今週のメッセージ    

         
       

                                   メッセージ 金エシュルン牧師    

 2007年12月23日「東方の博士たちのクリスマス」 マタイ2:1〜12

東方の博士たちは山や川を越え危険を克服しながらエルサレムまで来ました。その目的はイエス様の誕生を礼拝するためでした。東方の博士たちは星を研究する人々でした。

1. 東方の博士たちとダニエル。

 東方の博士たちは不思議な星を見て、これはメシヤの星だと分りました。「ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起り、モアブのこめかみと、すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く。」(民数記24:17)ダニエルはBC586年捕虜となってバビロンへ連れて来られました。ダニエルはバビロンで神様の恵みを受け、ネブカデネザル王の夢を解釈したことによって、すべての知者たちをつかさどる長官になりました。彼はそこで神様のみ言葉を教え、弟子訓練をしました。そのことが何百年後に東方の博士たちを動かしたのであります。彼らは星を見て、神様の約束を握り西に前進して行きました。

2. 東方の博士たちのクリスマス。

東方の博士たちはエルサレムに到着してからこう言いました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので拝みにまいりました。」(本文2節)東方の博士たちは、イエス様の星を見て拝むために来たのであります。母マリヤとともにおられる幼子を見、イエス様にひれ伏して拝んだのであります。私たちは両親、先生、政治家などがどんなに尊敬できる人であっても、その人が礼拝の対象になってはいけません。礼拝すべき方はただ一人私たちの造り主であり、私の身代わりとなって死んでくださったイエス様だけです。私たちの神様に対する知識が礼拝に導く知識でないならば、これは死んだ知識であります。ヘロデ王の周りの学者たちはイエス様がベツレヘムでお生まれになるということが分かったのですが、礼拝のためにそちらに行かなかったのです。ベツレヘムに行ったのは東方の博士たちでした。それは星が彼らを先導したからであります。この星は聖霊とみ言葉を意味します。聖霊様とみ言葉が私たちをイエス様の方へ導いてくださるのです。イエスキリストは「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれますと預言されたように、クリスマスにお生まれになったひとりのみどり子はそのような方として礼拝の対象であります。私たちがこの方を見ると聖霊によって礼拝されるべき方であることが分かるのです。バプテスマのヨハネも御霊によって「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)とイエス様を見るや否や啓示が与えられました。

3. 東方の博士たちの献身。

彼らは宝の箱を開いて、黄金、乳香、没薬を贈り物として捧げました。黄金は王様、乳香は祭司長、没薬は預言者の象徴です。“イエス様、あなたは私の王、祭司です。私のすべてです。私のすべてを捧げます。”神様が与えられた目標とビジョンをもって私たちが献身すると、必ずイエスキリストのもとへ導かれます。この世の目標は私たちを失望させますが、イエスキリストの星は絶対失望に終ることはありません。この星は環境が暗ければ暗いほどもっと輝きます。イエス様が再臨される前兆として、この世は益々暗くなっていき、惑わす時代になり、戦争のうわさ、飢饉、地震が起ると言われています。しかし、イエス様が言われたみ言葉は私たちの先頭に立って私たちを導いてくださいます。イエス様はエルサレムに再臨されます。その時私たちは新しいエルサレムで主を礼拝するクリスマスを迎えるのです。それを楽しみにしましょう。


2007年12月16日 「イエス様の血潮の力」  ヘブル12:22〜24

私たちは長い間サタンにだまされ、攻撃され苦しめられてきました。しかし私たちはサタンに打ち勝つ力を神様から頂きました。それはイエス・キリストの血潮です。その血潮に対して考えましょう。

1.罪の赦しとイエス様の血潮の力。

私たちは神様に反逆し、神様のみ言葉から離れ、永遠の命を失ってしまいました。神様のみ言葉から離れると私たちの命はありません。そのような私たちのためにクリスマスの日、み言葉が人間となってこの世に来られました。その方が罪を背負って血潮を流し、十字架で死んでくださいました。このイエス様の血潮によって私たちは永遠の命が与えらました。「神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。」(ヨハネ3:16)イエス様の血は今も生きていて、私たちに語るのです。“あなたはすべての罪から赦されました。あなたは罪責感から解放されました。”とイエス様の血が叫んでいるのです。“イエス様の打たれた傷によってあなたはいやされました。”という血潮の声がサタンのすべての策略から私たちを勝利に導いてくださるのです。

2.悪魔とイエス様の力の関係。

悪魔はイエス様の血潮をとても嫌がり、恐れています。私たちの罪がイエス様の血潮によってきよめられた所には罪と罪責感をもって働くサタンは逃げ去ります。悪魔は私たちを誘惑して罪を犯すようにします。そしてその罪を攻撃するので私たちはうつ状態になり否定的になって死に向っていくようになるのです。しかし、私たちがイエス様の血潮を信じ、告白すると悪魔に打ち勝ちます。「兄弟たちは、小羊の血と自分たちのあかしのことばのゆえに彼(サタン)に打ち勝った。」(ヨハネの黙示録12:11)いつも悪魔は吠えたける獅子のように私たちを訪ねてくるのです。しかし私たちがイエス様の血潮を告白して叫ぶとイエス様の血が私たちを勝利に導いてくださいます。いつもイエス様の血潮に耳を傾けてください。イエス様の血が頭から足まで付けてあることを見てください。イエス様の血は私の義、イエス様の血は私のよみがえり、イエス様の血は私の永遠の命です。

3.父なる神様とイエス様の血潮の力。

 私たちが神様の御座に行くことができるのは血潮の叫び、証があるからです。イエス様の血は私たちを神様の御座に導くのです。私たちが父のみもとに行く力もこのイエス・キリストの血潮であります。イエス様から受けている愛、喜び、栄誉をイエス様の血潮によって私たちも同じように受けるのです。

 4.日常生活とイエス様の血潮の力の関係。

 イエス様の血潮を信じてこの世を生きる時、私たちの周りにこの血を付けなければなりません。そうすると私たちの日常の生活が天国に変わるのです。聖霊様が働かれるとそこは天国になります。聖霊様は血潮がある所に働かれるのです。神の国は御霊の中で義、喜び、平安です。イエス様の血潮によって私たちを赦してくださったように、私も互いに赦し合っていかなければなりません。「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」(Tペテロ4:8)相手の失敗を赦すと悪魔は逃げ去って天国がそこに臨みます。すべての所に血潮をつけると、すべての災いが通り過ぎてゆきます。イエス様の血潮にはそのような力、いのちがあります。


2007年12月9日   「失望を克服する道」  Uコリント4:16〜18

人間の力で天気を晴れの日にしたり雨の日にしたりすることはできません。同様に私たちの人生を喜びの日にしたり失望の日にしたりすることはできません。しかし、私たちは失望に対して心の自由選択によって拒否することができます。使徒パウロは「私たちは勇気を失いません」(本文16節)と言いました。失望しないと決断しました。永遠の栄光を見ること、また一時的なものではなく永遠のものを見ること、心に目をとめることがパウロにとって失望に打ち勝つ力となったのでした。

1.       失望しないという覚悟が必要であり、それは選択です。

人生は山あり谷ありです。この世の人生は皆同じようなものです。しかし私たちは自由

意志によって主の御言葉に従順し、いつも喜ぶことを選択することができます。いつも喜ぶということは自分の心次第です。神様は私たちがいつも幸せになることを願っておられます。この世の中で私にストレスを与え、失望させるものがあれば拒否しなければなりません。失敗することもあるし、またいろいろ予測もしなかったことが起るかもしれません。しかし、失敗は人生の授業料です。大きい失敗は大きな授業料、小さい失敗は小さな授業料です。私たちがこのような態度で問題に臨むと、いつも心の中に天国が現れます。この天国が奪われないように、私たちは天国を守らなければなりません。失望の問題が起ったら心の中でそれを受け止めず、すぐ神様にゆだねていきましょう。

2.       神様の栄光を見ることです。

パウロが受けた患難は決して軽いものではありませんでした。死を覚悟する程の苦しみ

がありました。しかしそれにもかかわらず彼は測り知れない重い永遠の栄光を見たのであります。軽い患難に比べて神様の永遠の栄光は重いのです。価値あるものです。だから私たちが神様の方向を見ると、この栄光の光によって暗闇は逃げ去ります。私が持っているいろいろな苦しみは逃げ去るのであります。私たちの心の中に光が入るように私たちの心の中でいつも決めなければなりません。私たちの心はそのまま放っておくといつも否定的になっていきます。なぜなら私たちがこの世で受けるものが強いからです。しかし私たちは主を仰ぎ見、聖霊様を認め、聖霊様の臨在で満たされると牢のような環境が喜びあふれるものに変るのです。だから主の栄光を見ましょう。主の栄光の方向を認め歓迎していきましょう。

3.       一時的なものから永遠に変らないものを選択することです。

この世の中で私たちが働いてもむなしさ、無意味を感じます。すべてが一時的なものだからです。快楽、お金などは一時的なものです。「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。」(伝道者の書1:2)世界的な名声を受けたヘミングウェーはどんなに人から賞賛されても自分の中で満たされないものを感じました。自分の魂はフィラメントが切れた電球のようだとそのむなしさを訴えたのであります。しかしパウロは「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(本文16節)と言いました。私たちはよみがえり、主と共に永遠に生きるのです。よみがえりには主と共に住むことと主から離れてサタンと永遠に住むことの二つがあります。「おくびょう者、不信行の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」(ヨハネの黙示録21:8)私たちの体の幕屋がこの世の中で壊れても、この世からイエス・キリストによって永遠の家に入るのであります。だから私たちは失望することはありません。


2007年12月2日  「エベン・エゼル」   Tサムエル7:5〜13

エベン・エゼルは「ここまで主が私たちを助けてくださった。」という意味の記念碑であります。私たちは忘れなければならない過去があるし、忘れてはいけない過去があります。幸せを保っていくためには過去をよく取り扱かわなくてはなりません。

1.                             私の心の中にエベン・エゼルの記念碑を立てなければなりません。

 私たちは何よりも十字架の記念碑を立てなければなりません。イエス様が私のために十字架で血潮を流し、地獄に行くべき私を救ってくださった恵みを私の心の中に記念碑として立てなければなりません。聖餐式がまさしくその記念碑であります。イエス・キリストは聖餐のことをこのように言われました。「この杯はわたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えてこれを行ないなさい。」(Tコリント11:25)今、私が私になったのは、主の恵みであるということを忘れてはいけません。サムエルはミツパでイスラエルの民を集めて悔い改める運動をしました。それで悔い改めながら子羊一頭を取って、神様にいけにえとして捧げました。サムエルが神様に叫んで祈っていた時、大きな雷鳴をとおしてペリシテ人はイスラエル人に打ち負かされました。それでイスラエルは記念碑を立てました。これは主イエスの恵み、これをエベン・エゼルと名前をつけました。この時以来二度とペリシテ人がイスラエルの領内に入って来ることはありませんでした。主の手がペリシテ人を防いでいたからです。(本文13節)イエス・キリストの十字架を私たちの前に立てると、このような不思議な主の力が働いて勝利することができます。

 2.私たちは続けて神様の恵みを思い浮かべなければなりません。

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」 (詩篇103:2)と言われます。私たちは神様がしてくださったことを思うたびに幸せになります。神様が私たちの罪を赦してくださったこと、病をいやしてくださったこと、命を穴から贖いだしてくださったこと、良いもので満たされたことを忘れないで記録し、それを読み返す時、今ある問題もこの時のように主が解決してくださるという信仰が沸き出てきます。人間ですから落ち込む時もあります。しかし神様がしてくださったことを読みながら思い起す時に絶望感が消えます。ですから私たちはいつも神様の恵みを思い浮かべることが大切です。

 3.記念碑を証しなければなりません。

「そこでサムエルは一つの石を取り、それにエベン・エゼルという名をつけ、『ここまで主が私たちを助けてくださった。』(本文12節)と言うように、私たちも十字架の記念碑を覚え、これを証しなければなりません。「これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家に座っているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。」(申命記6:7)私たちがイエス・キリストがしてくださった救いの恵みを唱えること、伝えることはとても重要です。「エベン・エゼル」の石はごく自然な石でした。だからきれいに飾ったり、でこぼこした所をきれいに整える必要はありません。神様が私たちを恵みによって選んで救ってくださいました。私のような者にも神様が良くしてくださったことを人々に伝えることです。神様が選ばれた人はどの人も完璧ではありませんでした。アブラハムもダビデもどんな人にも失敗があります。しかし失敗した人であるにもかかわらず主が恵みを与え、赦しを与え、救ってくださったことを伝えることが記念碑の意味であります。アメリカのジョンニュートンはアフリカの黒人奴隷を売る商売をしていました。しかし彼の母の祈りによって彼は悔い改め、イエス・キリストを受け入れ、完全に新しい人になりました。そして彼は牧師になり、説教の中でまた彼の本の中ですべてのタイトルは神様の驚くべき恵み、Amazing Graceと言ったのであります。私たちは神様のAmazing Graceを伝える者として今選ばれているのです。


2007年11月25日  「神様の信仰」    マルコ11:20〜25 

私たちが信じる神様は、信仰の神様です。神様は信仰によって天と地を造られ、無から有を造られました。この神様が私たちに“神様を信じなさい。疑うことなく信じるならその通りになります。”と言われます。私たちは毎日の生活の中で前も後ろも詰まっているような状況を脱け出すことができる奇跡の信仰が必要です。

.神様を信じなさい。

神様を信じなさいという意味は神様の信仰を頂き、その信仰を持ち続けなさいということです。神様は信仰によって天と地とその中にあるすべてのものを造られました。アブラハムは神の信仰を頂きました。その結果アブラハムにイサク(笑い)が与えられました。イスラエルの民はこのアブラハムの信仰を受け継いで、行く先々で奇跡的な人生を送ることができました。また、マリアに神様が神の信仰を贈りました。マリアはその信仰を受け入れました。「神にとって不可能なことは一つもありません。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(ルカ1:37〜38)それでマリアは御霊によってイエス様を身ごもりました。イエス様は十字架につけられ死んで三日目によみがえられました。神様の信仰が御霊によって私たちに与えられたら、私たちは福音を信じるようになります。聖書に書かれている言葉を全部信じるのです。信仰には二つの種類があります。一つは不偏的な信仰です。例えば私たちが製薬会社を信じたり、医者を信じたり、銀行を信じたりすることです。このような不偏的な信仰は奇跡を信じることができません。しかし、特殊な神様の信仰は、死んだものをよみがえらせることができ、山に向って海に入れと言っている信仰です。これが神様の信仰であります。

2.この信仰は祈る人がもらうことができます。

いつまで祈るのですか。疑いが消えるまで確信と平安が来るまでです。祈っても祈ってもどうして確信と平安が来ないのですか。恨み事があると神様から送られる祝福のパイプが詰まってしまうからです。「だれかに対して恨み事があったら赦してやりなさい。そうすれば天におられるあなたがたの父もあなたがたの罪を赦してくださいます。」

(本文25節)赦しというのは愛です。愛によって働く信仰であります。恨みや憎しみや赦せない心があれば、私たちは信仰を発揮することはでません。牢の中に閉じ込められるようなことになります。神様がいくら祝福しようとしても祝福の信仰が届かないのです。私たちが赦し、祝福する時、私たちにいやしの信仰が働きます。赦しの信仰が働きます。私たちが人を赦したように私たちも赦されます。それで御子さえも惜しまずに与えてくださった神様の祝福を信じるのです。そのように信仰は赦し、愛によって働くのです。

3.私たちが言う通りになります。

「心の中で疑わずただ自分の言った通りになると信じるなら、そのとおりになります。」(本文23節)言った通りにとあるように、言うことがとても重要です。「あなたの口の言葉によってあなた自身がわなにかかり、あなたの口の言葉によって捕えられたなら。」(箴言6:2)「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」(箴言18:21)神様から送られたいのちの信仰をもつ事が大切です。環境を見て疑ったり、否定的な言葉をしゃべってはいけません。いつもいのちの言葉を宣言し、告白しましょう。神様は私たちがどんな告白をするかを聞いてそれを実行されるのです。私は必ずあなたがたに私の耳に告げた通りのことをしようと言われます。私たちはいつも肯定的な告白をしましょう。今日は良い事が起ります。今日は主が造られた日、良い祝福を期待します。私は癒されました。そのように肯定的な告白をしましょう。


2007年11月18日  Thanksgiving Day」   詩篇100:1〜5

与えながら感謝することがthanksgivingという意味です。「感謝しつつ主の門に、賛美しつつ、その大庭に入れ。」(本文4節)主の門とは天国のことです。感謝を捧げると天国の門が開くのです。私たちが喜びをもって主に仕えると、神様に栄光を帰す人生を送ることができます。

.Thanksgivingは神様の命令です。

イスラエルの民はエジプトの奴隷生活から救われ、乳と蜜の流れるカナンの地で豊かな生活をするようになりました。その時神様はすぐ彼らに“主に感謝せよ”と命令しました。感謝を捧げることを遅らせてはならない。感謝を捧げる時には一番良いものを捧げなさい。「そうすればあなたの倉は豊かに満たされ、あなたの酒ぶねは新しいぶどう酒であふれる。」(箴言3:10)しかし、こういった神様の命令に背いてイスラエルの民は不平不満をしました。神様の国、乳と蜜の流れるエデンは不平不満によって、それが地獄に変ってしまいました。どうして私が大切にしているものを神様に捧げなければならないのか。そのようなサタンの誘惑によって不平不満を言い始めました。その時天国が地獄になりました。天国と地獄は私たちの心の中にあります。感謝を捧げると天国が臨みます。しかし、不平不満をするとそこが地獄に変ります。

2.Thanksgivingは天国の生活方式、パターンです。

神様の国は人々に与え、奉仕する国です。人に与える時、私たちは30倍60倍100倍祝福されます。天国と地獄を見て帰って来た人の証を聞いたことがあります。そこには同じ環境、同じ良い食物がテーブルに並べてありました。長い箸を使って食べるのがそこの食べる方式でした。天国の人々はその長い箸をもって人に食べさせ、食べさせてもらった人は、自分の長い箸をもってその人を食べさせていました。互いが互いに奉仕するのです。それで天国の人々は喜びであふれて幸せそうでした。しかし地獄の人々は自己中心的でした。自分で食べようとするのですが、長い箸では食物が自分の口に入らないので干からびて神経質になり、苦しんでいました。自分のことだけ考える利己主義は地獄の生活の方式です。しかし他の人のことを考え、他の人に与える生活は天国の方式です。「与えなさい。そうすれば自分も与えられます。」(ルカ6:38)私たちは神様の国の生活をThanksgiving Dayの日に学ばなければなりません。与えることは種を蒔くことです。まいた種は必ずかりとります。「ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。」(箴言11:24〜25)これが天国です。当教会では感謝献金を北朝鮮の心臓病院を建てる所に送りたいと思います。このように与えると神様の感謝がそこに生まれるのです。

3.Thanksgivingを通して私たちは祝福のパイプとなります。

アブラハムに神様が言われました。「わたしが示す地へ行きなさい。」そこは十字架がある所です。恵みがある所です。私たちが十字架にパイプをつなぐと祝福が全世界に流れます。私たちのThanksgivingを通して人々が祝福されるのです。皆さんは十字架を通して赦されましたか。赦しを流すパイプになってください。これはThanksgivingを通してできます。いやされましたか。いやしを流してください。慰められましたか。慰めを流してください。祝福されましたか。祝福を流してください。永遠の命を得ましたか。永遠の命を流してください。そうすれば神様に多勢の人々が感謝を捧げるようになります。一粒の麦が地に落ちて死にました。それから夜空の星のように、海辺の砂のように多勢の人々が感謝を捧げる者になりました。与えると千倍、万倍が返ってくるようになるのです。



  2007年11月11日    「私はだれか」        Uコリント5:17

“私はだれか”という質問に答えることはとても重要です。自分は自分をどのように思うかによって行動するからです。自分を尊敬し、自分を愛する人は幸福な微笑みで人生を熱く生きるのです。しかし、自分がいやな人は否定的、敗北的になり不幸な人生を送ることになります。この世の人々はお金、権力、肉的な快楽などを幸せの規準にします。しかし、私たちが自分を正しく見るためには聖書の教えに戻らなければなりません。

1. イエス・キリストの中で自分を見ることです。

全知全能なる神様が天と地を造られました。私たちを愛して御子イエス・キリストを贈ってくださり、身代わりとなって死んでくださいました。ここに愛があります。イエス様は「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)と言われます。私たちの価値は宇宙を造られた方の命の価値であります。だから自分をそのように見ている人は自分の周りの兄弟姉妹をそのように見るのです。どんなに小さい人にもイエス様の慈愛の目で見るのです。全能の神様が私たちの中におられ、一人ひとりをV.I.P(とても大切な人)と見るのです。私たちはイエス様の中でそのように見ることができるのです。

2. 古いものは過ぎ去りました。

 イエス様が2000年前十字架につけられた時、いやな私たちも十字架につけられました。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)刑罰、死、呪いは十字架上で全部支払われたのです。自分がどんなに苦しい経験をしたとしても、また、いじめられたとしても、それはもう過去のことです。過去を呼び出して泣いてはいけません。私たちの過去は流れる水のようです。橋の上から見る水は流れ去って、すでに過去の水でないように、私たちは過去とは関係がありません。後ろのものを忘れ、ひたすら前のものに向かって進むことです。過去の傷や過去の山に長く留まらないで、主の導きに従って出発しましょう。

 3. 今、現在は新しく造られた者です。

イエス・キリストの中で私たちは目的があって造られました。私たちはどうしてイエスキリストによって新しく造られたのですか。三位一体の神様との交わりのためです。「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」(エペソ2:6)「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ろうとしている。確かに、わたしは荒野に道を、荒野に川を設ける。」(イザヤ43:19)と神様は言われます。それを期待しましょう。もうそれが起ろうとしているのです。“今日はすばらしい日です!恵みの日です! 勝利の日です!”と宣言しましょう。神様がそれをされるためにいつくしみと恵みが私たちを追ってくるのです。だから私たちは成功するように運命づけられているのです。幸せになるように運命づけられているのです。人間というものは感動してワクワクすることが必要です。ただ食べることだけが人間ではありません。毎日期待し、期待したものを告白する。そして、告白したことを行動に移すのです。やがてそれが習慣となります。それが新しく造られた者のイエス・キリストの中での人生です。

2007年11月4日    「天国の発見」     マタイ13:44〜46

イエス様の説教と教えには天国に関する話しが多くあります。初めの説教もこの世の終りの説教も天国についてでした。今日の本文もイエス様が天国に対して教える例えです。畑で偶然宝を見つけた人の話しと良い真珠を捜し求めたある商人の例え話が書いてあります。

1.天国の発見のタイプ

宝を偶然発見する人があります。誰かが天国の福音の話を伝えて私たちが信じて聖霊様の働きによって私たちがこの価値をすぐ発見します。この方こそ私を救って永遠の命を与える方とすぐ分かってその方を受け入れるのです。このことが畑で隠された宝を見つけた人のことを意味するのです。また良い真珠を捜している商人とは求道者のことです。サンダーシンはヒンズー教の家系に生まれました。キリスト教に反発し、自分の国からクリスチャンを全部追い出そうと熱心に働いた人でした。しかし、自分の宗教で真理があるかと思って熱心に真理を求めましたが、救いが与えられませんでした。

1907年彼は“宇宙の中で神様がおられるとすれば私に現われてください。”と神様に叫びました。その時イエス様が現われ“わたしをどうして迫害するのか。わたしはあなたのために十字架につけられたイエスだ。”という声を聞きました。それを聞いて彼は悔い改め、イエス様を受け入れ、献身しました。彼は家族から迫害され、村の人々からも迫害されました。しかし、いろいろな迫害の中で主は彼を守ってくださいました。彼はイエスキリストを宝として見出したのです。喜び、平安がいつも彼にはありました。その喜び、平安をもって世界中に伝道をしました。

2.天国を発見すると大きな喜びがあります。

天国は喜びの源泉です。この喜びがどうしてなくなるかというと、罪と罪によってくる罪責感からです。人間は神様にそむいた後から罪責感で苦しみました。自分は罰せられるかもしれないという漠然とした審判意識、呪い意識が生じ、それが恐れとなるのです。そして神様に対して怒っていました。そのような状況の中でイエス・キリストの福音を聞いた人々は、イエス様がそのような方ではないということが分かったのです。私のために天から来られて、十字架につけられ、私のすべての苦しみ、悲しみ、呪い、たたりを受けて十字架で悲惨に苦しめられたということが分かったのです。それで神様は恐い、審判の神様ではなく、良き神様、救いの神様、愛の神様、赦しの神様であるという神様に対するイメージが回復されました。それで審判意識、罪責感から解放されました。イエス・キリストはたえず私たちを赦してくださったのです。聖霊様が私たちの弱さ、習慣的な罪の部分を癒し、聖くし、愛の人にしてくださいました。その愛を受けた私たちは患難、苦しみ、迫害、飢え、危険、剣などのどんな状況にあっても圧倒的な勝利者となります。(ローマ8:37)

3.すべてを売って宝を買いました。

イエス・キリストの宝を見つけた人は、自分が今まで大切にしたものを全部捨てます。信仰は選択であり、決断です。この世の喜びと言われている“不品行、汚れ、情欲、悪い欲、むさぼりを殺してしまいなさい。”(コロサイ3:5)と神様は言われます。ただイエス・キリストにだけ目を向け、耳を傾けることです。私たちは今まで大切にしたものを全部捨てて、イエス・キリストだけを見出し、イエス・キリストの宝を得たのであります。

2007年10月28日  「幸せな生活の原理」   創世記2:15〜17

人は誰でも幸せになりたいという強い願望を持っています。しかし、多くの人々はその幸せになる道を知りません。しかし、聖書はその道の原理を教えています。

1.感謝と従順の原理。

エデンの園で人は神様の御言葉に対してただただ感謝し、従順して生活しました。神様の御言葉に従順していく時、エデンの園はパラダイスであり、天国でした。しかし、サタンの誘惑を受けて人間は不平不満を言いました。“ただいのちの木からだけ食べるのか、どうして善悪の知識の木の実を食べてはいけないのか。”という思いがありました。サタンは神様が良きものを隠したと人間をだましました。それで人はそれを見て欲しいと思い食べてしまいました。彼らが神様の命令にそむいた時、彼らは神様が恐くなりました。それで神様から逃げ、隠れました。神様の御言葉をゆだねられた人は忠実に御言葉を教えなければなりません。また、それを聞く人は感謝と従順をもってしなければなりません。これが祝福であります。

2.愛と理解の原理。

愛の原理はゴルゴダの原理です。イエス様はゴルゴタで十字架につけられ、死なれました。私たちを赦してくださるために天から下って来られました。そして私たちよりもっと低くなられました。赦しと理解というのはこのようなことです。赦しはとてもむずかしいのですが、やりがいがあります。赦しと理解がある家庭は温かいのです。批判がある所は律法的であり、冷たいのです。私たちは神様が赦してくださったように夫婦の間、親子の間、嫁姑の間を赦していかなければなりません。イエス様が十字架で私たちを愛してくださったように私たちも互いに愛し合い、赦し合うべきです。赦して理解することは、自分を愛することでもあります。(エペソ5:28)神様に近づき赦しと愛を学びましょう。そして、それを表現しましょう。小さなことでも家族の中で表現しましょう。自分の妻に、夫に“あなたを愛します。”と言ってみてください。これが幸せをつくる原理であります。

3.交わりの原理。

現代は核家族で老人の孤独の死が問題です。孤独は人生を不幸にします。孤独を解決するためには交わりが必要です。切れる子どもの問題は一人で食事をするからであります。食事はただ食べて腹を満たすことだけではありません。家族で一緒に食事をしながら交わりを持つ時間でもあります。また霊的食事である御言葉を一緒に食べて分かち合う交わりがとても重要です。交わりというのは、三位一体の神様から学ぶことができます。三位一体の神様は父、子、御霊です。父、子、御霊は互いが互いに頼るのです。ゆだねるのです。そして仕事が完成された時は互いが互いを誉め、栄光を帰します。賞賛することが交わりなのです。完璧な人はひとりもいません。子どもの前で自分を完璧に見せようと演出しないで、苦手な所も現わして一緒に笑ってください。そうすれば夫婦の関係、親子の関係に安心感が生じるのです。「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる神様の声を聞いたイザヤが「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」と言ったように、神様は私たちのようなスピーカーを必要とされています。罪深い者なのに神様が必要とされているのです。だから私たちは神様と交わりができるのです。神様のスピーカーだから神様と交わることができるのです。神様が私たちを必要とされることは驚きです。私たちも神様を必要としています。互いに誉めることが交わりです。



2007年10月7日  「過ぎ越しの子羊イエス」 出エジプト12:1〜10

イスラエルの民が400年間ひどい苦しみの奴隷の生活から解放された時、主は彼らに「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。」と言われました。彼らは過ぎ越しの子羊イエス・キリストによって解放されました。私たちイエス様を信じる人々は新しく造られた被造物です。罪と死から解放される記念的な日であります。イエス様を信じる人々は罪から解放されます。罪を犯す者は罪の奴隷です。過ぎ越しの子羊イエス・キリストが私たちを解放してくださいました。

1.過ぎ越しの羊は傷のないものでなければならない。

私たちの罪を贖うためにイエス様は、傷のないものでなければなりませんでした。イエス様は私たちの罪を取り除くために天から来られた神様です。イエス様は完全な神様であり、罪のない完全な人間であられました。この方が私たちの罪を背負ってくださいました。この世の人間は全部自分の罪によって死にます。そして墓を大切にします。この世の宗教は墓参りが中心となっています。イエス様は私たちのために罪となられ、3日目に死よりよみがえられました。イエス様の墓はありません。だから私たちを罪から解放することができるのです。

2.過ぎ越しの羊は定められた日に葬られました。

本文6節に“この月の14日”と書いてあります。神様が定められた日にイエス様はほふられました。人間はそれを止めようとしました。なぜなら、その日は過ぎ越しの祭りの日だったからです。イエス・キリストの十字架は神様の計画であり、神様の摂理であります。偶然ではありません。イエス様は私たちの罪のため十字架につけられるためにこの世に来られたのです。イエス様は過ぎ越しの祭りのその日に十字架につけられ、私たちの罪の贖いとなられました。このようにイエス様は定められた時、定められた所に来られます。定められた神様の計画はイエス様の再臨だけが残っています。イエス様を信じてその血潮で洗い聖められた私たちは空中で引き上げられ、主と会うのです。この地上はヤコブの患難の時、即ちイスラエルの7年の患難の時に主と会うのです。それで私たちは主と共に地上再臨をするのです。エルサレムに今、その土台が全部整えられているのです。

3.子羊イエスの血潮によって私たちは救われます。

主は“傷のない羊の血を門柱とかもいにつけなさい。”と言われました。門柱とかもいに付けられた血を主が見られて、滅ぼすものの戸口を過ぎ越すと言われました。血が命です。主は血が付けられている所は、過ぎ越されました。しかし、血がない所はそこにどんな権力者やお金持ちがいても、また、どんな博士が住んでいても初子が打たれました。その血が付けられてある所は審判が過ぎ去りました。今、主は私たちに御霊によって血の印鑑を私たちに押してくださっています。「神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。」(第2コリント1:22)あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶという聖霊の保証、イエス・キリストの血の印鑑が付けられている人は災いや、死が過ぎ越されます。子羊イエスの血潮によって私たちは救われるのです。

 



2007年9月30日 「神様から送られた手紙」 Uコリント3:1〜4

現代文明は何でも便利になってスピード感がありますが、私たちから大切なもの奪ってしまいました。このようなインスタント的な世界は真心や愛はありません。また忍耐も育ちません。愛を伝える方法も簡単です。何でもインスタント的、瞬間的なものです。しかし、神様の愛は長い時間をかけて旧約時代、イエス・キリスト、聖霊を通して私たちに愛を示してくださり、神様から手紙が送られました。

1.石の板に書いて送った手紙。

これはモーセの十戒であります。人間は堕落して善悪を知る知識の木の実をとって食べて自分勝手な生活をしました。神様が私たちを幸せにしてくださるために一つ囲いを与えてくださいました。これが十戒です。@あなたにはわたしのほかに、ほかの神々があってはならない。A偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。B主の御名をみだりに唱えてはならない。C安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ。Dあなたの父と母を敬え。E殺してはならない。F姦淫してはならない。G盗んではならない。H偽りの証言をしてはならない。I隣人のものを欲しがってはならない。これは本当に私たちを幸せにするための戒めです。立場を代えて考えると、私たちがこのみ言葉によって私たちが守られるのだということが分かります。

2.イエス・キリストの手紙。

神様のみ言葉が人となって来られました。イエス様は生きておられる神様の手紙でした。イエス様を見た人は神様を見たことでした。イエス様を受け入れた人は神様を受け入れたことです。イエス・キリストを受け入れた人はヨハネ1章12節にあるように「御名を信じた人々には神の子どもとされる特権をお与えになった。」とあります。イエス・キリストは来られて、律法がどのようにして完成されるかということも教えてくださいました。私たちの罪を赦してくださいました。「しかし私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8)このイエス・キリストの愛の手紙を受け入れることが大切です。この方を受け入れた人は、神様を受け入れたことであります。

3.聖霊の手紙。

イエス・キリストを受け入れた人に聖霊様が来られて今、手紙を書いてくださるのです。墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれるのです。石の板ではなく、人の心の板に書かれたものです。聖霊様は私たちの中に入って私たちが神様の手紙になるようにしてくださるのです。聖霊が私たちに臨まれると私たちはイエス様の証人となります。証人とはイエス様の手紙となることです。イエス様が私たちの人生に何をされたかということを人々が見るのです。私たちはイエス様の証人になるように聖霊様が働いてくださいます。私たちは罪の絶望の中で苦しんでいる時、イエス・キリストの血潮によって赦されたという手紙です。だから私たちの全人生は聖霊様が神様の手紙として使っておられる素材です。暗い部分、明るい部分、それが全部あわせて画家によって一つの絵になるように私たちの深い絶望はイエス様の恵みを受けてそれが希望になります。貧しさ、呪いがイエス様と出会ってアブラハムの祝福になるのです。また祈りによって私たちが変えられることの手紙、それを人々が私たちを通して見るのであります。



2007年9月16日「求め、捜し、たたきなさい」 マタイ7:7〜11

祈りは呼吸と同じです。生きている人が呼吸しているように、神様から救われた私たちは神様に祈るのです。求め、捜し、たたきます。そうすれば神様は私たちに良き物を拒まず与えてくださいます。良き物は永遠の命、天国、神様ご自身であります。

1.神様が備えてくださった永遠の天国の栄光を求めなければなりません。

この世は旅路と同じです。この世は永遠と比べたらほんの少しの時間です。神様は私たちに永遠という国を求めなさいと言われます。新しい天、新しい地、新しいエルサレム、それを第一に求めなさい。そうすればこれらのものすべて与えられると言われます。私たちはこの世の中でまず神様の国の生活を求めて、それが私たちの主な物にならなければなりません。聖霊様は私たちに天国の市民として礼拝を教えるのです。仕えること、赦し、謙遜、愛といったものを教えるのです。この天国を望んだ人々はこの世でサービスの思いをもってよく人に仕える人になります。また祝福された人になります。神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすればこの世で必要なものすべてが与えられます。

