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メッセージ 金エシュルン牧師
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2010年9月5日 「イサクの祝福」 創世記26:1〜5 イサクとは笑いという意味です。アブラハムが100才の時イサクが生まれました。イサクはアブラハムの笑いでした。イサクは25才の時モリヤの山へ行きました。そして125才の父アブラハムによって神様にいけにえとして捧げられようとしていました。イサクはこのことに対して不満を言ったり、反抗したりしませんでした。その時神様はイサクの代わりに一頭の雄羊を備えてくださいました。この体験の後、イサクの人生は祝福されました。呪いとは関係のない人生を送りました。イサクは環境を越える祝福を受けました。イサクは悪い条件の中でも祝福を受けました。ぺリシテ人の土地に大飢饉がありましたが、それにもかかわらず種をまくと、100倍の収穫を得ました。 1.イサクが祝福を受けたのはみ言葉に根を張ったからです。 神様はイサクに“エジプトへはくだらないでペリシテ人の所にとどまりなさい。わたしがあなたを祝福するから。”と言われました。祝福は環境と関係がありません。神様が祝福です。神様を信じると飢饉の場所があっても超自然的なイサク(笑い)をプレゼントしてくださいます。信仰は知識ではなく、体験です。どんなに絶望的な環境の中にあっても、神様のみ言葉を信じると信仰通りになります。イサクはひどい飢饉の時に100倍刈りとることができました。 2.イサクは神様の愛の中で恐れない信仰生活をしました。 恐れは刑罰が伴います。私たちは神様の愛によって恐れを閉め出します。ペリシテ人のいる所は恐れの多い所でした。ペリシテ人の王様はイサクの妻を奪うかもしれないし、土地は飢饉で、条件の悪い気候風土でした。それにもかかわらず、イサクは種をまきました。そして100倍の収穫を見ることができました。日本は宣教師の墓だと言われています。このような日本でも私たちが神様を信じて種をまけば刈りとることができます。種になる若者たちが必要です。今見える世界はエジプト時代が良かったと言ってエジプトに行く若者たちが多いのですが、神様がとどまりなさいという所で若者たちが種となれば100倍刈りとることができます。なぜなら日本は必ずリバイバルされるからです。 3.イサクは柔和な人でした。 イサクが行く所はすべて祝福されるので、ペリシテ人た ちはその土地を奪いました。イサクは奪われても与え続けました。そうすると神様がイサクを祝福するのだということがペリシテ人に見えました。それでペリシテ人はイサクの所に来て“あなたたちと契約を結びたい。”と言いました。これが100倍祝福された理由です。自分の快楽のために使う祝福は呪いです。しかし、私たちが受けた祝福を流し、人を祝福し伝道するための祝福ならばこれは最高の祝福です。皆さんもイサクのように100倍の祝福を受けられますように主の御名によって祝福します。 |
2010年8月22日 「神を愛する者の祝福」 ローマ8:28 私たち人間は明日がどうなるか、明日のことを知りません。私の選択がこれで良いのか不安ですし、政治家も芸能人もすべての人が不安です。神を愛する人々には神がすべてのことを益にしてくださいます。マイナスのことがあってもこれがすべてプラスになることを私たちは知っているので不安になりません。平安をもって生きることができます。 1.神様を愛する人はまず第一に神様を求めます。 この世が求めるのはまず第一に何を食べるか、何を飲むか、何を着るかということです。しかし、神様を信じる人々はそのようなものを求めるのではなく、まず第一に神様を求めます。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)神様は私たちが何を食べるか、何を飲むか、何を着るかを知っておられます。それを与えられるのですが、それにプラスアルファして与えられます。明日のための心配は無用です。明日のことは明日が心配します。神様を第一に求める人には神様がプラスアルファされ、平安と喜びを与えてくださいます。お金でフランスベッドを買うことはできても深い眠りは買うことはできません。色々な物を買うことはできるけれども感動と喜びは得ることができません。神様をまず第一に求めることが知恵です。そうすればすべて神様から与えられます。 2.どんな絶望的な環境の中にあっても神様に頼ることです。 神様を自分の力として信じることです。これが神様を愛する人です。ダビデはサウル王によって死の絶望の環境の中にあっても神様を自分の力として信じていました。預言者ハバククも自分の国がまもなく滅ぼされることを見ながらも神様を愛しました。喜びました。神様を自分の力だと告白しました。「私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。」(ハバクク3:19)これが神様を愛する人です。「そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。」(ハバクク3:17〜18)末期の肝臓癌の人がいました。家族が呼ばれて葬式の準備をするように医師から告げられました。子供は“パパ死なないで!”と泣き叫びました。彼は自分が死んだ後のことを思いました。そして、神様に祈りました。