをゆだねることです。神様は私たちを孤児にはしないと言われます。私たちの中に聖霊様がおられます。だから聖霊様をいつも呼んで、私たちが行く所々において聖霊様を認めると、私たちの行く道をまっすぐにしてくださいます。



200854日     「豊かな人生」    Uコリント9:6〜12

聖書に出てくる私たちの信仰の先輩たちは皆、裕福でした。アダムとエバはすべてが神様によって満たされているエデンの園に住んでいました。ノアは150億円もかかる船を造りました。ヨブは東方の財閥でした。アブラハムも個人的には318人の従業員を持っている力ある族長でした。どうして彼らはこのように祝福された人生になったのでしょうか。

1.従順。

神様はアブラハムに「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地に行きなさい。」と命令されました。アブラハムがその命令に聞き従った時に、祝福の道が開かれました。それから彼は100才で生んだイサクを捧げなさいという命令にも聞き従いました。エリヤは貧しいやもめの家に行きなさいと命令された時、その通りにしました。一食食べて死のうとする貧しい所に行って祝福されました。私たちは神様の命令に聞き従うと、神様の祝福の道がいつも開かれます。

2.私たちは蒔いた通り刈り取ります。

大豆の種を蒔けば大豆が育つように、私たちは蒔いた通り刈り取ることができます。ヤコブが父イサクに最上の食べ物を捧げた結果、イサクから最高の祝福を受けました。物質的な祝福も十分の一を捧げてからたくさん物質の祝福を受けました。イサクは神様の前で素直で柔和な人でした。柔和な人は地を相続します。現代は柔和な動物が増えていきます。虎や狼のような荒々しい動物はどんどん減っていっています。私たちが神様の前で柔和であれば神様が祝福してくださいます。人を助け、人を祝福するために私たちが献身的な働きをすれば、神様は必ずその実を結ぶようにしてくださいます。涙とともに種を蒔くものは喜び叫びながら刈り取ります。神様の働きのために奉仕をすると、神様が蒔いた通り刈り取るようにしてくださいます。多く蒔いた所には多く刈り取り、少なく蒔いた所は少なく刈り取ります。

3.まず先に与えて、もらう権利。

「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。」(ルカ6:38)先に与えることです。鋼鉄王カーネギーは2つの願いがありました。@職業がない人々に自分を通して職場を与えてください。A働き人たちが預金通帳を持つようにしてください。富の目的を自分が所有する所に置いたのではなく、人に与える所に置いたのです。イエス様は「1粒の麦が地に落ちて死ねば多くの実を結びます。」と言われました。イエス様は十字架でご自分の命を与えてくださいました。イエス様は一粒の麦となられました。まずイエス様がご自分の命を私たちに与えられたから、この世でイエス様を愛する人々が多く存在するのであります。このように私たちが与える人生を送ると、神様が私たちを用いて大きな仕事ができるようにしてくださいます。申命記1章11節にあるように「どうかあなたがたの父祖の神、主が、あなたがたを今の千倍にふやしてくださるように。」主の御名によって祝福します。


 2008年4月27日    「信仰の試練」   ヘブル11:30〜31

信仰によって私たちはいろいろな神様の約束を実現し、頂くのです。祝福され、奇蹟が起ります。しかし、信仰は試練と共に伴ってくるのです。私たちがこの試練に合格すると、主に喜ばれるものになります。あなたの信仰通りになれと祝福されます。

1.ヨルダン川の試練。

ヨルダン川は乳と蜜の流れる約束の地を最後の関門であったのです。ヨルダン川を渡ると約束の地に入るのです。神様がその地に入るヨルダン川に入るとせきができて水が止められると言われました。祭司たちが契約の箱をかついで水の中に入るとせきが止められるという約束でした。しかし、目に見えるものは水の中に入ってもずっと水が流れてくるのです。本当の試練です。進むべきか、後に退くべきかの悩みの中でヨシュアは続けて水の中に入りなさいと言いました。なんと祭司たちが契約の箱をかついで水の中に入った瞬間、む24km離れている所の上の水が止まったのです。このようなことは私たちが信じる瞬間、すでに神様の約束は成就されるのです。今流れている水は残りの水です。残りの水を見て私たちが恐れ退いてはいけません。イエスキリストは昨日も今日もいつまでも同じです。2000年前イエス様はもうすでに私たちのために私たちが受けるすべての罪の問題、病の問題、死の問題を解決してくださいました。自分の目の前に見える環境によって心を揺り動かされてはいけません。

2.信仰の試練はエリコの城壁。

エリコの城壁はイスラエル人がカナンの地に入って初めて出会った城壁です。鉄の城壁、強い広い大きい城壁でした。神様が約束された国の王と勇士たちはあなたの手に渡した。神様は一日に一回周って7日目には7回周って時の声をあげなさい、それが戦争でした。しかし周りながら試練が続きました。敵たちは批判しました。「おまえたちは散歩にきたのか。戦争にきたのか。」とあざ笑いました。その声を聞いて疑いが生じました。中も外も疑いがありました。しかし、最後まで進みました。もちろん最後になるまではエリコ城はびくともしませんでした。しかし神様が命じられたことを全部してからときの声を上げたら、うそのようにエリコ城はくずれ落ちました。私たちが祈る時、問題のエリコ城を見て祈ってはいけません。目をつぶって神様の約束を握って最後まで忍耐して祈ることです。そうすると、問題は解決されます。

3.信仰の試練は遊女ラハブの家族の反発。

遊女ラハブはお客から聞いたイスラエルの情報を聞いて、これは本当の神様だと思いました。400年間奴隷の生活から出エジプトした紅海ヨルダン川を分かれるようにしてそこを渡ったいろいろな奇蹟を見ました。荒野で40年間マナをふり注いだこと、そのような神様を彼女は告白しました。告白して家族を救ってくださいと頼みました。偵察者に頼みました。頼んだ時、彼女は証拠を下さいと頼みました。その証拠は偵察者を窓からつり落したところに赤いひもを結びつけておくことでした。その赤いひものある家に家族を集めてください、そうすれば家族が救われます。そこから出ると滅びます。しかし、イスラエルの戦争の仕方をこの家族が城壁から見るとみじめな有様でした。それで疑いが生じました。自分たちは家に帰って動物にエサを与えたり、農業をしなければならないので帰るのだと言いました。このことはラハブにとって大きな試練でした。しかし彼女は赤いひもの約束をかたく信じました。ここから離れたらだめになる、死ぬ、滅びる、それで彼女は戦いました。信仰は戦いです。み言葉を握り赤いひもである十字架の血潮を信じて家族に教え続けました。彼らが家から出て行かないようにしました。彼女はその結果ダビデのひいひいおばあさんになりました。イエスキリストの系図に入りました。家族全部が救われ、祝福されました。信仰には試練があります。未練を乗り越えると大きな祝福が待っているのです。