2.神様の約束を信じ、求めることです。

神様は約束の神様であり、神ご自身がみ言葉です。私たちは聖書を読むことと、聖書の約束を信じることがとても重要です。イエス・キリストは十字架上で“すべて完了した。”と言われました。み言葉の完成です。このみ言葉のところに信仰や祈りをかけるのです。洋服は壁の釘に掛けますが、約束は釘のようです。約束もないのに“信じます。信じます。” と言って服を掛けようとしても掛けられません。み言葉があるからそのみ言葉にかけるのです。み言葉には力があってみ言葉がすべてを成し遂げるのです。み言葉は生きておられるイエス・キリストであり、御霊です。「あなたがたがわたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはしそれをしましょう。」(ヨハネ14:14)とイエス様は言われました。イエス様がそれをしてくださいます。私たちはただそれを見て証しするだけです。

3.疑うことなく、最後まで信じることです。

神様は約束、この約束は人格です。約束のみ言葉を疑ったりすると、それは人格を冒涜したことになります。神様はうそをつくことはできません。環境がどんな風であっても私たちは信じていくのです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)私たちがこのみ言葉の上に立って祈れば神様は必ずどんな環境の中にあっても救ってくださいます。み言葉を成し遂げてくださいます。これが祈りなのです。祈りは私たちがみ言葉を最後まで信じて、み言葉に祈りを掛け、私たちの願いを掛けるのです。そうすれば時になると実がなるようにしてくださいます。「善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て刈り取ることになります。」(ガラテヤ6:9)時期が来るのです。恐れ退いてはいけません。最後まで神様のみ言葉を信じていくと必ず信じた通りになります。


2007年9月9日   「人生は出会い」      ルカ10:30〜37

“人生は出会い”とはドイツの医者であり作家であるハンス・カロスが言った言葉であります。彼は“人生は幸福な出会いもあるし、不幸な出会いもある。人を苦しめる出会いは不幸な出会いであり、人をよくする出会いは幸福な出会いである。”と言いました。今日の本文には、いろいろな出会いが書いてあります。

1.強盗との出会い。

ある人がエルサレムからエリコへ下る道で強盗に襲われました。強盗はその人の着物をはぎとり、なぐりつけ半殺しにして逃げて行きました。エルサレムは海抜762m、エリコは水面下250mの所にあります。この二つは落差がとても大きいのです。だから強盗があちらこちらに身を隠し、待ち伏せして相手に害を与え、お金を奪おうとすることが多く行なわれていました。強盗はサタンを意味します。サタンは盗んだり滅ぼしたりします。エルサレムは神様の家、その神様の家から下っていく人を襲って盗んだのであります。サタンは狩人のように人を誘惑して人を半殺しにします。罪責感と呪い、たたりで奴隷の生活、地獄のように人を苦しめるのです。このような出会いは最悪の出会いです。

2.会っても助けにならない出会い。

これは祭司やレビ人との出会いです。宗教家たちは自分の宗教の理念によって、哲学によって今強盗に襲われて、死にそうな人の側に行かなかったのです。それどころか反対側を通り過ぎて行ってしまいました。そのような人々は人を絶対助けることはできません。役に立たないのです。

3.よきサマリヤ人との出会い。

「ところが、あるサマリヤ人が旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い」(本文33節)この傷ついている人をかわいそうに思うことが重要です。近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、包帯して自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやったということです。良きサマリヤ人とはイエス・キリストのことです。イエス様は天の御座を捨てて人間となられ、私たちに近づいてくださいました。私たちのために十字架を背負って血潮を流し、その血潮を私たちに注いでくださいました。オリーブ油は聖霊の油です。オリーブ油は私たちの痛みをやわらげるのです。サマリヤ人が持っていた物はオリーブ油とぶどう酒でした。それを私たちに注ぎ、介抱してくださいました。人間は皆、慰めが必要です。慰めが必要でない人は一人もいません。

4.良き宿屋の主人との出会い。

「次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』(本文35節)宿屋の主人は二つのデナリをサマリヤ人からもらいました。この二つのデナリとは何でしょうか。それはイエス様からもらったオリーブ油(聖霊)とぶどう酒(血潮)です。それで人を介抱してあげることです。宿屋は教会を意味します。教会は人を介抱する所です。“また戻って帰りに払います。”ということはイエス様の再臨を意味します。教会はいやされる所です。よく休んでよく食べて、イエス・キリストの血潮をもって聖霊の慰めを受け、イエス様が再臨されるまでその仕事をしなければなりません。教会は建物ではありません。私たち個人個人救われた人々です。私たちは傷ついている人々、イエス様から送られている人々に出会って人をいやし、祝福するために働かなければなりません。イエス様が再臨されるまでです。



 2007年9月2日       「心を見守れ」             箴言4:23

 「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(本文)

いのちは私たちの心を守られる時にいのちとなって心からわくのです。心は考える所であり、解釈するところです。

1.私たちはいつも心を守るためには良い解釈をしなければなりません。

私たちは心の中でいろいろな解釈をすることができます。物事をよく解釈するとそれがいのちとなります。しかし、解釈を間違ってすると、それが死で終ってしまうのです。同じことが起ってもそれをどのように解釈するかによって、生と死に分かれてしまいます。私たちの心が良い解釈をして、いつも良い思いが皆さんを支配し、それがいのちとなるように祝福します。

2. 心を守るためには、私のために十字架につけられ死んでよみがえられたイエス様を

 信じることです。

サタンは私たちをいつも誘惑して罪を犯すようにして罪責感を与えます。そして、否定的な思いを与えます。しかし「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。」(ヨハネ3:16)だから私たちは肯定的に生きることができるのです。私たちが自分の限界を見て、絶望的になった時に聖霊様が来られて、できるようにしてくださるのです。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)イエス様の打たれた傷を信じる人々は、健康に対しても肯定的な考えを持つようになります。どんなことがあっても主は病を身に引き受け、イエス様の打たれた傷によっていやされたということを信じるからです。祝福に対する肯定的な思いを持つことができるのです。私たちはいつもアブラハムの祝福を信じます。律法の呪いから贖いだされた私たちは、律法の呪いとか運命的な呪いを受け入れません。又、死に対しても肯定的な思いを持つことができます。イエス様の十字架の死とよみがえりだからです。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)だから生きていてイエス様を信じる者はイエス様が再臨される時、引き上げられ、主と共に空中で会います。どんなことがあってもいつも肯定的に考えるべきです。神を愛する人々、すなわち、神のご計画により召された人々にはすべてのことを働かせて益としてくださるからです。

3. 私たちは聖霊充満で私たちの心を見守るべきです。

 私たちがイエス様を信じて心の中で変化が起ったとしても、そのまま放置していたら暗闇の世界によって支配されてしまいます。一匹の悪霊が出て行き、そのうち7匹の悪霊を連れて戻ってくるからです。だから私たちは心を守るべきです。どんな風にして守るのですか。聖霊充満です。聖霊充満のためにはみ言葉を読む生活と祈りの生活が必要です。私たちが聖霊充満になるとよっぱらうような心になります。環境が苦しくても悲しくても恐れがあっても酒によっぱらった人はこわくない、こわないと言っているのです。その人が結局罪を犯して刑務所に入ります。しかし私たちは聖霊に満たされて、いつも詩と賛美と霊の歌をお互いに歌うことができるし、いつも感謝することができます。心が聖霊によっていつも守られるからです。今度アフガニスタンで40日間抑留生活をした人々がどうして心が守られたのでしょうか。彼らの日記によると、彼らはずっと聖書を読み、祈り、礼拝を捧げたそうです。ノミやゴキブリがいる不衛生な生活であったにもかかわらず、彼らはいつも賛美が口から離れませんでした。これは聖霊によって心が守られたからです。いつも心を守る人はいのちであふれる人生になります。

 

2007年8月26日  「運命を変える祈り」  T歴代誌4: 9〜10

ヤベツは運命が変えられた人です。ヤベツという名前は“苦しみを呼ぶ、悲しみを呼ぶ”という意味です。その名前をつけるほど母親は本当に何か苦しいことがあったのでしょう。しかし、彼はすべての兄弟たちよりも重んじられるようになりました。その理由は祈りにありました。

1.ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言いました。

主の御名を呼ぶ者は救われます。ヤベツは自分の名前の故に自分の人生を嘆いたとすれば、彼の人生は苦しみ、悲しみの人生になったことでしょう。しかし、彼は自分の名前を贖ってくださる方の名前を呼びました。イエス様の名前を呼びました。イエス様の名前は贖いです。つらい名前を背負って十字架につけられる方の名前であるイエス・キリスト、赦しと勝利といやし、平安と義なる主の名前を呼びました。その名前を呼ぶと自分の名前を忘れ、自分の名前の運命に囲まれないで別の人生を送ることができました。尊ばれる人生になりました。

2.私を大いに祝福してくださいと祈りました。祝福の上祝福をくださいという

  意味です。まずこれが私たちが受け入れるべき祝福です。私たちは魂が恵まれるように祈らなければなりません。魂が恵まれるということはイエス様を信じることです。イエス様の永遠の命を受け入れることてす。イエス様のよみがえりが私のよみがえりとなり、天国が与えられます。そうするとすべてのことに祝福がきます。町にあっても祝福され、野にあっても祝福されます。入るときも祝福され、出ていくときにも祝福されます。そして私たちが健やかになります。私たちが神様の祝福を受けて静かになると体もいやされます。平安と喜びは私たちの体のいやしです。私たちが攻撃的になり怒って、心配で否定的になると病気になります。だから魂が恵まれ、すべての点で恵まれ、健やかになる、この順番が重要です。

3.私の地境を広げてくださいと祈りました。

私たちの地境は天国の地境です。天国の運動はからし種のようです。はじめはからし種が木のように大きくなって、鳥が巣を作るほどになります。エルサレム、サマリヤ、地の果てまで地境が広がっていきます。伝道、宣教、奉仕、救済、祈りの領域がどんどん広がっていくことです。生めよ、増えよ、地を満たせ、地を征服せよと主が言われました。当教会は幼稚園から高校まで主が導いてくださいました。“もっと地境を広げてください。障害者の子どもたちや、クリスチャンの老人ホームの地境を広げてください。”と祈っていきましょう。

4. 主の御手が私と共にあります。

主の御手は聖霊とみ言葉です。聖霊とみ言葉が祈りによってあわせられると動き出し

ます。み言葉が私たちの上にのせられて、聖霊が信仰によって働いてそのことを成し遂げてくださるのです。私たちの地境が広がってもわざわいから遠ざけ、苦しむことがないように主の御手が私たちを守ってくださいます。聖霊とみ言葉は私たちにいつも働いて、主の臨在にあふれるようにしてくださいます。サタンの手は肉の欲、目の欲、この世の暮らし向きの自慢の誘惑の手です。そして、おまえはヤベツだと攻撃するのです。しかし、このような攻撃から私たちを救い出してくれるのは御霊とみ言葉です。私たちはヤベツのようにいつも祈らなければなりません。祈りは呼吸運動です。祈りの呼吸が止まれば命が止まります。主の御名をいつも呼びながら聖霊とみ言葉が私たちを誘惑から、悪から救い出してくださるように祈っていきましょう。このような祈りを通して私たちの運命が変わるのです。



2007年8月19日    「祝福の山びこ」    ルカ6:31〜38

私たちが深い山に入って何か声を出したら、その声が向こうから返って来ることを山びこと言います。私たちが何か言ったり、したりしたらそれが返ってきます。「与えなさい。そうすれば自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」(本文38節)これが山びこです。人に与えたら与えられます。私たちが祝福を与えたら祝福が私たちに10倍、30倍と大きく返ってきます。

1.賞賛の山びこ。

「さばいてはいけません。。そうすれば自分もさばかれません。」(本文37節)よく人を批判してさばく人はさばきの山びこが生じます。高ぶってよく人を批判する人は人が自分に何も言ったりしたりしていないのにさばきを感じるのです。人が笑ったりすると人が自分を批判するのだと思うのです。怒っている人を見ると、自分に対して怒っているのだと思うのです。これが山びこの現象です。私たちは祝福の山びこを願うのだとすれば人を賞賛しなければなりません。賞賛すると、賞賛が返ってきます。これは賞賛の山びこです。いつも私たちが人を賞賛しようとする人に対して関心を持ち、とりなしの祈りが必要です。それで私たちがビジョンを持つことです。すなわち神様が見られる目を私たちが持つことです。私たちの目で人を見ると賞賛することがむずかしいのです。しかし、信仰の目、愛の目、希望の目、ビジョンの目で人を見ると、賞賛することができるのです。神様は詐欺師のヤコブをイスラエルと呼び、霊的にエシュルンだとも言われました。これは神様の全能の目、愛の目で見るからです。これは賞賛であり、励ましでもあります。私たちが人を見てそのように賞賛したら、山びこのように私たちに賞賛が返ってきます。私たちを助けてくださる聖霊様に対していつも感謝し、聖霊様をほめたたえなければなりません。そうすると、それが返ってきます。

2.赦しの山びこ

この世の中で人間関係を結びながら傷ついたり傷つけたりすることがあります。その関

係を私たちがいつも平安で喜びを持って生きるためには、私たちは人を赦さなければなりません。スタンフォード大学の赦しのプロジェクトの設立者プレードラスキン教授によると、人を赦す時、ストレス、怒りが小さくなり、心の中が平安になり、健康になり、幸せになるということでした。私たちは人を心から赦さなければなりません。心から赦すことによって私たちも心の中で静かにしている時に赦しの山びこが聞えるのです。赦さなかったら自分も心がさばかれます。しかし、赦すと心から赦しの声が、天国の声が、約束の祝福の声が聞こえます。

3.愛の山びこ。

復讐すると瞬間の喜びがあるかもしれませんが、永遠の喜びはありません。永遠の喜び

は愛の中にあります。今、テロとの戦争が激しくなっている時代に私たちは住んでいます。しかし、神様は敵を愛し、敵を赦しなさいと言われます。「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。」(本文36節)私たちが復讐してはいけません。復讐すると自分も復讐されます。愛すると私たちも愛されます。「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。」(ローマ12:19)と書かれています。「悪に負けてはいけません。かえって善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ

12:21)憎しみや復讐をもって悪と戦うことはできません。私たちは愛をもって接すると愛の山びこが返ってきます。これが人間を幸せにします。



2007年8月12日 「恵みによって生きる生活」  エペソ2:8〜10

恵みはギリシャ語でカリスと言い、美しい、愛らしい、神様からの贈り物、神様ご自身という意味です。すべて良き物は上から恵みによって与えられます。永遠の命、救い、これは人間から出たものではなく、神様からの贈り物です。

1.恵みの神様から離れた人間。

サタンは私たちに“神様の恵みから離れてあなたも独立しなさい。あなたも神のようになりなさい。どうして恵みによって生きるのか。”と誘惑します。聖書の中に家出をした放蕩息子の話が書かれています。次男は自分の分け前をもらって遠い国に旅立ちました。そして、遊女たちとお金を湯水のように全部使ってしまいました。また飢饉が来た時に彼は食べる物に困り果てました。豚を世話するような仕事をしました。豚は霊的に悪霊を意味します。そのような生活をする彼はいくら努力してもいばらとあざみの生活から離れることはありませんでした。「土地はあなたのためにいばらとあざみを生えさせ、野の草を食べなければならない。」(創世記3:18)いばらとあざみは呪いの象徴です。いくら努力してもいばらとあざみのことで何も残るものがないのです。どんなに努力しても豚と一緒にいるのですから臭いがして聖くなることはできません。環境が汚いから病気になります。病気になってそのままだったら死んでしまいます。永遠に死にます。神様から離れた人間は自力ではどうすることもできません。父の家を思い出して帰らなければなりません。

2.恵みを受けるためには悔い改め、父の家に戻ることだけです

 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたをを休ませてあげます。」(マタイ11:28)と神様は言われました。父の家に来ると私たちは重荷をおろすことが出来ます。父の家は神様の家であり、教会です。教会には十字架があります。十字架はイエス様の愛です。父は戻って帰って来た息子を抱きました。そして、子供としての全ての権利を回復させました。一番良い着物を着せ、手に指輪をはめさせ、足に靴を履かせました。靴は僕と子供を区別する大きな印です。肥えた子牛をほふって食べさせました。肥えた子牛はイエス・キリストを意味します。永遠の神様のみ言葉の祝福であり、癒しです。それを食べることは赦しを意味します。彼はすべてが回復されました。心の中で喜び、平安があふれました。彼は父の家に帰って大いに祝福されました。

3.恵みによる生活。

 私たちは神様の作品であり、良い行ないをするために造られました。神様はその良い行ないをもあらかじめ備えてくださっています。良い行ないとは神様に感謝と賛美を捧げることです。私たちは神様の家に帰ってきて魂が恵まれ、全てに恵まれ,健やかになったら、私たちは感謝をする生活をしなければなりません。私の手の力がこの富を築きあげたと高ぶると、私たちの中で感謝がなくなります。私たちは一生感謝を捧げなければなりません。感謝を捧げることは神様の救いです。そのために神様は私たちを造られました。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩篇103:1〜2)と主は言われます。私たちの創造の目的は、一般的には神様に栄光を返し感謝を捧げることと、特別なことは使命を発見して、使命の働きをすることです。主がこの世の中で私にさせてくださる仕事があります。これをする時、私たちはワクワクします。喜びでエンドロフィンが生じます。使命を持った人は癒されるし、恐れが退き、忍耐が生じる生活をします。これが恵みによって生きる生活なのです。

 



2007年8月5日   「土の中の器の宝」    Uコリント4:7〜10

人間は土の器で神様を宝だと今日の本文は表現しています。このみ言葉を理解していくと信仰生活に勝利をもたらします。神様は人間をちりから形づくられ、その中に神の霊を吹き込んでくださいました。私たちは弱く壊れやすいものですが、その中に測り知れない宝があります。それはイエス・キリストです。クリスチャンはこのイエス・キリストを受け入れて神の子どもとされた人々です。私たちの体は壊れますが、宝であるキリストは壊れれません。だから私たちの中におられるイエス・キリストによって私たちは勝利することができます。

1.四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。

私たちは予測もできなかった罠にかかって落胆し、失望し、絶望し、恐怖の中で四方八

方から苦しめられる時があります。しかし、私の中に測り知れない神の力がそれらに打ち勝ちます。環境よりもっと私たちの中に力があるのです。信仰の創始者であり、完成者であるイエス・キリストから目を離してはいけません。私たちはイエス・キリストがこの世よりもっと偉大な方であることを知らなければなりません。

2.途方にくれていますが、行きづまることはありません。

私たちの器は限界があります。いろいろな手段方法を全部使っても、自分ではどうにもできないから苦しいのです。途方にくれて、怒ったり、落胆したり、うつになったりするのです。しかし、イエス様は私たちを勝利に導いてくださる方であります。やもめとなった母親のひとり息子が死にました。(ルカ7: 12)やもめはこの息子が希望のすべてでした。しかし、彼を失くした時、彼女を慰める人は一人もいませんでした。そこにイエス様が現われてこの苦しみをよみがえらせてくださいました。“泣かなくてもよい。青年よ。よみがえれ。”とイエス様はこのようにやもめを慰めてくださいました。この地上でよみがえりがあるか、また永遠の国でよみがえりがあります。すべての苦しみから解放してくださるのです。イエス・キリストの血がすべてを赦してくださいます。主が私たちをすべての苦しみから解放してくださるのです。自分の罪のことで苦しんでいる人や、病の人をこの地上で癒してくださるか、また永遠の御国に呼んで永遠に癒してくださいます。私たちは働いていても貧しい生活の時があります。にもかかわらず私たちがまず神の国とその義を求めると、私たちはアブラハムの豊かな祝福を味わうことができるのです。神の国はサービス(service)です。礼拝です。人を幸せにし、豊かにする、与える、その時私たちも与えられ、祝福されます。

3.迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

私たちクリスチャンはこの世の中で善を行なっている人々です。しかし、それを恨んで憎んでいる人々が多いのです。「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」(マタイ5:10〜12)と主は言われます。私たちは迫害されても見捨てられることはありません。なぜなら主は永遠の御国に私たちを招いてくださるからです。「私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。」(Uコリント5:8)そこは涙も苦しみもない所です。私たちはそこに行くのですから見捨てられることはありません。倒されても滅びることはありません。

 



2007年7月29日 「絶望を通した救い」  U列王記5:1〜15

人間の絶望は神様の機会です。人間の終りは神様の始まりです。人間には限界があります。平安な時はその限界を感じませんが、危機的な時はそれを感じて神様に助けを求めるのです。アラムの王の将軍ナーマンは王から愛され、国民からも尊敬されていました。アラムに勝利をもたらした彼は勇士ではありましたが、らい病にかかっていました。彼はイスラエルの地から来た若い娘から“預言者の所に行かれたら、きっと直してくださるでしょうに。”という朗報を聞きました。完全な絶望が希望に変わったのであります。

1.ナアマン将軍。

ナアマン将軍は主君に重んじられ、尊敬されていましたが、らい病にかかっていました。戦争ではよく勝った人なのですが、自分の病気には勝てませんでした。彼は人間としてどんなに権力や財産を持っていても、彼の病気は直りませんでした。

2.神様の救いの方法。

神様の救いの方法は“ヨルダン川に行って7たびあなたの身を洗いなさい。”ということでした。これを聞いたナアマン将軍は失望し、怒りました。預言者エリシャが出て来て、自分の患部を触って癒してくれると思ったのに、ただヨルダン川で洗いなさいということでした。“自分の国にはヨルダン川よりきれいな川があるのに、これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか。”とナーマン将軍は怒って帰ろうとしました。私たちが神様の恵みを受けることができないのは、自分の思いが強いからです。神様は私たちを救う時に愚かなことを通して救ってくれます。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です。」(!コリント1:18)十字架を仰ぎ見る人は、十字架から流される血潮によって罪が赦されます。イエス様の打たれた傷によって癒されます。神様はこのように私たちに永遠の命を十字架を通して与えてくださいます。「義人は信仰によって生きる。」(ローマ1:17)と言われます。「わたしの思いは、あなたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。」(イザヤ55:8)と書かれているように、神様の方法と人間の方法とは違います。    

3.絶望を通した救い。

自分の状況に絶望を感じたナアマン将軍は、預言者が教えた道を受け入れました。彼は下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に7たび身を浸しました。すると彼のからだは元どおりになって、幼子の体のようになり、きよくなりました。彼は砕かれました。砕かれた所に恵みの水が入り込むのです。へりくだって下っていく所に神様の祝福があります。彼は将軍の服を脱ぎ捨て、裸になりました。完全に7度水につかりました。完全に神様に従順していく時、神様の救いが現われます。神様は絶望を感じて神様の道に頼る人を通して栄光を現わしてくださいます。神様は今も絶望して叫び、主に手を伸ばしている人に救いをもたらしてくださいます。

 

2007年7月22日      「自己愛」    マルコ12:29〜31

聖書には2種類の自己愛を言われます。唯一なる神様を愛し、その愛によって自分を愛し、その愛によって隣人を愛しなさいという自己愛があるし、もう一つは神様と全然関係がなく、堕落した人間がこの世を愛する自己愛があります。これに対しては捨てなさい、憎みなさいと言われます。

1.間違った自己愛。

この世は神様から出たものではありません。「すべての世にあるもの、すなわち肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」(Tヨハネ2:15〜17)この世を愛してはいけません。イスラエルの民はエジプトから出て荒野で生活しながら、いつもエジプトでの生活を思い出しました。それは快楽的な肉の欲、目の欲、この世の権力、そのようなものでした。救われた私たちもイスラエルの民のように昔に戻ろうとする傾向があります。弟子たちをイエス・キリストが3年間訓練したにもかかわらず、彼らの間では誰が一番偉いかという争いがありました。これは私たちが間違って求めるものであります。これは神様から出たものではなく、すぐ滅びてしまいます。この世の欲は滅び去ります。しかし、神様から出たものは平安であり、主から来るものは永遠です。

2.真の自己愛。

これは神様から出たものです。イエス様が先に私たちを愛してくださいました。私たちが罪人であった時、キリストが私たちのために十字架にかかって血潮を流し、私たちの罪を赦してくださいました。そして聖霊を送ってくださいました。聖霊様が今、私たちを養い育ててくださっているのです。このように私たちが三位一体の神様の愛の中で自分を愛すること、その愛によって私たちは健全な自尊心を持つことができます。キリストの目で自分を見ることです。「私の目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ41:3)と言われました。キリストの愛によって自分を見ると私たちは幸せになります。大きな夢を持つようになります。たとえ自分が障害を持っていても私が弱い時、強くなります。そのようにキリストの愛で自分を愛し、キリストの基準で自分を愛することです。この世の価値基準で見ることではありません。

3.「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」

イエス様の愛をもってあなたの隣人を愛することです。愛されていない人は人を愛する方法を知りません。自分を憎んでいる人は他の人を憎みます。自分を裁く人は他の人を裁きます。キリストが私たちを赦してくださったその赦しによって私たちは人を赦し、愛することです。キリストが私をありのまま見て、寛容な心で赦してくださったことにより、私たちは救われたのです。私たちが間違って求めてもとりなしてくださるし、うめきをもって養って育ててくださいました。この愛をもって互いに愛し合いなさい言われます。この愛を見せる時、キリストの弟子だと人々が認めるのです。だから私たちが自分と違った型、自分と違う宗教、思想を持っていても人を好きにならなければなりません。勿論その人が持っている罪を愛するのではなく、その人自身を寛容な心を持って愛することです。そのことによって人を生かすのです。キリストはすべてを耐え忍ぶことによって私たちを生かしてくださいました。永遠の命を受けることもそれです。私たちもこれを人に流して人を生かすために私たちは生きるべきであります。私たちがイエス・キリストの十字架を負うことが人を生かす道であります。これができる人は神様を愛し、神様から愛されているのだという真の自尊心を持っている人です。


2007年7月15日     「夢と情熱」              ピリピ2:13

 神様は奇跡の神様、夢のような方であります。私たちが夢のようなことであっても神様はそれを現実にしてくださいます。神様は私たちの中で御心のままに私たちの内に働いて志を立てさせ夢を持たせてくださいます。

1.十字架は神様の夢と情熱です。

私たちは神様から自由意志を持つ人間として造られました。私たちは自由意志を持って悪魔の誘惑におちて罪を犯し、神様から離れました。その結果、悪魔は私たちを盗んだり殺したり滅ぼしたりしました。これらを通して神様は一つの夢を見られました。私たちを救って完全に自由する夢でした。神様の情熱がこの夢を実現しました。イエス様が小さな赤ちゃんとしてこの世に来られ、私たちのために十字架に付けられることでした。イエス様は私たちの罪のために刺し通され、咎のために砕かれました。私たちに平安をもたらすために苦しみを受け、イエス・キリストの打たれた打ち傷によって癒されるという夢が神様の情熱によって実現されました。皆さんが赦され、平安になり、癒され、永遠のいのちをもって生活することを神様は今も祈っておられます。愛する者よ、あなたの魂が恵まれるようにすべての点で恵まれ、健やかであるように神様は祈っておられます。

2.信じる人々には御霊によってこの夢を与えてくださいます。

神様はすべての人に夢と幻を与えてくださいます。聖霊様は神様が持っておられるのと同じ夢を私たちが持つように願っておられます。信じる人々には御霊によってこの夢を与えてくださいます。罪が赦され、血潮によって聖められ、神様の子供とされるのです。神様に“アバ父よ”と呼ぶことが最高の夢でありビジョンであります。罪に定められることはありません。神様はご自分の名前をヤウェラファ(いやし主)と言われます。イエス・キリストの打たれた傷によって癒されること、アブラハムの祝福を御霊によって頂く夢を持つことを願っておられます。貸すであろうが借りることはありません。イエス様は「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」(Uコリント8:9)私たちはこの夢を持つべきです。聖霊様は私たちの体を聖霊の宮とし、私たちが小さなイエス・キリストの証人となることができるようにしてくださいます。愛にも聖さにも力にも証人となるようにしてくださいます。またイエス様の再臨の夢です。イエス・キリストは空中再臨されるし、地上再臨されます。空中再臨の時にはイエス・キリストを信じた教会を迎えるためです。花婿が現われ、花嫁である教会が引き上げられ、主と永遠に住むことになります。私たちは聖い花嫁の夢を見ることができます。

3.聖霊様がさせてくださることをする時、情熱が生じます。

私たちの中で事を行なわせてくださいます。それには情熱が必要です。私たちは主から熱い情熱が自分の使命として与えられるのです。神様が事を行なわせてくださいます。チョー先生は肺病4期で死の病気から救われ、人々にいやしの福音を伝えておられます。私たちがいろいろな経験をするのはそのことのためです。

4.私たちが燃える熱心を続けるためには祈りの生活が必要です。

私たちが環境に失望せず、私たちが高ぶることなく続くためには、至聖所での主との交わりが必要です。主との交わりの生活は人が認めても認めなくても燃える火をもって生きることができるのです。エノクは300年間主とともに歩み、主がとらえられたので携挙され、いなくなったと言われます。祈りの信仰生活が続けられるように祈りをしましょう。


2007年7月8日     「輝く顔」      使徒7:54〜60

神様は人間をご自身のかたちに創造されました。人格を表現する場所は顔として造られました。今日ステパノは顔が天使のように見えた。すなわち輝く顔だった、ということでしょう。イエス様を死刑宣告した場所でステパノは輝く顔をしながらイエス・キリストがメシアであることを宣言しました。彼らは腹わたが煮え返る思いで歯ぎしりしながら見つめていました。こういう環境の中でどうしてステパノが輝く顔を持つことができたのでしょうか。

1.光を抱いていたからです。

私たちは自ら光ることはありません。私たちは土の器です。イエス・キリストが光です。私たちがイエス・キリストを受入れたら光るのです。イエス・キリストを迎え入れたということは光を受け入れたということです。新生したのです。光を抱いて生活することは聖霊充満の光です。聖霊充満になると、聖霊様の油注ぎがあるので輝くのです。喜びがあり。感謝があり、愛があるのです。不平不満をする人の顔は輝きません。

2.続けて光を仰ぎ見ていました。

聖霊に満たされていたステパノは天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエス様を見ました。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(へブル12:2)とあるように、私たちもイエス様を見続けなければなりません。もしステパノが自分を殺そうとする群衆の怒りを見てしまったら、恐れ慄いたと思います。見る物が心に刻まれ、言葉に出て行動となります。憎んでいる人を見続けると憎しみの顔になります。恐れることを見ると恐れがきます。だから私たちはイエス様から目を離してはいけません。イエス様を見続けることが重要です。イエス様を続けて見る方法はみ言葉と聖霊と祈りです。これらによって私たちはイエス様から目を離さないようになります。

3.光を証しする生活

ステパノは光を現わす生活でした。周りを恐れることなく自分の中にある光を現わし、証ししたのであります。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:10)周りは反対の人々があったのですが、「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」(本文56節)とステパノは言いました。自分が見るものが光を現わすのです。石で打たれながらも「主イエスよ。私の霊をお受けください。」これはイエス様が父なる神様に祈ったことと同じ祈りです。[主よ。この罪を彼らに負わせないでください。こういって眠りについた。](本文60節)ステパノはイエス様と同じ祈りをしました。愛と赦しを通して喜び、平安があふれる顔で眠りにつきました。殉教、死んでいきながらもこのような顔を見せました。血を流している顔が輝いたのです。この輝く顔がパリサイ人で人を批判していたサウロにショックを与え、サウロはやがて忠実なクリスチャンになりました。私たちは自分の中にある光を周りの人に照らさなければなりません。私たちは福音を恥と思わないで大胆に人々に現わすことです。そうすれば実を結ぶことができます。


2007年7月1日  「もっと深い段階の感謝」  マタイ26:26〜30

信仰が深くなり成熟するということは、感謝が深くなることを意味します。感謝にも色々な段階があります。深い感謝の人になるには、どのようにしたらいいのか一緒に学んでいきましょう。感謝を深くできる人は幸せな人です。

1.理由がある感謝。

基本的な感謝です。プレゼントを貰ったから、事業に成功したから、健康になったから感謝するというような感謝です。命が救われたから感謝するというのは、当然な感謝です。しかし、感謝ができない時、問題が起きるのです。神様は感謝する人を探しておられます。10人のハンセン病の人々が苦しい生活をしながらイエス様に叫びました。イエス様は彼らの病気を癒してあげました。10人のハンセン病の人たちが癒されて、サマリヤ人ひとりだけがイエス様の所に戻って感謝を捧げました。「10人癒されたのではないか。残りの人はどこにいるのか。」とイエス様は残りの人たちを探されました。イエス様は感謝を捧げた人に「行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」と言われました。彼は癒されただけではなく、永遠の命までも得ました。このように私たちは神様に感謝を捧げると、神様が私の神様になります。天国、恵み、力が私のものになります。私たちが感謝すると、感謝するものが私たちのものになります。太陽に感謝すると、太陽が私のものになります。このように感謝する人は、鷲のように高く高く上ることができます。

2.感謝する理由がないのに感謝する。

これは特別の感謝、信仰の感謝です。すべて何かがうまくいくので感謝するのではなくて、損を受けたり、失ったりいろいろな苦しみがある中での感謝です。神様の御心が苦難の中にある、すなわち摂理の中の感謝です。最近、ヒルトンホテルの億万長者の娘さんが飲酒運転で免許停止の処分を受けました。彼女はお金で解決しようとしたのですが、刑務所に入らなければならなくなりました。しかし刑務所の生活が彼女の人生を180℃変えました。「神様がなさることはすべて理由があると思います。刑務所の中で私は一番大切なものは何かということを学びました。」と彼女は告白しました。自分は一体何者なのかということを考える時間が与えられたのです。神様が私たちを苦しめるのは、本音ではありません。苦しみを通らせてついには私たちを幸せにするためであります。イスラエルがバビロンに捕因になった理由も、偶像崇拝から完全に解放されるためでした。そのために彼らは苦しみを受けたのであります。私たちはすべてに感謝しなければなりません。良き神様を信じて、毎日どんなことがあっても感謝する私たちになりましょう。

3.自分を与え、犠牲する感謝。

イエス様が十字架を通して自分を与え、犠牲する感謝を私たちに教えてくださいました。ご自分の体を引き裂き、血を流し、ご自分をお与えになりました。イエス様が聖餐をされる時、ご自分を与えながら感謝されました。一粒の麦となって死ぬことによって、多くの人々に永遠の命が与えられ、罪が赦され、幸せになるための感謝を捧げられました。私たちは教会に来てこの感謝を捧げているのです。自分を犠牲して奉仕をしながら、献金をしながら感謝する、これを通して人々が救われる、幸せになる、それを見て私たちが感謝を神様に捧げるのであります。これが一番深い段階の感謝です。自分を与えて、神様に感謝を捧げる、そのような人はどこに行っても何をしても幸せを失うことはありません。


2007年6月24日「御霊を消してはなりません」Tテサロニケ5:19〜22

私たちがイエス様を救い主として受け入れた時、聖霊様はすぐ私たちの中に住まわれるのです。聖霊様は私たちの信仰が深くなり実を結ぶように導いてくださいます。しかし、このように大切な聖霊様に対して私たちはあまりにも無知なので、御霊を消してしまうケースがあります。