自分の内側を見ると真っ暗で絶望でした。神様に助けてくださいと祈っている時、一つの小さな芽が現れました。それは、「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」というみ言葉でした。それを握って祈っているとその光がだんだんと大きくなり、「イエス様の打たれた傷によって私はいやされた。」というみ言葉が現れました。そのみ言葉を握って祈っている時に自分の心が満たされ、ぐっすり眠ることができました。翌朝トイレでたまっていた腹水が悪臭とともに全部出てしまいました。三日後おかゆを食べることができました。医師は驚いて写真を撮ってみると肝臓癌がすべて消えていました。医師は「私は医学的に説明できない状況です。これはあなたが信じる神様のみわざだという他ありません。」と言われました。神様は彼を高い所を歩ませ、証し人にしてくださったのです。 3.私たちは神様をもっと深く愛することです。 初めの愛よりもっと、深く神様を愛することです。愛は体温計のように計ることができます。神様を愛する人は神様をいつも思い、側にいたいと思うし、祈るし、聖書を読みたいと思うようになります。神様にもっと捧げたいと思うようになります。しかし、神様を愛さなくなると、これと反対のことをします。それで主日までも来れなくなってしまいます。愛が冷たくなっている証拠です。私たちは愛が冷たくなると、「しかし、あなたは非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取り外してしまおう。」(黙示録2:4〜5)神様を愛する者を神様が助け出して高く上げてくださいます。 |
2010年8月15日 「血潮の力」 出エジプト12:13 人間を絶望させ苦しめるのは罪の問題があるからです。これは粘り強く私たちにつきまとって私たちを絶望させ、苦しめます。宗教的にどんなに努力しても罪の問題は解決しません。しかし、イエス・キリストの十字架の血潮がこの罪の問題を解決してくださいました。 1.イエス様の血潮は罪の呪いから私たちを救う力があります。 イスラエルの民は400年間エジプトの奴隷の生活の中で、非常に圧迫されたので、彼らは神様に叫びました。最後の救いの手として与えられたのがエジプトの初子を打つことでした。その時神様がイスラエルに命じられたのは“子羊をほふってその血を門柱とかもいに付けなさい。”ということでした。“その血を見るとそこを通り越そう。”と神様は言われました。門柱とかもいに血が付けられた家はその中にどんな人が住んでいようと、どんな罪人がいようと災いは通り過ぎました。血が付けられていない家では初子が打たれました。その家にどんな権力者や博士がいても血が付けられていなければ全部打たれました。「それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」(ヘブル9:22)血は罪が赦され、その中にいる人が守られる力があります。血を信じることによって私たちは救われるのです。血は私たちに神様の前に立つ資格を与え、義をもたらします。神様は私たちに付けられた血を見られて“わが愛する子よ。わたしはあなたを喜ぶ。”と言われるのです。 2.イエス様の血潮は悪魔に打ち勝ちます。 悪魔は日夜私たちを告発します。罪を犯すように私たちを誘惑して攻撃します。私たちの心の奥深い所から悪魔の攻撃があって「もうおまえは駄目だ。これで終わりだ。おまえの罪は赦されない。」と絶望の言葉を言い続けます。悪魔の口を封じることができるのは、イエス様の血潮です。悪魔がいる地獄は罪を引っ張る力があります。地獄に引き込まれるすべてのものが血潮を告白すると、すべてが変えられ、新しくなります。地獄が引っ張るものから天国が引っ張るものに変えられていきます。イエス様が再臨される時は私たちはイエス様のもとに引き上げられ、集められるのです。 3.イエス様の血潮は永遠の礼拝と賛美です。 礼拝とはworshipと言い、血潮を最高の価値(worth)あるものとして礼拝することです。私たちを救ってくださった血潮は、悪魔に打ち勝つことができるし、災いから遠ざけてくださいます。私たちは今より永遠に血潮を礼拝することです。礼拝を捧げる人を神様は救ってくださいます。「彼らは、大声で叫んで言った。『救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。』(黙示録7:10)「なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」(黙示録7:17)天国は私たちがイエス様の血潮を信じる心の中に生まれます。私たちの心の奥深い所から喜び、平安、いのちの泉が湧き上がるのです。天国は私たちの心の中にあります。私がイエス様の子羊の血潮の賛美をすると、私が救われるし、私の家族が、また私の周りの人々が救われます。そして次々に変えられていくのです。血潮の力は偉大です。私たちは神様の御国に行くまで賛美していきましょう。 |