2008年4月20日  「祈る時に」    ルカ3:21〜22

イエス様は私たちが祈る時に何が起るかを教えてくださいました。

1.祈ると天が開きます。

天が開くとは神様の御座が現われるということです。神様の御座が現れると、私たちは祝福されます。「主は、その恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それであなたは多くの国々に貸すであろうが、借りることはない。」(申命記28:1213)時にかなってタイミングが来るのです。天が開くと貸すであろうが借りることはないし、頭とはならせても尾とはならせないという祝福があります。天が開くとステパノのようにイエス・キリストを見るのです。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」(使徒7:56)ステパノに向って人々が怒って歯ぎしりし、石を投げる状況であっても彼は、狭い道を確信をもって喜びながら進むことができました。祈ると天が開き、このような祝福と確信が来るのです。

2.祈ると聖霊充満を受けます

聖霊が鳩のような形をして下ってきました。聖霊様が「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」(本文22節)と言われました。この声と共にイエス様はすべての道を確信に満ちて歩むことができました。聖霊充満はみ言葉に従順する心の充満であります。イエス様は罪がない方であるにもかかわらず、人々の模範になるために洗礼を受けられました。すると、天が開いて聖霊が鳩のように下りてくるのがバプテスマのヨハネに見えました。勿論イエス様の目にも見えました。それでバプテスマのヨハネはイエス様のことをメシヤだと広く人々に紹介することができました。聖霊充満は力です。聖霊で満たされると、私たちはストレスを受けません。その道をまっすぐ行くことができるからであります。

3.祈ると私たちは祝福のパイプとなります。

三位一体の神様は天を開いて天の祝福を祈る人を通して注がれます。大祭司は胸あてについている12宝石の一つ一つを触りながら、すべての部族を祝福しました。王であり祭司である私たちは、とりなしの祈りを通して人々を祝福することができます。私たちはこの世のためにとりなしの祈りをしなければなりません。ニュースを聞きながら主の御心がこの国に成りますように、御国が来ますようにと私たちは瞬間瞬間とりなしの祈りをするのです。短い祈りですが、神様はきいてくだいます。私たちは天国の特派員です。私たちが祈らなくても神様はすべてを知っておられますが、神様は私たちと小さい事でも相談して決めたいと願っておられるのです。私たちの周りの人々を祝福しなければなりません。人から“祈ってください。”との祈りの要請があれば、後でと言わないで、その場で“魂が恵まれ、すべてが恵まれ、健やかになるように。”と祈ってあげることです。電話をかけようとする時、また人から電話がかかってきた時、祈ることがとても大切です。王であり、祭司である私たちはこの地球のことを神様から任されているのです。私たちが置かれている職場が牧会地であります。王であり祭司である私たちはこのビジネスを祝福しなければなりません。皆さん一人一人の祈りを通してみんなが祝福され、家族が祝福されます。そして地域が変り、国が変わるのであります。これは祈る人の特権です。この祈りを通してトランスフォーメーションが起ることを主の御名によって祝福します。




  20084月13日  「ダビデの勝利の秘訣」 Tサムエル17:45〜51

少年ダビデはペリシテ人の巨人ゴリアテと戦って見事に勝利しました。ゴリアテの身長は3m、全身武具で覆われ、青銅の投げ槍を背負っていました。しかし、羊飼いであるダビデは石投げと一つの石でゴリアテを倒しました。神様がダビデと共におられたので、ダビデは勝利をしました。この勝利の秘訣を一緒に考えたいと思います。

1.ダビデは自分の属している主の御名によって前進しました。

ダビデはイスラエルの神、万軍の主の御名によってゴリアテに立ち向いました。イエス様は言われます。「神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」(ヨハネ8:47)主の声は十字架から来るのです。十字架からいのちの言葉、人を生かす言葉、祝福の言葉、永遠のいのちが十字架から流れてきます。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(Tコリント1:18)主に属している人々に神様は、十字架を通して救いと勝利を与えてくださいました。私たちの身代わりとなって絶望を背負って地獄の火を受けられたイエス様によって、私たちは救われるのであります。

2.神様の栄光がダビデの生活の目的でした。

「すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。」(本文46節)この神様の栄光がダビデの戦う動機であり目的でした。私たちも神様の栄光のために働らかなければなりません。神様がおられることを信じて神様と共に進んでいくのです。私たちは、この目的なしにはどんなにこの世の物を得てもむなしくなります。お金をもうけて成功しても、権力を得ても結局はむなしくなります。サウル王はこの世の価値基準にてらしてみると成功者でした。しかし、彼は神様の目的からはずれてしまい、不幸な人になりました。ダビデをねたみ、嫉妬したからです。神様は私たちが神様の愛に富み、赦し合い、喜びの人生を送ることを願っておられます。神様を愛し、人を愛して神様の栄光を現わすことが私たちの生きる目的であります。

3.戦う前に勝利を確信しました。

「この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」(本文47節) ダビデは戦う前に勝利を確信しました。ダビデはただ主だけを仰ぎ見ました。今、霊の戦いをしている人で、いつもゴリアテのようなサタンだけを分折して、恐れおののいている人がいます。敵をあまりにも過大に評価し過ぎて、意気消沈し、恐れてしまって、戦う前に敗北意識を持ってしまうことがあります。このような戦いをしてはいけません。イエス様は2000年前、すでにサタンの頭を踏み砕き、サタンに勝利されました。信仰の目でそれを見て前進すると、必ず勝利します。

4.自分の賜物を持って前進していきました。

ダビデは袋の中に石を入れて石投げをするのが彼の賜物でした。サウル王はすべての武具を彼に与えましたが、彼にはサイズが合いませんでした。この武具はサウル王の賜物でした。少年ダビデは羊飼いの時、石投げを何万回も練習したので、石投げに慣れていました。その石投げで石を放ったところ、ゴリアテの額に命中し、彼を一発で倒しました。その結果、イスラエルの国を救うことができました。自分の賜物を他の人と比べてはいけませんどんなに小さい賜物のように見えても、それは大切なものです。それを一生懸命使って、主の御名によって前進しましょう。そうすれば神様が栄光を受けられ、大きな勝利を与えてくださいます。



2008年46         「積極的感謝と救い」       詩篇50: 23

感謝には積極的感謝と消極的感謝があります。自分一人で感謝を感じて人に分かち合わないのは消極的感謝です。積極的な感謝は神様の恵みに感謝を捧げることです。人や自然に対して感謝を積極的に表現することです。そうすれば自分も相手も幸せになります。「感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。」(本文)とあるように私たちが感謝を捧げると神様が私を造って良かったと思われるし、私を救って良かったと思われるのです。