1.人格的な聖霊様に対しての無知です。

聖霊様は生きておられ人格を持っておられる方です。この方を人格的に認めて交わりをしないと聖霊様は悲しまれます。無視したりすると聖霊様は悲しまれます。いつも聖霊様を認め歓迎して生活することが大切です。私たちが聖霊様を認め歓迎する時、聖霊様は喜んで私たちと交わりをしてくださいます。

2.聖霊様の働きを止める時、御霊を消してしまいます。

聖霊様は助け主としてこの世に送られ、イエス様と全く同じ働きをしておられるのです。イエス様は罪人の罪を赦し、悪霊を追い出されました。イエス様がされたことと同じことを聖霊様はされます。聖霊様は助け主です。イエス様が助け主であったように、聖霊様がこの世に送られて私たちの中に住まわれ、イエス様の仕事をしておられます。私たちを通して罪が赦され、病が癒され、悪霊が追い出されることを私たちがしないと、聖霊の火を消してしまうのです。聖霊様が私たちを通していつも現われるように聖霊様の仕事を快くしないといけません。私たちが人を赦さなかったり、人を妬んだり、憎んだりすると聖霊様は悲しまれます。聖霊様はみ言葉を伝えることを強く願っておられるのです。神様はみ言葉です。天国の福音をのべ伝えることです。パウロは「福音の奥義を大胆に伝えるように私のために祈ってください。」(エペソ6:19)と祈りました。聖霊様は皆さんを通して福音を大胆に伝えるように願っておられます。これをすることが聖霊充満になる道です。

3.悪の暗闇、罪に従っていく時、御霊を消してしまいます。

聖霊様は光です。暗い所は少しもありません。私たちが悪の世界を歩いていくと聖霊様を消します。今日の本文に「悪はどんな悪でも避けなさい。」と書かれています。悪の一つは偶像崇拝です。日本全体が偶像崇拝をしています。そして、死んだ人が神として拝まれる死者崇拝をしています。このように偶像崇拝する所には聖霊様は働かれません。貪欲も偶像崇拝です。不平不満の罪、イスラエルの民は奇蹟的に出エジプトしたにもかかわらず、彼らは感謝もしないで、不平不満したので荒野でみんな死んでしまいました。私たちが感謝を捧げる時、主がそこで働いてくださいます。イスラエルの賛美の中に住まわれる主、感謝しつつその門に、賛美しつつその大庭に入れと言われます。偶像礼拝は霊的姦淫です。私たちがイエス様を信じた時、私たちの体は聖霊の宮となりました。聖霊の宮となった私たちが不品行をすると、私たちの体は壊されます。遊女と交われば遊女と一つの体となります。だから私たちは不品行を避けるべきです。こういった罪を私たちが犯さないようにしなければなりません。聖霊様は私たちが従順することを願っておられます。ダビデは不品行の罪を犯した時、自分から聖霊を取り去らないようにしてくださいと言いました。聖霊様が離れると自分がどんなに悲惨な者になるか彼はよく知っていました。聖霊様がおられる時、私たちはみ言葉を信じることができます。しかし聖霊様が離れると信仰はなくなってしまいます。聖霊様は愛なる方であり、また畏れる方であることを知らなければなりません。悔い改めてイエス様の中で聖霊様と交わりをし、私たちの体を通していつもイエス様が現われるように心がけましょう。また聖い生活ができるように聖霊充満を維持するようにしましょう。


2007年6月17日   「血潮の叫び」     ヘブル12:24

カインがアベルを殺した時、アベルの血が地から叫びました。今日の本文には「アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎの血」とこのようにイエス様は血を表現しています。イエス様の血は叫んでいます。イエス様の血の叫びを聞いて信じ、告白する時、偉大な祝福の道が開かれます。救いがあらわれます。

1. イエス様の血潮の叫びは私たちの中で悪魔の声を追い出します。

悪魔は日夜私たちを攻撃し、常に否定的な言葉を叫ぶのです。“お前は罪人だ。お前は神様から愛されていない。憎まれている。”しかし、血潮の声は“あなたの罪は赦された。あなたは愛されている。”と叫んでいます。私たちも同じ告白をしなければなりません。“神様は私を愛しておられる。神様は私を喜んでおられる。イエス様の命は私の命。イエス様の義は私の義。イエス様のよみがえりは私のよみがえり。”と告白しなければなりません。

 2. 血潮の叫びは刑罰と呪いと死から解放されました。

 十字架上でテテレスタイ、すべてあなたの負債は支払ったと言われました。イエス様の血は聖所や至聖所まで持って行きました。体は門の外でいけにえとして苦しみを受けられました。イエス様はその場所でも私たちに叫んでいらっしゃいます。あなたの罪の刑罰、呪い、死、たたりは私が受けた。だから私たちはよみの苦しみから勝利するのであります。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。(Tコリント15:55)と私たちは死に向って叱ることができます。イエス・キリストのよみがえりは私たちのよみがえりです。イエス様の叫びを頼って私たちは最後の勝利である死に打ち勝つことができるのです。イエス・キリストは私たちの罪のために刺され、咎のために砕かれました。イエス・キリストへの懲らしめが私たちに平安をもたらし、イエス・キリストの打ち傷によって私たちはいやされました。(イザヤ53:5)このことを忘れないでいきましょう。

 3.ゲッセマネの血潮の叫び。

 祈りと共に血を注ぎました。父よ御心なら杯をわたしから取り除けてください。しかしわたしの願いではなく、御心のままにしてください。イエス様は十字架につけられるためにこの世に来られました。しかしあまりにも杯は全人類の罪が入っている杯ですのでどんなに汚れたものであるか、罪を知らない方がそれを飲むのは本当に苦しかったのです。それを避けることができれば避けてください。しかし、自分の心ではなく、主の御心を成してくださいと叫びながら血を流しました。汗が血に変わったと書かれています。世の中で情欲や欲望に打ち勝って勝利するためには、この血の声を聞かなければなりません。罪、重荷を除くは血の力、血の力、私たちが十字架でさまざまな情欲と欲望をつけてしまうのです。パウロは毎日自分に死ぬと言いました。欲望のまま、物質を使うことではなくて主に聞きながら私たちは生活しなければなりません。この物質の中で特に什一は主のものです。主日の時間は主のものです。私たちは主のものを捧げながら命を捧げる(ヘブル13:13)、命を捧げる人に主はイエス・キリストの血の福音を携えて主の福音を伝えることです。福音を伝える時、私たちは恥しめを受けるのです。主が共におられるので、義、喜び、平安が私たちの中でいつもあふれます。体験してみないと分りません。十字架の道に行く時、私たちは分るのです。


2007年6月10日  「心を一つにする祈り」  マタイ18:18〜20

祈りは神様と共に交わりをする霊的呼吸であります。祈りは大きく二つに分けることができます。神様との一対一の個人の交わりがあり、また神様とグループとの交わりの祈りがあります。心を一つにするということはギリシャ語でシンフォニオといい、ここからオーケストラのシンフォニーという言葉になりました。心をひとつにして祈るという意味です。この祈りには大きな力があります。

1.心を一つにする祈りは地上でつなぐことと、解く力があります。

何を地上でつなぐし、解くのですか。盗人をしばる、イエス・キリストの恵みを解く、その力が祈りにあります。「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10)盗人はサタン、悪霊を意味します。祈りは淫乱の悪霊、うそつき、悪い行動をする悪霊、占い、惑わす霊、病をひきおこす霊を追い出すことができます。主は私たちの賛美の中に住まわれます。賛美は曲がついた祈りです。心を合わせて賛美すると、賛美にはすごい力があります。パウロとシラスが牢の中で賛美を捧げている時、すべての牢のドアが開き、鎖が解けました。私たちは、私たちを縛っているいろいろな問題のために祈るべきです。祈ればすばらしいことが起ります。

2.心を一つにする祈りはとても効果的です。

一人の祈りは千の悪霊を追い出し、二人の祈りは万の悪霊を追い出すことができるのです。第一次世界大戦の時、ドイツの空軍が飛行機で編隊を組んでイギリス軍と戦いました。そして、イギリス軍の戦闘機を全部撃墜することができました。これは1機の飛行機が機関銃を打ったら8尺の範囲の中に入ったものが落されるのですが、2機で同時に打つと単純計算で16尺になるはずなのが800尺の範囲の中に入るものがうち落されました。これが心を一つにして祈るパワーであります。イエス・キリストの再臨のために、また日本一千万救霊のために心を一つにして祈りましょう。エルサレムの回復のために祈りましょう。心を一つにして祈ると祈った通りになります。人が心に信じて義と認められ、口で告白して救われます。

3.心を一つにして祈る祈りはイエス・キリストを現わします。

「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(本文20節)私たちが共に心を合わせて賛美する時、神様がそこにおられます。賛美の中で住まいとされる方、私たちが神様のみ言葉を共に聞く時に私たちがそれをアーメンと言うのです。「イエス・キリストはよみがえりです。いのちです。」と宣言して、アーメンと言う時に、よみがえりといのちが私たちに現われるのです。イエス様はいやしです。私たちがその御名をあがめて私たちが一つになって唱える時、そのことが私たちに現われるのです。主が共におられるのです。主の御名である勝利の名前を一緒に唱えて信じていくと、聖霊様によってそのイエス・キリストを体験することができます。イエス様は死んだ神様ではなく、御霊によって今も生きておられます。イエス・キリストは昨日も今日もいつまでも変わることがありません。私たちが主の名によって集まっている所、祈っている所に主が共におられ、主の臨在を現わして私たちに体験を与えてくださいます。私たちはイエス・キリストを体験して、力を受け、その体験を証しするのです。それが祈りの祝福であります。


2007年6月3日 「涙と希望の預言者エレミヤ」 エレミヤ32:6〜15

エレミヤは涙の預言者と呼ばれています。ユダはBC586年にバビロンに滅ぼされました。滅ぼされることをずっと預言したのがエレミヤでした。彼は預言しながらどんなにつらかったでしょうか。彼は涙がとまりませんでした。しかし彼は涙の中にあっても神様の希望のみ言葉をのべ伝える人になりました。それで希望の預言者とも呼ばれるようになりました。希望もない絶望的な状況の中で、エレミヤはどうして希望をもたらす宣言ができたのでしょうか。

1.エレミヤは神様のみ言葉を聞きました。

エレミヤの行動はすべて神様によるものでした。彼は国が滅びてバビロンに捕虜になることが一番の希望であるとのべ伝えたので、人々は彼を反逆者として扱い、牢に入れました。牢の中で生活していた彼の所に親戚の人が来て“生活が苦しいので自分の土地を買ってくれ。”と懇願しました「神、主よ。あなたはこの町がカルデヤ人の手に渡されようとしているのに、私に『銀を払ってあの畑を買い、証人を立てよ。』と仰せられます。」(エレミヤ32:25)彼はそれが主のみ言葉であると知ったので、その土地を買い取りました。彼は平安と確信をもって主のみ言葉に従順し、証人を立てて、みんなが愚かだと思うほどの行動をしたのです。戦争の時、土地は何の価値もありません。それなのに彼は神様を信じる証人として土地を買ったのです。バビロンに捕虜になった時、この行動が彼らの大きな希望でした。「再びこの国で、家や、畑や、ぶどう畑が買われるようになるのだ。」(本文15節)という希望を持つことができたのです。

2.エレミヤは絶望の中に希望の神様を見出しました。

ユダの王の監視の庭に監禁されていたエレミヤの所にも神様が共におられました。絶望の中にも希望の神様を見出しました。殉教者たちは最後の瞬間まで主の臨在を楽しむ特徴があります。だから絶望の中で喜びあふれる生活ができるのです。私たちはいつも永遠に変わらない主を仰ぎ見ることが大切です。そうすればどんな環境の中でも希望を見出すことができます。エレミヤは自分の契約書を封印して土の器の中に入れ、これを長い間保存しました。目には何も見えない、耳には何も聞こえない、手に触れることがなくてもエレミヤは主を信じました。私たちがこの世で揺れ動くものを見ると、駄目になります。しかし上だけを見ると、私たちは生きることができます。私たちの変わらない主を見上げていけば、どんな時も勝利することができます。

3.エレミヤは苦難に感謝を捧げました。

信じる人の苦難は神様の摂理であり、導きであります。信じない人々にはただ試練だけです。“すべてのことに感謝せよ。”と主は言われます。信じる人々と信じない人々との苦難に対する態度が違います。信じる人々は苦難を受けても感謝するのです。しかし信じない人々は不平不満を言います。それで心の病気にかかるのです。信じる人々は主の摂理と導きをそこに感じて感謝するのです。エレミヤは牢の中での苦しみだけではなく、色々な苦しみを神様に感謝しました。そして自分の国が今、バビロンに滅ぼされるのですが、結局純金のようになって千代の祝福を受けるのだという主のみ言葉に希望を持ちました。「感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。」(詩篇50:23)私たちが感謝を捧げると主をあがめるのです。それを正しくする者に主が救いを見せてくださいます。



2007年5月27日  「聖霊の火のバプテスマ」  ルカ12:49〜50

イエス様がこの世に来られたのは十字架のバプテスマを受けるためであり、またそのことを通して私たちが聖霊の火のバプテスマを受けるためです。

1.聖霊の火は神様の情熱です。

神様のビジョンやみ言葉を成し遂げるのは情熱、パッションです。ビジョンが情熱とプラスすると、み言葉が成就します。私たちが堕落してサタンのものになった時、神様はイエス・キリストを通して私たちが救われ、神様の子どもになるビジョンを持ちました。このビジョンを握ってイエス様がこの地上にみどり子として生まれ、この地上に来られて十字架で私たちの罪、呪い、病、地獄の苦しみ、貧しさを全部背負ってくださいました。それで苦しみのバプテスマを受けて私たちに救いを与えたのです。

2.救いを受けた私たちに「聖霊の火のバプテスマを受けなさい。」と言われました。

これはイエス様の終りの遺言でもあります。「ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなくあなたがたは聖霊の火のバプテスマを受けるからです。」(使徒1:5)このみ言葉を握って弟子たちはマルコの部屋で10日間祈り続けました。祈っていると彼らに聖霊の火がくだりました。彼らはこの熱い聖霊の炎、イエス・キリストの愛、神様の愛が彼らに入ってから彼らは恐れを全部締め出しました。そして出て行ってイエス・キリストの福音をのべ伝えるようになりました。聖霊の炎が入ると私たちは力を受けます。そしてエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、及び地の果てにまでイエス様の証人となります。イエス・キリストの聖霊の火は1回だけなのですが、これをずっと生活に受けることは聖霊充満です。

3.イエス・キリストの聖霊充満の具体的な内容を考えたいと思います。

イエス様は天から「これはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」(マルコ1:11)という声を聞きました。この声が私たちの中で聖霊充満の火を熱く燃え上がるようにするのです。この愛の声と共に信仰が生まれるのです。これを「愛によって働く信仰」(ガラテヤ5:6)と言います。キリストの愛の根元は父なる神様からの愛でした。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」(ヨハネ15:9)神様を愛するということはみ言葉を愛するということです。イエス様はいつもみ言葉にしっかり立って、炎のようにみ言葉を愛されました。だからどんな誘惑にあっても記録されたみ言葉をもって、誘惑をふりきって追い出しました。私たちは神様のみ言葉を炎のように愛することがとても重要です。聖霊様は聖い御霊です。聖い御霊がおられるイエス様のところには悪霊がいつも声を出して逃げ去りました。今、日本では家庭の問題、性犯罪の問題、麻薬、酒、賭博の問題、暴力などの問題がはびこっていますが、これらは聖霊を受けることによって解決することができます。聖霊を受けたイエス様は憐れみの手を伸ばして人をいやしました。イエス様は私たちを憐れんでいやしてくださいます。イエス様は公生涯の2/3をいやしで過ごされました。イエス様は福音をあちらこちら伝道されました。私たちも地の果てまで福音をたずさえて伝えなければなりません。地の果てはエルサレムです。エルサレムから福音が始まったのですから、エルサレムに福音が戻るのです。すべての人々に再び来られるイエス様を伝えなければなりません。これは私たちの任務であります。

 私たちが聖霊の火のバプテスマを受けて、全世界に出て行って福音をのべ伝えるように、主の御名によって祝福します。

 



2007年5月13日 「備えてくださる神様」創世記22:1〜18

人間はこの世の中でさまざまな問題にあいます。その問題に対して解決する確信があれば恐れることなく苦しみを受けることはありません。しかし、自分の手でどうしようもできないと自分で判断する時、恐れや苦痛やストレスが来るのです。しかし神様は私たちのためにすべての問題を解決する備えをしておられます。

1.神様は備えの神様です。

神様はアブラハムに100才で授けられた愛するイサクを捧げなさいと言われました。アブラハムにとってイサクはすべてでした。そのイサクを捧げなさいと言われました。アブラハムはすべてを備えてくださる神様であると信じました。百才でイサクを与えてくださった神様は、捧げた後のすべての解決も備えてくださるのだと信じました。それで彼は信じてイサクを捧げました。神様はアブラハムを大いに祝福すると言われました。また神様はヨセフを備え、エジプトへ行くことになりました。神様はモーセを備え、エジプトから300万人の民を荒野へ導くことができました。神様がいろいろな所で問題を解決してくださいました。海の中に道を作って彼らが船もなく、また水泳もできない紅海を渡るようにしてくださいました。神様は信じる人々をこのように備えてくださる神様です。

2.備えの神様の最高の備えものはイエス・キリストです。

備えものということはいけにえを意味するのです。私たちが罪を犯し、私たちが呪われ、地獄に行かなければならないのに、御子イエス・キリストを私たちのために備えものとしてくださいました。アブラハムがイサクの代わりに備えられた雄羊を捧げることのようにイエスキリストを通して私たちの備えものとしてくださいました。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの自分かってな道に向って行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」(イザヤ53:6)一番大切なものである永遠の命をイエス・キリストを通して備えてくださいました。私たちはイエス様を信じると紅海が二つにせきが立って分かれるように、私たちの問題が解決されます。その中で道が開かれます。その道はイエス・キリストです。イエス・キリストは道です。真理です。いのちです。イエス様を信じると益々すべてが良くなっていくのです。ぶどう酒がなくなった宴会の席にイエス・キリストを招いた結果、水が変わってぶどう酒になりました。“後にもっとすばらしいものを用意したんだ。”と人々は賞賛しました。イエス様を信じる人々はこのように後の方がすばらしくなります。人生最後の絶望だと人々が感じる日も、私たちを恐れさせません。神様が私たちのために、涙もない悲しみもない叫びもない場所を備えてくださいます。

3.神様の備えは私たちの御霊の感動によって私たちは受けることができます。

イエス・キリストの無限の恵み、父なる神様の愛が、交わりによって私たちに聖霊の感

動としてくるのです。だから聖霊様にいつも祈らなければなりません。聖霊様はいつも母のようにとてもデリケートに私たちを守り導いて教えてくださいます。聖霊様は私たちが右に行くにも左に行くにも、私の耳はうしろから「これが道だ。これに歩め。」(イザヤ30:21)と教えてくださるのです。アブラハムはイサクを捧げなさいという主の声を聞きました。その声に従順した時、神様は感動されました。それで空の星のように海辺の砂のように子孫を祝福し、アブラハムを通して多くの民族が祝福されるようにしてくださいました。私たちが聖霊様に従順すると、このような祝福が私たちのものになります。

 


2007年5月6日   「アダム どこにいるのか」  創世記3:6〜15

「アダム どこにいるのか。」これは神様が私たちに呼びかけている言葉です。この言葉

の意味を一緒に考えたいと思います。

1.この呼びかけは堕落した人間の位置を教える言葉です。

神様から離れたアダムとエバは神様の声を聞いて恐ろしくなり、神様の目を避けて身を隠しました。以前は神様の声は彼らの慰めであり喜びであり、彼らの力でした。しかし彼らは神様から離れて霊的に死んでしまい、永遠の命を失ってしまいました。こんなアダムに主が“アダム どこにいるのか。今サタンと共に地獄に行こうとしているのか。”と呼びかけたのであります。地獄はアダムのために造られたのではなく、サタンのために造られたものです。神様から離れるとサタンの支配の中に入ります。

2.罪と悪魔に打ち勝った救い主の呼びかけの声です。

「神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。」(Tヨハネ3:8)とあるようにイエス様は悪魔サタンのすべてを打ちこわすために来られました。そしてイエス様は“わたしの所に来なさい。わたしがサタンに打ち勝ったのだ。”と私たちに呼びかけてくださいました。「彼は私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:5)イエス様は十字架を通して悪魔の頭を踏み砕き、勝利されました。イエス様は死を支配する頭を打ち砕き、よみがえられました。サタンがもたらしたいろいろな呪いや病などの悪魔のしわざにすべて打ち勝って勝利しました。十字架上でイエス様は「すべて完了した。」と言われました。イエス様はよみがえりです。いのちです。イエス様を信じる者は決して死ぬことはありません。イエス様を信じる者はよみがえります。

3.エデンの喜びを回復しなさいという呼びかけの声です。

エデンの園とは天国を意味します。天国はあっちだこっちだではなく私たちの中にあります。「悔い改めなさい。天国が近づいた。」私たちの心のチャンネルを神様の方向に変えると、すぐ天国を味わうことができます。天国は御霊によって義、喜び、平安です。イエス様の血潮によって私たちは義人になりました。神様はそんな私たちを見て「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と言われます。イエス様の血潮によって神の子どもとなり、すべての罪が赦されました。それで神様は私たちに天国の喜びが沸くようにしてくださいました。イエス様を信じている人の大きな特徴は喜びです。目が喜びの目となり、耳が愛の耳に変わります。だから私たちが鳥の声を聞くと、鳥が鳴いているではなく、歌っていると言うようになります。私たちの目が愛で満たされ、喜んでいるのです。ウォルト・ディズニーは私たちが嫌っているねずみを愛の目喜びの目で見て、ねずみをミッキーマウスにしました。これがクリスチャンの目です。このような目で見るとすべてがうまくいきます。人を幸せにするものは平安です。良き神様が御子さえも惜しまずに与えてくださいました。だから私たちはすべて神様にゆだねることができます。心配や問題がない人はこの世に一人もいません。しかし、クリスチャンは主にゆだねるので平安を持つことができます。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37:5)とあるように過去も、今日の仕事も、明日もすべてゆだねるのです。「アダムどこにいるのか。」という言葉は、私たちが神様と交わりをしているかどうかを聞かれる言葉です。皆さん、悔い改めると、義、喜び、平安の天国で心が満たされます。

 


 2007年4月29日「わたしだ。恐れることはない」マタイ14:22〜33

私たちが耳にする言葉には、三つの種類があります。@感覚によってくる声 Aこの世の知識 B聖霊の声です。これらの声を今日の本文を通して一緒に考えながら恵みを分ち合いましょう。

1.感覚を通して聞える声。

平凡な生活をする時には、5感覚を通して情報を得ます。肉体的に健康な人は5感覚が敏感であり、生きているのです。目で見る、耳で聞く、鼻で嗅ぐ、舌で味わう、手で触わる、それらの感覚は平凡な時にはいいのですが、問題や大きな恐怖、逆況がある時には、それらがもっと私たちを深刻に苦しめるのです。健康であればある程、感覚が良ければ良い程もっと向い風や私たちを苦しめる試練が強く感じるようになります。感覚に支配されている人は、環境によってすぐ変わるのです。このような感覚に頼っている人は力がありません。

2.この世の知識に支配される生活。

人間はこの世の知識と知恵を通して、自分と物質世界を理解して開発していくのであります。私たちが学校で勉強して専門的な知識を得ればこの世の生活に役に立ちます。しかし、大きな問題にあった時にこれが私たちをもっと苦しめる時があります。弟子たちは、イエス様が水の上を歩いておられるのを見て「あれは幽霊だ。」と叫びました。イエス様が助けるために、また祝福するために来られたのを幽霊だと言ってしまったのです。霊的知識がないので自分の救い主であるキリストの姿が分らなかったからです。イエス様は全知全能なる神様です。その方が人間となられて、罪なき人間として乙女マリヤよりお生まれになりました。それは私たちの罪をあがなうためにご自分が十字架につけられるためです。私たちが十字架を見るとイエス様は良き神様だということが分ります。私たちに命を与え、豊かに与えるためであります。だから私たちがどんなことにあっても私たちはこれが私たちを引き裂くための幽霊ではなく、本当に私たちを助け、私たちを救うためのことだと信じることができます。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)神様は私たちに将来と希望を与える計画を持っておられます。どんな向い風や波が起こっても神様の良き計画を信じるようにしましょう。

3.聖霊の声。

「わたしだ。恐れることはない。」(本文27節)というイエス様(聖霊様)の声を聞く時、心の中に深い平安が来ます。私たちが平安をもって生きるために私たちはいつもイエス様の声を聞くべきです。ペテロはイエス様の声を聞いて奇跡的な人になりました。水の上に立っておられるイエス様を見て自分もこのようにしてくださいと言いました。すると答えが来ました。イエス様は“来なさい”と言われました。ペテロは奇跡的に水の上を歩いたのであります。私たちはイエス様の声を聞いていくと、このように奇跡的な人生を歩くことができます。ペテロがイエス様だけを見て、イエス様の声を聞いて歩く時には自分も知らず知らず水の上を歩く奇跡の体験をしました。しかし、自分を見、環境を見、感覚に頼り、知識に頼るその時、おぼれて死にそうになりました。イエス様はそんなペテロを救ってくださり「信仰の薄い人だな、なぜ疑うのか。」(本文31節)と言われました。皆さん日本一千万救霊は神様が言われた言葉です。当教会が3000名になることもそうです。チャーチスクールは主が始められたものです。神様が実を結んでくださることを信じましょう。


2007年4月22日「脱ぎ捨てるものと着るもの」コロサイ3:8〜10

人は皆幸せになることを願っています。神様は私たちが信仰の選択を通して幸せになることを願っておられます。私たちが幸せになる時、神様が栄光を受けられます。今日の本文を通して脱ぎ捨てるべきものと着るべきものについて考えてみましょう。

1.不幸にするものを脱ぎ捨てなさい。

不幸の種は三つあります。@うつ。うつは人を不幸にします。うつにかかると周辺の人を殺し、また自分も死ぬのです。今度アメリカの学校で銃乱射事件がありましたが、この学生はうつにかかっていたのです。聖書に出てくるモーセ、エリヤ、またダビデやエレミヤもうつ気味の時がありました。しかし彼らはうつを脱ぎ捨て、神様のみ言葉に立って救いと祝福といやしを選択しました。私たちは選ぶことができるのです。A怒り。「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。」(エペソ4:26)この世に生きているのですから、怒ることは仕方がありません。しかし怒りをずっと持ち続けていることは罪になります。うつに移るのです。利己主義的な要求が満たされないから、また完璧主義者になって人の失敗を赦さないから怒るのです。また人を誤解したり、疑ったり、他の人に責任を転嫁するのです。子供の時に受けた傷であっても残っているのです。その残った傷を私たちは赦すことによってそこから脱け出すことができます。B心配。心配は習慣的なものです。明日に対する心配、イエス様は“明日に対する心配を止めなさい。”と言われました。私たちはイエス様のみ言葉を選択すると幸せになります。しかしそのまま心配すると不幸になります。私たちを不幸にするうつ、怒り、心配を脱ぎ捨てる決心をしましょう。そして聖霊様の助けを求めましょう。聖霊様の助けがあれば私たちは不幸にするものを脱ぎ捨てることができます。

2.幸せを着ること。

  @幸せを着るためにはまず幸せとは何かを聞くべきです。信仰というものは聞くことから始まります。私たちは幸せの主であるイエス・キリストのみ言葉を聞くべきです。イエス様は私たちにいのちを与え、豊かに与えるために来られました。神様のみ言葉を私たちが尋ね求め、聞き、学ぶことです。A 聞いたみ言葉を描くことです。私たちは何を思うかということがとても大切です。十字架は神様の知恵であり、力です。神様の十字架を毎日仰ぎ見てそれが自分に成就されていることを見てください。汚ない罪深いものが十字架に付けられて処分されたことを見てください。病気が十字架で処分されて新しくなったことを見てください。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Uコリント5:17)と言われます。十字架の恵みが自分に適応され、幸せを着ることを描いて見てください。

3.言葉です

「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:10)思いは畑であり、言葉は種です。イエス様の良い畑に良い種であるみ言葉を蒔くと幸せな人生を刈り取ることができるのです。幸せを願う人は否定的な言葉、破壊的な言葉を口から出してはいけません。不平不満は煙であり、感謝はかぐわしい香りです。よく笑い、また人を賞賛しましょう。賞賛すれば人は心を開きます。しかし批判したりすると、すぐ心を閉じてしまいます。ナンバーワンになろうとすることではなく、オンリーワンになることが大切です。幸福と不幸は私たちの選択によって決まるのです。良い選択をして神様に栄光を返すことができますように主の御名によって祝福します。


 2007年4月15日「サウルの家とダビデの家」  Uサムエル3:1

 サウルの家とダビデの家は長く戦いが続きました。しかしダビデの家は益々強くなり、サウルの家は益々弱くなったと書かれています。どんどん強くなっていく人がいるし、どんどん弱くなっていく人がいます。家や店、また教会や国家も同じことが言えます。しかし神様は創世記1章28節のように私たちを祝福してくださいました。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。」という祝福です。これがもともとの祝福です。しかしダビデのように祝福される人もいるし、サウルのように弱くなっていく人もいます。

1.ダビデを動かしたのは純粋な動機でした。

ダビデは神様を愛する心でいつも動きました。彼は名誉を求めたことはありません。彼が王になろうとか人気を得ようとゴリヤテと戦ったことではありません。彼はただゴリヤテが神様をなぶることを見て、神様を愛する心で神様に栄光を返す心で戦ったのであります。神の国とその義とをまず第一に求めた人であります。しかしサウルはそうではありませんでした。サウルはいつも自分の名誉のために戦って、してはいけないことを次々にしました。神様はサウルと一緒に働くことはできませんでした。私たちがダビデのように純粋な動機で求め続けると神様は私たちが求めもしなかったものまでも与えてくださいます。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

2.ダビデはよく悔い改める人でした。

ダビデが犯した罪とサウルが犯した罪を比べてみると、サウルは何も刑罪にあたるようなことはしていません。しかしダビデは本当に罪が重いのです。しかしサウルは神様から捨てられ、ダビデは神様から赦され、祝福されました。どうしてでしょうか。サウルは神様のみ言葉に対して軽んじて自分の意見ばかり弁明しようとしたからです。しかしダビデは神様に弁明しませんでした。「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。」(詩篇51:4)と神様のみ言葉を重んじ神様のみ言葉通りに悔い改めました。それで神様はダビデを見ると、「わたしの心にふさわしい」と賞賛しました。しかしサウルは小さな神様とのトラブル、主の僕とのトラブルをしてもいつも弁明ばかりしていました。だから彼は神様から捨てられました。

3.ダビデは契約を信じる人でした。

彼はどこに行っても神様を認め神様の前で行動しました。彼が王になった時にも神様の前で人々と契約を結ぶことをしました。彼はどこに行っても主を認めました。それで神様がイエス・キリストをダビデの子孫と呼ばれるようにしてくださいました。ダビデはどこに行ってもよみがえりの主、全能の神様の約束を信じていつも力強く動きました。しかしサウルは神様の約束を信じませんでした。彼にはただ神様のみ言葉はアクセサリーであり、信仰の対象ではありませんでした。彼が困難なことに出会った時は占師のところに行って自分の運命を占ってもらいました。このような人は神様の祝福を受けることはできませんでした。しかしダビデは契約を信じる人でした。彼はどこに行っても神様によって益々強くなっていったのであります。「御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てになりませんでした。」(詩篇9:10)ダビデは主の約束があったので、どこに行っても益々繁栄し、益々強くなっていったのであります。ダビデの家のように益々繁栄と祝福がありますように主の御名によって祝福します。


 2007年4月8日   「よみがえられた主」    ヨハネ21:1〜19

イエス様が十字架につけられ、葬られ三日目によみがえられました。それは私たちに何の意味があるのでしょうか。罪人の罪を赦し、貧しい人々を食べさせ、死んだ者をよみがえらせました。そのことが今も意味があるのです。十字架につけられ、すべて全部成し遂げたと言われた十字架の恵みを全部意味があるのです。だから私たちはイエス・キリストがよみがえられたことを信じていかなければなりません。

1.よみがえられたイエス様に出会った弟子たちの変化。

よみがえられたイエス様と出会った人々はほとんど変えられました。十字架にかけられて死なれたイエス様に失望して漁に行くとペテロが言った時、みんなついて行きました。しかしよみがえられたイエス様が彼らの前に現われ、彼らは変えられました。イエス様がよみがえられたことを女性たちが見ました。40日の間イエス様は500名の人の前に現われました。その人々が全部イエス様がよみがえられたということをのべ伝えました。よみがえりの力を体験した大酒飲みの人が牧師になり、宣教師になり、又罪の力から立ち上がって絶望から希望を見出したのであります。

2.よみがえられた主は私たちの日常生活の現場に訪れてくださいます。

よみがえられた主は私たちの生活の現場である家庭、職場、工場、又車の中にも共におられます(インマヌエルの神様)。イエス様はとてもやさしいお方です。私たちのために前もってすべてを用意しておられます。ペテロの舟の所に来られて「網を右におろしなさい。」とアドバイスしてくださいました。よみがえられた主は私たちの遠くにおられるのではなく、いつも私たちと一緒におられるのです。「病が癒されたのは主です。」と主を体験します。心の中で不安があった人が平安に満たされて「主です。」とこのように体験します。よみがえられたイエス様と出会う日常生活の中で勝利のイエス様、義なるイエス様、私たちの羊飼いなるイエス様といつも共におられる聖霊様がよみがえられた主であります。

3.よみがえられた主は回復てしくださいました。

失望していたペテロをよみがえられたイエス様は回復してくださいました。ペテロはたきぎの所でイエス様を3回否認しました。イエス様はペテロのために炭火を作って彼の内的場面を癒してくださいました。(インナーヒーリング)人は潜在意識の中に罪責感があるので、それを誰かが指摘するとそれを弁明し防衛するのです。それから放棄するのです。放棄の段階にいくと人間がどうなるのか分らなくなります。しかしイエス様は潜在意識の中の苦しみを、このように見事に愛によって回復してくださいました。炭火の所でペテロが3回イエス様を否認したことをイエス様は「わたしを愛しますか。」という言葉に替えて尋ねられました。それから「わたしの羊を飼いなさい。」と使命を与えてくださいました。ペテロはイエス様が「わたしをアガペしますか。」と聞かれた時、砕かれたペテロは「はい。主よ。私があなたをフィレオすることをご存知です。」友だちとして友情を持っていると答えました。このように自分に対して失望し、心を痛めたペテロを神様が用いてくださいました。私が弱くても神様は用いてくださいます。炭火は聖霊を意味します。またその上に載せた魚と、パンはみ言葉と福音を意味します。それが聖霊によって私たちに与えられる時、私たちは満たされ、満腹します。「わたしの羊を飼いなさい。」主キリストを御霊によって伝えることが羊を飼うことであり、養なうことなのです。私たちはイエス・キリストの羊です。今イエス・キリストが私たちの周りの人々に本当に必要です。私たちは主の羊を探して、聖霊とみ言葉によって人々に福音を伝え、その人々が養なわれ満腹するようにしましょう。