2010年8月8日 「神様の愛」 エペソ1:3〜7 人は愛を受けて愛と共に生きる者です。愛なしで人は生きることはできません。愛をいっぱい受けると人は健全に生きることができます。また神様に用いられる人になります。この世の愛は条件付きの愛です。無条件の神様の愛はいつまでも見守ってくださる愛です。人間の必要な愛は神様の愛です。 1.父なる神様の愛。 「神は、私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」(本文4節)父の愛はあらかじめ定めておられた愛です。神様はちりにすぎない私たちを世界の基が置かれる前から選び、愛してくださいました。私のような者に何の価値があるかと絶望している人はその思いを捨ててください。私たちは全能の神様の愛のパートナーなのです。神様の子としてくださるために私たちを選び、定められました。昔の結婚は子供の意志と関係なく親同士が結婚相手を決めました。同じように私たちも神様によってイエス・キリストの妻となるように選ばれ、定められました。神様の国の共同相続人になるため神様は私たちを呼んでくださいました。 2.御子の愛。 御子の愛は十字架の愛です。「私たちは、この御子のうちにあって御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。」(本文7節)私たちを愛してくださったイエス様は口先だけの愛ではなく、私たちのために本当に十字架にかかって死んでくださいました。私たちの身代わりとなられました。イエス様は私たちの原罪、咎をすべてを贖ってくださいました。「彼(イエス・キリスト)は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼への打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:5)神様は私たちの罪を赦してくださるためにサタンの攻撃をご自分の身に受け、私たちを救ってくださいました。私たちはイエス様の十字架の苦しみの故に救われたのです。罪が赦されました。呪いから解放されました。病がいやされ、永遠のいのちが与えられました。イエス・キリストがよみがえられることによってサタンの口を打ち砕きました。「最後の敵である死も滅ぼされます。」(Tコリント15:26)イエス・キリストは死からよみがえられ、勝利されました。 3.聖霊様の愛。 「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」(本文3節)私たちを選択し、定めた父の愛や、十字架の愛を聖霊様は私たちに注いで神様を賛美するようにされました。その愛が私たちに分るようにされました。テレビの料理番組では、私たちはおいしく料理されたものを見ることはできても食べることはできません。このように知識だけでは満腹することはできません。しかし、聖霊様は私たちに直接神様の愛を体験させてくださいます。恐れを締め出し、罪責感に打ち勝ちます。私は赦されたという思いになり、どんな苦しみ、迫害の中にあっても圧倒的な勝利者となるのです。オランダのコーリーテンブー女史はユダヤ人を助けたということでナチス収容所に入れられ、暴行を受け、恥しめられました。しかし、その中で彼女は父のような神様の声を聞きました。“コリー、パパはあなたを愛しているよ。わたしはあなたを捨てることはない。いつもあなたと共にいるよ。”という声にいつも勇気づけられ、励まされました。戦争が終わって彼女は伝道師になりました。ある聖会でメッセージをした後、握手を求める列の中に以前自分を恥しめた男が目に入りました。収容所で彼女を苦しめた人でした。どうしても人間的には赦すことができなかったのですが、祈った瞬間十字架のイエス様が見えました。それで手を差し出し、その男性と握手することができました。赦すことができたのです。これが聖霊様の愛です。圧倒的なイエス様の愛であります。どんな時にも賛美を神様に捧げる愛であります。 |
2010年8月1日 「変えられた聖徒」
ヨハネ3:1〜9 イエス様を信じると変えられます。聖書のことが全部よく分からなくても、自分が変えられていくことは分かります。イエス・キリストの中ですべてが新しくなります。変えられたことが自分にも分るし、周りの人にも分ります。 1.変えられなかった宗教の人。 ニコデモは、宗教に熱心な人であり、パリサイ派で週2回断食し、一番厳格な人々の中の指導者でした。彼は自分たちの足りないところを知るためにイエス様の所に来ました。彼は律法をよく守りましたが、喜びがありませんでした。彼はきびしい顔つきで喜びも平安も満足もない生活をしていました。現代のパリサイ派は宗教に熱心で弟子訓練もよくするのですが、高慢で人を批判したり、さばいたりするのです。ですから喜びがないのです。人を批判するところには神様はいないのです。神様は愛です。律法の完成は愛です。 2.水と御霊によって生まれ変わる。 ニコデモは宗教熱心な人でしたが、それだけでは神の国に入ることはできません。 変化を望むなら水と御霊によって生まれ変わらなければなりません。新しく生まれ変わるということです。「まことに、まことにあなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることはできません。」(本文5節)水とはイエス・キリストです。水と血によって来られたイエス・キリストです。聖霊によって赦しの愛が私たちの心に注がれます。「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:5)父の愛、御子の愛が私に注がれて心が熱くなります。“私は愛されている存在だ。赦されているのだ。”とセルフイメージが変えられるのです。“私は受け入れられた。”ということで夢とビジョンを持つようになります。