1.感謝を感じる時は積極的に感謝しなければなりません。

私たちがどんなにたくさん感謝しても、感謝しすぎることはありません。私の両親や兄弟に、また隣人に対して感謝の機会があるごとに感謝を表現することはとても大切です。10人のらい病人の中でたった一人が感謝を感じた時にイエス様の所に戻って来ました。そして、イエス様にひれ伏していやされたことの感謝を表わしました。そこで、イエス様は彼にもっと大きな祝福を与え、永遠の幸せを与えてくださいました。神様に感謝を捧げると神様が私の神様になります。夫に感謝すると夫が私の夫になります。妻に感謝すると妻が私の妻になります。私の子ども、私の会社、私の国に感謝するとそれらが自分のものになります。

2.神様は積極的に感謝を命じ、教えておられます。

「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」(出エジプト20:8)安息日には神様が天地万物を造られ、私は被造物であることを意識して創造主に礼拝を捧げることです。過ぎ越しの祭、ペンテコステ、仮庵の祭など神様が命じられた祭はすべて感謝祭でした。これらの祭を神様が定められた理由は、祭のことを思い出して神様に感謝し、またイエス様の救いに感謝しなさいということです。イエス様の再臨に感謝し、聖霊に感謝しなさいということです。

3.従順の感謝。

これは積極的な感謝です。理性的に、環境的にとうてい理解できないし、感謝できないにもかかわらず、神様はすべてに感謝しなさいと言われます。これはイエス様を信じる人以外はできないことです。神様は良き神様です。私たちのためにご自身を与える程に私たちを愛しておられる方です。どんな環境であってもこれは神様が祝福のためにすべて益にしてくださるために与えられたのです。預言者ハバククは神様の前で“どうしてですか。なぜですか。”と質問しました。それでハバククはイスラエルで哲学の父と呼ばれました。しかし、彼が神様と出会って彼がどんな状況であっても主は生きておられること、また、自分が納得できないことがあっても、主は生きておられるということが分りました。それで彼は神様に感謝を捧げました。いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせないような悲惨な環境にもかかわらず、彼は主にあって喜び勇み、救いの神にあって喜んだのです。そのハバククを神様は高く引き上げ、成功させてくださいました。神様を信じる人は、神様が必ず信じた通りにしてくださいます。


2008330「サマリヤのリバイバルとらい病人」U列王記7:1〜9

リバイバルとは再び生きるということです。サマリヤの人々は偶像崇拝をしたので神様の審判を受け、アラムの軍隊が彼らを包囲し、彼らはひどい飢饉にさらされ、自分の子どもまで煮て食べる状況になりました。しかし、神様がエリシャを通して“明日の今ごろ、経済が良くなる”と言われました。このみ言葉をそのまま信じた人は奇跡を味わいましたが、信じなかった王の側近は預言された通りに神様がされたことを目で見るだけで、食べることはできませんでした。

1.サマリヤと日本。

その当時、サマリヤでは食べる物がなくなり、ついには自分の子どもまでも食べるような有様でした。日本は食べる物は豊かですが、み言葉の飢饉があります。「見よ。その日が来る。神である主の御告げ。その日わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に主の言葉を聞くことのききんである。」(アモス8:11)新興宗教や占に命をかける日本人はまさに飢饉の状態です。今、日本では家族同士の殺人事件や若者の無差別殺人事件等が相次いでいます。“父と母を敬え。殺してはならない。互いに愛し合いなさい。”というイエス様の愛と赦しを知らないからこのようなことが起るのです。しかし、神様は日本にみ言葉のリバイバルが来ると言われます。アメリカ、韓国のように、どこででも神様のみ言葉が聞ける時代が来ます。教会が125倍、250倍になり、ついには日本でも数万名教会が興ります。

2.4人のらい病人。

4人のらい病人は町の外で隔離され、物乞いの生活をしていました。その当時、サマリヤの人々は自分の子どもまでも食べる状況でしたので、彼らは全く食べる物がなく、絶望のどん底にいました。しかし、彼らは絶望を認めませんでした。「私たちはどうして死ぬまでここにすわっていなければならないのだろうか。」(本文3節)と死を拒否しました。そして、立ち上がって希望がある所に向って前進しました。彼らは夕暮れになって死ねば死ぬという覚悟で立ち上がったのです。彼らはスクラムを組んで進んで行く時に、神様がアラムの陣営に大きなスピーカーで戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせられたので、アラムの陣営は全財産をそのまま置き去りにして、命からがら逃げ去ったのでした。“明日の今ごろ、経済が良くなる。”との神様の預言が成就されたのです。これが神様のなさるリバイバルです。王様や軍隊がリバイバルをもたらしたことではありません。その当時、差別された4人のらい病人を神様が用いられたのです。4人のらい病人を日本でいえば迫害され、差別された少人数のクリスチャンを意味します。これらのクリスチャンを通してこの日本でもリバイバルが興るのであります。

3.神様がリバイバルのために用いられる人。

リバイバルに対して熱い願いを持っている人やリバイバルを全身で期待し、眠れない程に熱い思いを持っている人を神様は用いられます。4人のらい病人は絶望の中で立ち上がって前進しました。行いがない信仰は信仰ではありません。神様は彼らの一つになった心を用いてくださいました。私たちも互いに励まし合い慰め合う時、サタンの陣営は壊れます。この4人は“ここに多くの食べ物がある。”と人々に良い知らせを伝えました。このように、私たちも罪の赦し、病のいやし、アブラハムの祝福、イエス様の再臨の言葉をこの日本にまた、世界に伝えなければなりません。



2008年3月23日「わたしはよみがえりです。いのちです。」

                       ヨハネ11:25〜26

イエス様は死からよみがえられたことにより、人類の最大の悩みであり恐れである死の問題に勝利されました。イエス様はサタンの頭を踏み砕き、よみがえられました。この世的にすばらしい哲学や宗教を教え、諭した人々は皆、死んで墓を残しました。しかし、イエス様は「わたしはよみがえりです。いのちです。」と言われ、よみがえられたイエス様の墓は空っぽです。イエス様は言われた通りのことを成し遂げられ、それを証明されました。

1.過去の歴史的なよみがえりの証拠。

聖書にはイエス様はよみがえられたと書いてあります。空っぽの墓を私たちに残されました。よみがえられたイエス様は40日間弟子たちと一緒に食べたり歩き回ったりされました。このようにイエス様がよみがえられた証拠は聖書の中にたくさん書いてあります。一人の人だけがイエス様に出会ったのであれば、夢か幻であったと言うこともできるでしょう。しかし、500人の人々が同時にイエス様に会って話したのですから、夢でも幻でもありません。本当にイエス様の体はよみがえられたのです。

2.今、現在イエス様が生きておられる証拠。

イエス様は昨日も今日もいつまでも変わることはありません。よみがえられたイエス様は失望している弟子たちの所に来られて、彼らの心を回復させてくださいました。ペテロの罪を赦し、ペテロが再び神様の仕事ができるように回復させてくださいました。今、現在イエス様は私たちと共におられます。そして、罪の赦しの確信、病のいやしの確信を与えてくださり、祝福と永遠の命の確信を与えてくださいます。「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳は後ろから『これが道だ。これに歩め。』と言う言葉を聞く。」