2007年4月1日「わたしのくびきを負って学びなさい」マタイ11:2830

現代人は今ストレス社会に住んでいます。毎日が不安で又無意味で苦しんでいます。だから疲れ、重荷を負っているのです。そのような人々に王の王であるイエス・キリストが彼らを招待しておられます。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(本文28節)

1.疲れて重荷を負っている人生。

神様が造られたパラダイスであるエデンの園は疲れることがありませんでした。神様が彼らの主となってすべてをゆだね、生活したからです。しかし彼らが反逆し、サタンの誘惑に落ちてからは、疲れがきました。自分たちが人生の主になり全部自分が責任を負わなければならなくなりました。サタンの誘惑にあって罪を犯した後でサタンはその人間を死ぬほど責め続けました。人々はその罪責感で苦しんで心の病となり、肉体の病気となって死んでいきました。死というのは、生きている時成就したものを無意味にしたので絶望し、重荷になりました。

2.疲れた者はわたしのところに来なさい。

イエス様は人類を救うために人間となられて地上に来られました。それは私たちのいけにえとなって私たちの重荷、罪、咎を背負うためでありました。まちがった道に行って、すべての咎をイエス様が十字架で背負ってくださいました。主が私たちのすべての咎をイエス様に負わせた、とあります。イエス様は私たちをこのように招待しておられます。あなたがたの罪の重荷、呪いの重荷、病、死の重荷をわたしにおろしなさい。わたしがあなたがたを休ませてあげようとイエス様は言われます。

3.わたしのくびきを負ってわたしから学びなさい。

そうすれば安らぎが来ます。イエス様のくびきは十字架です。身代わりとなって犠牲した十字架を負う心を学びなさい、そのように主が言われます。イエス・キリストは柔和でへりくだっている従順な方、イエス様は神様であるにもかかわらず、すべて自分を無にして私たちのために自分を卑しくし、十字架の死にまでも従われたのです。私たちがこのように従順と素直な心の中でこの世で幸福な人生を送ることができるのです。神様の道からそれて、不平不満を言いながら生きていくのではなく、自分を無にしてゼロからスタートすれば、すべてに感謝することがてきます。イエス様のように仕えられるためではなく、仕えるために来たという姿勢を持つと、私たちは幸せになります。神様は私たちを祝福してくださり、物質的にも地位的にも高くしてくださいます。その時、私たちは誘惑を受けるチャンスがもっと多くなります。しかし、私たちが勝利するためには、自分を低くしていくと、安全に生きることができるのです。オンヌリ教会がラブソナタを通して日本の教会に仕えました。大きく祝福されたことをもって日本の教会に仕える姿勢をとりました。

4.イエス様のくびきは負いやすい。

なぜかというと、愛の十字架だからです。愛はすべてに打ち勝って勝利します。疲れることがないのが愛です。おばあさんが1日中孫をおんぶしても喜びあふれています。しかし別の物を負わせると、病気になってしまいます。人間は無意味なことをすると疲れてしまうのです。しかし意味のあることをすると、生き生きしてすべてに勝利することができます。ハ・ヨンジュ先生が人口透析を週3回しなければならないにもかかわらず、日本で用いられました。愛にはすべて圧倒的に勝利する力があるからです。私たちが愛をもってすべてを行なうと、どんな環境でも圧倒的な勝利者となります。このことがイエス様のくびきは負いやすいということです。

 

 2007年3月11日 「ペテロの網のリバイバル」  ルカ5:1〜11

ペテロはある日漁に出て網をおろし、夜通し働いたけれど一匹も魚がとれませんでした。網を洗って帰ろうとした時、イエス様がペテロの舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれました。彼は帰ろうとしたのですがイエス様が頼んであったので、その願いを聞いてあげました。イエス様は彼を祝福してくだいました。

1.深みに漕ぎ出して網をおろしなさい。

イエス様はご自分のために奉仕する人を知らん顔されません。イエス様は必ず返してくださるのです。イエス様のために奉仕した人に深い所に網をおろしなさいと事業の活をされました。イエス様は霊的なことを言われるのではなく、教えてくださいます。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)と言われるからです。先に求めるものを求めて私たちが主のために働くと、いろいろな現実的な問題をイエス様は解決してくださいます。

2.従順しなければなりません。

どんなにすばらしい神様の祝福の命令であっても、それに対して従順しないと何も起りません。深みに漕ぎ出して行かないと、そこで何も起ることはありません。しかし、このみ言葉に従順することは難しいことでした。魚をとる常識は浅い所で夜中静かにとるとり方でした。深い所には魚はいないし、網をおろすと魚はすぐ逃げてしまいます。ペテロは心がゆれ動きました。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」と従順を宣言しました。神様の知恵は信じる人には神様の力となります。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(Tコリント1:18)「なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(Tコリント1:25)神様のみ言葉に私たちが従順することがとても大切です。

3.ペテロの網にリバイバルが起りました。

神様の命令に聞き従った結果、網がおろされた時、魚たちがいっぱい集まって、網が破れそうになりました。一つの舟では足りなかったので、助けを求めたところ、ニそうの舟ともいっぱいになって沈みそうになりました。私たちが神様に聞き従うと、私たちの杖、網、私たちのもっている賜物が祝福され、リバイバルが起ります。以前はペテロが魚をとろうとしたのですが、すべてがひっくり返ることが起りました。私たちが神様に従順する時、このようなことが起ります。

4.人がついてくるリバイバルです。

ペテロはすばらしい光景を見て、イエス様の足元にひれ伏して「私のような者から離れてください。私は罪深い人間ですから。」と言いました。イエス様はペテロに「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」と言われました。ペテロの網にたくさんの魚がはいるように、人がついて来るのです。私たちが神様にへり下って聖霊を受けると、人がついて来ます。リバイバルが起ります。聖霊様が私たちに力を与えるとエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てまでイエス様の証人となります。自分の固執や高慢を捨てるべきです。個人も国家も同じです。自分を高める者は低くされ、恥を受けるのです。しかし、自分を低くして神様の前でひれ伏すと、神様がその人に聖霊を与え主が大きく用いてくださいます。リバイバルが来ます。

2007年3月4日    「恐れ退かない生活」  ヘブル10:38〜39

信仰生活は山登りのようなものです。私たちの目標は神様で、私たちは目標に向って前進していきます。しかし、坂道もあるし谷間もあります。私たちは信仰生活の中で勝利の時もありますが、誘惑と試練に落ち込んで苦しむ時もあります。しかし恐れ退かない信仰生活を持つことが大切です。

1.恐れ退かない信仰を持つためには、神様の約束を信じる信仰が必要です。

神様は「私の信仰は義人によって生きる。」(ローマ1:17)と言われました。「恐れ退くなら私は喜ばない」と言われます。私たちが信じなければならないことは父なる神様、私たちの創造主であります。天と地その中ですべてを造られた神様です。その方が私たちのすべてを造られました。しかし私たちは神様から与えられた祝福を失ってしまいました。サタンの誘惑に落ちて罪を犯したからです。イエス・キリストはもう一度来られ私たちすべての代価を支払って買いとってくださいました。それで聖霊様が私たちにそれを教え、励まし、導いてくださいます。三位一体の神様を私たちが信じていく時、恐れ退くことがありません。

2.信仰の手を伸ばして主を触ることです。

12年間長血を患っていた女性が福音を聞きイエス様を信じました。イエス・キリストの着物を触りました。信仰の手で触ったのです。イエス・キリストからいやしの力が流れていきました。「だれがわたしの着物にさわったのですか。」(マルコ5:30)その当時イエス様を触った大勢の群衆がいました。しかし彼らは信仰によって触ったのではありません。この女性だけが触るときっと直ると信じたのです。その信仰によってイエス・キリストからいやしが流れてきました。信仰というものは契約を信じることです。結婚式の誓約を通して男女が一つになるのです。このようにイエス様を信じるその時、イエス様と私たちが一つになります。イエス様のいやしは私のいやし、イエス様の勝利は私の勝利、イエス様のよみがえりは私のよみがえりになります。私の中にある問題、病、苦しみはすべてイエス様が負ってくださるのです。このようにイエス様と私はひとつの体、一心同体となるのです。信じる人はいつもイエス様と一緒に歩くことができるので、恐れ退くことはありません。

3.イエス様を証する生活が必要です。

私がイエス・キリストによって救われ、永遠の命が与えられ、平和といやし、祝福を受けた生活を証しなければなりません。「だれがわたしの着物にさわったのですか。」これは誰が触ったのか、イエス様が知らなかったからではありません。公の場に現われるのを願ったからです。もし彼女が隠れていたならば今のこの祝福は、私たちのものにならなかったでしょう。隠れクリスチャンは駄目です。私たちは神様から受けた恵みを皆の前で認めなければなりません。「わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。」(マタイ10:32)主が今日本にすばらしい計画、ラブ・ソナタを計画しておられます。どんなに良い計画があっても受ける側がそれに応じなければなりません。与える側と受ける側がひとつになってすることが証であり、紹介であります。一緒にラブ・ソナタを広めましょう。イエス様から受けた恵みを証し広める時、私たちの信仰が上に向かってあがるようになります。


 2007年2月25日     「愛の産物」  Tヨハネ4:7〜13

人間は愛される体験によって愛する方法を学ぶのです。しかし、愛される体験がない人は隣人を愛する方法を知りません。愛の障害者であります。この愛の障害から私たちが解放されるために愛を学ばなければなりません。

1.神様は愛です。

今日の本文でも神は愛だからと書いてあります。イエス様は十字架を通して私たちに愛を表現してくださいました。それで私たちは愛が何であるかが分ります。神様の愛、十字架の愛に私たちが届まることが必要です。その愛を受けて私たちも愛することができるからです。イエス様は死んでくださった程の真実の愛を私たちに見せてくださいました。御霊によって私たちはそのことを受け入れることが重要です。

2.受け入れた愛の内容。

 @赦しの愛。罪人として生まれた私たちは罪を犯しているのです。「義人はいない。

ひとりもいない。」(ローマ3:10)と聖書に書いてあります。イエス様は私たちの罪のために十字架につけられ、刺し通され、むち打たれたことによって私たちの罪を贖ってくださいました。ここに赦しの愛があります。A助ける愛。神様の愛は助けとして表現されています。私たちが頭では分っていても行動で現わすことができない愛、そのことを聖霊様が助けてくださって私たちがその実を結ぶように導いてくださいました。Bいやしの愛。イエス様がむち打たれた時、どうして沈黙されたのでしょうか。それはイエス様の苦しみを通して、私たちがいやされることを願っておられたからです。これは神様の愛の証明です。神様ご自身はいやし主です。神様の愛は祝福として現われました。アダムとエバ以来人間は堕落していばらとあざみが生えました。アダムは汗を流さなければならない苦しみの中にいました。その悲惨な状況から私たちのすべての呪いを贖ってくださったのが十字架の愛でした。神様の愛を受けて私たちは貸すであろうが借りることのない人生になりました。C永遠の命。私たちは生まれてから一度は死ななければなりません。死んだ後でイエス様が永遠の命へと招いてくださいます。私たちが神様の子どもになったことも全部イエス様の十字架からの愛です。私たちはイエス様がよみがえられたように私たちもよみがえります。

3.愛の産物。

私たちがこの神様の愛を受けて実践する時、愛は実を結びます。イスラエルに行くとヘルモン山から流れる水をガリラヤ湖が受け、ガリラヤ湖から流れる水を死海が受けるのです。ガリラヤ湖は命であふれていますが、死海は死んでいます。なぜならガリラヤ湖はヘルモン山から受けたものをそのまま流すからです。ガリラヤ湖は命であふれています。生き生きしています。しかし、死海は命がありません。私たちがイエス様を信じ、祝福を信じることは重要です。利己主義になってはいけません。与える時私たちの中で喜びがあふれ、祝福があふれます。私たちは自分だけに関心がある時は問題から脱け出せません。怒ったり恐れたりします。しかし私たちが人を助けようと他人に関心を向けると私たちは勝利します。いつも喜びをもっていくことができます。私たちの中には聖霊様がおられるのです。聖霊様の感動がある時にすぐ応えなければなりません。後で祈ってからと思ってはいけません。種を蒔く時期があるのですから、その時を失ってはなりません。私たちは人を赦す時には、人を赦しましょう。弱い人を助ける時には、助けましょう。伝道する時には、伝道しましょう。人に与える時、愛は完成されます。


 2007年2月18日       「アコルの谷」       ホセア2:15

 神様が預言者ホセアを通して堕落して捨てられる民にこのような御言葉を預言しました。「わたしはその所を彼女のためにぶどう畑にし、アコルの谷を望みの門としよう。」

(本文)と約束してくださいました。

 1.アコルの谷とは何ですか。

アコルとは苦しみ、苦痛という意味です。イスラエルが最初ヨルダン川を渡って占領した都市がエリコです。エリコは地中海より低い所にあります。エリコからエルサレムへ上って行く途中にアコルの谷があります。そこはとても険しい坂道で絶壁が囲りにあるような所です。旅人のひとりがエルサレムから下って来て強盗に襲われ、半殺しにされた所がアコルの谷です。詩篇23篇ではそこを死の影の谷だと表現しています。詩篇84篇では涙の谷だとも言っています。このような所は先が見えないような所です。

2.神様は信じる者に望みの門となってくださいます。

神様は絶望のアコルの谷を希望の門にしてくださると約束してあります。私たちの前も後も横も全部道がふさがれていても、神様は上から希望を与えてくださる良き神様です。神様は全能者であり、不可能を可能にしてくださる神様です。私たちの絶望を希望にしてくださる神様です。宣教師の墓だと言われている日本に今、神様が日本に希望を与え、祝福を与えようとしておられます。3月30日に福岡のサンパレスでラブ・ソナタを計画しておられます。長い間苦しんでいた日本に、神様はこのように救いの希望を与えようとしておられます。神様の御業がとんなに偉大であるかを、私たちが口ずさむことがとても大切です。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:10)

3.アコルの谷を過ぎる時、感謝と賛美の歌を歌わなければなりません。

「すべての事について、感謝せよ。」(Tテサロニケ5:18)と神様は言われました。神様は私たちがアコルの絶望の谷で感謝を捧げることを願っておられます。神様が希望の門であることは神様からの約束です。そのことを信じる人の中には希望の賛美が、信仰の賛美が生まれるはずです。パウロとシラスはイエス様を伝えたことにより、むち打たれ、ついにピリピの牢に入れられました。しかし絶望のどん底にあった真夜中、彼らは主に賛美を捧げました。その時大地震が起って獄舎の土台が揺れ動きたちまちとびらが全部開いて、みなの鎖が解けてしまったとあります。皆さんの中に事業の苦しみ、人間関係の苦しみ、病気の苦しみ、子どもの苦しみがあっても、私たちの希望なる主に向って私たちが賛美を捧げ、信仰生活をすると、神様はすべての絶望を希望に変えてくださいます。神様の摂理は私たちがアコルの谷を通して神様の大きな祝福を備えておられるのであります。このアコルの谷、苦しみの谷は私たちには希望であり、チャンスであります。日本もリバイバルされます。今飢え乾いている日本に聖霊の火がついたら、燃えるのです。その希望を見ながらリバイバルに向って一緒に進んでいきましょう。

2007年2月11日「イエス様の中の自分を見よ」 Uコリント5:17

見るということはとても力があります。見るものがいつも近づくのです。私たちはイエス様の中で新しくなった自分を見るべきです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古い者は過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(本文)と書いてあります。

1.罪が赦され、義とされた自分を見るべきです。

以前、罪の中で失敗し悪魔の奴隷の生活を見続けながらいくら私たちが“主よ、主よ”と主を呼び求めても罪の勢力から逃れることはできません。私たちはイエス様の血潮で洗い聖められ、神様の子どもとなった自分の姿を見るべきです。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)罪が赦され義とされた自分を見るべきです。

2.聖霊を受けて、聖さと愛の実を結んでいる自分を見なければなりません。

聖霊様はイエス様を受け入れた人の中におられます。その方を認めて歓迎し、礼拝し、その方を見続けるとその方が私たちをキリストの栄光の姿に変えてくださいます。そして私たちが聖い生活と愛の実を結ぶように私たちを祝福してくださいます。「わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。」(エゼキエル36:27)主のみ言葉を守ることができるのは聖霊様の力です。

3.イエス様の打たれた傷によっていやされた自分を見るべきです。

病気になった時、私たちは感覚によって痛みを感じるのですが、信仰によりイエス様の打たれた傷によっていやされたという自分を見るべきです。見続けるとその通りになります。私たちは感覚的に病気を認めていても、イエス様の打たれた傷によって自分はいやされたという姿をイエス様の中で見るべきです。

4.恵みとアブラハムの祝福を毎日受けている自分の姿を見なければなりません。

人々は長い間否定的な言葉や呪いの言葉を多く使う教育を受けてきたので、物事を肯定的に考えることが苦手です。しかし、クリスチャンは、イエス様がすでに2000年前私たちの呪いや苦しみを全部背負ってくださったのですから、私たちは毎日アブラハムの祝福を期待していくことができます。毎朝起きたら“私は祝福を受けます。”と期待の言葉を自分にかけてください。そうすれば期待した通りになります。「主は私の羊飼い,私は乏しいことがありません。」神様が私たちの所に来られた理由は「羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10)神様の恵みと祝福が私たちをミサイルのように追ってくるのです。

5.イエス様のよみがえりは私のよみがえりだということを強く見なければなりません。  

イエス様のよみがえりを信じれば、私もイエス様のようによみがえります。武士は毎日死ばかり見るのです。復讐心に燃え、相手を殺すことばかり考えます。武士は自分が負けたら切腹自殺して自分の義をたてようとします。しかし、私たちはイエス様のよみがえりを見なければなりません。イエス様は一粒の麦のように私たちのために地に落ちて死なれましたが、多くの実を結ばれました。「善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。」(ヨハネ5:29)

イエス様のように人を生かすために善を行なって、良いよみがえりを毎日夢見ていきましょう。


 2007年2月4日     「いばら」   Uコリント12:7〜10

私たちは今までに一度ならずとげに刺されたことがあるでしょう。とげに刺された時、すべての神経がそこに注がれ、とても痛いものです。神様が造られた世界には初めとげはありませんでした。しかし、人間が神様にそむいてエデンの園から出て行った時からいばらとあざみが生えたのです。

1.いばらは神様から離れた人間が神様に戻る役割をします。

神様から離れた人間は一生いばらの苦しみを味わって生活しなければならなくなりました。女性には産みの苦しみが与えられ、男性には汗を流して糧を得なければならないようにされました。イエス様はこのようないばらとあざみを負ってくださるためにこの世に来られました。そして、刺されて苦しんでいる人々や重荷を負っている人々に向ってこのように言われます。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)私たちが苦しんで虚しさを感じ、なげき悲しむ時に、私たちは平安の家である神様の所に戻らなければなりません。いばらは私たちを苦しめますが、神様を思い出し、神様に戻る役割をします。

2.いばらは信者を保護する囲いです。

有刺鉄線の囲いの中にいる羊は恐ろしい獅子から守られます。また囲いは羊が勝手に外に出ていかないように羊を守る役割をします。羊は囲いの外には絶対に出て行きません。なぜなら刺されるからです。刺されて痛いから外に出て行かないのです。ダビデはこの恵みを「あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」(詩篇23:4)と言いました。イエス様はむち打たれ、いばらの冠をかぶらされ、十字架にくぎづけにされました。それは、私たちがこの世の快楽に行かないように私たちを保護しておられるのです。堕落の道に行こうとする時、とげに刺されるのです。使徒パウロは「高ぶることがないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。」(本文7節)と言いました。人間は神様の大きな恵みを受けると、高ぶる傾向があります。私たちは土の器にしかすぎません。主の御国に行くまでいつも祈り続け、神様から完全な祝福を受けるようにしましょう。

3.いばらは悔い改めとリバイバルをもたらします。

私たちは問題にあう時、また苦しみにあう時に祈ります。「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。」(ヤコブ5:13)祈ると聖霊様が働いてリバイバルが起るのです。韓国に大きなリバイバルが起ったのは国家的にいばらの苦しみがあったからです。ピョンヤンで世界で初めて早天祈祷がなされ、日本が韓国を支配しようとした植民地の危険が迫った時、国のために熱く祈りました。いばらは悔い改めとリバイバルをもたらします。日本も政治、経済、社会など色々な問題が起っています。憲法を改正して軍国主義に戻ろうとするし、貧富の格差が拡大していて、それで自殺者が増えています。親が子どもを殺したり、子どもが親を殺す事件が続出しています。これらの事を通して神様は祈りなさいというメッセージを私たちに語っておられます。悔い改めて祈ると、神様が日本にリバイバルを起してくださいます。神様は今、日本のためにPower for Livingのテレビ宣伝や24時間福音放送、ラブ・ソナタの伝道集会、金 聖恵先生のリバイバル聖会等を準備してくださり、そのために今の時期祈りなさいと言われます。難しい色々なことが起こっています。祈る時期であります。40日間断食リレーを一緒にしましょう。神様が必ず国家的問題を解決してくださるし、私たちの問題も必ず解決してくださいます。


2007年1月28日  「すべてに感謝せよ」      Tテサロニケ5:18

“すべてに感謝せよ。”これは神様の命令です。良い時も悪い時も私たちは感謝しなければなりません。この命令に対して私たちは従順しかありません。

1.私たちがこの命令に従順する時、神様が栄光を受けられます。

神様があがめられます。人間を造られた目的、存在の目的は神様に栄光を返すためです。神様に栄光を返す方法は何ですか。「感謝のいけにえをささげる人はわたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。」(詩篇50:23)私たち人間が感謝を捧げる時、神様があがめられ、神様の救いが私たちに与えられます。しかし感謝をしない人にはその思いがむなしくなり、無知な思いが暗くなり、偶像崇拝者になって滅びになってしまいます。神様は感謝する人を探しておられます。

2.すべてのことに感謝すると生活が明るくなり、幸せになります。

感謝は暗やみを照らす光のようです。私たちの生活がいくら暗くても感謝の光のスイッチをONしたら私たちの生活が明るくなります。私たちが否定的になってうつになっていく理由は、感謝しないからです。心が凍っていくからです。感謝は暖房のようにすべての冷たさが溶ける力があります。感謝はまた香のようです。その香りを放す人にたくさんの人が集まります。神様もその所におられます。しかし、不平不満をすると、悪魔だけが来ます。盗んだり殺したり滅ぼすものが来ます。だから私たちはいつも感謝を捧げなければなりません。感謝を捧げるとすべてが明るくなります。

3.感謝を捧げると奇跡の信仰が動きだします。

すべてのことに感謝しなさいと命令された方は、奇跡の神様であり全能の神様です。そのことに私たちが従順することは難しいのですが、従順する時私たちに神様の奇跡が現われるのです。シドニー空港から出発したコルテンブーム先生はシドニー空港に重要な書類カバンを忘れました。上昇して空港に戻ることもできない彼女は、“すべてのことに感謝せよ。”というみ言葉を思い出しました。“書類カバンを忘れたことを感謝します。飛行機が戻ることができないから感謝します。”とこのように感謝を捧げました。その時機内放送で飛行機に異常が発生したので、シドニー空港に戻らなければならないということでした。このように私たちが感謝を捧げると神様ご自身が動き出します。「神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。神のことばと祈りとによって、聖められるからです。」(Tテモテ4:4-5)

4.すへてのことに感謝するためにはよく考えなければなりません。

よく考えるということは解釈をよくすることです。イエス・キリストを入れて考えることがよく考えることです。すべて私たちが理解できない試練、苦しみがあっても主イエス・キリストを思い出しましょう。そうすればすべてマイナスはプラスに変わります。「しかし、彼(イエス・キリスト)は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:5)イエス・キリストを入れるとすべてがよみがえります。すべてがいのちで満たされます。すべてのことにイエス・キリストを入れて考えるとすべてが変わります。


2007年1月21日「人間の絶望、神様の希望」 Uコリント1:8〜11

今、年々自殺者が増えて、本当に困っている状態です。なぜこのように自分の命を自分で断つ人が多く増えているのでしょうか。人が希望を失うからです。希望さえあればどんなに難しい環境の中にあっても、私たちは打ち勝って勝利することができます。私たちは絶望に会うのを避けることはできません。偉大な使徒パウロであっても「自分の心の中で死を覚悟しました。」(本文9節)と告白しました。彼は絶望しましたが、絶望に落ち込むことはありませんでした。なぜなら彼は神様を信じたからです。自分の絶望は神様の希望の始まりだと勝利の宣言をすることができました。人間の絶望から神様の希望に変わるためには、どうしたらいいのでしょうか。

1.自分の絶望の現実を認め、告白しなければなりません。

使徒パウロは非常に激しい耐えられないほどの圧迫を受け、ついに命さえも危くなったと言っています。このように私たちも自分の絶望をパウロのように表現するのが健康的です。心の中が表現できない時、問題になります。痛い時、痛いということが大切です。新渡部稲造は日本人が自分の内部の感情を表現しないのは、人の前で自分の中を見せるのは恥だという教育を受けたからだと言っています。教会の中でも恵まれた感情をあまり表現しないことは、その理由からだと言いました。私たちが自分の感情を押さえて絶望を表現しないと後で大きな問題になることがあります。泣きたい時には泣く方がいいのです。いろいろな中毒から解放されるプログラムの第1段階はありのままを告白することを勧めています。自分は今、絶望的な状況にあるということを表現しましよう。

2.神様に頼む時、希望が始まります。

神様に頼む時神様によって絶望が希望に変わります。なぜなら、死者をよみがえらせる神様であり、ないものをあるとおよびになる神様だからです。「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。」(ローマ4:19)私たちは主を仰ぎ見て主を信じることができれば、どんなに絶望的な状況にあっても主によって勝利します。今、日本を絶望的に見る人が多くいます。しかし主によって日本はよみがえります。私たちが危機にあった時、絶望したと言っていいのです。しかし絶望に落ち込まないようにしてください。絶望を認めても神様を仰ぎ見て、主を呼んでください。主を呼ぶ者はよみがえりの奇跡によって絶望は希望に変えられます。

3.イエス・キリストの中で希望を見出した人は隣人の希望にならなければなりません。

私たちはクリスチャンです。クリスチャンは小さいキリストの使徒ということです。私たちが「最も小さい者たちのひとりにしたのは、イエス様にしたのです。」(マタイ25:40)私たちは神様の前で人を助けるとりなしの祈りをしなければなりません。パウロは「あなたがたも祈りによって私たちを助けて協力してくださるでしょう。それは、多くの人々の祈りにより私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が感謝をささげるようになるためです。」(本文11節)と言っています。私たちが牧会者のために祈るとその祈りが多くの人々に恵みとしてあらわれるのです。その多くの人々が感謝を捧げるようになります。この祝福が私たちの祈りによって牧会者の上に臨み、それが信徒の上に臨みます。だから互いが互いのために祈ってあげることはとても重要です。とりなしの祈りは力があります。私たちがあらゆる手段をもって人々を励まし、助けることを主が願っておられます。今、苦しんでいる人が多くいます。私の小さな助けによって人が立ち上ることができるのです。


2007年1月14日「アベル・エノク・ノアの信仰」ヘブル11:1〜7

 クリスチャンとは神様の約束を信じる人のことです。神様の約束を信じる人は称賛されます。神様に近づく者は神様がおられることと神様を求める者には報いがあることとを信じなければなりません。今日はアベル、エノク、ノアの信仰を通して彼らの信仰の成長を見たいと思います。

 1.アベルの信仰。

アベルの信仰は贖いを信じる信仰でした。私たち人間は「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10)と聖書に書いてあるように、人間は生まれながら罪を持っているので罪を犯します。神の栄光に至る人はひとりもいないのです。罪が赦されることが信仰の基礎です。岩の上に家を建てた人は健全です。しかし砂の上に家を建てるとすぐ崩れてしまいます。罪の赦しはいけにえを通してです。アベルのいけにえは、神様が良いいけにえとして受け入れました。血が流されるいけにえが捧げられたからでした。「血の注ぎなしには罪の赦しはない。」(ヘブル9:22)ことをアベルは信じました。それでアベルはその信仰もっていけにえを捧げました。しかしカインは自分の努力と産物をもって進んでいきました。アベルは罪が赦されて喜びがあふれました。平安がありました。しかしカインはいけにえが受け入れられなかったので、罪責感がそのまま残りました。劣等感、怒りが湧き上がり、弟を殺しました。今日、色々の殺人事件が起っていますが、これらは教育、宗教で解決することはできません。イエス様の血潮で赦されることによって解決されるのです。

2.エノクの信仰。

 エノクは神様と交わりをする信仰です。私たちの罪が赦されて神様と交わりをする信仰生活は一段上にあがる信仰生活です。エノクは300年間神様と共に歩みました。私たちが神様と共に歩む信仰によって歩むのです。主が共におられると信じればその通りになります。信じて主の御名を呼ぶのです。いやしの御名、勝利の御名、平安の御名を呼ぶのです。主が共におられるので主の御名を呼ぶものはその通りになります。ヨセフはどこにいても主を認めました。主を信じました。その結果、彼の人生の中で彼はすべてが益になり、ついにエジプトの総理になりました。私たちは血潮によって罪が赦された信仰生活と共に主を認め、聖霊様と共に歩む信仰生活が重要です。

3.ノアの信仰。

ノアは将来の洪水の警告を受けた時、箱舟を造りました。その当時雨が降らなかったので、上から雨が降るということの理解ができませんでした。しかし彼は信じました。120年間信じて舟を造り続けました。舟を造るということは教会生活を意味します。主がまもなく再臨されるということは聖書を通して300回以上預言されています。今私たちは終りの時代に住んでいます。ノアが箱舟を造ったように、私たちもこの世で箱舟を造る生活をしなければなりません。ノアの時代には洪水によって滅ばされたように今のこの世では火の審判によって滅ぼされると聖書に書かれています。今の時代の箱舟を造ることは、教会生活や祈りの生活をすることであります。だからこの世の火の審判から逃れ、主の前に立つためには油断せずに祈り続ける生活が必要です。奥まった部屋に入って神様だけを仰ぎ見る生活です。この地上の色々な所を見ないで放蕩や深酒やこの世のわずらいのために沈みこむ生活をしないようにしましょう。いつも主を仰ぎ見て清い生活、愛の生活をしながら箱舟を造る皆さんとなるように祝福します。

 


2007年1月7日「約束の新しき地」   ヨシュア記1:1〜8

神様が人間を造られた目的は神様に栄光を帰すためであり、人間を幸せにするためです。そのために神様はエデンの園を造られました。エデンの園は神様の栄光の富によって人間は豊かになり、幸せに暮らしていました。しかし人間は罪を犯し、堕落することによってその幸せを失ってしまいました。神様は人間の幸せを取り戻すために乳と蜜の流れる新しい地を約束してくださいました。これがカナンの地であります。

1.モーセが死ななければなりませんでした。

カナンの地に入るためにはモーセが死ななければなりませんでした。モーセは律法の代表であり、律法を守ることがてきないので審判するのだという旧約の時代の代表であります。このモーセの律法は人間を罪に定め、審判することはあっても救いの対策はないのです。人々を罪に定め殺すことはあっても、人々を生かすことはできないのです。だからモーセが私の内にあって私を審判すると誰でも乳と蜜が流れる心にはなりません。私の内でモーセの声が死んでヨシュアの声、イエス・キリストの声が聞えなければなりません。“わたしがあなたの側にいて、あなたを赦すために十字架につけられ、あなたを救ったのだ。”というその救いの対策がヨシュア(イエス・キリスト)にはあります。ヨシュア(イエス・キリスト)に従うと律法の呪いから解放されます。罪に定められることはありません。義、喜び、平安が私たちの内に流れるようになります。

2.ヨルダン川を渡らなければなりません。

 私たちが乳と蜜が流れる新しい地に入るためには紅海とヨルダン川を渡らなければなりません。紅海は水のバプテスマを意味し、ヨルダン川は聖霊のバプテスマを意味します。イスラエルの民が荒野で紅海を渡ってカナン地に入るまでに1週間で行ける距離を40日間もさまよい歩いた理由は、彼らが荒野で不平不満を言い、不信仰だったからであります。私たちは洗礼を受けたのにのどが渇く理由はエジプトの生活のことをいつも恋い慕っているからであります。エジプトでの情欲、食欲、罪を恋い慕っているといつまでも渇くのです。私たちは情欲を十字架に釘づけて自分に死ななければなりません。自分に死ぬとイエス・キリストが生きるのです。これは聖霊のバプテスマです。カナンの地に入るためには私たちが自分自身に死ぬ聖霊のバプテスマを受けなければなりません。

3.約束の新天新地。

約束のカナン地に入ってから種を蒔くと実がみのり、豊かな収穫がありました。繁栄と栄がありました。これは私たちが聖霊に従っていくと、私たちの中で聖霊の実が結ばれるということです。愛、喜び、平安などの実が豊かに結ばれるのです。御霊の実をもって私たちが神様を愛するようになります。私たちが神様を愛する時、神様が栄光を受けられます。私たちが隣人を愛する時、私たちは幸せになります。私たちがするべきことは隣人を愛し、自然を愛することです。どうして神様が私たちをこの地上で豊かに祝福されるのでしょうか。それはアブラハムのように私たちが神様と人とのパイプの役割をして人々に祝福を流すためであります。私たちが隣人を愛して祝福すれば約束の新天新地で報いを受けます。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないもので刈り取られます。小さい者に水一杯でも主の御名によって飲ませるなら、天国でその人は報いに漏れることはありません。(マタイ10:42)私たちの地上での生活が聖霊充満となり、すべてが豊かになりますように、種をいっぱい蒔く皆さんとなりますように主の御名によって祝福します。

 


2006年12月31日 「終末の日の準備」  マタイ25:1〜13

 神様は私たちが終末の日の準備をすることを今日の本文を通して教えてくださっています。ともしびを持って、花婿を出迎える10人の娘たちの例えを話しながら、イエス様は信仰の準備をすることの大切さを語られました。

1.油の準備が信仰の準備です。

10人の娘たちのうち5人は愚かで、5人は賢い娘たちでした。愚かな娘たちは、ともしびは持っていましたが、油を用意しておきませんでした。花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めました。ともしびを持っていたということは、外見上は教会生活をしていたことを意味します。愚かな人と知恵ある人との分かれ目は聖霊の油の準備があるかないかということです。「キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。聖霊の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように」(第1ヨハネ2:27)とあるように、聖霊の油はすべてのことについて教えてくださる聖霊の働きです。聖霊の油によって信仰が与えらます。聖霊様は私たちの信仰生活にとても重要な方です。聖霊様は人格者であり、生きておられる神様です。私たちがこの方を大切にすると、この方も私たちを大切にしてくださいます。この方といつも交わりをし、従順するといつもこの方の教えをいっぱい受けて満たされます。

2.自分の信仰体験。

自分の信仰体験は人に貸したりすることはできません。「そら、花婿だ。迎えに出よ。」と言われた時、愚かな娘たちは油の備えがなく、油がある人に分けてくださいと言いました。私がお腹がすいた時に、他の人が私の代わりに食べて自分のお腹を満たすことはできないように、油を他の人に分けることはできないのです。イエス・キリストの前で悔い改め、イエス・キリストとの人格的な出会いが必要です。これが新生ということです。イエス・キリストの前でひざまずいて、“私の主”“私の神様”といった体験は、誰にでも貸してあげたり、借りることはできないのです。