これが生まれ変わるということです。宗教ではありません。 3.御霊に頼って生きる生活。 聖霊様は風のようです。「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それはどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(本文8節) 御霊の愛が注がれる方法、時はよく分りません。しかし、私たちが神様に祈っている時、神様の愛が人々に伝わって来ます。それで人が変えられるのです。ある伝道者がイエス様のことを人に伝えました。彼女は伝道者の話を受け入れませんでした。しかし、彼女は伝道者が帰る姿の中でやぶれた靴に目が注がれました。その時神の愛を感じ、聖霊の油注ぎを受けて彼女はイエス様を信じるようになりました。このように私たちは神様の愛が注がれてから変えられるのです。自分の熱心さや力ではありません。神の愛、御子の愛、聖霊様の愛が注がれる時に人を愛することができ、神様の仕事ができるようになるのです。聖霊様は風のような方なので私たちはいつも神様に頼る祈りをしなければなりません。 |
2010年7月25日 「神様の守り」 詩篇91:1〜13 神様は私たちを色々な恐怖から守ってくださいます。 1.いと高き方の隠れ場に住む者は全能者の陰に宿る。 いと高き方の隠れ場と全能者の宿は同じ場所です。全能者の宿は天国です。天国が本店だとすれば支店は教会であり、全能者の陰であります。教会は天国にあるものを持っています。まず十字架の赦しを持っています。神様は赦しの神様であり、天国は赦されるから入ることができるのです。毎日毎日赦される所であり、7の70倍も赦される所が天国です。私たちは最後にいと高き方の隠れ場に血潮によって赦され、入ることができます。天国は呪い、貧しさ、死がない所です。また、天国はいやしがあり、慰めがある所です。 2.神様は私たちをどのようにして守られるのか。 「主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。」(本文3節)わなとは知らない所にかけられ、私の命をとろうとするものです。「あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。」(本文3節)夜の恐怖は私が予測もできないものです。昼に飛び来る矢は予測はできるけれど私の力ではどうしようもできないものです。また、暗闇に歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも恐れません。地震が起こっても、真昼に来る危険からも神様は私たちを守ってくださいます。 3.天使たちに命じて私たちを守る。 「まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。」(本文11節)天使たちは御子のために造られ、御子の命令に従って動いています。御子を信じ受け入れると、私たちは神様と共に住むようになります。神様は私たちのために天使たちに命じて、すべての道で私たちを守るようにされます。予測できない恐怖、予測できてもどうすることもできない恐れから神様は私たちを守ってくださいます。「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。」(ヘブル1:14)私が神様に祈ると神様が天使たちに命じて天使たちが動き出します。「主をほめたたえよ。御使いたちよ。みことばの声に聞き従い、みことばを行なう力ある勇士たちよ。主をほめたたえよ。主のすべての軍勢よ。みこころを行ない、主に仕える者たちよ。」(詩篇103:20〜21)私たちが神様に祈ると、神様が命じて天使たちを動かし、私たちを守るようにされます。ペテロが牢に入れられた時、教会はペテロのために熱く祈りました。すると牢の中のペテロに天使が現れ、手の鎖をはずし、扉が次々に自動ドアのように開き、彼を外に連れ出しました。このように私たちの祈りを通して天使たちが守るのです。私たちの祈りを邪魔するのは不信仰です。不信仰のために、神様は私たちに異言の祈りを与えてくださいました。聖霊様が私の中で祈る時、私の知性が疑いを起して不信仰にならないように、聖霊様が祈るのです。聖霊の声を霊である御使いは知っているので、動き出します。危険な時や何のために祈ればいいか分からない時に異言で祈れば、神様が守ってそれを成し遂げてくださいます。異言の祈りは愛のとりなしの祈りです。私のとりなしの祈りを通して人が助けられます。世界中のある人が助けられるのです。私も誰かがとりなしの祈りをしてくれたことによって救われました。私たちは愛の祈りの負債を負っている者です。私も異言でたくさん祈れば人を助けることができます。御使いが神様の命令によって私たちを守ってくれます。しかし、御使いを拝んではいけません。御使いたちは仕えるものです。神様の命令によって動くのです。私たちは神様だけに仕えるのです。 |