(イザヤ30:21)と神様は言われます。

3.将来のイエス様のよみがえりの証拠。

人間はいつも新しい生活、新しいことを夢見ます。イエス様は「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(本文25節)と言われました。死んでもということは私たちの外なる人間を意味します。外なる人間の体は次第に古くなっていつかは死ぬのです。しかし、内なる人は年々新しくなっていきます。この内なる人は体が死んでも生きるのです。この内なる体は死ぬことがありません。「また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。」(本文26節)聖書に書かれているようにエノクや預言者エリヤは、死を迎えずに空中に引き上げられるという祝福に預かりました。今、イエス様が言われた通りに終末の前兆が見られます。反キリストが世界の大統領になって現われます。彼はイスラエルと7年間平和条約を結びます。その時、私たちは空中に引き上げられます。クリスチャンがイエス様のもとに集められ、この世にクリスチャンがいなくなる時が来ます。私たちクリスチャンは7年間イエス様の花嫁として宴会に迎え入れられます。その間この地上にサタンが入り、地獄のような苦しいことが起ります。その時イスラエルは民族的に救われ、すべての民がイエス様を信じるようになります。その時私たちはエルサレムにイエス様と共に再臨するのです。それからイエス様が統べ治められる千年王国が始まります。千年王国の後で私たちは白い御座で審判を受けて新天新地である永遠の国に入るのです。これが私たちの将来のよみがえりであります。イエス様は過去よみがえられ、今も生きておられるイエス様、また再び来られ、私たちをよみがえらせてくださる神様であります。信じることが大切です。信じる者にはそのような祝福が伴います。



2008年3月16日   「詩篇23篇の祝福」     詩篇23:1〜6

この詩篇はダビデが一生の間体験した信仰告白です。イエス様を信じる私たちも同じ告白ができるようにしましょう。

1.神様は私の羊飼いです。

神様は私を養ってくださっている羊飼いであり、私は羊です。ただ神様についていけばいいのです。そうすれば何ひとつ乏しいことがない生活になります。

2.私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

緑の牧場とは十字架の下を意味します。イエス・キリストの十字架の下は神様と私たちが一つになる牧場です。神様と私たちとは壁がありました。この壁をイエス様が十字架に付けられ、苦しみを受けて、この壁の代価を全部支払ってくださいました。金曜日の午前9時から午後3時まで6時間苦しみを受け、“テテレスタイ、すべて完了した。”と宣言されました。その時、至聖所におられた神様が垂れ幕を上から下に引き裂いて、私たちの所に来られました。この方が聖霊様です。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」(Tコリント3:16)神様は私たちと共におられます。十字架を通して敵を葬り、神様と私たちは和解しました。家族のために、隣人のために私たち自ら壁である垂れ幕を引き裂かなければなりません。また、いやしの牧場です。今、政治、経済、社会が苦しんで病んでいます。皆、利己主義に走ったからです。神様は私たちにそこから離れなさいと言われます。日本がいやされるためには、神様に立ち返ることです。イエス様を信じると、政治、経済、社会がいやされます。

3.神様は私のたましいを生き返らせ、御名のために私を義の道に導かれます。

この世は生存競争が激しいストレス社会です。このストレスに打ち勝って勝利するためには神様に祈ってすべてをゆだねることです。私たちが神様にすべてをゆだねると私のたましいは生き返ります。「あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたのことを心配してくださる。」(詩篇55:22)私たちの重荷を神様にゆだね、あらゆるストレスから解放されることが重要です。ストレスはまるで針のようです。その針で自分を刺し、また他の人をも刺します。神様にゆだねていくと神様がすべてを成し遂げてくださいます。

4.死の陰の谷を歩くことがあっても恐れません。むちと杖が慰めです。

私たちが間違った道に行かないように神様がむちと杖で私たちを守ってくださいます。悪魔、サタンが来るのをむちで打って私たちを保護してくださいます。

5.敵の前で食事をととのえてくださいます。

 一般社会では敵を憎めというのですが、聖書には「復讐はわたしのすることである。敵が飢えたら、彼に食べさせなさい。渇いたなら飲ませなさい。」(ローマ12:19〜20)と書かれています。敵のやり方がいいことだから祝福しなさいということではありません。敵を憎むと私たちが寝ることもできなくなるからです。しかし、私たちが敵を祝福すると、愛と喜びの食事がととのえられるのです。

6.私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。

天国に行くまで神様は私たちをいつくしみと恵みのメガネで見てくださいます。裁きは十字架を通して終りました。ですから、神様はいつくしみと恵みの目で私たちを見てくださいます。私たちもこのメガネをもって自分を見、他の人を見るような生活をすることです。このような人々の集まりが天国であります。そうすれば、いつまでも主の家に住むことができます。この詩篇23篇の祝福で満たされますように主の御名によって祝福します。

 



 2008年3月9「御言葉と共におられる神様」  ローマ10:6〜10

「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)このことばと神様は一つであるということです。神様に会いたい、夢の中でもいいから会いたいという人が多いのですが、神様は御言葉だと言われます。御言葉なる神様を認めてその方を心の中で信じ告白すると救いを得るのです。

1.謙遜に御言葉を受け入れる。

神様は全能の御言葉です。その御言葉が人間となられて私たちの中に来られ、御言葉によってすべてを成し遂げてくださいました。イエスキリストは私の罪を背負ってよみに下り、三日目によみがえられ、天に上り、神の右の座に着座されました。ですからこの御言葉をただ信じて受け入れることです。受け入れた人の中に神様が共におられます。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」(本文8節)と言われます。神様は私たちと遠く離れてはいません。私たちが信じて受け入れた御言葉と共におられるのです。

2.御言葉を信じて告白すれば救われる。

「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」(本文9節)イエスキリストを信じることが大切です。イエス様は主の主、王の王であります。イエス様は神様の御子であられ、天と地を造られた方、すべての権威を持っておられる方です。イエス様を信じた百人隊長は「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。」(マタイ8:8)と言い、イエス様がただ命令すると、自分のしもべの中風が癒されると告白しました。イエス様はその信仰を見て驚き「あなたの信じたとおりになるように。」と彼を祝福し、賞賛しました。イエス様は昨日も今日もいつまでも変ることはありません。イエス様は今も生きておられます。「彼が(イエス様)私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」(マタイ8:17)この御言葉を信じて告白した人はその通りになります。

3.心で信じ、告白する。

心は目、耳、口とつながっています。目で見、耳で聞いた言葉を心の中で描き、それを告白すると、それが現実になります。いつも“イエス・キリストの打たれた傷によって私は癒された。”と告白し、癒された姿を見るべきです。“主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。”ということを見てそれを告白すると、その通りになります。