3.機会を失ったら、その機会は二度と来ません。

すべてには、機会があります。私たちはこの体を持っている時間は救いの準備をする時です。「今が恵みの時、今が救いの日です。」(第2コリント6:2)だから私たちは明日のことを自慢したり、何年あとで信仰を持つのだとかいうことはできません。今が救いの日、今がみ言葉を学ぶ機会、今が奉仕をする機会なのです。

4.終わりの日の準備をしなければなりません。

すべてが片付けられる終わりの日には、宇宙的な終末と個人的な終末があります。私の生まれた日があったように、私の終わりの日があります。私たちは私たちの終わりの日に神様に会う準備をしなければなりません。それが終わりの日の準備です。

 ムーディ先生は生涯神様を愛し続けましたが、彼にも終わりの日が来ました。彼は“天は開く、私の主キリストが私を迎えに来る。”と告白しました。すばらしい告白です。どんなに権力者であっても人気者であっても必ず終わりの日が来ます。フセイン大統領のように強大な権力者であっても終わりの日が来ました。しかし、彼には準備ができていませんでした。どんなに権力があっても、どんなに人気があっても、それらが私たちの終わりを準備させるものではありません。イエス・キリストの十字架の前で罪を悔い改め、イエスキリストの救いを受け入れることによって、神様の子どもとなります。皆さん、天国に入る準備ができていますか。新しい日、新しい国を迎える準備ができていますか。

 


2006年12月24日「クリスマスにお生まれになったみどりご」

                     イザヤ9:6〜7

本文はイエス・キリストが誕生される760年前に預言者イザヤが受けた預言です。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」(本文6節)これは私たちの理性では納得できない啓示でした。

 1.クリスマスにお生まれになったイエス様はワンダフル カウンセラーです。

 今日私たちの時代は不安、恐怖、孤独、むなしさで溢れています。私たちの悩み、苦しみを聞いて理解してくれるカウンセラーが本当に必要な時代です。良きカウンセラーがいないので人々は問題が解決できなくて苦しんでいます。しかし、ワンダフル カウンセラーであるイエス様は罪の問題を直接、体で解決してくださいました。この方は罪に苦しんでいる人を見て「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」(マタイ9:2)「もし私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Tヨハネ1:9)イエス様はご自分で打たれて私たちをいやし、ご自分で呪いを受け、ご自分で私たちのすべての地獄の死の苦しみを受け、私たちに永遠のいのちを与えてくださいました。この方は今は御霊によって私たちと共におられます。イエス様は普通のカウンセラーではなく、全人格的に救ってくださるワンダフル カウンセラーです。

2.イエス様は力ある神、永遠の父と呼ばれます。

クリスマスに赤ちゃんとしてお生まれになった方は普通のみどりごではありません。この方は神様と同一の本質を持っておられる方です。誰でもこの方に近づくことができるようにみどりごとしてお生まれになりました。貧しい人でも、富んでいる人でも、羊飼いでも、博士でも、誰でも側に来てこの方に近づけるようにしてくださいました。このみどりごは不思議な方です。政治も歴史も全部この方によっ決まりました。紀元前(BC)、紀元後(AD)の歴史の別れ目はこの方が基準でした。神様が私たちにご自分の顔をみどりごとして見せてくださったのには、深い意味があります。私たちがイエス様を信じて、毎日この方を拝見し、礼拝することができるようにしてくださいました。本当の力は子供のような顔をしている時に現われます。子供の顔は恐れも欲望も不安も心配もありません。本当の力はやさしさの中に存在するのです。罪がない神様はご自分の顔をイエス様の誕生日の日、クリスマスで見せてくださいました。

3.イエス様は平和の君と呼ばれます。

イエス様が誕生された時に「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(ルカ2:14)と歌いました。イエス様はこの世に“平安”というプレゼントを持って来られました。罪の赦しの平安、淋しさ、孤独から解放される平安、問題から解放される平安、死の苦しみからのよみがえりといのちです。だれでもこの方を信じる者は永遠に死ぬことがなく、永遠のいのちが与えられます。これが死の問題からの回復であります。イエス様はご自分の平安を私たちに与えると言われます。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)と言われます。私たちはイエス様を信じることによって私たちの中でクリスマスを礼拝することができます。この方は再び来られます。再臨されると言われます。信じる人々はこの方にお会いし、礼拝するでしょう。

 


2006年12月17日「ヨセフとマリヤのクリスマス準備」マタイ1:18〜25

ヨセフとマリヤを通して神様が人類の救いのためにイエス・キリストを送ろうとしておられました。イエス・キリストの誕生に協力したヨセフとマリヤのことを一緒に考えながら私たちもクリスマスの準備をしたいと思います。

1.聖霊とみ言葉によって来られるメシア

 神様はご自分がなさろうとすることを聖霊とみ言葉によって必ずそのことを成就されます。ヨセフに天使が現われて、“ダビデの子ヨセフ、恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。イエスこそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。”と言われました。ヨセフとマリヤに起ったこれらの出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであったと聖書(マタイ1:22)に記されています。このように私たちにいつも神様のご計画がなさろうとすることは聖霊とみ言葉によってすべて成就されます。み言葉は客観的な道具として神様の御心を教えてくださいます。聖霊様はみ言葉を私の中で主観的に強い確信としてくださいます。2.マリヤのクリスマス準備。

「あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。」(ルカ1:31)と天使に言われたマリヤは「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」(ルカ1:34)とすぐには理解できず、子供が宿っているということに驚いてしまいます。しかしマリヤは、「神にとって不可能なことは一つもありません。」(ルカ1:37)という信仰に立って、その時マリヤは謙遜にその事を受け入れました。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(ルカ1:38)マリヤの姿勢は謙遜でした。神様のみ言葉の前でこのようにへりくだって謙遜になると、神様のみ言葉が私たちに宿ってくるのです。“どうぞこの身になりますように。”というマリヤの姿勢は従順でした。これは本当に命かけた従順であります。結婚していないのに妊娠している事が分ったら、人々からののしられるし、恥かしめを受けるでしょう。律法では石で殺されるかもしれません。これらのことを全部覚悟した上での従順でした。それも喜んで自分の自由意志をもって主のみ言葉がなりますようにと受け入れたのであります。

3.ヨセフのクリスマス準備

ヨセフも従順でした。みごもったマリヤを妻として迎え入れるという事は、人々から笑い者にされ、指さされるかもしれないけれども、み言葉に従順しました。「子どもが生まれるまでマリヤを知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。」(本文25節)と書かれています。若い夫婦が結婚して一緒に生活しながらイエス・キリストが生まれるまでお互いを知ることがなかったという事は、神様を敬愛する献身でもあります。私たちもこのように神様のものを大切にしなければなりません。日にちや仕事、またどんな事でも神様のものを聖別して守ることです。私たちはイエス様のお誕生をお祝いして、Merry Christmas ! と言いますが、どうしてMerry Christmas ! と言うのでしょうか。それは、私たちの罪が赦されたからです。私たちの罪を赦すためにイエス様は来られました。イエス様は再び来られます。私たちがクリスマスになるまで、また、イエス様が再臨されるまで聖さ、従順、謙遜、献身を守っていきたいと思います。

 


2006年12月10日「主が用いられる人」  ヨハネ6:1〜13

5つのパンと2匹の魚を男性が5千名、女性と子どもをあわせると全部で2万名の人々が食べて12籠が残るというすばらしい奇跡が起りました。その時、計算が得意なピリポは用いられませんでしたが、アンデレは用いられました。

1.アンデレはイエス様が2万名の群衆を食べさせるのだということを信じました。

信じる人々と共に神様は働いてくださいます。アンデレは人間にはできないことを神様はされるということを信じました。環境的には不可能なことです。なぜなら2万名もの飢えた人々に少年が持っている5つのパンと2匹の魚だけだからです。しかしアンデレは2万名の人々をイエス様が今、食べさせようとしておられるということを信じました。なぜならイエス様が大勢の人々をいやされることを見たからです。イエス様を信じたアンデレは用いられました。私たちが神様を信じると神の栄光を見ることができます。

2.小さくても弱くても主に使ってくださいと捧げる人を主は用いてくださいます。

私たちは大勢の人々の前で小さな子供のお弁当のような存在です。にもかかわらず主が私たちを祝福されれば私たちは本当に用いられます。主の御手に自分を完全に捧げる時、年齢と関係なく用いられます。小さな少年でも用いられるし、高齢のモーセも用いられました。人間が偉大なのではなく、主が偉大なのです。

3.恵みを分ち合う人を主は用いてくださいました。

イエス様は人々を50名から100名ぐらいに分けて草の上に座らせました。そしてイエス様はパンを取り、感謝を捧げてから、座っている人々に分けてやられました。イエス様から祝福されたお弁当は与えても与えてもまだ残って、2万名が食べても12籠が残りました。イエス様はこの世にいのちを与えるために天から下って来られた生けるいのちのパンです。イエス様は私たちに赦しと癒し、聖霊充満と永遠のいのちを与えてくださいます。私たちがイエス様の生けるパンの恵みを頂いたとすれば、その恵みを人々に分け与えると増え広がります。@ゆるしのパンA聖霊充満B癒しのパンCアブラハムの祝福のパンDよみがえりと永遠のいのちのパンを分け与えましょう。「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人人は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」(ルカ6:38)私たちは自分が受けた恵み、罪の赦しの恵み、イエス・キリストの十字架の恵みを教会の中で、自分の地区の中で、また隣人に分ち合いましょう。イエス様の恵みを分ち合うことはとても重要です。私たちは互いに証しをすることも重要です。私たちは本当に自分が受けた祝福を分け与えることがとても大切です。私たちが証すると、人々はその証を聞いて祝福されていくのです。渡り鳥が編隊を組んで飛ぶように、前の鳥が力強く羽ばたくと後ろの鳥が力を受け、30%の力しか使わなくていいようになります。このように私たちも人を生かすために、常に分け与えるように心がけなければなりません。

 



2006年12月3日 「主から学ぶ夫婦の愛」 エペソ5:21〜33

結婚は神様が人間を幸せにするために立てられた制度であり、「生めよ。増えよ。地を満たせ。地を従えよ。」と言われたみ言葉が、人間を通して成就するために作られた制度です。神様は人がひとりでいるのは良くないと言って人間の助け手を造られました。それが結婚であり、夫婦であります。また、イエス・キリストと教会は夫婦の関係にあります。すなわち教会はイエス・キリストの妻です。妻は夫であるイエス様から夫婦のあり方を学ぶことによって、この世の結婚生活が幸せになることができます。

1.イエス様から学ぶ新婦の役割。

イエス様から学ぶ新婦の役割は従順です。結婚した人でも結婚していない人でも関係なく新郎であるイエス様から新婦として従順を学ぶのです。イエス様は死に至るまで神様に従順し、私たちに模範を示してくださいました。何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって人を自分よりすぐれたものと思う時、従順することができるのです。私たちはイエス様から新婦の役割である従順を学ぶことができます。

2.イエス様から学ぶ夫の役割。

イエス様の愛は犠牲の愛です。イエス様は夫のモデルであります。私たちはイエス様から学ばなければなりません。男性は力があるので女性を従属させ、利己主義的に振舞ってきました。これが人類の歴史であります。日本でも九州男子が権力的であったり、男子誕生を喜ぶ傾向がありました。しかし聖書には「夫たちよ。妻が女性であって自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。」(Tペテロ3:7)と書かれています。聖書の教えがベースである西洋ではレディーファーストの社会であり、女性は大切にされました。しかし、儒教の影響を受けた東洋では女性を無視し、軽視しました。神様が造られた動物の世界ではメスとオスがけんかすることはありません。オス同士はけんかすることはありますが、強いオスが弱いメスにけんかをしかけることはありません。人生はお互い愛し合って所詮は短い命です。私たちは悔いを残してはいけません。幸せな家庭を作るのに力を尽くさなければなりません。

3.主から学ぶ夫婦の愛の特長。

これは聖い愛です。自分が聖くなれば相手も聖くなります。自分が汚れた者になれば相手も汚れた者になります。なぜなら夫婦は一心同体だからです。「わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:28)遊女と交わればひとつの体、すなわち遊女の体となります。私たちは考えの中でも汚れた思いを入れてはいけません。またイエス様の愛はアガペの愛です。無条件的な犠牲の愛です。自分の欲望を満足させるエロスの愛とは違います。結婚した以上は貧しい時にも富んでいる時にも、健康な時でも病気をしている時でも、また若くても年をとっても変わらず愛することです。イエス様は十字架にかかり、身代りになって死んでくださったほどに、私たちを愛し続けてくださいました。私たちが愚かな者にもかかわらず、赦し続け、私たちを養い育ててくださいました。イエス様は栄光の座に妻である私を連れていくために祈られました。(ヨハネ17章)祈った通りに私は主の御座まで行くことができました。夫と共に妻も成長していかなければなりません。夫の栄光は妻の栄光であり、妻の栄光は夫の栄光です。これが結婚の神秘です。

 

 


 2006年11月26日「ベテスダの池と日本のリバイバル」ヨハネ5:1〜9

ベテスダの池に大ぜいの病気や足のなえた者たちが伏せっていました。その中で38年もの間病気にかかっている人がいました。イエス様がその人をいやしてくださいました。38年間、患っていた病人と教会のリバイバルに対して考えたいと思います。

1.ベテスダの池。

ベテスダの池とは、羊のいけにえを洗う場所であります。羊を洗って神様に捧げる所です。洗うということは悔い改めを意味します。悔い改めと赦しは密接な関係があります。日本のリバイバルもベテスダ(悔い改め)が必要です。10年前、チョーヨンギ先生が日本にリバイバルが来ない理由は二つあると言われました。@国家的偶像崇拝の罪A第二次世界大戦で犯した罪を悔い改めないこと。特にアジアに対してひどいことをしたことを悔い改めないことであったと言われました。リバイバルを妨げるのは悔い改めない心です。フィージーのリバイバルは悔い改めることによって起りました。「わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」(U歴代誌7:14)と主は言われます。

2.38年間の病人。

38年もの間病気にかかっていた人は自らいやされる道は知っているけれども、動くことができないのでどうすることもできないでいました。水がかき回された時初めに入った人はいやされました。しかし彼が行きかけると“もうほかの人が先に降りていくのです。”とイエス様に訴えました。これはまるで日本の教会の状況を言っているように思えます。リバイバルを切に願い、リバイバルの方向に行こうとするのですが、自分ではどうすることもできないのです。教会の事情は益々ひどくなっています。0.2%のクリスチャン人口の壁も突破できないし、クリスチャンたちの中で偶像礼拝をする人たちもいます。牧師先生たちの平均年齢は年々上がっているし、無牧の教会もあります。本当に今のままでしたら教会の存亡が危ぶまれます。このように現状を見ていくと、リバイバルが全く不可能のように見えます。しかし、シンディージェイコブス師は日本のリバイバルは超自然が鍵だと言われました。主が直接訪れてくださることが超自然です。日本に主が呼びかけられるのです。「よくなりたいか。」“はい、リバイバルを切に願います。”「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」これが超自然のリバイバルです。パチンコ店が教会になるという預言がありましたが、それが今、成就されているのです。岐阜県ではすでにリバイバルが起っています。「主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。」(エレミヤ10:13)主が「起きて、歩め。」と言われると日本にリバイバルが起ります。もうすでにリバイバルが始まっているのです。

3.私たちを訪れたイエス様。

今私たちのただ中でベテスダの中を動き、かき回された方がおられます。イエス・キリストです。イエス様は昨日も今日もいつまでも変わることがありません。その方は2〜3人集まっておられるところに共におられます。私たちが今も十字架の血潮の前で自分を洗い聖め、不従順の罪、不品行の罪を悔い改め、また先祖が犯した罪を悔い改めると御霊によって心が動かされます。“起きて歩め。いやされよ。生めよ。ふえよ。地を満たせ。”主が私たちを祝福してくださいます。教会はリバイバルされます。

 

 



2006年11月19日「永遠に変らない湧き水ヨハネ4:1〜26

ユダヤ人たちはサマリヤ人たちと信仰上の理由からお互い交わることはありませんでした。サマリヤ人は混血人でしたので、ユダヤ人たちは自分たちの血統が純粋だということを自慢していました。しかしイエス様はサマリヤの町を通られ、井戸の水を汲みに来たひとりのサマリヤの女性に出会いました。彼女は本当に罪責感で苦しんでいました。そこでイエス様は、永遠に変らない水を彼女に与えると約束してくださいました。どうやってイエス様は彼女に永遠に変らない水を与えることができたでしょうか。

1.イエス様はサマリヤの女性の渇きの原因を解決されました。

彼女の最大の問題は夫に関する事でした。彼女は人生の渇きを夫から探していたのです。それで5回結婚しては離婚し、今は6番目の男性と結婚しないまま生活していたのです。彼女は傷だらけになり、罪責感でとても苦しんでいました。それで人が集まっている時間帯には水を汲みに井戸の所に行かなかったのです。イエス様が“行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。”と彼女に言われた時、彼女は“私には夫はありません。”と答えました。イエス様は彼女のすべてを知っておられました。イエス様は彼女の渇きの根本の原因に触れられました。イエス様は彼女に対して批判する目ではなく、やさしい目、愛の目、赦しの目で彼女を見られました。このサマリヤの女性は変えられました。

2.礼拝。

彼女は礼拝について質問しました。絶対者の前で被造物である人間が神様に捧げる賛美、感謝、祈りを礼拝だと言っているのです。霊と真をもって礼拝を捧げることです。霊は聖霊様であり、真はイエス・キリストです。真理であり、道であり、いのちなるイエス・キリストです。聖霊様がこのイエス・キリストを照らしてくださる時、私たちは礼拝ができるのです。イエス様が「わたしがそれです。」と彼女に言われた時、彼女は礼拝者になりました。イエス様を礼拝するようになりました。それで感動と喜び、感謝の涙があふれ出るようになりました。彼女の中に生ける水が湧きあがったのであります。礼拝の時にこのような感動があるのです。湧きあがる水があるのです。私たちが探し求めたものがそこにあるのです。

3.イエス様は今も礼拝者を呼んでくださいます。

「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)「御霊も花嫁も言う。『来てください。』これを聞く者は、『来てください。』と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」(ヨハネ黙示録22:17)神様はサマリヤの女性のように、私たちを呼んでくださって私たちの罪を赦し、私たちの中にある私たちの渇きを解決してくださるのです。それでサマリヤの女性はすべてを捨てて村に入ってイエス・キリストを伝えたのであります。村人はこの女性が言ったことを受け入れ、イエス・キリストを信じて救われたのであります。神様は私たちがイエス・キリストのみ言葉を信じることができるように、語ることができるように聖霊を無限に与えてくださいます。「神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。」(ヨハネ3:34)イエス様に礼拝を捧げる時、私たちの中で渇きがなくなるのです。間違った礼拝の対象を礼拝すると、渇きが続くのですが、真の神様の祝福を御霊によって捧げると私たちに永遠に変らない湧き水が、感謝が、喜びがあふれ流れるようになります。

 

 

 2006年11月12日 「新生の意味」   ヨハネ3:1〜16

パリサイ人の中にニコデモというユダヤ人の指導者がいました。イエス様は彼に「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(本文3節)と言われました。ニコデモとの対話を通して新生の意味を知ることができます。

1. 新生とは霊によって新しくなることです。

生物学的な意味ではなく、御霊によって生まれるということです。神様は霊です。霊によって新しくなるということです。エデンの園に住んでいたアダムとエバは、堕落して霊的死を招きました。なぜなら神様のみ言葉であるいのちの木を捨てて、善悪の知識の木の実である人間の哲学、思想を選んだからであります。神様から離れて人間の理想郷であるユートピアを造ろうとしました。しかし結局は終末的な世を造ってしまいました。殺人、憎しみ、いじめ等が今なお絶えず続いています。子どもの虐待死や自殺、大人でも一年3万人以上が自殺しています。教育理論を持ってしても、政治理論や経済理論を持ってしてもこれらの問題は解決されません。人間は神様のもとに帰り、霊によって新しく生まれなければなりません。

2.新生した人は神の国を見ることも入ることもできます。

私たちが死んだあとで行く天国だけではなく、今この世で天国を見ることができます。御霊によって天国とは義、喜び、平安です。神様の御前ですべてを委ねると、平安になります。良き神様は私の人生を導いてくださるという感謝の心は天国を開く鍵です。私たちは死んで永遠の御国に行くのです。私たちの体はこの世に捨てられ、私たちの霊は主の御国に行くのです。それから永遠にイエス様と住むことになります。地獄はイエス様がおられないところです。サタンが支配する苦しみの所です。新生した人は神の国を見ることも入ることもできます。

3.水と血によって新生することができます。

水と聖霊によって新しく生まれることができます。水はバプテスマを意味します。水のバプテスマを受けることによってサタンと完全に別れ、“私はクリスチャンです。”と宣言することができました。私たちはこの世で生活する時、いつも暗闇や不平不満がゴミのようについてきます。それを洗っていく水の中で働く方が御霊です。「地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光ができた。」(創世記1:2〜3)光が御霊によって私たちが悔い改める水を浴びている時に光が生じました。闇は消え去りました。私たちの生活の中で苦しみを与える闇は消え去りました。これが私たち新生した人の生活です。光の中で私たちはイエス・キリストを見るのです。天国を見るのです。だから信じるのです。私たちが新しくなったらすべてを信じるようになります。これが新生です。

 

2006年11月5日   「縁までいっぱいに」 ヨハネ2:1〜11

カナの婚礼の時、イエス様が招待されました。そして、宴会が最高潮になった頃、宴会の喜びであるぶどう酒がなくなってしまいました。しかし、イエス様に従順した時、水が変わってぶどう酒になりました。喜びを取り戻すことができました。私たちもイエス様と共に問題だらけのこの世から喜びを取り戻すことができるようにしましょう。

1.この宴会にイエス様が招待されました。

この世を生きる時、私たちは問題に会います。喜びがなくなるのですが、イエス様が共におられれば、問題が問題にならないですべてが益になります。後で宴会に出席している人々が“よく終りまでよいぶどう酒を残しました。”と賞賛しました。イエス様がおられると問題がすべて益に変ります。

2.祈りがありました。

母マリアがイエス様に祈りました。ぶどう酒がなくなりました。問題が生じました。その時イエス様がその問題を引き取って、水がぶどう酒に変る奇跡を行われました。

3.従順しました。

イエス様は問題にあった私たちに言われます。「水がめに水をいっぱいにしなさい。」この水がめはユダヤ人の聖めのしきたりによって、人々が家にも置いていた水がめであります。この婚礼の家には水がめが6つありました。この6つの水がめは私たちの心を意味します。“水がめを縁までいっぱいにしなさい。”ということはイエス様がペテロに“7の70倍赦しなさい。”と言われたように、赦しの心をいっぱいにしなさいということです。いっぱいになった赦しの心を、今、赦す方向へ汲んで行ったら水がぶどう酒に変ったのであります。悲しみが喜びに変ったのであります。私たちの心にある6つの水がめを考えてみましょう。@自分自身。まず罪責感で苦しんでいる自分自身を赦すことです。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」(イザヤ43:25)主は私たちの罪をもう思い出さないのです。A親子の関係。親子の関係が喜びの関係になるためには、赦しが必要です。理解すること、親もその上の親から受けた教育の傷だと思って理解して互いに赦し合うことです。B夫婦の関係。愛し合った夫婦は相手の欠点を何も見出せません。お互い赦すことによって夫婦関係は解決されます。初めの愛に戻りましょう。C周りの人との関係。人間には失敗があります。失敗がない人間は一人もいません。人を赦せなかったら自分が牢の中に閉じ込められるのです。喜びを失ってしまうのです。D運命。どうしてこんな家に生まれたのか、どうして女として、男として生まれたのか。自分ではどうすることもできないことをイエスの御名によって赦さないといけません。赦すことによって私たちは輝く創造的な人生を送ることができます。E敵。何の理由もないのに敵が攻撃し憎んでいるのです。イエス様は私たちに「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」と言われました。1998年インドネシアで暴動が起ってイスラム教の人々が教会を燃やし、商店を略奪し、女性をレイプしました。しかしそういった状況にありながら教会が400万人の食事を用意して人々に食べさせました。人々はどうしてこのようにしてくれるのですかとたずねました。その時教会は福音を伝えたそうです。私たちの中でイエス・キリストを迎え入れること、イエス様に祈ること、赦しなさいというイエス様の御言葉に従順する時、水が変ってふどう酒になるように、私たちに喜びが取り戻されます。

 


2006年10月22日 「信仰は望むものの実体」 へブル11:1〜2

信仰とは私たちが望んでいることを全能の神様が保証し、目に見えないものを確信させるものです。信仰の祈りは、もらうだろうということではなくて、もらったということを告白し、行動することであります。ですから私たちは望んでいることをよく描くことが良い信仰であります。しかし情欲で描いたりしてはいけません。

1.イエス様の御名によってすべて自分に成就されていることを描くことです。

神様の名前はヤーウェイルエ(備え主)の神様です。アブラハムはイサクを捧げなさいと言われた時に従順しました。イサクの代わりにすべてを備えてくださるということを信じました。イエス・キリストは私たちの備えものになってくださいました。すべて絶望の死の備えものになってくださいました。私たちは平安の神様、いやしの神様、勝利の神様、祝福の神様をいつも私たちの中でそれらが成就されている絵を見なければなりません。信仰というものは描くことです。映像です。心でイメージすることはレーザー光線のように強いのです。

2.私たちは絶えず祈るべきです。

1回だけ描いてみて、環境があまりにも悪く見えるとすぐ止めてしまいがちです。しかし、不信仰で終わってしまってはいけません。主の御名が私たちの中で現実になって完成するまで門をたたき、捜し求め続けなければなりません。集中する祈りはレーザー光線よりもっと強いのです。ひとつの点にしぼって集中して祈り続けることです。聖霊様は私たちにキリストの御名が成就されるように祈る人に勝利を与えてくださいます。どんなに絶望的な環境の中にあっても、祈る人には主が必ず主の御名を成就してくださいます。アブラハムが天の星を見続けた結果、神様はすべてを祝福してくださり、約束通り天の星のように子孫を増やしてくださいました。私たちクリスチャンはアブラハムの子孫です。「Back to Jerusalem」の本の中でザオウという老人が登場します。彼は31才で逮捕され、31年間牢の生活をしました。彼はBack to Jerusalemの啓示を受けて西へ西へと進んで行った人です。しかし彼は牢の中で何もすることができませんでした。31年の間に仲間を全部失いました。妻も子どもも何もかも失いました。にもかかわらず31年後、60代に牢から出て中国全土に、また世界全体にBack to Jerusalemの火をつけたのであります。このように私たちが神様からもらったビジョンを放棄しなければ、神様は必ずそのビジョンを成就してくださいます。

3.信仰を告白し、従順して行動することです。

私たちは主の御名を祈ると、信仰が与えられます。私たちが告白し従順して行動することが大切です。“祈りはもらったのだけれど、まだいやされていない。”そのような思いをしてはいけません。“私は2000年前いやされたことが真理です。”と告白しましょう。問題のゴリヤテを見て、恐れ退いてはいけません。ダビデ少年のように万軍の主の御名によってゴリヤテに向っていくのです。私たちがどんなに厳しい環境の中にいても私たちが信仰を告白し、従順することを神様は願っておられます。エリヤが3年半養われた所、もてなされた所は貧しいやもめの家でした。にもかかわらずその家に行って神様が命じた通り説教しました。やもめは従順しました。“まず主の僕のためにパンを作って持って来なさい、それから後にあなたとあなたの子どもが食べなさい。”そのようにして3年半ずっと粉も油をつきず過したのであります。神様はそのような信仰の従順を願っておられます。



2006年10月15日 「良い地になるためには」マタイ13:1〜9

聖書は神様のみ言葉を種として表現しています。神様のみ言葉は誰にでも同じみ言葉です。しかしそのみ言葉を受け入れる心をイエス様は種をまく土地として道ばた、土の薄い岩地、いばらの中、良い地の四つの土地として表現しました。同じ種が良い地に落ちて30倍60倍100倍の実を結びました。私たちが良い地になるためには、悪い地を耕さなければなりません。

1.道ばた。

道ばたは固い地です。いろいろな思想、哲学、宗教的な考えで固めた地は道ばたの地です。そこにみ言葉が落ちると、すぐサタンが来てとっていってしまいます。固い心なので信仰の実を結ぶことはできません。下の物を上に、上の物を下にひっくり返さなければなりません。サウロはイエス様と出会って次のように告白しました。「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」(ピリピ3:8)サウロは自分が間違ったことをしていたことが分り、悔い改めました。

2.土の薄い岩地。

土の薄い岩地は、み言葉を受け入れはするけれども、根がないので患難や苦しみ、経済的な損が少しでもあればすぐ倒れてしまいます。忍耐がないのです。神様は「忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ1:4)と言われます。私たちは信仰生活で忍耐を学ばなければなりません。忍耐を通して私たちの信仰が深くなります。「さまざまな試練に会う時は、それをこの上もない喜びと思いなさい。」(ヤコブ1:2)

3.いばらの中。

いばらの中に落ちたということは、この世のいろいろな心配、明日に対して心配することです。どうして心配するのですか。自分の事業だと思うからであります。自分が主であって自分が責任者だと思うから心配があるのです。心配は恐れを引き起して信仰を妨げます。これがいばらです。私たちはこのいばらを聖霊の火で、即ちみ言葉で燃やさなければなりません。聖霊様が私たちの主であって、私たちは聖霊様にいっさいを委ねると、主は私たちに将来と希望を与えてくださいます。「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29:11)私たちがイエス・キリストを仰ぎ見ると私たちの将来が見えてきます。マイナスのように見える材料もそこにイエス・キリストを仰ぎ見ると、大きなプラスに変えられます。病はいやしに、絶望は希望に、不安は平安に変るのです。イエス様は全能者であり、すべてのことを命令して、すべてを支配しておられる方、私たちが聖霊様に従順すると将来があります。リバイバルがあります。

 

 2006年10月8日 「偉大な信仰の表現」  ルカ17:11〜19

10人のハンセン氏病を患っている人たちがイエス様に叫んでいやされたという今日の本文から三段階の信仰の表現を見ることができます。私たちはもっと深い偉大な信仰の表現ができるように今日の本文から学びましょう。

1.叫んで祈る段階。

聖書時代のハンセン氏病を患っている人々はいつも絶望の叫びしかできませんでした。正常な人が自分の所に近づくと、“私は汚ない、私は汚ない。私に近づかないで。”と叫ばなければなりませんでした。絶望的な叫びをしている人たちは、自分たちが住んでいる村にイエス様が自分の所に来られるということを聞いてイエス様の名前を叫びました。「イエス様。先生。どうぞあわれんでください。」と声を張り上げて叫びました。今のこの世でも自分のことで絶望を感じている人が叫んでいます。聖書の中で自分の存在の弱さを悟る人を“心の貧しい人”と呼んでいます。このような人は神様によって祝福されます。しかし、自分を信じ、自分の力で生きる人たちは神様に叫ぼうとしません。神様を必要として神様に叫んで祈る信仰は偉大な信仰の表現です。

2.従順の段階。

私たちが神様を呼べば神様は生きておられるので答えてくださいます。「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を超えた大いなる事を、あなたに告げよう。」(エレミヤ33:3)主は全能者であり、主は人間ではありませんから解決するのに私たちの理解をはるかに越えたことを告げられるのです。主はみ言葉を送って彼らをいやし、滅びの穴から助け出されたと言われます。だから私たちは神様が私たちの声に答えると、み言葉によって答えることを信じ、そのみ言葉が与えられた時に従順しなければなりません。イエス様は10人の病人たちに行って祭司に見せなさいと言われました。祭司に見せるということは命をかけて行かなければなりません。祭司がいる会堂は町の真中です。自分たちがそこへ行く時に自分たちに石を投げて殺すかも知れません。だから従順ということはとても難しいことでした。しかし彼らはみ言葉に頼って、イエス様が言われた通りに進んでいきました。進んでいく途中で彼らはいやされたのであります。従順するとこのように奇跡がおこるのであります。

3.感謝と賛美の礼拝を捧げる段階。

いやされたうちの一人はサマリヤ人であった。彼は大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエス様の足元にひれ伏して感謝を捧げました。これは礼拝を意味するのです。証しであります。神様を賛美し、神様がしてくださったことを感謝して証しを捧げるために、イエス様は私たちを祝福してくださったのです。“アダム、どこにいるのか。10人いやされたのではないか。9人はどこにいるのか。”イエス様は礼拝者を探しておられるのです。9人のユダヤ人たちは祭司たちに強迫されて、社会生活のためにイエス様の所に戻ってきませんでした。しかし戻ってきた一人はイエス様から特別な祝福を受けました。彼はハンセン氏病が癒されただけではなく、心のハンセン氏病が癒され、永遠の命が与えられたのであります。イエス様に帰ってくるとこのように神様が癒し、赦し、永遠の命を私たちに与えてくださいます。人間はこの世でいつかは死ぬのです。死んだ後でこの9人は天国にいませんでした。しかし、永遠のいのちを受けたこのサマリヤ人は天国に行きました。「感謝のいけにえを捧げる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。」(詩篇50:23)とイエス様は約束しておられます。


 2006年10月1日  「賛美の神秘」  U歴代誌20:15〜23

私たちはこの世の中で多くの問題に会います。例えば家庭の問題、対人関係、職場、事業、健康の問題等いろいろな問題に会うのです。神様を良く信じるユダのヨシャパテ王の時代にも問題がありました。連合国家がユダを侵攻したのであります。その時神様は、その問題から解放してくださいました。その秘訣を一緒に考えたいと思います。

1.問題に会った時、神様を仰ぎ見て祈りました。

ヨシャパテ王は問題に会った時、まず神様を仰ぎ見て熱心に祈りました。「この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ。恐れてはならない。気落ちしてはならない。」(本文17節)この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるということでした。神様が私たちの身代わりとなって戦ってくださるのです。イエス様が私たちの身代わりとなって死んでくださった十字架の恵みを数えて、私たちが祈ると、聖霊様がひとつひとつ照らしてくださり、信仰を与えてくださいます。これは私のためだったと分るようにしてくださいます。イエス様のいばらの冠、私たちの病のために打たれた傷、すべての恵みが分るようになります。

2.賛美しました。

賛美は口びるの信仰告白です。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:10)賛美は神様に対する信仰の表現です。ユダの人々は大声を張り上げて「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」(本文21節)とイスラエルの神、主を賛美しました。神様が私たちのために戦ってくださるということが恵みなのです。その恵みに対して私たちが感謝を捧げるとその問題は解決されます。

3.問題を解決してくださる主は今も生きておられます。

神様は昔おられた神様だけではありません。今も生きておられ、イエス・キリストは昨日も今日もいつまでも同じです。多くの人々が人間関係の問題で悩み苦しんでいます。この人間関係の問題は避けて通ることはできません。しかし、いくら苦しい人間関係にあっても主が救ってくださることを信じて感謝し、今苦しい環境を見ても私たちは信仰の目で告白しなければなりません。私たちが信仰の目で自分の夫に対して自分の子どもに対して信仰告白しなければなりません。人に対しての信仰告白は賞賛です。今の現実をその通り言うのではなく、イエス・キリストによって変えられたその姿を告白するのです。これが賞賛であり、愛です。変えられた姿を認めてあげることです。このように子どもを責めるのではなく、賞賛するのです。私たちの問題や環境の苦しみは意味があるのです。そこには摂理があり、祝福が隠れているのです。「パウロとシラスは真夜中、牢の中で神様に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、突然、大地震が起って、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまいました。」(使徒の働き16:25〜26)そして、ピリポの看守長の家族が皆救われました。このように私たちが神様の前で苦しみの中、感謝で賛美を告白しながら捧げるとすべての問題は解決されます。