2010年7月4日「イエス様から目を離さないでいなさい」 ヘブル12:2 私たちが毎日集中してじっと見続けるものは心に刻まれます。このようにイエス様を見続ける人はイエス様が心に刻まれます。 1.イエス様の愛の目が私を見つめておられます。 私(金先生)の孫が生まれましたが、その孫から私の目が離れません。体の小さな部分一つ一つをじっと見ると、とても神秘です。とても可愛らしいです。その時、聖霊様が私に感動を与えてくださいました。“本当にかわいいか。”“はい、かわいいです。”“わたしもあなたをそういう風に見ている。わたしの目の中に入れても痛くない。あなたから1分1秒も離れることはないのだ。”とイエス様が私に語られました。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」(イザヤ43:4)神様は私だけではなく、イエス様を信じる人々も同じように愛しておられます。感動が与えられ、その感動はイエス様の願いであります。イエス様が私たちを愛して見続けておられます。イエス様の愛は十字架の愛、私たちを見守る愛です。慰める愛です。イエス様は十字架上で私たちに死ぬほどの愛を示してくださいました。この愛を受けた私たちは罪が赦され、病がいやされ、平安を与えられました。私たちの中で主の愛が働く時、神の平安で満たされます。 2.私も神様を信仰の目で見るべきです。 真実な愛は相手を疑うことはありません。完全に自分を任せることができます。今、どんなことが起っても、死んでくださった程に私を愛してくださった方によってすべてがプラスになるし、すべてが益になることを信じ続けるのです。そうすると神の平安が来ます。私が主を仰ぎ見る時、心の中が平安になります。イエス様を信じると言いながら恐れることは間違ったことです。「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」(Tヨハネ4:18〜19)ヨブは最も恐れたものが彼を襲い、彼のおびえたものが彼の身にふりかかったと告白しています。私たちは主を愛するとどんな環境、どんな失敗があっても神様の前で肯定的に見ることができます。 3.希望の言葉を語ります。 愛される人の言葉は希望で満ちています。セルフイメージが変わるからです。神様は愛なる方であり、私に愛を注いでくださり、私を独特に造ってくださいました。ですから、ナンバーワンになろうとするのではなく、オンリーワンになればいいのです。私は世界で一つしかない花です。人と比較してはいけません。悪い言葉を使うとその方向に行ってしまいます。歌手としてヒット曲を出すためには感情を込めて5000回位歌うのだそうです。5000回も別れの曲を歌えば、その歌詞の言葉通りに人生がなってしまいます。本当に恐ろしいことです。私たちはイエス様の血潮でイエス様の愛を告白し、希望の言葉を語ることです。“イエス様の血潮によって罪がゆるされ、呪いから解放され、罪の呪いが消え去りました。イエス様の打たれた傷によって私はいやされ、アブラハムの祝福を受けました。私は1000倍祝福され、永遠のいのちを頂きました。”と希望の言葉を語ることができます。 |
私たちがイエス様を信じて救われ、義と認められ神の子とされました。神の子とされた人を神様が成長させてくださって聖化されるのです。この二つを区別して恵みを受けましょう。 1.義とは何か。 義とは神様の子どもとなる特権であり、神様の前に立つ資格を言います。これは自分の行動や働きによって得るものでしょうか。それとも信仰によって得るものでしょうか。アブラハムを通して神様がなさろうとすることをアブラハムは信じたので、神様はそれを彼の義と認められました。アブラハムは85才の時、彼の子孫は祝福されるという神様の約束を疑って“自分の子どもはもう生まれないのだ。”と思いました。しかし、神様は“アブラハムの子どもが生まれる。”と言われたのを彼は信じました。神様はそれを彼の義と認められたのでした。神様がなさったことを信じることが義です。「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」(ローマ4:5)私たちは恵みのゆえに信仰によって救われたのです。自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。ですからだれも誇ることはできません。 2.聖化とは何か。 聖化とは聖く変えられ、成長することです。イエス様を信じた時に罪が赦され、救われたという喜びはとても大きいものです。しかし、聖書を読みながら現実の生活で自分がどんなに弱い者であるか、そして自分の中にまだ罪が宿ってることを悟るのです。罪は赦されたのですが、罪がまだ宿っているのです。善をしたいと願うのに善を行う力がないのです。“ああ、私は本当にみじめな人間です。”と叫ぶことが自分の中で起ります。救われた神の子どもの中に聖霊様がおられるので、聖くなりたいという願いが生じます。しかし、自分の中に悪が宿っているのが分ります。私たちがこの悪に打ち勝つためには、私の中に共におられる聖霊様に頼るべきです。聖霊様は私たちを神の子として扱ってくださり、私たちを愛しておられるので、干渉し時には懲らしめられます。本当の子どもだからです。 3.聖化の力。 「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラテヤ5:16)御霊によって歩むということは祈りの生活をすることです。御言葉を読み、御言葉を聞くことです。そうすると成長していきます。御霊は大きな力の原理を持っておられるので、御霊に頼る人や一緒に歩む人を成長させます。聖くなって成長する者を神様は尊く用いてくださいます。私たちが天国に行くと成長の程度によって座わる席が違います。やっと救われたばかりの人が座わる席と神様に似ていく者としてたくさん変えられた人が座わる席は違います。受ける栄光も違います。私たちは大きなビジョンを抱いて神様から受ける栄光を目標にして前進しましょう。 |