4.御言葉との交わり。

御言葉がいつも興味があって親しく感じるのは、御言葉と交わりがあるからです。信仰生活が長くても聖書が読みたくないし、教会に行きたくないということがあります。それは御言葉との交わりがないからです。@フェローシップ、同じ船に乗って一緒にビジョンをもつことです。イエス様と私たちが一つだということであれば、聖書を読む時、興味が沸き上がります。なぜなら御言葉が自分のための御言葉となるからです。Aパートナーシップ、 一つの目的のために同じ船に乗って仕事をします。私たちはイエス様のくびきの中に入ったのです。イエス様のくびきは負いやすく、荷は軽いのです。ほとんどの重荷はイエス様のくびきにかけられているのです。私たちは主と共に歩いていくだけでいいのです。私たちは御言葉と親しくなるとイエス様と夫婦関係になります。イエス様が私の中に生きておられ、私はイエス様と共に十字架で死に、イエス様と共によみがえったのです。御言葉が私の人格となり、御言葉が私と一緒に住んでくださるように、主の御名によって祝福します。



2008年3月2日   「栄光の喜びと十字架」   ヘブル12:1〜3

生存競争が激しくなっていくこのストレス社会で私たちが勝利するために、主は安息日を与えてくださいました。安息日に霊と真をもって礼拝する時、私たちは喜びが満ち溢れるようになります。そして、この喜びがストレスに打ち勝って、私たちは勝利することができるのです。

1.イエス様の栄光の喜びと十字架。

 イエス様は「ご自分の置かれた喜びのゆえにはずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(本文2節)イエス様が体験された天の栄光の喜びこそが、どんなに恥かしめられても苦しめられても十字架を負うことができる力となりました。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」(マタイ3:17)という神様からの栄光の体験によって、イエス様はいつも喜びで溢れました。この喜びが十字架の恥と苦しみをおおうことができる力となったのです。
2.私たちの栄光と喜びの体験。

私たちは礼拝と賛美を通して神様の栄光と喜びを体験することができます。神様と私たちの壁となっている罪が赦され、癒されます。神様は私たちに「さあ、来たれ。論じ合おう。」「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。」(イザヤ1:

18)と言われます。この赦しと癒しは神様の栄光です。イエス様の血潮によってよみがえりの体験をします。“イエス様を信じる者は死んでも生きるのです。生きていてイエス様を信じる者は決して死ぬことがありません。”という栄光の体験です。これは聖霊充満を通して来ます。聖霊様が来られたら喜びが溢れます。聖霊に満たされた弟子たちを人々が見ると、まるで酒に酔ったように見えました。しかし、それは酒に酔ったのではなく聖霊様に満たされたからでした。「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」(エペソ5:18)と神様は言われます。酒に酔うと事故を起します。また汚れたことをしてしまいます。本当の喜びは聖霊に満たされた時に来ます。聖霊に満たされると、どんなに苦しいストレス社会でも失望しないで勝利していくことができます。

3.自分の十字架を負うこと。

私たちはイエス様の十字架を通して赦され、癒されました。私たちも自分の十字架を負ってイエス様についていかなければなりません。自分の十字架とは他の人を赦すことです。他の人を赦すためには栄光の光を体験しなければなりません。アフリカのルワンダ紛争を通して100万人が死んでいく中で、生き残ったある姉妹の証を聞きました。彼女は自分の両親と兄を殺したフツ族のリーダーが捕えられている刑務所に行きました。人々は“その人に復讐しなさい。”と叫びました。しかし、彼女は復讐しませんでした。なぜなら礼拝を通して彼女は天国にいる両親と兄を見たからです。彼らは“私たちのために人を憎んだり復讐しようとしないでください。”と言いました。それで彼女はその人に近づき“私はあなたを赦します。”と言いました。赦した後で、彼女は神様から大きな祝福を受けました。自分の力では人を赦すことはできません。しかし、主の栄光を見た後は敵をも赦すことができました。私たちは信仰の創始者であり完成者であるイエス様から目を離してはいけません。いつもイエス様のように勝利し、前進していく私たちとなるように、主の御名によって祝福します。

 


20082月24日  「イエス様を知る最高の知識」  ピリピ3:3〜9

私たちは良き物、新しい物を手に入れると古い物や壊れた物や汚ない物はすぐ捨てます。パウロもイエス様を体験する前には、自分の古い物に固執していました。彼はきっすいのヘブル人で律法についてはパリサイ人であり、その熱心は教会を迫害した程でした。しかし、彼がダマスコで真昼、太陽の光よりももっと強いイエスキリストの光に出会った後、彼は180度変りました。パウロは今まで探し求めていた真理やいのちが、自分のために十字架につけられ死なれたイエス様にあることが分かりました。彼はイエスキリストを知る最高の知識の故に、自分が今まで誇っていた物全部を整理し捨てることができました。では、この最高の知識とは一体何でしょうか。

1.イエス様を信じる信仰の義。

今までパウロは自分の努力によって自分の義を持っていました。しかし、主の強い光に出会った後で、自分はローソク位の光にしかすぎないということが分りました。自分の宗教、哲学を全部捨てて、イエス様だけを信じる決心をしました。イエス様は救いの道、罪の赦しの道、永遠のいのちの道であります。「あなたがたは、恵みのゆえに信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8〜9)とイエス様は言われます。

2.イエス様の中で十字架の愛の発見。

十字架は神様の愛の表現です。パウロは十字架を通して神様の愛を発見し、自分が今までがんばったものをすべて捨てることができました。彼は神様の愛を受けるためには律法を全部守らなければならないと思っていました。しかし、それを守ることができなかった時、審判意識、恐れがいつもありました。しかし、イエス様の十字架が律法の呪い、審判の呪いから解放してくださったということが分かってから彼は、その解放された喜びの中で生きることができました。人から気が狂っていると言われる程彼は、イエス様を愛しました。イエス様の中で真実の愛と幸せを発見した人は、すべてを捨ててイエス様についていくことができます。

3.イエス様の中での希望。

パウロはルステラで伝道した時、石で打たれ、殺されました。その時、第三の天まで引き上げられました。愛するイエス様が天国で自分の目の涙をすっかりぬぐいとってくださいました。そして、言葉では表現できない程の慰めを受けました。天国は涙も悲しみも別れもありません。夜もありません。主ご自身が光だからです。パウロは天国を体験した後ですべてが変わりました。彼は天国に行って希望の人になりました。私たちはこの世では旅人のような者です。まもなく主の所に行くのです。それで、彼はいつも天国を仰ぎ見るようになりました。天国へ行きたいという希望を持つ人が天国へ行きます。天国へ行きたいという希望がない人は天国へ行くことはありません。天国へ行くために、私たちは地上の肉の欲を捨てて、旅人が持ち運ぶスーツケースを軽くすべきです。私たちの本当の家は天国にあります。イエス様を信じる信仰の義を持ち、十字架の愛を発見し、イエス様の中で希望を持つことが主から与えられた最高の知識です。この知識をもって、この世の中でいらないものを捨てていく生活、これがイエスキリストの弟子の生活であります。