 

2006年9月24日  「帰ってきた息子」  ルカ15:11〜32

どんなお父さんも子どもが良くなっていくことを願って、良い教育をさせようと努力します。私たちの神様も天国に行くまで私たちを守り、祝福しようとしておられます。神様はエデンの園に私たちを住まわせ、恵みと幸せであふれるパラダイスを造ってくださいました。しかし神様に対して不満を持ち、サタンの誘惑に落ちて良き物を与えないと言って家出をしてしまいました。人類の歴史はちょうど「放蕩息子」のような歴史であります。

1.家出をした子どもの状況。

弟は父の財産の分け前をもらって遠い国に旅立ち、その財産を湯水のように全部使い果たしてしまいました。そして、ひどい飢饉が襲ってきました。食べるために豚の世話をしなければなりませんでした。ユダヤ人は豚を忌み嫌います。それなのに豚よりももっとひどい生活をしなければなりませんでした。豚は霊的には悪霊を意味します。神様から離れた人間は悪霊に仕えるものになリます。現代のいろいろな犯罪は、神様から離れた結果、現われているのです。家出をした子どもはサタンに仕え、悪魔に支配されている状況であります。

2.息子の悔い改め。

自分の悲惨な状況を考えながら自分の父の家を思い出しました。父の家には僕たちがたくさんいてそこには食物が豊かにあります。父の家に帰って僕のひとりになれば食物だけでも食べられると思い、彼は立ち上がって、自分の父のもとに帰って行きました。これが悔い改めの第一歩です。

3.息子が帰って来るのをひたすら待っていた父親。

息子が父親を見つけたのではなく、父親が先に息子を見つけました。ここに神様の心を見ることができます。昼も夜も家出をした息子が帰って来ることを切に願っているのです。これは十字架から神様の愛が私たちに啓示されているのです。父は彼に口づけし、彼に一番良い服(イエス・キリストの義の服)を着せ、指輪(聖霊)をはめさせ、足にはくつ(いばらと苦しみの道を歩んでも平安が来るように)を履かせ、ほふられた肥えた子牛(神様のみ言葉、豊かな神様の恵み)を食べさせて、祝宴を始めました。罪人ひとりが悔い改めて帰って来ると、天国ではパーティーが開かれているのです。そこには大きな喜びがあります。

4.帰って来た息子の生活。

以前は息子という身分に対して感謝もしないし、すべてがしてもらって当然という思いでした。しかし、今や以前のように不従順な子どもではなくて、「私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」(本文21節)と罪を告白しました。悔い改めて、すべてに感謝することができる息子として帰って来ました。信仰生活はすべてに感謝することです。不平不満をした長男は一度も罪を犯したことがないと思っていた人であり、律法主義者でした。長い間信仰生活をしていても、心の中で喜びがない人は、感謝の心が無くなったのではないかと、自分の信仰生活をかえりみなければなりません。帰って来た息子の生活はすべてに対して感謝する生活へと変えられました。

 

 

 2006年9月17日  「一生の使命」         ヨハネ17:4

 一生ということは一回の人生ということです。使命は果たさなければならないことです。人間はみんな果たさなければならない使命を持ってこの世に生まれます。これをよくやった人を神様は「よくやった。良い忠実な僕だ。」と言われます。しかし、そうでない審判もあります。悪いなまけ者だと言われることもあります。私たちが使命を果たし賞賛される一生となるように祝福します。

 1.一生の使命は神様が命じられたことを果たすことです。

「あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上 であなたの栄光を現わしました。」(本文)とイエス様はご自分の使命をこのように言われました。主が与えられた命令がありました。それは失われた人間、霊的に死んでいる人間を神様と和解させ、永遠の命を与えることでした。それをイエス様が成し遂げられたのであります。私たちの使命も神様と和解して永遠の命を得ることが、神様の私たちに対する使命であります。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)この世の中で自分がやりたいことをやり、自分の目標を達成したからといって、その人が悔いのない人生を送ったかというとそうではありません。神様の審判があります。神様が願っておられることは、イエス様を信じて永遠のいのちを持つことです。そして、聖霊とみ言葉に従って天国へ行くまで従順の生活をすることであります。

2.一生の使命とはこの世の平凡な生活を永遠の天国の生活のために準備することです。

 この世の中で80年、90年生きるのですが、これは準備期間です。私たちは神様を愛し、神様から愛され、み言葉を信じています。目に見えない神様を愛するということはみ言葉を信じることです。神様を愛し、隣人を愛する天国を学んでいかなければなりません。イエス・キリストに似ていくことが神様の使命です。私たちに対する主の願いです。私たちが主から与えられた色々な賜物を用いて、互いに仕え合い、愛し合うことを神様は願っておられます。天国は互いに仕え合うことです。私があるものを隣りの人は必要としています。また、隣人が持っているものを私は必要としています。互いに分ち合うことが天国の生活です。地獄はこれと反対です。自分だけ生きるということです。

 3.私たちは伝道を通して永遠の御国の準備をするのです。

 伝道はこの一生の間にすることです。イエス様は私たちが伝道することをとても願っておられます。伝道はそんなにむずかしくありません。イエス様が必要な人に与えることです。チョーヨンギ先生は肺炎の四期でした。ある女子学生がチョーヨンギ青年の所に来て「あなたは新約聖書から読み始めてください。旧約聖書から読んでいたら間に合わないかもしれないから」チョーヨンギ青年は新約聖書から読んでいき、いやし主イエス様に出会いました。それで肺炎がいやされ、たくさんの人々を主に導くことができました。(ダニエル12:3)「思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。」チョーヨンギ先生を伝道した人と女子学生が受ける栄光は同じだと思います。私たちはこの地上で永遠の御国のために伝道しなければなりません。今、若者たちの中で人気があるのがゴスペルソングです。この教会でも毎日曜日ゴスペルソング・アワーがあることを人々に知らせましょう。ゴスペルを歌うために若者が来てイエス様と出会い、永遠の命が手に入るように祝福します。ここから第2のチョーヨンギ、またゴスペル伝道の歌手が出るかもしれません。その人が受ける栄光と伝道した人の栄光は同じです。

2006年9月10日  「良い習慣を持ちましょう」   ルカ4:16

良い習慣を持っている人は本当に人生が祝福され、周りの人も祝福され、多くの人々が幸せになります。しかし、悪い習慣を持っている人は自分も不幸になるし、また周りの人々も不幸にします。イエス様は子どもの時から良い習慣を身につけておられました。「いつもの通り安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。」(本文)良い習慣をつけるためにはどのようにしたらいいのでしょうか。

1.決心しなければなりません。

決心は神様がされるのではなく、私がするべきことです。私が自由選択意志を持って決心する時、神様が助けてくださいます。「ダニエルは、王の食べるごちそうや飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め、身を汚さないようにさせてくれ、と宦官の長に願った。」(ダニエル1:8)ダニエルは偶像に捧げた物で身を汚すまいと心に定めました。また1日3回真の神に祈ることを決心しました。どんな苦しみがあってもこのことを続けました。その結果、彼は王女が変わっても、国が変わってもずっと神様の祝福を受けることができました。私たちは神様の前で決心が必要です。“私もできる。”“私も主に喜ばれる人になる。”という決心をしなければなりません。救いも恵みを私たちが信じると、決断と共に私たちは救われます。

2.熱い祈りが必要です。

このように私たちが決心したとして、長く続くことはできません。すぐ私たちの決心はくずれます。ですから聖霊様の助けが必要です。聖霊様が来られたら、天国の良い習慣に対して私たちに益々喜びを与え、良い習慣を身につけるようにしてくださいます。地獄的な汚れた習慣に対してはそれがいやになって捨てるようにしてくださいます。私たちは真心から主に熱い願いと思いをもって祈らなければなりません。祈ると神様が私たちを通して良い習慣を行うことのできるようにしてくださいます。

3.毎日繰り返し訓練しなければなりません。

神様が与えてくださった良い行動が習慣になるためには、行動を繰り返ししなければなりません。“いつもの通り”とイエス様は言われました。いつもの通り聖書朗読、いつもの通り祈る、また教会生活をする、この習慣を続けなければなりません。私たちは教会生活だけではなくて、自分がいつもやっている日常生活の時にも主の臨在を体験し、主と対話する毎日を過ごさなければなりません。“絶えず祈りなさい。”ということは“主はこれを見るのを喜ばれますか。主はこれをやっていることを喜ばれますか。”といつも主と共に交わりをすることを意味します。私たちの髪の毛1本さえも主が関心を持っておられるように、平凡な生活の中の一つひとつに主はいつも関心を持っておられるのです。「敬虔な生涯」を書いたローレンス兄弟は50才でカルメル修堂会に入りました。苦手な台所の仕事を与えられましたが、その中で主の臨在を体験し、絶えず主の愛を感じました。彼は台所で料理をする時にも、落葉ひとつ拾う時にも主をいつも思い出しました。目玉焼きをひっくり返す時でさえも、いつも主の時を考えました。彼にはいつも天国の喜びがありました。この世の誘惑を打ち勝つ力はこの喜びにあります。主の喜びがこの世の悪い習慣を打ち破る力になるのです。皆さんが良い習慣を身につけようと決心し、聖霊様に熱く祈り求め、毎日繰り返し訓練することができますように、主の御名によって祝福します。

 

 

2006年9月3日    「失望に対する対策」   ピリピ4:4〜7

私たちは失望すると本当に大きな問題を起します。失望というものは失望だけで終わるのではなく、失望は怒りに、怒りは自己憐憫になり、ついにはうつになります。うつ病は癌よりももっと恐いものです。これにかかると家庭が、人間関係が破壊され、事業が破壊されます。本人はもとより周りの人々も地獄のような苦しみを味わいます。うつは周期的にやってくるのですが、私たちが対策を立てると必ず癒されます。ではその対策とは何でしょうか。

1.すべてのことに感謝する生活です。

失望や怒りにうち勝つには、すべてのことに感謝することです。@過去に対して恵みを数えながら感謝する A現在に対しての失望と怒りに対して感謝する Bすべてが益になるからとすべてのことに感謝する。このように感謝を決心すると、神様はすべてよみがえらせてくださり、マイナスをプラスにしてくださいます。現在失望することがあっても、これがすべて変わって益になるのだと信じれば、失望に打ち勝ちことができます。

2.永遠に変わらない人生の目的を持つことです。

この世の中にある目標というものは全部変わってしまいます。だから失望するのです。例え、地位、権力を得ていても失望するのです。お金さえあればと思っても、限度を越えるとお金の感覚がなくなり、どんなにお金をもうけても、やがてむなしくなります。この世の子育てが目標だった人は子どもが大きくなり、その目標が無くなってしまうと、むなしさだけが残ります。永遠に変わらない目標はイエス様を信じて、永遠のいのちが与えられ、永遠の御国のために生きることです。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」(Tコリント10:31)このように私たちが何事も神の栄光を現わすためにすれば、私たちは失望することはありません。この世の中に私たちは偶然生まれたのではなく、目的があって生まれました。神様の子どもとして生まれ、神に栄光をかえしながら永遠の神の御国へ行くのです。

3.無条件の愛の体験です。

私たちは神様の形に造られました。神は愛です。愛され、愛することによってすべての失望に打ち勝つことができます。しかしこの世の愛は全部条件付きの愛です。だから私たちはこの世の愛で泣いたり絶望したりするのです。しかし神様が与えられる愛を体験すれば、絶対失望することはありません。主はありのままの私を愛し、十字架の愛で愛してくださるのです。私たちはイエス・キリストの十字架から私たちに叫んでいる愛の言葉を聞かなければなりません。“あなたが悔い改めた罪は赦された。あなたは祝福される。あなたは永遠のいのちがある。あなたは癒される。”という声を私たちが聞く時、私たちは勝利します。しかし、この世の価値観やこの世の声を聞くと、私たちは落胆し、絶望して倒れてしまいます。ですからこの世の言葉に耳を貸してはいけません。イエス様が十字架上で私たちを無条件の愛で愛してくださった言葉に私たちは、耳を傾けなければなりません。私たちが失望に打ち勝って勝利の人生を歩くことができますように、主の御名によって祝福します。

 

 

2006827日 『神様の御心を知る方法』 士師記63640

 私たちが何かしようとする時、これは神様が私に願っておられるか、私たちに対する目的に添ったものであるか、ということを知ることがとても重要です。これを知っていると、私たちは人生を浪費しないし、さまようことなくまっすぐに行くことができます。神様は私たちにご自分の御心を教えてくださって、そのように神様の御心をなしとげるようにしてくださいます。

1.      御霊によって神様の御心を知らせます。

神様はイエスキリストを信じる人々の中に聖霊様を送ってくださいました。ローマ814に「神の御霊に導かれる人はだれでも神の子どもです。」とあります。私たちは神様の子どもであって神様の御霊が私たちを導きます。だから神様が私たちを絶対導いてくださると信仰を持ちましょう。そして神様は私たちを人格的に導きます。人格ということは自制、感情、意志です。私たちが理性を全部捨てた後、漠然とした状態で現われるものが聖霊だと思っては大きな間違いです。霊には聖霊、悪霊、自分の霊があります。悪霊や自分の霊にだまされる場合があります。しかし、聖霊様はみ言葉によって私たちに語ってくださり、私たちにいつも自制を働かせてくださいます。また感情は私たちの中で何か新しい仕事をしようとする時、それが神様の御心であれば喜びと平安が湧き出ます。しかし、神様の御心でないものは祈れば祈るほどそれが消えてしまい、不安になります。また、聖霊様は意志を持っておられるので、神様は私たちの意志を用いられます。パウロがアジアの東の方向に行こうとしたとき、それを聖霊様が許しませんでした。それで彼が西方向へ行ったとき、彼には繁栄と栄えがあり、行く先々で祝福されました。このように神様は私たちにご自分の意志を見せてくださって、それに従う人を祝福してくださいます。神様はこのようにどんな苦しみの環境の中でも出来るという意志を強くして導いてくださいます。

2.      聖霊様が語ってくださったものをみ言葉によって検証しなければなりません

私たちの中で喜びや平安、また確信があったとしても次の3つの聖霊の原理に従っていかなければなりません。@十戒に照らすこと。十戒は鏡です。鏡に照らして私たちがして良いことか、してはならない事かがはっきりわかるようになります。A十字架の福音に照らすこと。イエスキリストの十字架の福音を通して罪の赦し、聖霊充満、癒しと永遠の命が与えることが神様の御心です。Bイエスキリストの再臨とイスラエルの回復です。神様の歴史は、いつも神様の計画にあってすべて順序良く動きます。異邦人の数が満たされて、イスラエルが民族的に救われることが主の定めです。だから今はアジアの時代です。私たちは神様の御心の方向性を知る為に重要なことは、イエス様が再臨されるイスラエルの方向を私たちがいつも見て、その方向に主の御心がなるように動かなければなりません。

3.      環境の導きを受けるために忍耐しながら祈らなければなりません。

神様はすべてを時によって導かれます。神様の定めの時があります。神様がよしとされるその時まで忍耐しなければなりません。だから私たちは自分の時、自分の考えを捨てて、神様の時を待ち望み、祈らなければなりません。私たちは当教会が日本一千万人救霊の突破口となるために祈ってきました。今度、108日〜11日まで東京で聖霊宣教大会があります。皆さん、私たちは40日間のリレー断食をしながら日本一千万人救霊のために祈りつづけましょう。神様は祈る人を必ずイスラエルの方向に導いて下さいます。

 

 2006年8月20日「み言葉を口ずさむ祝福」  ヨシュア記1:8

 ひとつの思いを集中して口ずさみ、繰り返し繰り返し考えると、これが大きなエネルギーになります。これが私たちの無意識の中に入り、これが大きな波長になっていくのです。どんどんその考えが大きくなってやがて宇宙を動かすようになるのです。神様は私たちに思いを持って来られました。ひとつの大きな思いです。それはイエス・キリストの十字架の思いでした。イエス様の十字架を通して私たちのすべての罪をイエス様に背負わせ、葬って、イエス様を新しくよみがえらせる作戦でした。それでその思いが実現され、神様が人間となって来られました。イエス様と同じ波長を持った人を呼びました。アベル、ノア、ダビデ、私たちであります。私たちが神様のみ言葉を思うと、神様の思いが私たちの思いになります。

1.神様のみ言葉を口ずさむことと祈りの関係。

神様の願い、ビジョンはみ言葉の中にあります。そのみ言葉を口ずさむと祈りによってそのみ言葉が私たちのものになります。“捜しなさい”“たたきなさい”そのように祈ることを主が願っておられます。「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のたちめに砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:5)このように神様の願いは私たちがいやされることです。御霊によって私たちの中にみ言葉を刻んでくださるのです。私たちの願いが神様の願いと違って利己主義的な汚れた思いであれば、私たちが悔い改め、洗わなければなりません。神様の考えを私たちが持っていると神様の考えが私たちの中で実を結ぶことになります。神様のビジョンが私のビジョンになることが私の祈りにならなければなりません。

 2.神様のみ言葉を行うためには信じることと告白することです。

  神様のみ言葉を聖霊様が持って来られて、私たちの中に刻んでくださいます。刻む

ということは、信じるということです。聖霊様は、私たちに神様のみ言葉を信仰によって私たちに刻んでくださいます。天地万物を創造されたのはみ言葉によってでした。私たちがどんなに小さい人であっても神様のみ言葉を持っていると、天地万物が動かされます。私たちも神様を信じて問題の山に向って“動いて、海にはいれ”と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、その通りになります。

3.み言葉を口ずさむと繁栄し、栄えることができます。

繁栄と栄えがみ言葉を口ずさむ人にはついてきます。神様が私たちを通して祝福を分け与える理由は、神様の御心が成就されるためです。ヨシュアが繁栄したのはカナンを征服するためでした。このように私たちが繁栄し、栄えるのは神様の目的が成就されるためです。

4.み言葉を口ずさむとどうして繁栄するのでしょうか。

それは神様のみ言葉によって私たちの人格が変わるからです。神様の品性が私たちの人格になるからです。だからいつも繁栄と祝福がその人についてくるのです。どこに行っても繁栄し栄えるのです。ヨセフはポティパルの家にいても、牢の中にいても、エジプトの総理大臣の仕事をしている時にも、いつも彼には繁栄がついてきました。私たちが神様と同じ夢とビジョンを持っていると、繁栄と祝福が私たちについてくるのです。これが神様の真理です。いつもみ言葉を口ずさむことによって、繁栄と祝福が私たちのものになりますように、主の御名によって祝福します。

 

 


 2006年8月13日  「目的が導く人生」  ピリピ3:12〜14

私たちが生きる意味と目的を知って歩む人生は、まるでレーザー光線が光を一つの焦点に集めると、ものすごい力を発揮するように、私たちの人生も少しもさ迷うことなく真っ直ぐに進むことができます。パウロは「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」(本文14節)と言いました。

1.私たちは偶然生まれた者ではありません。

私たちは偶然生まれたのではありません。両親は私たちを計画していなかったかもしれませんが、神様は私たちを計画して私たちを組み立ててくださいました。人種、皮膚の色、また私たちが生まれる場所も住む場所も全部神様が決めておられました。私たちが生まれる永遠の昔から神様によって計画されました。「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」(エペソ1:4)神様は私たちを十字架の愛のうちに選び、十字架の血潮によって聖く、傷のない者にしてくださいました。

2.神様の目的に導かれる時、私たちの人生は幸せになります。

人間が目標を立ててその野望が成就したとしても、また成功したとしても、その人の心の中が満たされるかというと、そうではありません。神様の目的に導かれないならば、その人がどんなに成功したとしても結局のところ、すべてがむなしいのです。聖書に出てくるソロモンは大金持ちで欲しい物は全部手に入れ、贅沢の限りを尽くしましたが、「空の空、すべては空。」(伝道の書1:2)このようにそのむなしさを表現しました。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(伝道の書12:13)神様の目的に導かれる時、どんなに小さいことでも大きいことでも満たされる思いをもって生きることができるのです。

3.人間の創造の目的は、創造主の栄光を礼拝することです。

神様の臨在、神様の聖さ、愛、すべてが栄光です。神様は三位一体の神様です。御子は神の栄光の輝きであり、また聖霊様も主の栄光なる輝きです。このような方が私たちを栄光の座に呼んでくださいました。「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のためにわたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」(イザヤ43:7)私たち人間はどんな位置に造られたのでしょうか。神様に礼拝を捧げる位置に造られました。だから私たちが神様を礼拝する時、神様は喜んでおられるのです。礼拝とは、神様を愛すること、感謝すること、喜ぶことであります。その礼拝対象のようになりたいということであります。皆さん今、日本はお盆の時期です。先祖が死んだらどんな人でも仏様になるという死者崇拝が日本を支配しています。お盆は人間が神様の位置に座って、神になっているのです。その欲望の中では、神の栄光も喜びもありません。神様は嘆いておられます。私たちは被造物ですから拝まれる立場に立ってはいけません。靖国神社の参拝が今、問題になっています。戦争を起した人々が死んで神としてまつられている所を拝むということは、戦争を起した人のように自分もなりたいということです。偶像礼拝をした結果は、いつも悲惨な戦争でした。お互いが高慢になって殺し合うことでした。皆さん、自己中心的な自分の目標、自分の快楽、欲望を殺して十字架にくぎづけないと、私たちの中でイエス・キリストの実を結ぶことはできません。私たちが自分を否認して、神様の目的を自分の目的にすると、イエス・キリストが私たちの中でよみがえり、実を結ぶのであります。この実を持って私たちは天国へ行くのであります。     

 

2006年8月6日      「主の喜びの年の布告」    ルカ4:17〜19

 イエス様がご自分の育ったナザレに行き、公の働きを始められた時、今日の本文のように宣告されました。イスラエルの民は第50年目を聖別し、国中のすべての住民は解放され、自由を得ました。人々はそれぞれ自分の所有地に帰ることができ、すべての金銭的な財務が全部免除されました。イエス様は公生涯の初めに、このように主の喜びの年を布告されました。

 1.喜びの年は神様の民の自由宣言でした。

 神様は「あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。」 (レビ記25:10)と言われました。神様はイスラエルの民に自由を与えるためにエジプトから救い出し、神様に仕えるようにされました。私たちも教会で礼拝を捧げるための色々な制約から解放され、自由を得ました。礼拝を通して、み言葉と聖霊が臨まれ、私たちに信仰と祝福を与えてくださるのです。

2.ヨベルの年の内容。

@貧しい人々に福音を伝えることでした。貧しくて自分のすべてを失った人々はヨベルの年になると元に戻るように、イエス様は私たちにエデンの園の富を戻してくださいました。この福音を受け入れた人や国は祝福されました。しかし、福音がない偶像崇拝者たちにはいつも貧富の問題がありました。例えば、豊かな石油産出国であっても数人の支配層以外はほとんどの国民は貧しいし、結婚もできない状態です。神様を知らず、偶像崇拝をする人々は神様からの知恵がないので、お金があれば放蕩するし、贅沢して全部使ってしまいます。国家も同じです。しかし、イエス様を信じる人は少ない財産であっても、そこに神様が共におられ、真の豊かさを味わうのです。神様の事業のために働き、神様の御国の建設のために奉仕する時、後の財産として神の国に宝を積むことになります。この世の中でも神様が1000倍祝福してくださいます。A病気をいやしてくださいました。Bすべての圧迫から解放してくださいました。神社参拝を強要したり、クリスチャンとして生活できなかった一人一人がそこから解放されるのです。神様が私たちに自由を与えられたのは、私たちが神様に仕えるためであります。C聖霊様によって見えない所を見えるようにしてくださり、悪魔の働きを分別し、追い出すようにしてくださいました。D罪、死、審判から私たちを救い出し、解放してくださいました。罪の報酬は死です。死んだ後で審判があります。そういったすべての所からイエス様は私たちを解放してくださいました。イエス様の中にいる者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)

3.角笛を鳴らす時に、喜びの年は来ました。

角笛を吹き鳴らす時に、私たちはヨベルの年だということが分ります。角笛ということは、十字架で死んでくださった子羊の角であります。この角笛の福音は、私たちに自由と解放を与えてくださいます。角笛を吹き鳴らす時、私たちは心の中で、“私は自由だ。解放されたんだ。元に戻れるのだ。”という信仰が与えられます。ですから、私たちは全土にヨベルの年の角笛を吹き鳴らさなければなりません。“あなたは解放されました。あなたは神様が用意した所に戻りなさい。アブラハムの祝福はあなたのものです。あなたはいやされました。”という福音を私たちは伝えなければなりません。映画“ナルニア国物語”でイエス・キリストを意味する獅子がよみがえって、魔女によって氷になった人々に触ると、氷が溶けて人々は解放されました。解放された人々が次々に触ると人々はいやされました。このようなことが私たちの教会でも起ります。さあ、今こそヨベルの年の角笛を吹き鳴らしましょう。人々が解放されるように主の御名によって祝福します。

2006年7月30日      「 自 制 」  Tテモテ4:7〜8

神様は私たちに本能を与えてくださいました。本能を神様が願っておられる所に使うと神様の御心がなります。しかし本能を間違った所に使ってしまったらその本能によって堕落の道が死の道に至るのであります。堕落した人間の本能はサタンの誘惑によって道が広くなりました。聖書には「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見い出す者はまれです。」(マタイ7:13〜14)と記されています。しかし神様の御言葉だけの道を私たちが行くためには自制が必要です。神様は狭い門から入りなさいと言われますが、堕落してたくさんの広い道を味わった人にはそれは本当にむずかしいことです。私たち人間にはできないことを神様は出来るようにしてくださいます。なぜなら神様からの自制が与えられるからです。

1.自制はエデンの園の戒めでした。

神様はエデンの園の中で命の木の実を本能で食べるようにしてくださいました。しかし、善悪の知識の木の実を取って食べてはならないと言われました。それは制限された自由でした。これは神様が私たちを愛するが故に言われた言葉でした。しかし、人間はサタンの誘惑に落ちてそれを食べてしまいました。それから女性には子どもを産む苦しみが、男性には本当に血だらけになるような苦しみが始まりました。私たちとって神様のみ言葉に従順し、神様のみ言葉を守ることは知恵であり、命であります。

2.自制は敬虔の鍛錬の実です。

鍛錬ということは毎日毎日同じことを繰り返しすることを言います。同じ思いを毎日抱くこと、すなわちイエス・キリストのみ言葉を毎日抱くと私たちからイエス・キリストの実が現われるのです。しかし汚ない思いを抱くと、汚ないものが現われるのです。卵を抱くと鶏が生まれるし、まむしの卵を抱くとまむしが出てきます。憎しみを抱くと殺人したくなり、情欲を抱くと姦淫するようになります。何を抱くかということがとても重要です。悪い思いに対して私たちは“サタン、さがれ”と言わなければなりません。しかしこの悪い思いを抱き続けると、それは私たちの責任になります。心の中で抱くものが命にもなれば、死ともなるのです。ですから「力の限り、見張って、あなたの心を守れ。いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:23)と書かれています。私たちの心の中で間違った思いが入らないように、見ること、聞くことに気をつけなければなりません。

3.自制は勝利の道です。

スポーツ選手は冠やメダルを獲得するために、厳しい訓練を受けます。訓練、鍛錬には

自制が伴います。使徒パウロは毎日自分に死ぬと言いました。本能をいつも殺すことを意味します。そうすると、毎日イエス・キリストがパウロの中で生きたのであります。イエス様はサタンに打ち勝ちました。サタンの誘惑に対してイエス様は聖霊に満たされ、み言葉によっていつも誘惑を退けました。み言葉に書いてある通りにいつも行こうとしました。それが勝利の道であります。イエス様はサタンの誘惑に対して、み言葉を使って宣言されました。私たちはそれが神様からのものか、そうではないかをいつも吟味すべきであります。聖霊充満はみ言葉充満であり、み言葉に従順することです。私たちはこれが神様に栄光を帰すものか、聖書に書かれてあるものかどうかをいつも考えるべきです。「すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。」(Tコリント10:23)私たちはみ言葉と聖霊に従って、いつも狭い門、いのちの門に行かなければなりません。自由奔放の本能に従って行動すると、ついには死の道に至ります。私たちはいつも本能を使って主のみ言葉に従うべきであります。


 2006年7月23日      「御言葉の力」         ヘブル4:12

神様は御言葉です。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。」(ヨハネ1:1〜2)神様は私たちに御言葉として現われ、御言葉を通して私たちに語ってくださいます。

1. 神様の御言葉は全能の力があります。

「神にとって不可能なことは一つもありません。」(ルカ1:37)とあるように、神様は全能な方なので、全能の力があります。神様の御言葉は永遠に変わることはありません。神様の御言葉によってすべての天地万物は創造されました。目に見えるものは、神様の目に見えない御言葉から創造されました。無から有が造られ、また目に見える世界のすべてのものは御言葉によって維持されているのです。ですから私たちの口から出る言葉に注意しなければなりません。この言葉によって私たちの未来が創造され、決定されるからです。御言葉によって私たちはすべてが守られ、平安と秩序をもって生活することができます。御言葉はこのように全能の力があります。

2.神様の御言葉は救いの力があります。

まず神様は私たちの魂が霊的に救われることを願っておられます。それは私たちが永遠の命を持つことであり、永遠の命とは神様の御言葉を信じて生活することを意味します。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)と記されています。以前私たちは自分の哲学、自分の世界がありました。しかし、私たちは御言葉によってそれらの物を捨てることができます。“神の言葉は生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄とを手術する。”と今日の本文にあります。御言葉は私たちの心のいろいろな考えも手術します。神様の御言葉が私たちの中に入ると、不安な心が平安に変わるのです。御言葉が不安材料となるすべての考えを切り取り、手術してしまうからです。悪い考え、淫乱の考え、盗もうとする考え、うそつきなどの悪霊を聖霊の御言葉が入って、手術して悪霊を追い出してしまうのです。神様の御言葉にはこのように悪霊を追い出し、聖める働きがあります。また私たちの体をもいやしてくださいます。御言葉を聞いて私たちの中に受け入れることがとても大切です。御言葉を受け入れることはイエス・キリストを受け入れることです。イエス・キリストを受け入れることは御言葉を受け入れることであり、聖霊を受け入れることです。「主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。」(詩篇107:20)神様は私たちをいやす時にも救ってくださる時にもいつも御言葉を送られます。

3.私たちは謙遜にへりくだって神様の御言葉を求めなければなりません。

神様はたかぶっている人を好まれません。謙遜にへりくだって求めると神様は私たちに信仰を与えてくださいます。信仰というのは恵みであり、神様からのプレゼントです。私たちがへりくだって神様の御言葉を待ち望むと、神様が御言葉を与えてくださいます。そして、神様の御言葉をへりくだって受け取る時、私たちはアーメンと言います。“そうです。その通りです。信じます。”ということです。そういう人に神様はいつも御言葉の奇跡を与えてくださいます。神様は自分の意見ばかり言っている人とは一緒に働くことはできません。自分の考えを捨てて、神様の御言葉に従順する人、ペテロやナーマン将軍のように自分を捨てて神様の御言葉にアーメンして従順する人に、いつも神様は奇跡を与えてくださいます。御言葉によって皆さんの人生が魂が恵まれ、すべてに恵まれ、健やかになります


  2006年7月16日   「幸いな信仰生活」  詩篇23:1〜6

信仰生活には幸いな信仰生活もあれば、幸いでない信仰生活もあります。ダビデは幸いな信仰生活を詩篇23篇で表現しました。神様はダビデを私の心にふさわしい人だと言われました。今日はダビデの信仰について考えてみましょう。

1.乏しいことがありませんという信仰でした。

ダビデはいつも「主は私の羊飼い。」と告白しました。私のために死んでくださったほど私を愛してくださった全能者が私の羊飼いですので、「私は乏しいことがありません。」との意識をダビデはいつも持っていました。私たちの心の中でもそのような意識を持つことがとても重要です。貧しさ意識、絶望感、挫折感、敗北感をずっと持ち続けると、神様が私たちの中で働くことができません。「主が私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴なわれます。主は私の魂を生き返らせ、御名のために私を義の道に導かれます。」そのような信仰告白がダビデの幸いな信仰生活でした。

2.わざわいを恐れない信仰生活でした。

わざわいということは罰を受けたという意識なのですが、神様は私たちにわざわいを与えません。私たちのために十字架につけられたイエス様は私たちのわざわいを全部引き受けてくださいました。私たちにはアブラハムの祝福だけがあります。しかし私たちは自己中心的になったり、また情欲におぼれて死の影の谷を歩くこともあります。私たちが死の影の所に行く理由は、誘惑に落ちて行くのです。死の影というのは、天国と反対のことです。この天国は御霊によって義、喜び、平安です。しかし地獄はこれと反対にサタンによって不義と不安といらいらです。それでも「私はわざわいを恐れません。神様が私と共におられますから。神様のむちと神様の杖が私の慰めです。」とダビデは告白しました。人々は悪いことが起るとわざわいを受けたと言うのですが、神様は私たちを捨てるようなわざわいはされません。「私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。」(詩篇139:7〜8)神様が私たちを子どもとして扱っておられるので、神様からの愛のむちはあるけれどもわざわいはありません。だから主に責められて弱り果ててはならないと言われます。弱った手と衰えたひざをまっすぐにしなさいと言われます。私たちはわざわいを受ける人々ではありません。わざわいは終りました。私たちにはただ神様の関心である愛のむちと杖をくださいます。

3.祝福の信仰。

「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでください

ます。私の杯は、あふれています。」敵というのはサタンのことです。サタンの前で主が私のために聖餐を備えてくださいます。罪の赦しや癒しや祝福の聖餐の食べ物を与えて下さいます。聖霊の油を注いでくださいます。旧約の時代には、王や預言者や祭司のような特別の人に油を注ぎました。“あなたは私の特別な存在なのだよ。”と言って油を注いでくださり、敵の前で私を祝福してくださるのです。私たちは神様を賛美し、また賛美を指揮する者にしてくださいました。主と共に歩めば、いつくしみと恵みとが追ってくる信仰生活をすることができるのです。そして永遠の家に行くまで私たちの一生を守り、祝福してくださいます。

 

2006年7月2日  「いやしのイエス様」 マタイ4:23〜25

イエス様はこの世に来られて公生涯の3分の2を病人をいやすために働かれました。聖書には神様はいやし主だと書かれています。ですから私たちはイエス・キリストの福音を信じることだけではなく、いやし主イエス様と出会わなければなりません。

1.病気の原因。

エデンの園には病気はありませんでした。しかし、人間は神様から離れた結果、病気が生じました。ですから病気の原因は、イエス様から離れて罪意識で苦しんでいる人が病気にかかるケースが多くあります。「あなたがたは、互いのために罪を言い表しなさい。いやされるためです。」(ヤコブ5:16)と言われます。イエス様は中風の人が近づくのを見て「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われました。このようにいやしと罪の赦しはお金の両面のように表、裏の関係にあります。また罪責感ではなく神様の御業を現わすための病気もあります。生まれつき目が見えない人に弟子たちがどうして目が見えないかを尋ねた時、イエス様は「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」(ヨハネ9:3)と答えました。また病気の原因として、節制のない食べ方や怒ったり激しい言葉を言ったりする悪い習慣があります。神様に栄光を帰さない口が病気の原因になることがあります。