私たちは神様の御心を知って従順したいと願っています。神様は今日の本文で私たちに神様の御心と神様の命令を教えてくださいました。私たちはこの命令に従順すべきです。 1.「いつも喜んでいなさい。」 これは命令です。私たちはこの世を生きていく時、喜びよりも心配や苦しみの方が多いのです。しかし、神様は「いつも喜んでいなさい。」と命令しておられます。人間の力ではこれを実行することは不可能です。人間の喜びは条件付きだからです。「わたしの民は二つの悪を行った。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを水をためることのできないこわれた水ためを自分たちのために掘ったのだ。」(エレミヤ2:13)この世の喜びは手に入れた瞬間、自分の手から離れてしまいます。永遠のものではありません。水をためることはできないのです。いつも湧きあがる喜びは神様からきます。神様は喜びの本体です。神様の国は喜びの国です。神様はこの喜び、湧きあがる喜びを与えようとしておられます。ためることもできないものを掘ってはいけません。いろいろなスポーツ、映画、セックス、麻薬、お金などで喜びを得ようとしますが、それらでは喜びを得ることはできません。湧きあがる喜びは神様からだけです。 2.「絶えず祈りなさい。」 「いつも喜んでいなさい。」という言葉を私たちに与える方は聖霊様です。ですから、私たちは絶えず祈らなければなりません。御言葉が私になりますようにという祈りの答えとして聖霊様が感動を与える時に、私たちは喜ぶことができます。最近、感動のホルモンが発見されました。笑ったり楽しんだりする時、エンドロフィンが生じるのですが、エンドロフィンの4000倍のホルモンがダイドロフィンです。私たちが聖霊の感動を受ける時にこのダイドロフィンが私たちの中に生じます。私たちが真理を悟った時や私のような罪人が救われるなんてなんという驚きと感動が湧きあがる時にダイドロフィンが出ます。そしてあらゆる病が瞬間的にいやされるのです。私たちは神様から感動を受けるためには常に祈らなければなりません。敬虔な人で有名なブラザー・ローレンスのように生活の中でも瞬間瞬間祈ることです。 3.「すべてのことについて感謝しなさい。」 良い事、悪い事を私たちが決めるのではなく、イエス様の中ですべてのことに感謝することです。聖霊様が感動を与えたことに感謝しなければなりません。感動を止めてしまうのが不平不満です。高速道路を流れるように走っている車が渋滞する理由は1台の車が止まってしまうからです。私たちが感謝を忘れて神様が私たちを導いてくださっているのを見ないで不平不満すると感動が止まってしまいます。渋滞してしまいます。不平不満したことを悔い改めていつも神様に感謝を捧げることです。「感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。」(詩篇50:23)家族に、周りの人々に、また教会に対して感謝する時、神様の救いがあらわれます。 |
2010年6月13日 「私と神の御子」 ガラテヤ2:20 19世紀のアメリカの作家マーク・トウェインは小説「王子と乞食」を書きました。その中で顔が似ていた王子と乞食が服を取り替えることによって彼らの運命が2週間位全く変わってしまいました。私たちはまるで乞食のトムのように呪われた運命の中にいる者です。毎日父親から暴力を受けて生きるトムのような私を救ってくださるためにイエス様が来られました。イエス様は天の豊かな祝福、いやし、永遠のいのち、義の服を持って来てくださり、それらの服を私たちに与え、十字架にかかってくださいました。 1.私はキリストとともに十字架につけられました。 イエス様は私の呪いを十字架で全部支払ってくださいました。呪いや地獄の苦しみを受け、毎日サタンの言葉で暴力を受ける私たちでした。しかし、イエス様がこの世に来られて、私のすべての重荷を背負って十字架にかかり、私を天の右の座に座らせてくださいました。これが永遠のいのちです。私たちはこの服によって天国に入るようになりました。 2.もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。 私たちは以前のような生き方をしてはいけません。古いものは過ぎ去って新しくなりました。今私たちはイエス様の義の服を着てイエス様の友人となり、天国の人になりました。ですから私たちは天国を思う存分味わっていかなければなりません。イエス様の中で健全な自尊心が必要です。“私はイエス様によって新しく変えられました。私はイエスから愛されています。”私の魂が恵まれるとすべてが恵まれます。イエス様の義の服を着ているとサタンは追い出され、私たちは完全に救われます。すべての所で恵みを与えてくださいます。神様は良いところから始まって最後まで良いことを続けてくださいます。預言者エリシャを自分の家に招いた女性は必要だった子どもが与えられ、その子どもが数年後死んだ時もエリシャの祈りによってその子どもはよみがえりました。7年間飢饉があった時もその家を別の安全な場所に移してくださり、神様の恵みによって王様から土地も家も戻してもらいました。しかも彼らが住んでいなかった7年間の畑の収穫分のお金までも与えられました。これがイエス様を信じる私たちに与えられる祝福です。 3.生きる目的。 「いま私が、この世に生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」今からはイエス・キリストを礼拝するために生きていきます。以前は私のためだけに生きるものでした。乞食のトムが回復されて、宮殿に住むようになり、力を増して王様を追い出すようなことがあってはいけません。エデンの園ではアダムとエバが神様に背きました。サタンはしきりに“あなたが王になれ。イエスを追い出せ。”と言い続けます。私たちはイエス様を礼拝するために生きるのです。神様を心から愛し、隣人をイエス様のように愛するために生きるのです。 |