 

 


2008217日     「伝道者の報い」   使徒14:1〜7

使徒の働きを聖霊の働きと言う人がいます。アンテオケ教会は聖霊様の指示によりパウロとバルナバをイコニウム、ルステラ、デルベへ派遣しました。それらの場所は今では遺跡などひとつもない所ですが、聖霊様がパウロを使って伝道した足跡が皆さんと私であります。伝道者には必ず報いがあります。その報いを考えたいと思います。

1.伝道者は大胆の祝福を受けます。

相手が大きく見えて相手の思想が大きく見えたら、恐れが入って伝道ができなくなります。しかし、伝道者には主によって大胆さが与えられます。どうして大胆になるかというと神様を大きく見るからです。「ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。『神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが神の前に正しいかどうか判断してください。』(使徒4:19)と言ったことは、神のみ言葉を、また神ご自身を他のこの世に存在するものより、もっと大きく見たからです。そのように神様を大きく見て神様のみ言葉を一番価値あるものとして見ると大胆さが生じるのです。それで大胆にイエス様のみ言葉を伝えることができました。

2.伝道者にはしるしと不思議なわざが伴います。

福音は伝える人と聞く人々に罪の赦し、病のいやし、永遠の命などのしるしと不思議なわざが現われます。イエス様が私たちの罪のために十字架で死なれたこと、また葬られたこと、また聖書に従って三日目によみがえられたこと、これが福音であります。福音の具体的な内容はイザヤ53章5節のように「イエスキリストが私たちのそむきの罪ために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼への打ち傷によって私たちはいやされた。」福音を語る時、神様ご自身が現れます。福音を聞いた人々が心に信じて救われるのです。しかし、聞く人々が全部救われるとはかぎりません。パウロとバルナバがイコニウムで伝道した時に二派に分かれました。そして、彼らを石打ちにしようとしました。福音を伝道する時、反対する人々に会いますが、失望しないようにしましょう。

3.伝道する時、喜びと愛の報いがあります。

ルステラで生まれつき足のきかない人が、パウロとバルナバの伝道によって彼はいやされました。周りの人々がゼウスだヘルメスだと言って彼らを高めました。しかし、彼らはそのことを拒否しました。すべての栄光を主に返した結果、報いは石に打たれたことでした。石で打たれて死んだように見えたパウロに神様は第三の天国を見せてくださいました。それは言葉で言い表わせないほどの喜びと祝福でした。それでパウロは力を受けて再びルステラへ入りました。

2008年2月10日 「ただ御霊の力によって」          使徒1: 8

今回トルコへ行って日本の宣教の可能性を見て帰って来ました。トルコは日本の2倍の面積があり、日本と似ている所が多く、偶像があふれる国でした。しかし、2000年前、使徒たちは聖霊の力によってトルコを福音化することができました。使徒パウロはAD47年からAD56年までトルコ、ギリシャを伝道するのに成功しました。また「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」と言うみ言葉通り、パウロはAD60年にローマに到着しました。そして、AD64年にペテロとパウロはローマで殉教しました。聖霊の力が偶像あふれる国を全部打ち砕きました。

1.祈りと聖霊。

聖霊様は祈る人と共におられます。イエス様が十字架にかけられて死なれ、召天された時、弟子たちは臨在感が喪失し、恐れて家の中にいました。イエス様は「エルサレムを離れないで祈りなさい。」と言われました。弟子たちが十日間祈った時、聖霊と力を受けました。聖霊様が臨在してくださり、共にいて戦ってくださるという思いが強くなりました。それで彼らは大胆に福音をのべ伝え始めました。その結果、3000名が救われ、ある時には5000名が救われました。主の臨在感であふれました。主はわが内に生きておられるという臨在感でした。そのような臨在感は祈ることによって可能でした。

 2.み言葉と聖霊。

  その当時、ユダヤ人たちはモーセ五書や詩篇などの聖書をよく覚えていました。しかし、聖霊様が働かれない時は彼らはイエス様に反対し、イエス様を十字架につけるようにしました。彼らに聖霊様が臨まれると、彼らが覚えていたものが全部イエスキリストを意味するのだということを悟ることができました。み言葉が人間となられ、私たちと共におられるということが分りました。み言葉が私の心に刻まれ、私の信仰となるためには聖霊様が働かなければなりません。聖霊様が働かれると私たちは赦しの信仰、いやしの信仰、聖霊充満の信仰、永遠の命の信仰で満たされます。私たちはみ言葉を学ばなければなりません。初期、聖霊が火のように広がった理由は、ユダヤ人たちが聖書の知識を持っていたからです。彼らはすぐイエス様の弟子となって用いられました。彼らはイエス様が十字架で死なれてから40年もたたないうちにローマにまで福音を伝えました。これがみ言葉の力であります。

 3.従順と聖霊。

 聖霊様は人格者です。知・情・意を持っておられる方です。全知全能なる方であります。その方は私たちが何を感じるかということを全部分っておられます。それで主は私たちの行くべき所、また行ってはいけない所を命令されるのです。主はパウロに「アジアには行くな。」と言われました。中央のムシアを通るようにされました。その理由はポント、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビテニアはペテロの領域であり、ペテロが伝道する場所だったからです。私たちはただ聖霊様に従順すればいいのです。私たちの仕事やするべきことは聖霊様が知っておられます。聖霊様に従って聖い生活、愛の生活をしましょう。そして、この世の流れに打ち勝っていきましょう。そうすれば聖霊様によって日本もリバイバルされます。



2008年1月27「イエス様に近づく祝福」  マタイ14:22〜33

イエス様と一緒にいた弟子たちは、いつも奇蹟と祝福の中にいました。しかし今日の本文のようにイエス様から離れたとたん弟子たちは苦しみと試練に会いました。私たちもイエス様から離れるといろいろな問題に会うのです。

1.イエス様から離れた弟子たち。

イエス様から離れた弟子たちは船に乗って向こう岸へ行きました。夜中の三時ごろ風が向かい風なので波に悩まされていました。ねむけが深くなる真夜中の三時頃にいろいろな問題が起るのです。今、日本でも家庭の問題、学校の問題、国家の問題、経済の問題などが起っています。私たちの人生の問題はイエス様から離れた結果であります。イエス様から離れると枯れてしまいます。問題に会うのです。このことをイエス様から離れた弟子たちに教えたのであります。

2.水の上を歩いて来られるイエス様。

弟子たちには問題であった苦しみ、その問題の上をイエス様は歩いて来られました。「主は大洪水のときに御座に着かれた。まことに主は、とこしえに王として御座に着いておられる。」(詩篇29:10)神様はいろいろな問題の上に王として、また問題を解く鍵としてそこに立っておられるのです。弟子たちはイエス様が水の上を歩いておられるのを見て「あれは幽霊だ。」と言っておびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げました。イエス様は幽霊ではありません。イエス様は天と地を造られた全能の神様であり、私たちを本当に助けてくださる方です。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」とイエス様は言われました。イエス様は私たちを一人にはされません。私たちを助けるために来られるのです。その栄光あるイエス様を私たちは見るべきです。