2.病気になった人がするべきこと。

病気になった理由が何であれ、自分勝手な生活だったことを悟って、いやし主イエス様を信じることです。「イエス様は私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって私たちはいやされた。」(イザヤ53:5)罪責感はこの御言葉を告白することによって、赦されます。心の中で平安がない時に、イエス様が懲らしめられたことを信じて平安を持つこと、また、打たれた傷によっていやされたことを信じることです。皆さんと私の病気は2000年前、いやされたことが真理です。そのことを信じるといやされます。イエス様は私の全人格をいやしてくださいます。イエス様は私たちの魂を血潮で洗って聖霊で満たしてくださり、心をいやし、また、体をいやしてくださいます。

3.健康的な生活。

 病気になる生活があるし、病気にならない生活があります。病気にならない生活とはイエス様を信じて、信仰生活をすることです。聖い生活をすることによって、私たちは本当に健康になります。御霊がおられる聖い生活の所には天国があります。しかし、肉的な汚ない生活をすると、瞬間的な快楽はあるかもしれませんが、その後に来る罪責感は地獄です。聖霊様を求める生活には神様の愛、喜び、平安があります。愛の中でその人は本当に健康になります。「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。」(箴言17:22)と言われる通りです。ストレス社会の中で平安を保つことはとても重要です。また人を赦す寛容な心と自制(セルフコントロール)が必要です。私たちは安息を時々とりながら、この世の中で信仰生活をしていくことです。罪の思いや悪い行いにひたるのではなく、すぐ悔い改めて、神様と和解し、人と和解することです。神様をいつも自分の前に置いて、神様を愛し、喜び、神様から安らぎを受ける生活が健康的な生活です。「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」(第1テサロニケ5:16〜18)どんなに痛みがあっても感謝しましょう。痛みつける人や痛みを与える病気に対しても喜びを失わないで感謝しましょう。イエス様を思い出して感謝するとすべてに打ち勝って健やかな生活をすることができます。


2006年6月25日  「主の手紙」      Uコリント3:1〜4

 神様が私たち人間を愛して手紙を送って下さいました。その手紙が聖書であります。聖書は神様からの私たちを愛するという手紙であります。

1.神様が贈られた最初の手紙。

初めて人間に伝えた手紙はモーセがシナイ山で頂いた十戒と幕屋でした。「こうして主はシナイ山でモーセと語り終えられた時、あかしの板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられた。」(出エジプト31:18)神様が直接書かれたのであります。これが1から10の戒め、すなわち十戒であります。この十戒とは、神様が私たちを愛しておられるのに、私たちが神様からどのくらい遠く離れて暮らしているか、またそのことによってどんなに悲惨な生活をしているかを示し、だから神に帰れと言われた内容であります。幕屋は神の家の象徴であり、神の国です。十戒の完成は幕屋でした。しかし、人間は高慢になって神様が贈られた最初の手紙を破ってしまいました。

2.イエス・キリストの体で書き記された第2の神様の手紙。

「この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ1:14)と記されています。恵みとは神様の国、幕屋であり、神様が私たちを受け入れて赦してくださるという言葉であります。まことは十戒であり、神様の律法です。神様の律法によって私たちは罪人であることがはっきり分ります。それで私たちは、赦されなければ生きていけない存在であることを受け入れるのです。「悔い改めよ。神の国が近づいた」と言われるように、私たちがまことに照らされて、悔い改め、恵みに満ちた天国、幕屋に入ります。イエス様はご自分の御言葉を聞いて悔い改める人を赦してくださいました。それで永遠の神様の命を与えてくださいました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)と言われました。私たちが神様の御言葉を聞いて悔い改めると、神様の恵みと赦しと祝福で満たしてくださいます。

3.聖霊様が私たちに書き記された第3の手紙。

「彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレミヤ31:33)このように神様の律法、まことは今、私たちの心の板に書き記されています。それで神様が私の神となり、私は神様の民となりました。そして、神様は「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」と言われます。これが恵みとまことです。だから神様の律法が私たちの聖霊によって刻まれる時、神様の赦しを体験します。また、天国、幕屋を体験します。神の国はあちらこちらにあるのではなく、私たちの中にあるのです。天国は御霊によって義、喜び、平安です。私たちはいつも神様の御言葉の前で正直にならなければなりません。私たちは永遠に滅ぼされるべき者でした。永遠に地獄に落ちるべき者でした。そんな私をイエス様が十字架で身代わりとなって死んでくださって罪を赦してくださいました。これを私たちがいつも証しする手紙とならなければなりません。神様が恵んでくださった物をもって自分を自慢したりしてはいけません。私たちが自慢すべき方は、私たちのためにご自身を十字架につけてくださったイエス・キリストです。イエス・キリストを私たちがのべ伝え、イエス・キリストを証しする、そのような恵みとまことに満ちた主の手紙となるように主の御名によって祝福します。

 

2006年6月11日   「イサクの祝福」  創世記26:1〜5

 アブラハムの息子イサクは祝福された人でした。すべて悪条件を越えて祝福された人です。彼は飢饉に会い、ペリシテ人の所に行って険しい所をゆずってもらいました。そしてそこに住みました。悪条件にもかかわらずイサクがそこで種をまいて100倍を刈り取りました。その秘訣はどこにあるのでしょうか。

1.イサクの信仰は神様に根ざしていました。

神様のみ言葉を信じて、彼はどんな環境の中でもその環境によって信仰がゆり動かされることなく、神様だけを信じました。彼は神様に根ざしたからです。「キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおりに信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。」(コロサイ2:7)彼は飢饉にも感謝しました。岩地の悪い土地を与えられても感謝しました。環境が悪いにもかかわらず彼は神様が乳と蜜の流れる地にしてくださると信じました。そして信じた通りになりました。どんな環境の中にあっても神様は私を必ず祝福してくださると信じなければなりません。神様は環境を越えて祝福してくださる良き神様です。

2.イサクは神様を仰ぎ見てビジョンを抱きました。

環境ばかり見ていると問題が山のように大きくなり、問題に押しつぶされそうになります。しかし、神様を仰ぎ見るとビジョンが生じます。環境よりはるかに大きいイエス様に目を注ぐと神様の恵みが環境を越えるのです。私たちは問題にあっても神様を仰ぎ見ると夢が生じるのです。イサクのように今、問題にあって奪われても、結局神様のみ言葉通りになると信じるのです。イサクは中東の砂漠で生死にかかわる井戸の問題がありましたが、ペリシテ人から3回奪われたにもかかわらず、彼は行く先々で神様の祝福を受けました。この井戸が結局神様が言われた通りにアブラハムの子孫のものになることを信じたので、彼は余裕をもって生活しました。豊かな祝福を受けていることを見て、ペリシテ人は契約を結ぼうとしました。これが神様が現わす栄光の方法であります。私たちの思いと神様の思いははるかに違うのです。天が地よりも高いように私たちの道と神様の道は違うのです。神様は問題を通してでも祝福してくださる方です。

3.イサクは神様を信じ、信仰の種を蒔きました。

イサクはペリシテ人が住んでいる危険な所、すなわち愛する妻を奪われるような所に滞在しました。そのような所で種を蒔くということは、神様が約束したそのみ言葉をイサクが信じたからです。「あなたはこの地に滞在しなさい。わたしはあなたを祝福しよう。」それで信仰の表現として彼は岩地のような所で種を蒔きました。その結果イサクは100倍を刈り取ることができました。日本は岩地であり、宣教師の墓だと言われています。しかし、私たちは神様を信じて今こそ信仰の種、福音の種を蒔く時期であります。神様はこの日本に100倍のリバイバルを起してくださいます。涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取るのです。私たちは旅人のように、この世にしばらく滞在して去っていく者ですが、神様はこの所で100倍祝福してくださいます。なぜならイエス様を信じない人がクリスチャンを見て、イエス様と契約を結び、イエス様を信じるようになるためであります。皆さん、今こそ日本は福音の種を蒔く時です。時が良くても悪くても福音をのべ伝えましょう。種を蒔く者は神様が必ず100倍の祝福で満たしてくださいます。


 2006年6月4日 「聖霊を受けなさい」   使徒2:1〜4

 イエス様を救い主として受け入れた弟子たちに、よみがえられたイエス様は“聖霊を受けなさい”と言われました。この言葉の意味は“聖霊のバプテスマを受けなさい”と言うことでした。彼らはペンテコステの日に聖霊を受けて、出て行って福音をのべ伝えました。すると一度に3千名が救われる奇蹟が起りました。聖霊様は私たちに証の力を与えてくださいました。

 1.聖霊様は激しい風のように臨んでくださいました。

風はギリシャ語でフニューマと言い、呼吸、霊と同じ意味を持っています。神様は土地のちりで人を形造り、その鼻に命の息を吹き込まれました。そこで人は生きものとなりました。このように神様は聖霊の風として私たちに命を与えるのです。私たちの心の中の罪悪感、病、悲しみ、絶望感、そういったものはイエス・キリストの十字架の恵みを伝える聖霊様の風によって赦し、いやし、永遠の命で心が満たされます。聖霊様が臨んでくださると赦しやいやしが広がり、教会は活発に伝道するようになります。聖霊様は証の力を私たちに与えるからです。日本一千万人救霊ということは教会が聖霊を受けてのべ伝える時できるようになります。

2.聖霊様は炎のように下って来られました。

聖書を見ると、神様はよく火の中で主の臨在を現わされました。モーセは柴の中で炎が燃えている不思議な光景を見ました。柴の中から“モーセ、モーセ”と神様の声がしました。そして、燃えている場所は聖なる地だから足のくつを脱げと言われました。希望、夢、気力、すべてを失って無名の羊飼いをしていた、まるで柴のような80才のモーセに、神様は柴の中で炎として臨在され、彼を呼ばれました。主の声に従って、モーセは強国エジプトで最高の軍隊を持っているパロ王に打ち勝ち、エジプトの国家を屈伏させました。神様の力がモーセの言葉と共にいつも現われたからです。私たちも柴のように何の変わり映えもしない人生ですが、そこに聖霊様が炎のように下って来られると、私たちに主の声があるのです。そして、私たちから神様のみ言葉であるビジョンが語られるようになります。

3.聖霊様は新しい言葉、他国の言葉として来られました。

聖霊様は生きておられる神様、人格者です。マルコの部屋で弟子たちが集まっていた時、聖霊様の声を聞きました。信仰の声、希望の声、愛の声によって彼らは慰められ、勇気づけられました。聖霊様は力ある主の御業の言葉を語ってくださいます。イエス様の十字架の言葉はイエス様が私たちのために十字架につけられ、よみがえられたということを語ってくださり、私たちを慰め励ましてくださいます。愛と喜びと平安で満たしてくださいます。聖霊様といつも交わってください。私の思いと口の言葉が聖霊様の思いと口の言葉になり、主に喜ばれるように絶えず祈る生活が必要です。私たちのふだんの思いが祈りです。聖霊充満ということはイエス様の思いで満たされ、充満になることです。日本は米がないから飢饉ではなく、水がないから飢饉ではありません。神様の命のみ言葉がないから飢饉なのです。それで毎年3万人以上の人々が自殺しています。私たちが命を与える主のみ言葉で満たされ、聖霊充満になることです。そして、聖霊様が話させてくださる通りにみ言葉であるイエス・キリストを伝えなければなりません。その時、死ぬべき人が生き返るのです。聖霊様が私たちと共におられるので、私たちもイエス様と同じことができるのです。また、それ以上のことも聖霊様が私たちを通してしてくださり、日本一千万人救霊を早めてくださいます。


2006年5月28日         「御国の福音」         マタイ24:14

この御国の福音は全世界にのべ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから終わりの日が来ます。私たちはイエス・キリストの再臨の日まで御国の福音をのべ伝えなければなりません。御国の福音とは何でしょうか。

1.父なる神様の福音。

私たちが信じてのべ伝えなければならないものは、天地創造の福音です。神様が天地万物をすべて造られたということです。私たちがそれを信じる時、私たちは人間らしい、神様が造られた本来の目的の生活ができるのです。アメバーから人間が偶然に造られ進化したとして、命を軽くみて罪を犯す人々が多勢います。「初めに、神が天と地を創造した。」と聖書に書いてあります。偶然に生まれたということは進化論者たちの主張です。アメバーがどんどん進化して猿になって、猿が人間になったというのです。しかし、進化論者たちがこのことを疑い始めました。中間の化石が発見されないからです。又、遺伝工学、生命工学の分野で研究すればするほどすべてが偶然ではなくて、設計者があると分りました。その設計者をSomething Greatだと彼らが認め始めました。神様がすべてを造り、支配し、歴史を動かしておられるのです。歴史とは神様の救いの歴史であり、His Storyです。神様はイエス・キリストをこの世に送るためにイスラエルを選び、アブラハムを選びました。そしてアブラハムの子孫を通してたくさんの人々を救ったのであります。アブラハムに約束された通り、人口が海辺の砂のように多くなりました。異邦人の数が満たされたら、イスラエルの民族は全員救われるのです。これが神様の創造の福音であります。

2.ひとり子イエス・キリストの福音。

人間はサタンの誘惑に落ちて罪を犯してしまいました。人間をあわれんで救ってくださるためにイエス様が来られました。イエス様は完全なる神様、完全な人間として来られました。これは神秘であり、神様の奥義です。イエス様は乙女マリヤより生まれました。罪なき体としてお生まれになって、私たちの罪を背負って十字架でいけにえになってくださいました。誰でもイエス様を信じるものは救われ、神様の子どもとされます。イエス・キリストの福音を妨害するために、サタンはダヴィンチコードの本や映画を通して惑わそうとするのです。私たちはこ世の終わりに惑わされないように気をつけなければなりません。イエス様が十字架で苦しんで私たちをあがなってくださったことを信じる者は罪が赦され、病がいやされ、平安が与えられます。イエス様はご自分で言われた通り、すべてを成し遂げられました。再び来られると再臨を約束してくださっています。主の御国のために私たちは引越しする準備をしなければなりません。主の御国のために投資しなければなりません。主は号令と御使いのかしらの声とともに天から下って来られます。生き残っている私たちが一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようなことが私たちの時代に起ります。私たちが天に引越して、主と共に永遠に住むことになります。

3.助け主、聖霊様の福音。

聖霊様は真理の御霊です。聖霊様は霊的啓示者です。聖霊様が私たちの霊に啓示して、証してくださる時、私たちは神様の世界がよく分るのです。聖霊様が私たちに働きかけてくださると、無能なる者が有能なる者に変わり、絶望が希望に、ため息が賛美に変わります。私たちがイエス様の証人となります。聖霊様が私たちの霊に証してくださるからです。地の果てまで私たちはイエス様の証人となります。私たちは聖霊の火を受けてイエス様の証人となります。そして日本一千万人救霊のために用いられますように主の御名によって祝福します。

 


2006年5月21日「肯定的な自画像を持ちましょう」

                       民数記14:1〜9

神様は約束の神様です。その約束を誰が成就し、それを享受することができるのでしょうか。今日の本文はそれに対して教えています。約束のカナンの地に対して否定的な反応をした人々と肯定的な信仰を告白した人々との間には天と地ほど違う結果になりました。肯定的な信仰を告白した人々はカナンの地を所有することができましたが、否定的な反応をした人々は全部滅ぼされました。肯定的な信仰を持つためには、肯定的な自画像を持つことが必要です。では肯定的な自画像を持つためには、どうしたらいいでしょうか。

1.自分は神様に属しているという信仰を持たなければなりません。

人間は堕落して以来、エデンの園から追い出されて疎外感、拒絶感、断絶感という淋しさを潜在的に持っています。アダムの子孫であれば誰でもそうです。ですから人々は色々な会を作ってそこに所属しようとする傾向があります。しかし、私たちはイエス・キリストを信じることによって永遠に変わらない所属感持つことができますです。「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」(Tペテロ2:9)これらのみ言葉にあるように、私たちははっきりした所属感、安定感をもって生きることができます。

2.できるという信仰。

できるという自信感はどこから来るのでしょうか。それは御霊によってです。イエス様を信じた人々は御霊が私たちの体を神殿として私たちの所に宿って住んでおられるのです。その方は「知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊」(イザヤ11:2)なる方です。だからその御霊が神様から頂いた約束を成就するようにしてくださるのです。使徒パウロは謙遜な方でしたが、自信に満ちていました。パウロは「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」と言いました。これが肯定的な自画像であります。

3.自分を今のありのまま受け入れること。

イエス様の血潮がつけられた私たちは神様の子どもです。しかしこの地上において、不完全な者です。勿論良い所もありますが短所もたくさんあります。これを神様の目の基準で自分をありのまま受け入れることが大切です。そのことによって私も隣人を愛することができるのです。人々はこの世の基準で測ります。例えば、所有物や成就した権力、外面的なもの、自分の面子で価値判断してしまいがちです。しかし神様は私たちの値段を決める時に、イエス・キリストの値段で決めるのです。神様の基準で決めるのです。神様は喜びを持って私たちのことを楽しみ、歌っておられます。「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:17)と言われます。神様は皆さんと私を決して捨てることはありません。自己否認は自己蔑視や自己虐待ではありません。神様が見られた基準で自分を見ることです。それが隣人を愛する健全な自画像となります。健全な自画像は自分自ら全能の力があるような自画像ではありません。自分の限界を知って“主はぶどうの木、私は枝です。”と告白する自画像です。主に栄光を帰す自画像であります。皆さんが肯定的な自画像を持つことができますように、主の御名によって祝福します。



2006年5月14日「絶えず祈りなさい」Tテサロニケ5:16〜18

祈りは人間にとって本能的なものであり、霊的呼吸です。霊的に生きている人は呼吸運動を通して命を維持しているのです。神様の命を頂いて、私の苦しみや問題をはき出す、その呼吸運動です。神様はこれを絶えずしなさいと言われます。

 1.絶えず祈る時、天国をこの世で味わいます。

天国は御霊によって義、喜び、平安です。「悔い改めよ、天国が近づいた。」とイエス様は言われました。悔い改めるとはギリシャ語でメタノニアと言い、“心を変えなさい”ということです。。悔い改めの祈りを通して私たちの中にある汚れや人本主義をはき出すことができるのです。それで神様の御言葉を頂き、命を頂くのです。私たちがうめきをもって神様の前で祈ると、聖霊様がうめきをもってとりなしてくださいます。それで聖霊様が私たちに義、喜び、平安を心の中に満たしてくださり、私たちは天国をこの世で味わうことができるのです。

 2.絶えず感謝の祈りをする時、神様が栄光を受けられます。

神様が天地万物を創造された理由は、栄光を受けられるためでした。私たちを造られて本当に良かったと言われました。私たちが神様の喜びとなるのです。私たちが神様の前で不平不満をするとそれは神様の目の中の涙となります。「感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。」 (詩篇50:23)と言われました。私たちが感謝を捧げると神様の恵みがすべて私のものになります。感謝を捧げるとイエス様の十字架の救いの恵みが私たちのものになります。天地万物が感謝する人のものになります。詩篇144:1〜3でダビデは「ほむべきかな。わが岩である主。主は私の恵み、私のとりで。私のやぐら、私を救う方。私の盾。私の身の避け所。」と告白しました。神様に感謝を捧げると神様が栄光を受けられます。

 3.絶えず祈る時、私たちは聖霊の火を受けます。

 この火とは力を意味します。ギリシャ語でデュナミスと言い、ダイナマイトの語源になったものです。私たちが祈りに専念していると、神様の約束である聖霊の火を受けます。ペンテコステの日に弟子たちが祈りに専念していた時、激しい風のような響きと共に聖霊の炎を頂きました。それで彼らは力を受け、出て行って福音を伝えたところ、1度に3000名が救われ、ある時には5000名が救われました。。イエス様はこの火が私たちにつけられることを熱く願っておられるのです。絶えず祈る時、私たちは聖霊の火を受けます。

 4.絶えず私たちは隣人のためにとりなしの祈りをしなければなりません。

先に救われて聖霊を受けた私たちは預言者サムエルのように国のために、隣人のために祈らなければなりません。とりなしの祈りは国を変えます。国を救います。国がリバイバルされます。だから私たちは日本一千万人の救いのために祈らなければなりません。今からこの10年間に日本に大リバイバルが起ります。神様の奇跡的なリバイバルが起ります。すべてのパチンコ店が教会に変わります。そのすばらしい神様の御業が一日の内に、この日本を変えます。それを期待しましょう。神様は「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を超えた大いなる事を、あなたに告げよう。」(エレミヤ33:3)と言われます。


2006年5月7日        「与える者の祝福」    使徒20:35

信仰生活が無気力になって、生き生きした活力がなくなるのは、どうしてでしょうか。神様はイスラエルの地形を通してその理由を教えてくださっています。ヘルモン山から流れる水がヨルダン川へ入り、その水をガリラヤ湖に与えるのです。ガリラヤ湖はその水を下流のヨルダン川へ流し、死海に与えます。この同じヨルダン川の水を頂くガリラヤ湖は命であふれ、もう一つの死海は死んだ海となります。これは一体何を意味するのでしょうか。

1.ガリラヤ湖はヨルダン川から水を受けています。

太陽、空気、水はすべて自然の恵みです。ガリラヤ湖はヘルモン山からヨルダン川へ流れる神様の恵みの水を受けています。イエス・キリストの十字架から流れる赦し、いやし、祝福、永遠の命、これらが恵みの水なのです。

2.祝福を受けたガリラヤ湖は下流のヨルダン川へ水を与えます。

恵みの水を受けたガリラヤ湖はその水をヨルダン川へ与えます。「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。」(ルカ6:38)与えるガリラヤ湖は深さ61m長さ21km幅13kmある大きな湖であり、命であふれています。ヨルダンという名前は“下に流す”とか“相続者”という意味があります。赦しを流すと赦しが、祝福を流すと祝福が、いやしを流すといやしが、自分の物になります。永遠の命の福音を与えると永遠の命が自分の物になります。私たちは神様から頂いた物を流さなければなりません。赦しを与えると自分が赦されます。ガリラヤ湖は受けた水を下流のヨルダン川へ与えることによって、そこは命であふれました。与えると人々は量りをよくして、あふれるまでにして、ふところに入れてくれます。ふところとはガリラヤ湖の命があふれることを意味するのです。

3.惜しむことなく与える時、幸せになります。

私たちが持っている物は、すべて神様から与えられた物です。自分の物だ思って自分だけのために使う時、私たちは死海のように死んでしまうのです。信仰が死んでしまうのです。活気が死んでしまうのです。私たちはヘルモン山から流れる水は永遠に流れ、私たちに与えられるのだと信じなければなりません。私たちが与えてもまた与えられます。そしてこの与えられた霊的賜物や物質の賜物はすべて主の物だということを知らなければなりません。「みんなの益となるためには各々に御霊の現われが与えられているのです。」(Tコリント12:7)とあるように私たちは神様から頂いた物を主の名によって与えなければなりません。自分の名前によって与える時にいつもトラブルが起るのです。問題が生じるのです。だから私たちは慈善をする時にも右の手がしたことを左の手が知らないようにしなければなりません。イエス・キリストの御名によって人をいやし、御名によって何事もしなければなりません。そのためには自分を否認し、自分を十字架にくぎづけなければなりません。そうする時主からの報いが天からくるのです。「よくやった。良い忠実なしもべだ。わたしはあなたを愛する。わたしはあなたを喜ぶ。」そのような賞賛の冠が与えられます。イエス様は「わたしの名によってこれらの小さい者の一人に水一杯でも与えた者は、その報いを失うことはありません。」と言われました。神様は私たちが主イエス様の御名によってしたすべてのことに対して愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の冠を私たちに報いとして与えてくださいます。


2006年4月30日  「網いっぱいの祝福」   ルカ5:1〜11

シモンは漁に出て夜通し網をおろして働きましたが、一匹も魚がとれませんでした。彼は落胆して家に帰ろうとした時、その舟にイエス様が乗ってくださいました。網は福音を伝える教会を意味します。日本の教会は今まで長い間福音を伝えたのですが、年々クリスチャンの人口は減っていき、現在は0.17%しかない状況です。私が今回宣教に行ったインドネシアは人口2億2千万人の中で10%がクリスチャンということです。うらやましい限りです。イエス様がシモン・ペテロの舟に乗ってくださり、イエス様の言われた通りにすると、ニそうの舟に網が破れそうな程たくさんの魚がはいり、祝福されました。今日はリバイバルがどのようにして起ったのかを考えてみたいと思います。

1.イエス様が舟に乗ってくださったからです。

リバイバルは主が来られる時起るのです。よみがえりの主が舟に乗ってくださったらリバイバルが起るのです。インドネシアの舟にイエス様が乗ってくださっていろいろな奇蹟が起りました。それで10%のクリスチャン国家になりました。日本一千万人救霊も主が日本丸に乗ってくだされば簡単に達成されます。個人のリバイバルも教会、国のリバイバルもイエス様によってなされます。

2.リバイバルはイエス様のみ言葉にありました。

シモン・ペテロはイエス様の説教の手助けをし、舟が遠くに流されないようにしました。まるで自分の舟が講壇になったようでした。説教を聞いた後でイエス様はシモンに「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚を取りなさい。」と言われました。聖書の言葉は一般的にロゴスと言いますが、ロゴスが個人の心の中に深く入る時、それをレーマと言います。レーマは奇蹟を生み出します。レーマの言葉を心にしっかりとめる人は幸いです。神様は私たちにレーマを与えてくださいます。レーマに従順すると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになります。以前は魚をとろうと網をおろすと、魚は逃げるというパターンだったのですが、イエス様のみ言葉通りにすると、たくさんの魚が網に自分から入ろうとしました。今までと逆になりました。私たちが神様の命令に従順していくと、人々が教会に入りたいと並んで待っているリバイバルが起こります。私にもこの教会に人々が長く並んで待っている夢を見せてくださいました。ぺテロは自分の仲間たちに合図して、ニそうの舟が魚でいっぱいになって沈みそうになりました。神様に従順する人の教会が、また近くの教会がリバイバルされます。そして日本がリバイバルされます。

3.主は最後まで謙遜な人と共にいて、深い所へ導いてくださいます。

 たくさんの魚を手に入れ、物質的な祝福の奇蹟を味わったシモン・ペテロはイエス様の足もとにひれ伏しました。私たちの心が謙遜であることが大切です。折角リバイバルが起っても、祝福が止まってしまうのは、リバイバルの後、人間が高慢になるからです。私の手がこの富を築き上げたと高慢になると、リバイバルは止まってしまうのです。シモン・ペテロは「私は罪深い人間です。」とへりくだった時にイエス様は「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」と言われました。ペテロは聖霊を受けて説教したところ一回に3000名が悔い改め、教会の網に入りました。その次に説教すると、5000名が救われました。このように日本の教会がへりくだって謙遜になれば神様がこのようなリバイバルを起してくださいます。


 2006年4月23日  「行って同じようにしなさい」 ルカ10:25〜37

 あるサマリヤ人が旅の途中強盗に襲われ、半殺しになった人を助け、介抱してあげました。イエス様はこのサマリヤ人こそ真の隣人であると言われました。

 1.強盗に襲われた人。

 ある人がエルサレムからエリコへ下る道で強盗に襲われました。エルサレムは神様に礼拝を捧げ、賛美を捧げる霊的な都市であり、聖い所の象徴です。エリコはイスラエルの民が約束の地に入ることを塞げた城壁であり、呪いの場所でもあります。エリコはこの世を意味します。神様から離れ、み言葉から離れると強盗、サタンに会います。「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10)この強盗に襲われた人は全部持ち物を奪われました。なぐりつけられ、半殺しになりました。サタンに襲われると、霊的、精神的、時間的に損害を受けるのです。

 2.強盗に襲われた人の真の隣人はどなたでしょうか。 

 今日の本文では、祭司、レビ人、サマリヤ人が出てきます。祭司はこの世の宗教を代表します。この祭司は強盗に襲われて半殺しになった人を見ると、道の反対側を通り過ぎて行きました。宗教では、死んでいく人を救うことはできません。レビ人は自分の義を守るために、儀式を尊んでよくやっている人々です。自分の義を守ることだけに満足している人々です。そのような人は良き隣人になることはできません。サマリヤ人はユダヤ人たちが蔑視する人々でした。イエス・キリストもユダヤ人から蔑視され、非難されました。このサマリヤ人は強盗に襲われた人をかわいそうに思って近づき、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してあげました。このサマリヤ人はイエス・キリストを意味します。イエス様は十字架の血潮で私たちを洗ってくださいました。そして、私たちに聖霊を送ってくださいました。ぶどう酒は私たちの罪の毒を洗って聖めてくださいます。オリーブ油は聖霊を意味します。聖霊様はサタンによって傷ついた心や罪責感や恐怖を和らかくして慰めてくださいます。サマリヤ人は強盗に襲われて死にそうになった人に近づいて介抱してあげました。また再び来るからと言ってデナリ二つを宿屋の主人に渡しました。イエス・キリストは宿屋である教会に私たちを入れて、私たちを介抱してくださり、また再び来ると再臨の約束をしてくださいました。

 3.あなたも行って同じようにしなさい。

 私たちもサマリヤ人のように傷ついた人々を介抱しなければなりません。イエス様は私たちが間違った偶像を拝んでいた時にも私たちをかわいそうに思って私たちに近づき、私たちの苦しみを血潮で洗い聖めてくださり、聖霊を与えてくださいました。宗教が違うと言って初めから無視して避けるのではなく、かわいそうに思ってイエス様のように近づくことが必要です。聖霊様によってその人が癒されるためには、宿屋である教会にその人を連れて行くことです。救われたからと言ってそのまま道端に放っておけば、その人は死んでしまいます。サマリヤ人がデナリ二つを宿屋の主人に渡したように私たちも物質や時間を差し出さなければなりません。その人が完全に救われ、教会の生活ができるようにしなければなりません。その人が立ち直って再び来られるイエス様に出会うようにしなければなりません。福音伝道や宣教には犠牲が必要です。「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。」(詩篇126:5)と言われます。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」というみ言葉にあるように私たちも良きサマリヤ人を見習って行って同じようにしなければなりません。

 


2006年4月16日「イエス様のよみがえりの証拠」 マタイ28:1〜20

イエス・キリストのよみがえりはキリスト教の確信であり、聖書の確信であり、私たちの信仰の中心であります。イエス・キリストがよみがえられなかったら、私たちの罪はそのまま残るのです。イエス・キリストのよみがえりはイエス様が私たちに約束してくださったすべてが有効であり、それが信じるべきことであることを示すものです。今日はイエス様が歴史的事実としてよみがえられたという証拠を通して皆さんと恵みを分かち合いたいと思います。

1.イエス・キリストのからの墓。

キリスト教と他のすべての宗教との決定的な違いは墓についての概念にあります。すべての宗教の創始者たちの墓は大切にされ、今も墓参りを重要視しています。しかしイエス・キリストの墓はからっぽです。なぜならば、イエス・キリストはよみがえられたからです。イエス・キリストのよみがえりは聖書の中で何回も預言されています。例えば旧約聖書の詩篇16:10〜11には「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せになりません。あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」とあります。イエス様は弟子たちによみがえるということを何回も言われました。そしてその通りにイエス様はよみがえられたのです。ですからイエス様の墓は開いていたのです。今日の本文6節を見ると、墓参りに来た女性たちに御使いが「ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。」と言いました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。」(ヨハネ11:25〜26)とイエス様は言われました。

 2.イエス様のよみがえりの証拠は弟子たちの生活の変化です。

  弟子たちはみんな弱虫でした。イエス様が十字架刑になるのをみんな恐れて逃げ回ったりしました。ペテロも女の子の前で「そんな人は知らない」と3回否認しました。そのような弱い弟子たちがイエス様の死体を盗んだりすることはできません。イエス様の墓はローマ皇帝によってしっかり封印されていました。それをかってに触われば、死刑に処せられましたから、その危険を犯してまでも、イエス様の死体を盗むことなどできませんでした。イエス様のよみがえりを体験した弟子たちは40日間イエス様と一緒に過ごして大きく変えられました。イエス・キリストはよみがえられたと人々に伝えながら、弟子たちは殉教の道を歩きました。この力がローマ帝国を転覆させ、ローマ帝国がキリスト教国家になりました。又、ロシアが変えられ、中国が変えられました。このようにイエス・キリストの教会はイエス様が共におられるので、どんどんリバイバルされ、福音が広がっていっています。

 3.イエス様のよみがえりの証拠は今、私たちの中にあります。

 イエス様を信じてバプテスマを受ける人は、イエス様と共に死んでイエス様と共によみがえることを体験します。イエス様のみ言葉を聞いて信じ、それを教える時、イエス様はその所で、今も生きておられるのです。イエス様は罪の赦し、病のいやしとして現われ、義、喜び、平安として現われるのです。又私たちが教会で祈ったすべては未来にも現われます。イエス様はまた再び来ると約束しておられます。私たちはイエス様の所に引き上げられ、再びイエス様とお会いすることができるのです。このことが信仰とし私たちの心の中で生きているのです。


2006年4月9日     「いばらの冠」    マタイ27:27〜31

今週は受難週であります。イエス様がいぱらの冠を受けられました。王の王、主の主であり、天と地のすべてを造られた神様がどうしていばらの冠を受けられたのでしょうか。

1.いばらの冠は民の呪いを荷なったことでした。

神様の命令にそむいた人間は霊的な死、肉体の死、環境の呪いのいばらに刺されるようになりました。イエス様がこれらのことを救ってくださるために地上に来られていばらの冠を受けられたのであります。「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:5)と聖書に書かれています。この世は神様から離れてすべてがいばらとあざみの世の中です。コンピューターの時代となり、多くの情報を得てもストレスが増え、うつ病が増え、自殺者が増えていくのであります。イエス様はこれらすべてのいばらを背負われました。

2.いばらの冠は律法の呪いからの解放。

アダムの子孫である人間は罪あるアダムの行いを行うのです。神様から離れた人間は努力や行ないによって実を結ぶことは不可能です。だから神様は私たちのためにいばらの冠を受けられ、十字架で死なれました。イエス・キリストが死なれた時、呪われるべき私たちも共に死にました。だから私たちはイエス・キリストの死が私たちの死であり、イエス・キリストのよみがえりが、私たちのよみがえりであります。そのことを信じることによって、私たちは救われるのです。イエス・キリストと共に十字架で死んでよみがえること、それがバプテスマであります。このバプテスマを受けた人々はイエス・キリストによってアブラハムの祝福があります。キリストは私たちのために十字架にかかって律法の呪いから私たちを贖いだしてくださいました。私たちにアブラハムの祝福を与えるためでした。アブラハムの祝福は信仰によって聖霊を受けることです。聖霊様が来られたら私たちにイエス・キリストの愛を注いでくださいます。愛からくる喜び、平安、赦しが、私たちを通して実を結ばせるのです。また自制よって私たちは律法を全うすることができます。律法から解放するためにイエス様はいばらの冠を受けられました。