ユダの国が一番絶望的な状態の時、預言者エレミヤはユダの王の家にある監視の庭に監禁されていました。彼は一生懸命神様を呼び叫び祈りました。その時神様は彼に啓示を与えてくださいました。 1.地を造られた主。 「地を造られた主。それを形造って確立させた主、その名は主である方がこう仰せられる。」(本文2節)主は私たちの周りの小さな動きも世界の動きのも、すべてみな知っておられ、主権はすべて主にあります。私たちの髪の毛さえも数えておられる主はイエス・キリストが再臨されるために今も働いておられます。日本の一千万人救霊も神様の御手の中にあります。日本には社会的、政治的な問題、経済的な問題など色々ありますが、これらはまるでエレミヤが監視の庭に閉じ込められたような絶望の状態です。しかし、救いは人間によってではなく、神様の全能の力によってであります。 2.「わたしを呼べ」。 私たちが主を呼ぶと、主が私たちの中で働いてくださいます。私が祈ると、神様が私の生活の中で働いてくださいます。第1も祈り、第2も祈り、第3も祈りです。ライン・ハルト・ボンケ先生がアフリカの宣教地で汚染された水を飲んで死にそうになった時、ある女性の祈りの声によって救われました。その女性はボンケ先生の父親の教会の信徒でした。聖霊様が彼女に働いて“アフリカにいるボンケ先生のために祈りなさい。”という声がしました。そしてボンケ先生はすぐいやされました。その後、ボンケ先生によって数千万人が救われるという奇蹟が起りました。また自分のためにも祈らなければなりません。祈る時に聖霊様が私たちの中で生きて働いてくださいます。 3.祈りは答えられる。 主は私たちの知らない理解をはるかに超えた言葉で語ってくださいます。その方に従順しなければなりません。十字架の言葉は救われる私たちには神の力です。しかし、滅びる人々には愚かに見えます。“杖を伸ばしなさい。”と言われれば杖を伸ばし、“羊の血を門柱とかもいにつけなさい。”と言われれば血をつければいいのです。主は祈る人にこのように人知をはるかに超えたことを語ってくださいます。目で見たことのない、耳で聞いたことのない、心で思い浮かんだこともない声で語ってくださいます。リバイバルが起るのは主の主権によってです。韓国や中国のリバイバル、タンザニアのリバイバルなどは主の主権によってそれぞれの導きや方法がありました。三坂先生はリバイバルのために祈っておられたにもかかわらず、病気になって体は絶望的な状態でした。しかし、一ヶ月前に聖霊の火の神秘的な体験をされました。その火が自分に燃えていました。人に按手するとその人はもっと強く火を受けるようになりました。私たちの持っているものは小さいものですが、それを分け与えると5つのパンと2匹の魚で2万名を食べさせ、12かご残ったような大きな奇蹟が起ります。日本一千万人救霊は私たちが受けた火を分け与える時に起るのであります。 |
2010年5月23日 「聖霊を受けなさい」 使徒の働き2:1〜4 イエス様はなぜ弟子たちに「聖霊をうけなさい」と言われましたか。イエス様は33年間この世に住んでおられましたが、30才までは大工の仕事をされました。イエス様はヨルダン川でバブテスマを受けられた後、聖霊が鳩のようにくだって来ました。それから3年半、イエス様はイスラエル宣教を始められました。聖霊様が来られないと神様の仕事はできません。聖霊様が臨まれてからイエス様は神様の仕事を始められました。では聖霊様が臨まれると、どのようなことが起るのでしょうか。 1.信仰の祝福が与えられます。 私たちが御言葉を信じる信仰は聖霊信仰です。聖霊様が臨んでくださると、神様が共におられるという信仰を与えてくださいます。イエス様の十字架の福音を信じるようになります。イスラエルの全家の者は雲の柱、火の柱に従って歩いて行きました。雲の柱は御言葉であり、火の柱は聖霊様を意味します。御言葉の聖霊信仰が私たちに与えられます。 2.熱い愛の情熱が与えられます。 激しい風や炎があらわれたというのは、神様の熱い情熱のあらわれです。私たちが心の中で聖霊を受けると、このように激しい風や炎のような情熱があらわれて、神様を愛するようになります。心を尽くし精神を尽くし力を尽くして神様を愛するようになります。私たちが礼拝を捧げ、神様をあがめ、神様に栄光を返すようになります。神様を愛する心は聖霊を受ける時、可能です。神様に対する情熱や熱い信仰を持つと、ダビデのように神様の前で踊るようになります。この愛をもって人を愛するようになります。人との関係で得をした、損をしたという心には幸せはありません。冷たくなっている心の中に神様が来られると、すばらしい事が起り始めます。作曲家であるヘンデルの心が冷たくなった時、彼は涙を流して悔い改めました。その時心の中に熱い聖霊を受けました。その時作った作品が“メシヤ”です。