3.主に近づかせてくださいと求めたペテロ。

ペテロはイエス様に“イエス様の側にいるようにさせてください”と言いました。イエス様がおられる所に自分もおらせてくださいと栄光の主を求めました。私たちは主を愛し、主を求めることです。神様の国とその義を第一に求めることです。主を愛し、主を求める者には、栄光の主から信仰が与えられます。「来なさい。」とイエス様は言われました。私たちは主の御言葉をいつも求めなければなりません。主の所に行こうとして主を求めると、自分もイエス様のように水の上に立つようになります。私たちは主だけを仰ぎ見るのです。ペテロはイエス様だけを見て水の上を歩きました。問題を踏んで勝利して歩いて行きました。今、日本でさまざまなことが起っています。しかし、私たちはその問題を見てはいけません。その問題を見ると、恐れがきて沈みそうになります。私たちは問題の上に立っておられる栄光の主を見るべきです。「神はわれらの避け所、また力。苦しむときそこにある助け。」(詩篇46:1)とあります。このイエス様を見てイエス様の栄光の所に一緒に立つように主の御名によって祝福します。



 2008年1月20日「続けて互いに足を洗いなさい」ヨハネ13:3〜11

今日の本文は水浴と足を洗うことの差を語っています。パレスチナ地方は雨があまり降らないので日本人のように毎日お風呂に入る習慣がありません。水浴はめったにしませんが、足だけは毎日洗います。

1.水浴と足を洗う意味。

水浴とは贖いを意味します。贖いとはイエス様の命と引き換えに、私たちの罪を赦してもらうことです。イエス様が私たちのために十字架につけられたこと、その流された血潮を信じることです。イエス様の恵みを信じることで私たちの過去、現在、未来のすべての罪が赦され、義と認められるのです。義というのは神様の前に立つ資格、天国に入る資格、神様の子どもとなる資格であります。それを私たちは恵みによって受けたのであります。「こういうわけで、今はキリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」とローマ8章1節に書かれています。しかし皆きよいという訳ではありません。イエス様を信じていないイスカリオテ・ユダはきよくなりませんでした。なぜなら赦してくださるイエス様を受け入れなかったからです。彼は政治家であり、政治的にイエス様を利用しようとしたのでした。

足を洗うとは何を意味するのでしょうか。私たちは義と認められたのですが、この世は天国ではないので足には汚いものがついてくるのです。サンダルをはいて生活するからです。イエス様を一度信じたから、全部赦されたから悔い改める必要がないということは間違っているのです。イエス様の弟子たちも全部救われたのですが、彼らは互いに争ったり妬んだりしました。それでイエス様は彼らの足を洗われました。

2.互いに足を洗い続けることの意味。

続けて足を洗うことによって交わりを維持することができるのです。足を洗わないとあなたとは何の関係もないとイエス様はペテロに言われました。関係ということは交わりを意味するのです。イエス・キリストとの交わり、夫婦、親子の人間的な交わりです。生活しながら互いに私たちは淋しさ、無念さ、恨み、怒りなどが生じます。私たち人間関係にはいつもしこりがあります。しかし洗ってあげるとそれが全部聖められます。夫婦関係も洗ってあげることです。「父の学校」で一度洗ったからといってそれが全部ではありません。続けて足を洗ってあげる必要があります。「さあ、来たれ。論じ合おう。」(イザヤ1:18)とこのように私たちが会話をすることが重要です。神様との会話、夫婦のの会話、親子の会話が大切です。そうすることによって互いが理解し合うのです。相手を理解して受け入れることが足を洗うことです。赦しは7回だけではなく「7の70倍赦しなさい。」とイエス様は言われます。

3.聖霊の働き。

赦しのある所、理解される所には聖霊様が働らかれます。赦しのない、理解されない所にはサタンがいつも働きます。そして、悪い思いがエスカレートします。今、日本では家族の間で殺し合ったりする悲惨な事件が起っています。私たちが赦し合ったり、理解し合ったりする所に聖霊様がおられ、そこを天国にしてくださいます。天国は御霊によって義、喜び、平安です。聖霊様がおられる所には回復があり、リバイバルがあり、いつも良いことが起ります。家族のリバイバル、教会のリバイバル、いのちであふれるリバイバルが起るように、主の御名によって祝福します。



2008年1月13日   「天国の家庭」      創世記2:21〜25

神様はアダムを深く眠らせてあばら骨の一つを取り、エバを造り、家庭を作られました。「これこそ、今や私の骨からの骨、私の肉からの肉。」とアダムはエバを見て歓迎の声を上げました。アダムの幸せな姿を見て神様はそれを良しとされました。

1.天国の家庭は犠牲の愛によって成り立ちます。

アダムが眠ったということは、死を意味します。自分の固執、頑固、自分の思いを十字架につけることです。自分が死なないと家庭は幸せにならないのです。それであばら骨を一つとってやったということは自分の一番大切なものを与えたということです。教会の家庭もイエス様が十字架で私たちのために死んでくださいました。イエス様の脇から流れる水と血を与え、私たちを赦してくださいました。教会はイエス・キリストの骨からの骨、肉からの肉であります。家庭というのは自然に成り立つものではありません。犠牲的な愛と努力が必要です。

2.天国の家庭は服従の愛です。

「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。」(エペソ5:22)盲目的な服従ではなく、相手を愛するから相手を批判しないのです。夫婦は犠牲的な愛と服従的な愛がハーモニーになっていくことが大切です。具体的には賞賛しあうこと、励ましあうことです。相手の意見と自分の意見がくい違っていても励ますことです。その時人が変わってくるのです。妻に認められている夫は何事にも自信を持つようになります。夫から認められている妻はこの世の中で恐いものはありません。親子の関係も同じです。「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。」(エペソ6:1)この従うということは親を励ます、賞賛することです。また、たとえ自分の価値観と違っていてもそれを認め、励ますことです。「父たちよ。あなたがたも子どもをおこらせてはいけません。」(エペソ6:4)互いが賞賛しあい、励ましあい、感謝しあうことです。また互いが赦しあうことです。愛は多くの罪を覆います。私たちは互いに赦しあい、足を洗いあうことが必要です。