3.イエス様は私たちを招待してくださいます。

「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)この世は神様から離れた世ですので、皆いばらに刺されて傷だらけです。イエス様が来られた理由はそのような人を呼んでくださるためでした。また、私たちが子供の時から今まで受けた色々ないばらをいやしてくださる方はイエス・キリストです。どうしてそれが可能でしょうか。それはイエス様は100%神様でありまた100%人間だからです。私たち人間の苦しみを荷なってそれを処分することができるのはイエス様だからです。神様はきのうも今日もいつまでも変わることがありません。私が持っているこのいばらを今、告白し、イエス様により頼むと信仰によってこのいばらをイエス様に移してくださるのです。そして、今イエス様が持って来られた天国の安息、安らぎを私たちに与えてくださいます。イエス様を仰ぎ見て、今持っている色々な傷や苦しみがイエス様に移されるように祈りましょう。罪の呪い、病の呪い、生活の呪い、人間関係の呪い、死のとげがあってもイエス様を信じる者はイエス・キリストによって安らぎを受けることができます。


2006年4月2日       「謙遜と祈りの答え」       U歴代誌7:14

私たちの祈りが答えられると、神様が自分の問題に関心を持っていてくださり、共におられることを感じます。そして問題が解決されるのを見ることができます。ですから私たちは主を求めるのです。主の御顔を求め、主の恵みを求めるのです。赦し、いやし、祝福、聖霊充満、永遠のいのち、それらは全部祈りによって主から与えられるのです。勝利するための祈りの秘訣は「自らへりくだり祈りをささげ」という今日の本文の言葉の中にあります。祈りと謙遜はとても密接な関係があります。

1.祭壇の前でへりくだること。

 祭壇の前に私たちがへりくだると、祭壇の恵みが私たちの恵みになります。祭壇はイエス・キリストの十字架です。どうしてイエス様が十字架につけられたのですか。私たちの罪、呪い、地獄、永遠の滅びをイエス様が背負って祭壇に灰になるまで燃やされたのです。それは私のためでした。私がサタンの奴隷であった時、私がこの苦しみを受けなければならなかったのです。私たちはいつもエジプトの時のことを思い出して、私のために十字架につけられたイエス様に感謝を捧げなければなりません。私たちが十字架の前で、これは私のためですと私がへりくだると、主の恵みが私の中に注がれるのです。

2.洗盤の前でへりくだること。

洗盤ということは、イエス・キリストの脇から流れる赦しの水です。私たちは救われたのですが、まだ天国に入ったことはありません。この世を私たちは歩かなければなりません。この世はサタンとサタンによって支配されている人々がいる汚れたソドムとゴモラのような生活、世界であります。だから知らないうちにごみがついてくるのです。だから私たちには赦しが必要です。神様の御前で赦されなければならない存在です。この赦しを拒むことは主を拒むことです。主の流された主の赦しは私たちに必要です。私が赦される存在であるように、私の兄弟姉妹たちも赦しが必要です。

3.聖所の中でへりくだること。

祈りの危機、信仰の危機は自分の力を頼る時です。自分の力で、勝利したかのように錯覚する時、人々は神様に祈らなくなります。聖所の中には、聖霊様とみ言葉があります。聖霊とみ言葉は信仰と力を与えます。行う力が聖霊様によって与えられます。私たちは毎日、日用の糧を求めるように聖霊とみ言葉を求めなければなりません。自分の友だちが急に自分の家に来た時、パンがないので、パンがある金持ちの家へ訪ねてパンを求める話が聖書の中にあります。金持ちの家は何を意味するのでしょうか。それは聖霊様です。聖霊様の中に聖いパン、愛のパン、謙遜のパンがあります。それらを求めていると聖霊様は与えてくださいます。

4.至聖所の前でへりくだること。

聖い神様、火のような神様の前で、汚れた私たちがどうして立つことができるのでしょうか。みじめな私たちには立つ資格などありません。しかし、イエス・キリストの血潮によって私たちは神様の前に立つ資格があります。なぜならばイエス様の血潮は私のいのちであり、私のよみがえりであり、また私の義だからです。イエス様の血潮をたよって私たちが神様の前に立つと、神様はイエス様の血潮を見て「わが子よ。わが愛する子よ。わたしはあなたを喜ぶ。」と言われます。このように私たちの環境はいやされます。地をいやすと主は言われます。神様の前でへりくだって神様の御顔を求める祈りをすることができますように主の御名によって祝福します。


2006年3月26日 「内なる人を育てる方法」 ヨシュア記1:7〜9

聖書には人間を内なる人と外なる人として表現しています。外なる人とは私たちの目に見える人の体を意味します。内なる人とは私たちの心の中にある霊の部分を指しています。内なる人が成長するということは神様のみ言葉をよくかんで食べて消化し、実践することを意味します。赤ちゃんの時はミルクを飲んで大きくなり、やがて成長して固い食物を食べるようになります。私たちは神様のみ言葉をよくかんで消化することが大切です。神様はカナンの地に対して「ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。」(本文7節)と言われました。内なる人が成長する方法を考えてみたいと思います。

1.毎日定期的にみ言葉を食べること。

 毎日ご飯を食べて私たちの体が健康であるように私たちの内なる人も定期的にみ言葉を食べることが必要です。み言葉を食べないと栄養失調になってしまいます。毎日定期的にみ言葉を読む習慣が大切です。

 2.よくかんで食べること。

よくかまないで飲み込むような悪い食事習慣は健康を害してしまいます。よくかむこ   とが大切です。み言葉をよくかむということは昼も夜もみ言葉を口ずさむことです。「わが子よ。私の言葉をよく聞け。私の言うことに耳を傾けよ。それをあなたの目から離さず、あなたの心のうちに保て。見い出す者には、それはいのちとなり、その全身を健やかにする。」(箴言4:20〜22)とあるように聞いたみ言葉を目から離さないで想像し、そのみ言葉が自分の中で実現されることをずっと見続けることです。そうすれば私たちはいのちを得、全身健やかになるのです。み言葉を集中してよく聞くことと聞いたみ言葉を口ずさむこと、そして口ずさんだみ言葉を信じ続けるとその通りになります。

 3.運動すること。

ご飯を食べて運動をしないと慢性肥満症や慢性疲労や倦怠感が生じてきます。私たちのみ言葉の生活も同じです。み言葉を聞くだけで行うことができないと信仰的に病気にかかってしまいます。だから自分が恵まれたものを流さなければなりません。人に与えたり伝えたり教えたりすることが必要です。「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」(ルカ6:38)私たちが聞いて恵まれたみ言葉をすぐ人に伝え、教えると祝福が30倍、60倍、100倍になります。神様にも賛美と感謝を捧げることです。神様に感謝を捧げる時、いやされ、勝利の生活をすることができます。神様のみ言葉を毎日定期的に読んでそれを口ずさみ、運動して行うと私たちの内なる人が年々成長します。「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(第Uコリント4:16)このみ言葉が私たちの中で成就しますように主の御名によって祝福します。


2006年3月19日   「死後の世界」  ルカ16:19〜31

多勢の人々は人が死んだら存在そのものが全部消えてなくなってしまうと思っています。又ある人々は他の動物に生まれ変わるのだと思っていますし、先祖がお盆とお正月には戻ってくると信じている人々もいます。では聖書では死後の世界をどのように教えているのでしょうか。ラザロを例にとって考えたいと思います。

 1.だれでも1回死ぬことは定められています。

 この世の中で永遠に生きる人は一人もいません。この世での人生は永遠という時間に対して、はかなく消えてしまう霧にすぎません。(ヤコブ4:14)私たちは死後、神様の審判を受けるのであります。ラザロは死後、アブラハムのふところであるパラダイスに行きました。使徒パウロも自分は生きている間にパラダイスに引き上げられて、すばらしい言葉を聞いたと第2コリント12章4節に証言しています。私たちの霊魂は肉体から離れると永遠の所に行くのです。しかし、イエス様を信じていなかった金持は、永遠の炎の苦しみの場所へ行きました。イエス・キリストを信じない者はこのような苦しい場所に行くのが神様の審判であります。

 2.死後の世界の私たちの人格はどうなるのでしょうか。

ラザロはアブラハムのふところに行って慰められました。私たちの人格はそのまま天国へ持って行くのです。ところで金持はハデスの地獄に落ち苦しみました。「私のこの炎の中の舌を冷やしてください。私の家には5人の兄弟がいますが、こんな苦しみの場所まで来ないようにしてください。」とアブラハムに懇願しました。しかし、地獄までいくと祈りはもう聞かれません。地獄は永遠の絶望の場所です。家族の中で先に天国へいった人の家庭を見ると、その人が天国に行って祈っているので、その家族が救われていくのを私たちは見ることができます。これは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)という御言葉通りです。

 3.この世は永遠のための準備期間です。

この世は永遠に比べたら一瞬にしかすぎません。この一瞬の時間に私たちは自由意志をもって天国か地獄を選択するのです。私たちの選択によって永遠の御国に行くこともできるし、サタンの燃える炎の所にも行くことができます。イエス様は「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」(ヨハネ14:2)と言われます。今日の本文の28節にもこんな苦しみの場所と書かれています。天国も地獄も場所です。夢や幻のようではなく、実際に存在する場所なのです。トマス・ジュナムという韓国系アメリカ人がイエス様の特別な恵みを受けて過去7年間で天国を17回体験しました。又、地獄にも2回行ったそうです。その体験をもとに「天国は本当にある。」という本を書きました。天国はもはや涙も苦しみもないすばらしい場所であります。しかしイエス様を信じなかった彼女のお母さんは地獄にいました。人にも親切な心の優しいお母さんだったそうです。人間的にどんなにすばらしい人でも、みんな私たちは罪人です。「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10)イエス様は罪人を救うために来られたのです。「私たちはみな羊のようにさまよい、各々自分かってな道に向って行った。しかし、主は私たちのすべての咎を彼に負わせた。」(イザヤ53:6)と記されています。私たちはイエス様を信じ、イエス様を第1にする生活をしましょう。聖い生活ができるように聖霊様により頼んで祈っていきましょう。食べるにしても飲むにしても何をしても神様を思い、神様の栄光のためにだけ生きることができますように、主の御名によって祝福します。


2006年3月5日        「恐れをおいだせ」    Uテモテ1:7

恐れをもって生活するのは、正常な生活ではありません。神様は人間を造られる時、恐れや臆病を与えたことではありません。「神が私たちに与えてくださったのは、臆病の霊ではなく。」と今日の本文にあります。私たちは生活の中で臆病を退けなければなりません。そのためには私たちはどのようにすればいいのでしょうか。

1.臆病が神様から来たのものではないことを知らなければなりません。

それは敵から来たものです。ある夢や自分の思いがずっと臆病や恐れであれば、それは神様からのものではありません。神様からのものは、今日の本文のように「力と愛と慎みの霊」です。ヨブは東方の大金持ちでした。息子が7人と娘が3人いて、たくさんの財産を所有していました。しかしヨブは恐れる心の病気にかかりました。不安が襲ってきて昼も夜も寝れなくなりました。「私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。私に安らぎもなく、休みもなく、いこいもなく、心はかき乱されている。」(ヨブ3:25〜26)とヨブは言いました。恐れがどこから来たのか分らずそのまま恐れを受け入れた結果、財産も子供も全部失ってしまいました。私たちは自分の心の至聖所の中で恐れになっているのを見て、それは敵から来ているものだとはっきり区別しなければなりません。敵を知れば私たちは敵に打ち勝つことができます。

2.イエス様の血潮によって、私たちの心の至聖所から悪魔を追い出すことができます。

私たちには思いの心の至聖所があります。自分の思いのようにしきりに思いを起すのです。それが恐れの思いならば、それはサタンから来ているのです。サタンは私たちの兄弟たちの告発者で、しきりに日夜神様の前に訴えている者だと言うのです。「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。」(ヨハネ黙示録12:11)と書いてあります。私たちはイエス様の血潮を強調しなければなりません。私の罪はイエス様の血潮によってすべて赦されました。残っているものは何もありません。全部赦されました。イエス様の中で罪に定められることは決してありません。私の呪いやたたりのために、イエス様はすでに十字架で血潮を流してくださいました。私の病のために2000年前にイエス様が打たれた打ち傷によって私たちをいやしてくださいました。その思いが皆さんの至聖所をおおわなければなりません。

3.愛なる神様にすべてを委ねる時、恐れを追い出します。

十字架は神様の愛を示しています。神様が私たちの身代わりになって死んでくださった十字架です。イエス様の愛が御霊によって伝わってくる時、恐れを閉め出します。「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」(Tヨハネ4:18)神様は御子さえ惜しまずに与えてくださり、御霊も与えてくださいました。だから力と愛と慎みの霊が御霊によって私たちに与えられるのです。私たちは自然災害やいろいろな問題でびくびくしています。その私たちの人生、私たちのすべてを主に委ねることです。「神はわれらの避け所、また力。苦しむ時<そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。」(詩篇46:1〜3)神様は御子さえも惜しまずに与えてくださいました。何を惜しむことがあるでしょうか。皆さん、愛なる神様、全能者に私たちの人生を委ねましょう。

 

 


2006年2月26日  「イザヤの信仰体験」  イザヤ6:1〜10

イザヤは頼りにしていたウジヤ王が死んだ時、深く絶望してしまいました。ウジヤ王は神様に対して高慢になった罪によって死んでしまったのです。イザヤはこの絶望の中で、高くあげられた王座に座しておられる主を見るという信仰体験をしました。

1.聖い神様の体験。

ウジヤ王が死んだ年にイザヤは神殿に行き、高くあげられた主を見ることができました。私たちも人間的に失望したり、人間関係が破綻したりする時、その絶望のうちに神様の所に足を運ぶと、神様から大きな力を受ける体験をすることができます。その神様は聖なる聖なる聖なる方であります。イザヤはその方が神殿に満ちておられることを体験しました。その体験の後でイザヤの価値観が変わりました。以前は政治的にすべての問題を解決しようとしたのですが、今や彼は歴史や政治の主権者は神様であることを体験しました。ですから彼は国の運命を主に委ねることができました。このように聖い神様を体験することは、私たちにとって必要なことです。

2.悔い改めと聖霊体験。

聖い神様の御前でイザヤは口びるの汚れた者であり、自分は口びるの汚れた民の間に住んでいると告白しました。私たちは聖い神様を体験した後で、自分自身が見えるようになります。私たちはこの世で他の人と比較したり、いろいろな事件を見て、その中で自分を見ようとしがちです。私たちが本当の自分を見るためには、神様の栄光の光の中で自分を見るべきです。その時、自分がどんな人間であるかがよく分るのです。悔い改めへと導かれます。悔い改めてイザヤは初めて聖霊体験をしました。聖霊の火で口が聖められ、赦される体験をしたのです。悔い改めると神様の国が私たちの中に入り、神様が私たちと共に住むようになります。

3.召命の体験。

イザヤは「だれを遣わそう。だれがわれわれのために行くだろう。」(本文8節)という主の声を聞きました。聖霊体験をした人は三位一体の神様の証し人になるのです。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」とイザヤは言いました。その遣わされた所は、罪あふれるソドムとゴモラのようなこの世です。病とのろいがあふれるこの世、死と絶望があふれる所であります。その所に神様の福音をたずさえて「だれが行くだろう。」と主は言われます。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」福音を伝えても迫害されたり、反応がよくないことがあります。しかしそのようなことがあっても私たちは主の証し人にならなければなりません。「私は反逆の民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに一日中私の手を差し伸べた。」(イザヤ65:2)その手を差し伸べることは、私たちの伝道を通してです。だから反対されても、説教しながら歓迎されなくても、又、伝道しながら歓迎されなくても私たちは伝道することを続けなければなりません。神様はパウロに「恐れないで語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」(使徒18:9〜10)と言われました。私たちが伝道してどんなに反発されたり、迫害されたり、苦しめられたりしても、私たちはその中に主の民がいるということを知らなければなりません。イザヤはヨタム王やアハズ王やヒゼキヤ王を通して語り続けました。もちろんその中ではイザヤのいうことを聞かない王もいました。しかし、本当にヒゼキヤ王のような主の民がいたのであります。皆さん、私たちが失望しないで語り続けると、必ず主が実を結んでくださいます。


2006年2月19日     「夢の死と復活」マルコ5:35〜43

会堂管理者であるヤイロの家で大きな問題が生じました。12才になる彼の愛する娘が病気で死にかけていました。イエス様の所へ行けば、いやされるという夢を持っていましたが、死んでしまったという知らせを受けました。今日は夢の死と復活について考えたいと思います。

1. 夢の死

ユダヤ人たちは会堂が生活の中心でしたので、会堂管理者はユダヤ人社会では高い地位の人でした。会堂管理者は礼拝の中で説教者を決める人であり、又裁判をする時の裁判長でもあり、子供たちは会堂で勉強していましたので、学校の校長先生でもありました。このように膨大な力と権力を持っていたヤイロでしたが、愛する娘が死にかけているのに対しては、どうすることもできませんでした。イエス様のうわさを聞いたヤイロは自分のすべての政治生命をかけてイエス様の所に行きました。そして多勢の人々が見ているにもかかわらず、イエス様の前にひれ伏して「娘を助けてください。」と懇願しました。けれども娘はイエス様が娘の家に行かれる前に死んでしまいました。ヤイロは人々からの批判も覚悟して、イエス様にすべてをかけて近づいたのですが、いやされるという夢が壊れてしまいました。このように神様は私たちが信じるものをすべてゼロにされる時があります。アブラハムがそうでした。小さい夢は小さく死んでよみがえり、大きい夢は大きく死んでよみがえります。

2.イエス様は「恐れないで、ただ信じ続けなさい」と言われます。

ヤイロの家から使いの者が来て「お嬢さんはなくなりました。」という知らせをヤイロは聞きました。いやされるという夢が壊れてしまったのです。しかし、その時イエス様は「恐れないで、ただ信じ続けなさい。」と言われました。夢を放棄しないで夢を持ち続けなさいということです。私たちが祈っているすべてをイエス様に託して放棄しないで信じ続けることです。どんなに絶望的な環境のニュースがあっても放棄しないで信じ続けましょう。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(へブル12:2)イエス様は私たちがイエス様に託した夢をひとつも失わせることはありません。「わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終りの日によみがえらせることです。」(ヨハネ6:39)イエス・キリストはよみがえりです。ですから、イエス様に託したすべての夢はひとつも失うことなく、死からよみがえるのです。

3.続けて信じた人の夢は復活されました。

ヤイロの夢は復活されました。イエス・キリストがヤイロの娘の手をとって「タリタ、クミ(少女よ、起きなさい。)」と言われました。その時死んだ娘がよみがえりました。私たちが信じている神様はこのような神様です。信じ続ける人、否定的にならないで夢を握り続ける人、そのような人々を神様は必ずよみがえらせてくださるのです。イエス様がいない人にとって死はそのまま死です。絶望はそのまま絶望です。しかし、イエス様はすべてを変えてくださいます。イエス様が共におられる私たちは、環境を見て放棄したり、退いたりする必要はありません。皆さんの環境の所にイエス様が来られて「死んだ夢よ、よみがえれ。すべての大波よ、静まれ。子供よ、いやされよ。主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われる。」とこのように主が私たちの夢をかなえてくださるのです。

 

2006年2月12日 「信じる者の平安」  ルカ8:22〜26

現代社会は多くの人々が明日に対する不安があるので眠れない時代です。睡眠薬がよく売れています。今日の本文では、イエス様は嵐の中でもぐっすりと眠っておられました。どうしたらこのような平安が得られるのでしょうか。

.主の命令を信じて従順する時平安が来ます。

 神様は人を祝福する時、必ずみ言葉を用いて命令されます。アブラハムを祝福する時も「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」(創世記12:1〜2)と命令されました。アブラハムの父の家は偶像を作る所でしたので、そこでは平安を得ることができませんでした。神様が示す地とは十字架がある場所でした。そこへ行くと「わたしはあなたを祝福する。」と言われました。このように「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみ言葉によるのです。」(ローマ10:17)ですから、私たちは安息日に主のみ言葉を聞くことによって、安息を得ることができるのです。私たちは主のみ言葉の命令に従順していけば、神様は私たちと永遠に共におられ、平安を得ることができます。

 2.イエス様が言われたみ言葉は必ず成就すると信じる時、平安が来ます。

 向こう岸に渡ろうと主は言われました。イエス様はご自分で何かをなさろうとはされないで、いつも天の父なる神様、聖霊様と共に働かれました。途中で何が起ろうとも必ず向こう岸に渡れる、すなわち主のみ言葉は成就されるということです。それを信じるイエス様は平安でした。しかし信じなかった弟子たちは恐怖と不安で「私たちはおぼれて死にそうです。」と叫びました。主が言われたみ言葉を口ずさみ、祈ることはとても重要です。主のみ言葉は真理だからです。真理のみ言葉は環境がどんなになろうとも必ずみ言葉通りになります。主が言われた通りになります。イエス様が十字架で成し遂げられたすべてのものをいつも握って祈りましょう。環境がどんなに悲惨でも罪の赦し、病のいやし、アブラハムの祝福、永遠のいのちは十字架から流れてきます。

 3.人生の船を主に委ねると平安になります。

 人生の船の船長はイエス様です。突風のため船が沈みそうになった時、眠っておられたイエス様は、起き上がって風と荒波とをしかりつけられました。すると、風も波も治まり、なぎになりました。イエス様が船の責任者です。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(Tペテロ5:7)心配は私たちがするのではなく、主がしてくださいます。私たちは主と共に船に乗って行くのですが、突風は避けられません。急に突風が起っても、私たちが主にゆだねて祈ればその問題はなぎになります。罪の突風はイエス様の血潮によって悔い改めて赦されます。又、病の突風や、破産寸前の突風もイエス様によって勝利します。死の突風もステパノがイエス様に出会って、石で打たれ殺されながらも、イエス様を仰ぎ見て眠りにつくように死に勝利しました。私たちと一緒に船に乗って行かれるイエス様に、私たちの突風の問題をすべてゆだねましょう。問題をそのまま主に報告しましょう。そうすれば私たちの問題はなぎになり、解決します。

 

2006年2月5日    「求めなさい」   ルカ11: 9〜14

人間は生まれてから死ぬまで求めることが続きます。神様は私たちに求めなさいと命じておられます。求めたことが応えられたことを通して、神様が生きておられることを体験し、信仰は成長していくのです。しかし求めた物が全部与えられるのではなく、良き神様が選別して、時にかなって求めた物を与えてくださいます。

.私たちが神様に求めるためには神様と私たちの関係を作らなければなりません。

神様と私たちとの関係は主の祈りの中で“天にまします我らの父よ”と祈るように父と子の関係になりました。「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)イエス様を信じると神様の子供になり、神様に祈ることができます。

2.天のお父様に知恵をもって求めなければなりません。

「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)と言われるように、神様の御国にあるものを第一に求めることです。イエス様ご自身を求めることです。イエス様によって神の愛が満たされ、神の栄光を見ることができます。十字架で死んでくださった程の深い愛、いつも私たちを悔い改めに導き洗ってくださる愛、聖霊を与えてイエス様を信じさせてくださる愛の中で、神様は必要な物はすべて与えられます。「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4:19)と言われます。私たちにとって、思いもがけないことであっても神様が必要なものであれば全部それを満たしてくださいます。

3.間違った動機によって求めたら、主は応えられません。

「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」(ヤコブ4:3)悪い動機とは肉の欲、目の欲、この世の暮らし向きの自慢話をするために求めることです。正常な生活ができることは、私たちが神様に祝福されている証拠です。しかし、私たちが正常でないものを求めると、それは情欲です。目の欲は神様よりも、もっと物を愛して頼ることです。そうすると愛する物が偶像になってしまいます。私たちは物質が自分の神になるようなことをしてはいけません。そのためにも神様が十分の一を捧げるように命じておられます。十分の一を通して神様が生きておられること、また神様は人間を守る方であることを示しておられるのです。十分の一は農業のもとの種です。この世の自慢のために求めるならば、それは間違っています。しかし神様の栄光のために神の御名があがめられるように、謙遜にへり下って主を恐れると、主が報いてくださいます。「謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。」(箴言22:4)と主は言われます。神様は魂が恵まれている正しい人が多くの実を結ぶようにして、神様が栄光を受けられるのです。「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」(ヨハネ15:8)神様の栄光のために、みなさんがそれぞれの仕事の分野で成功者になるように、教会が主の御名のためにリバイバルされるように、宣教や主のために十分の一が増えていくように主の御名によって祝福します。


2006年1月22日  「幸せな言葉の生活」    エペソ4:29〜32

人間にとって一番基本的な問題は生きることと幸せになることです。生きる目的は幸せになるためです。人間は他の造られた物と違って言葉を使います。言葉を使うことは人間にとって幸せの鍵と言えるでしょう。その人が幸せな人か不幸な人かは、その人が使っている言葉を聞けばすぐ分ります。私たちは幸せな言葉を使う人になりたいものです。

1.感謝の言葉を使いましょう。

聖書には「みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ感謝しなさい。」(エペソ5:4)と書かれています。感謝しなさいと命令です。だから、この命令に対して私たちは自分の意志で従順しようとすることが必要です。努力が必要です。彫刻家がのみを使って岩石に好みの像を刻んでいくように私たちも感謝の言葉を刻んでいくと、私たちの望んでいる幸せが浮きぼりにされ、この目で幸せを見ることができるようになります。私たちが感謝を捧げると聞く人々が恵まれ、神様が喜ばれます。「感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人にわたしは神の救いを見せよう。」(詩篇50:23)と言われます。私たちが感謝を捧げると、神様が私たちの神様になります。イエス様が私たちの恵みとなります。イエス様が私たちに刻まれるのです。祈りの中で最高の祈りは感謝の祈りです。感謝を捧げると天国が私のものになります。

2.肯定的・積極的な言葉を使いましょう。

「初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。」(ヨハネ1:1)と言われるように言葉は神であり、私たちの言葉は霊の世界では、御使いたちが私たちの使っている言葉を実行しているのです。私たちがみ言葉を口ずさみ、告白すると御使いたちがそのみ言葉を成し遂げ、成功させるのです。「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」(イザヤ55:11)日常生活で私たちが使っている言葉は、祈りと同じです。絶えず祈りなさいということは、言葉を意味するのです。否定的な言葉を使うと悪霊が働くのです。肯定的な言葉や神様のみ言葉は神様の御使いたちが動きます。私たちはみ言葉をたくさん覚え、覚えたみ言葉を私たちが口ずさみ、賛美し、告白していくと、聖霊様が私たちを勝利に導いてくださいます。スポルジョン先生は、自分が落ち込んでいる時は必ず肯定的、積極的な説教をして、自分を霊的に上昇するようにしていると証されました。このように私たちも肯定的、積極的な言葉を使いましょう。

3.神様から受けたいのちの言葉を他の人にも流しましょう。

「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(本文32節)このように私たちは、人を赦す言葉、賞賛する言葉、親切な言葉を使うようにしましょう。他の人を成功させようとすると、自分が成功します。私たちが神様に赦されることも人を赦そうとする時、赦されます。自分にしてもらいたいことを人にしなさいと主が言われます。聖霊充満とは何でしょうか。私たちの心と言葉が聖霊によって支配されることです。マルコの部屋で聖霊が火のように臨んで、信者の口をまた舌を支配しました。その意味は新しい言葉を使うということです。感謝の言葉、肯定的、積極的な言葉、いのちを与える赦しの言葉を使うことが聖霊充満ということであります。

 

2006年1月15日「私たちはアブラハムの祝福の相続者」ガラテヤ3:13〜14

神様が私たち人間を造られた目的は私たちを祝福するためでした。神様は祝福の源であり、いのちのみ言葉です。しかし人間は神様から離れて自分勝手にふるまったことにより、サタンがこの世を支配し、罪や呪いがあふれるようになりました。

1.私たちの生活の呪いはどこから来たのでしょうか。

神様のみ言葉から離れ、永遠のいのちを捨ててサタンに支配されたことにより人間は呪われるようになりました。申命記28:15〜68にあるように頭の上から足の裏までいろいろな呪いを受けました。祝福の神様、いのちの神様から離れて、サタンに支配された人間は、手のわざ、足が踏むすべての所で全部呪われてしまいました。

 2.この呪いを解決する手段としてイエス・キリストが来られました。

「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。(本文13節)この木とは十字架を意味します。十字架は私たちの罪、咎をイエス様が全部背負って呪いを受けられた所です。罪を犯したことがない、呪いとは何の関係もないイエス様が十字架に付けられて呪いを受け、神様から捨てられました。イエス様は十字架上でいばらの冠をかぶらされ、両手両足をくぎ打たれ、地獄の苦しみを受けられました。その結果私たちはいやされ、罪が赦され、呪いから解放されました。

3.私たちはアブラハムの祝福の相続者となりました。

イエス様が十字架に付けられた理由は、アブラハムの祝福を私たちに与えるためでした。「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」(ガラテヤ3:29)私たちはイスラエル人でもユダヤ人でもありません。しかしイエス様を信じる信仰によってアブラハムの子孫となり、約束の相続人になりました。アブラハムの祝福とは、神様から選ばれ、罪が赦され、神様の子どもになったことです。アブラハムは長寿と富と誉れの祝福を受けました。(箴言3:16)アブラハムは魂が恵まれ、すべてが恵まれ、永遠のいのちが与えられました。神様から祝福されたアブラハムは人々に祝福を流すパイプの役割を果しました。私たちも彼のようにアブラハムの祝福、赦しの祝福、健康の祝福、成功と永遠のいのちの祝福を人々に流さなければなりません。与えなさい、そうすれば与えられます。

4.アブラハムの祝福を自分のものにするためには真理を悟ることです。

十字架の恵みは私の呪いを贖ってくださったことを悟り、信じることです。信じてそのことをいつも口ずさみ、集中してそのことを考えることです。そうすることによってそれが私の体に刻まれ、私の人格となり、人生となります。教えることは学ぶことです。人に教え、与えることによって、アブラハムの祝福が自分のものになります。

2006年1月1日  「年は夢と共に」   使徒の働き2:17〜21

昨年に引き続き、今年も終末的な現象が見られることでしょう。すなわち、愛が冷たくなっていき、いろいろな所で地震や飢饉やテロが起ると思います。今日の本文の19節に「わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下には地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。」と預言しています。血とは死を意味し、すべては破壊されて立ち上る煙となるというのです。これらのことを考えると、今年は環境が良くなることはありません。しかし、このような時代にあっても勝利することができるように、神様が終りの日に聖霊を与えてくださっています。「神は言われる。終りの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。」(本文17節)これはイエス・キリストの救いの夢です。信じて主の名を呼ぶ者はみな救われます。

1.年と関係がない神様の夢

「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:1〜3)アブラハムはこの夢を頂いてスタートしました。神様は75才のアブラハムにこの夢を与えました。私はもう年だから夢を持つことはできないと言ってはいけません。神様は誰でも信じる者に夢を与えてくださいます。

2.夢を与える場所があります。

 それはカナンの地、エルサレムでした。アブラハムがカナンに到着してみたら、そこは血と火と煙のように大飢饉が待っていました。それで彼はエジプトに下って行きました。彼はそこで大きな恥を受け、挫折してしまいました。彼が再び、夢を与える場所に戻ってくると又夢が与えられました。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。」(創世記13:14〜16)彼が85才になって、夢を見失いそうになった時、神様が彼を外に連れ出して、あなたの子孫は天の星のように数えきれないほど多くなると再び夢を与えてくださいました。この夢を与える場所がどこでしょうか。それは、イエス・キリストの教会であります。皆さん、今年も環境は益々厳しくなります。しかし、夢を与える場所で夢をじっと握っていてください。そうすれば夢が皆さんを造るのであります。

3.神様の夢を私の夢にしなければなりません。

神様の夢は十字架の上で成就されました。イエス様が来られた理由は、私たちにいのちを与え豊かに与えるためでした。その夢の実現のためにイエス様は私たちの罪、呪い、病、地獄のすべてを身に引き受け、イエス様は十字架上で血だらけになられました。イエス様は血と火と立ち上る煙の苦しみを受けられました。それは、私たちが幸せになり、いのちを得るためでした。イエス様は私たちの罪が赦され、いやされ、神様の祝福を受けることを願っておられます。それが十字架上で現われました。神様の夢を私の夢にしなければなりません。皆さんが本当に幸せになり、いのちで満ちあふれる時、そのことによって、神様の夢が成就されるのです。神様は私たちに永遠の神の国を備えてくださっています。私たちがこの世から体がなくなると、涙も悲しみも叫びもない国に行ってそこで神様と共に永遠に生きるようになります。

 

2005年12月25日 「クリスマスの贈り物」   イザヤ9:6〜7

全世界の人々はメリークリスマスとお祝いして楽しんでいます。どうして喜び(メリー)のクリスマスか分らないまま楽しんでいるのです。しかし、聖書にはその理由がはっきり書かれています。イエス様が来られる700年前に預言者イザヤは今日の本文のように「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。」その方は全能者であり、永遠の父、力ある神と呼ばれると預言しました。すなわちこの神様が完全な人間としてこの地上に贈り物として私たちを救うために来られたのでメリークリスマスなのです。

1.イエス・キリストは贈り物であり、完全なる神様です。

その方は父なる神様と永遠の昔から共に働き、力をもってすべてを統べ治めておられました。その方は王の王、主の主であります。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。(ローマ10:13)全能者であり、天と地を造られた方は御霊によっておとめマリヤより生まれ、私たちと共におられました。その方は十字架につけられ、死んで三日目によみがえられました。そして天にのぼり、天の御座に座っておられます。生きている者と死んだ者を審くために再び来られる全能者であります。このみどりごは完全なる神様です。

2.このクリスマスのみどりごイエス・キリストはまことの人間でした。

その方はダビデの子孫としてお生まれになりました。私たちと同じ人間です。おとめマリヤよりお生まれになったので、罪だけはないのです。私たちの罪を負っていけにえとなって十字架につけられました。その方はマリヤの胎内で10ヶ月間育てられ、お生まれになってからは私たちと同じように人間的な成長の過程を通られたのです。その方は、知恵や体も年ごとに成長され、空腹や喉の渇きを覚えられ、疲れて寝られることもありました。一生懸命祈る方であり、母マリヤに対して面倒を見られる親孝行もありました。その方は喜び、悲しみ、怒りなどの感情も持っておられました。その方は謙遜で、最後まで父なる神様に十字架の死まで従われました。そして御霊の導きを瞬間瞬間受け、いつもご自分の時でないと前に出られませんでした。その方は完全に人間としてこの世に住んでおられました。

3.イエス・キリストは神性と人性の二つの本性を持って来られました。

私たちの救いのために二つの本性を持って来られた理由があります。サタンにだまされて永遠に死んでいく人々がサタンに勝利することは不可能でした。人間の力では勝利することはできません。私たちを救ってくださるためにサタンよりも、死よりも強いその方が、人間となって来られなければなりませんでした。イエス様が人性として来られたのは、私たちに同情するためでした。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(へブル4:15)人性として私たちの苦しみを共に同情できる方だけではなく、イエス様の中での神性が苦しみを解決して、慰めてくださるのです。皆さん、その方は今、生きておられます。その方は今、クリスマスの日、お生まれになって私たちの中におられるのです。イエス・キリストの神性と人性は私たちの祝福の中の祝福です。この方が私たちを今、救ってくださるために、贈り物として送られたのです。クリスマスの贈り物、それは神性と人性をもってお生まれになったみどりごイエス・キリストです。この方を受け入れた人は永遠に主と共に住むことができます。




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