3.天国の家庭はイエス・キリストを礼拝する時成り立ちます。

イエス様は公生涯の初めの奇蹟をカナの婚礼の宴会でされました。宴会中にぶどう酒がなくなるという本当に致命的な問題が生じた家庭にイエス様は、奇蹟を現わしてその問題を解決してくださいました。イエス様は言われました。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでもわたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(ヨハネの黙示録3:20)イエス様を迎え入れた所が天国です。心の中にイエス様を迎え入れたら心が天国になり、家庭に迎え入れたら家庭が天国になります。フランスの画家ミレーの“晩鐘”という有名な絵画があります。教会の鐘の音を聞いて夫婦が仕事を終えて感謝を捧げている絵です。夫婦は神様を真中にして向い合って祈っています。この夫婦の姿は神秘的です。神様の前で頭を垂れている夫婦は謙遜な姿です。家庭は謙遜が必要です。初めの家庭がこわれた理由は高ぶり、高慢があったからです。私たちは互いが神様から造られたものとして尊敬しなければなりません。私よりあなたの方がもっといいという心の姿勢が重要です。家より外の仕事の方がすばらしいとか、どちらかが上だとか下だとかいう区別はありません。私たちはいつも主を前にして、主の前に礼拝することが大切です。教会の主はイエスキリストです。その時教会が天国になります。

 


2008年16「使徒行伝的教会になろう」 使徒2:42〜47

 新しい年の教会の目標は使徒行伝的な教会になるということです。私たちは最初の使徒行伝的教会をモデルにして学んでいきたいと思います。最初の教会には何があったのでょうか。

1.福音的な教えがありました。

使徒たちは人々に福音を教えました。主キリストが十字架につけられたこと、私の罪がイエス様を十字架にかけたこと、それを認め罪を告白すると罪が赦され、永遠の命が与えられることを教えました。罪が赦された人々に聖霊が臨まれると不思議なことが起りました。「あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。」(使徒2:17)そのようなことが初めの教会で成就されました。福音がエルサレム、ユダ、サマリヤ、地の果てまで広がったのであります。これは本当に奇蹟的なことであります。福音を教え、聞いた福音を信じて堅く守るから教会です。政治の話をすると国会になります。イエスキリストの福音を一緒に語り、交わりをすると、これが教会になります。

2.パンを裂きました。

パンを裂くとは聖餐式のことです。この聖餐を通して人々が一つになるのです。触れられると相手の物は私の物になり、私の物は相手の物になるのです。これは聖書全体が教えることであります。イエス様に触れると、イエス様の聖めといやしを受けるのです。私たちの汚ない物がイエス様に移るのです。これがパンを裂いたという意味です。

3.祈る教会でした。

イエス様はいつも祈りを強調されました。主が祈られた祈りのパターンを弟子たちに教えてくださいました。これが“主の祈り”です。祈りにはいろいろな種類があります。交わりの祈り、とりなしの祈り、心を一つにする祈り、目標の祈りといったものがあります。祈りは絶えず祈るということが重要です。絶えず祈っている時、訓練され、霊的パワーが与えられるのです。祈りは休んではいけません。聖霊様が臨在される時、いろいろな奇蹟と不思議が現われるのです。神様が私たちに臨んでくださった結果、自分の持ち物を分配するようにしました。これは御霊による分配です。強制ではありません。イエスキリストの御霊は私たちの心を動かして捧げるようにしてくださるのです。その献金は当時、一番弱者であったやもめたちを助けるために用いられました。当教会は献金をチャーチスクールのために用いています。

4.よく集まる教会でした。

初めの教会は毎日集まりました。清教徒たちは教会を建て、まずチャーチスクールを始めました。子どもたちは毎日教会に来て賛美を捧げ、勉強しました。それで世界的な国家になりました。私たちも集まることをやめたりしないことです。

5.賛美の強い教会でした。

神様は賛美の中に住まわれます。賛美を捧げる時、天が開きます。賛美を捧げる私たちが祝福されます。日本が祝福されます。

6.毎日救われる人々を仲間に加えてくださいました。

教会は内面的にも数的にも成長するのです。今年も神様が祝福してくださってどんどん成長していく教会になることを期待します。一人の魂は宇宙よりも大切です。大切な魂を益々増し加えてくださって、使徒的な教会になるように祈っていきましょう。


2005年12月25日 「クリスマスの贈り物」   イザヤ9:6〜7

全世界の人々はメリークリスマスとお祝いして楽しんでいます。どうして喜び(メリー)のクリスマスか分らないまま楽しんでいるのです。しかし、聖書にはその理由がはっきり書かれています。イエス様が来られる700年前に預言者イザヤは今日の本文のように「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。」その方は全能者であり、永遠の父、力ある神と呼ばれると預言しました。すなわちこの神様が完全な人間としてこの地上に贈り物として私たちを救うために来られたのでメリークリスマスなのです。

1.イエス・キリストは贈り物であり、完全なる神様です。

その方は父なる神様と永遠の昔から共に働き、力をもってすべてを統べ治めておられました。その方は王の王、主の主であります。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。(ローマ10:13)全能者であり、天と地を造られた方は御霊によっておとめマリヤより生まれ、私たちと共におられました。その方は十字架につけられ、死んで三日目によみがえられました。そして天にのぼり、天の御座に座っておられます。生きている者と死んだ者を審くために再び来られる全能者であります。このみどりごは完全なる神様です。

2.このクリスマスのみどりごイエス・キリストはまことの人間でした。

その方はダビデの子孫としてお生まれになりました。私たちと同じ人間です。おとめマリヤよりお生まれになったので、罪だけはないのです。私たちの罪を負っていけにえとなって十字架につけられました。その方はマリヤの胎内で10ヶ月間育てられ、お生まれになってからは私たちと同じように人間的な成長の過程を通られたのです。その方は、知恵や体も年ごとに成長され、空腹や喉の渇きを覚えられ、疲れて寝られることもありました。一生懸命祈る方であり、母マリヤに対して面倒を見られる親孝行もありました。その方は喜び、悲しみ、怒りなどの感情も持っておられました。その方は謙遜で、最後まで父なる神様に十字架の死まで従われました。そして御霊の導きを瞬間瞬間受け、いつもご自分の時でないと前に出られませんでした。その方は完全に人間としてこの世に住んでおられました。

3.イエス・キリストは神性と人性の二つの本性を持って来られました。

私たちの救いのために二つの本性を持って来られた理由があります。サタンにだまされて永遠に死んでいく人々がサタンに勝利することは不可能でした。人間の力では勝利することはできません。私たちを救ってくださるためにサタンよりも、死よりも強いその方が、人間となって来られなければなりませんでした。イエス様が人性として来られたのは、私たちに同情するためでした。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(へブル4:15)人性として私たちの苦しみを共に同情できる方だけではなく、イエス様の中での神性が苦しみを解決して、慰めてくださるのです。皆さん、その方は今、生きておられます。その方は今、クリスマスの日、お生まれになって私たちの中におられるのです。イエス・キリストの神性と人性は私たちの祝福の中の祝福です。この方が私たちを今、救ってくださるために、贈り物として送られたのです。クリスマスの贈り物、それは神性と人性をもってお生まれになったみどりごイエス・キリストです。この方を受け入れた人は永遠に主と共に住むことができます。




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