私たちの心が熱くなる時に人を生かすことができるし、いやすことができます。また国を生かすことができます。18世紀のイギリスを血の革命から救ったジョン・ウェスレーは、聖霊を熱く受けました。その結果、馬に乗って宣教して廻り、イギリスを救いました。一方フランスでは無神論者のヴォルテールによって血の革命が起りました。聖霊を受けると熱くなります。神様を愛すること、神様に捧げることが祝福となります。 3.希望の言葉の祝福を受けます。 聖霊を受けた人々は、みな聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国の言葉で話し出しました。私たちは以前は人を落胆させる言葉や否定的な言葉を使いました。しかし、聖霊を受けると心の中が聖霊で満たされ、希望、愛、聖い言葉が口から出ます。聖霊様がこの心をもって神様と交わるようにしてくださいます。御霊によって言葉が与えられ、人々が希望を持つようになります。聖霊を受けると、希望、愛で満たされます。皆さんが聖霊を受け、信仰の祝福、愛の情熱を受ける祝福、希望の言葉を受ける祝福で満たされますように、主の御名によって祝福します。 |
2010年5月16日 「水がかき回される時」 ヨハネ5:1〜9 ベテスダの池の水がかき回される時、初めに入った人はいやされました。大勢の病人が池の周りに伏せっていました。38年間病気にかかっている人はよくなりたいけれども自分の力では池に入ることはできませんでした。イエス様は彼を見て、いやしてくださいました。このことは日本の教会の状態をあらわしているようです。38年間ただ伏せっているだけで自分の力ではリバイバルのためには何もすることができない日本の教会の状態です。それがいやされました。 1.よくなりたいか。 リバイバルに対してよくなりたいという熱い情熱が必要です。1000倍リバイバルされる情熱、熱い願いが大切です。磁石に鉄が引っ張られていくように、私たちも願うとそこに引き上げられます。私たちは熱い思いをもってゴスペル福岡大会のめにリレー断食をしようとしています。日本にリバイバルを与えてください。神様が願うと願う人を用いてくださいます。神様は私たちがゆるされること、いやされること、永遠のいのちが与えられることを強く願っておられます。 2.ベテスダの祈りをしなければなりません。 いけにえを捧げる前に羊を洗う場所がベテスダの池でした。すなわち悔い改める祈りをする所です。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ4:17)とイエス様は言われます。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Tヨハネ1:9)私たちはいつも十戒を覚えながら神様や人に対する罪を洗ってもらうことが大切です。「わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」(T歴代誌7:14)と神様は言われます。 3.主が言われると水がかき回されます。 主が声を出すと水のざわめきが天に起り、地に起ります。イエス様が言われたら水が変わってぶどう酒になるし、死んだラザロがよみがえります。このようにイエス様が38年間伏せっていた人に「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」と言われたらその人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出しました。イエス様が声を出されるとすぐ奇跡が起るのです。イギリスのウェルズのリバイバルは、日本1千万人の魂の救いの希望です。エバン・ロバーツさんがリバイバルが来るように10年間祈り続けました。周りの人はお酒を飲んで堕落した生活をしていましたが、彼は信仰を守り、いつもひれ伏して祈りました。1904年彼は幻の中で神様の声を聞きました。10万名が救われるということでした。牧師先生に伝えてその週の水曜日に出席した17名に話すと聖霊の火がつきました。5ヶ月振りに10万名になりその後200万名になりました。神様は声を出して言われます。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。」教会が神様のみことばに聞き従うと、神様のリバイバルを見るでしょう。 |
2010年5月9日 「心の管理」 箴言4:23 心は思いの家です。色々な思いが心から出てきます。命の思いも死の思いも心から出てきます。「力の限り、見張ってあなたの心を見守れ。」と今日の本文で言っています。 1.心を管理するためには御霊に従って歩むことです。 私たちは1日に数百種類の色々な思いが浮かびます。これをどう管理すれば良いのでしょうか。聖霊の願いと肉の欲望とはいつも対立します。私たちの心は戦争の場所です。私たちは心の中のさまざまな思いを神様の前で処分していかなければなりません。悪い思いはサタンから来ます。人を生かす思いは聖霊様から来ます。悪い思いが入った時は瞬間瞬間祈らなければなりません。一番いい祈りは「主よ。私をあわれんでください。」という祈りです。サタンが入れた悪い思いはとても強いのです。自分の決心だけで打ち勝つことはできません。聖霊様に助けを求めて“私をあわれんでください。”と祈れば勝利することができます。ゴミのように汚い思いが心の中で積まれることがないように、瞬間瞬間神様の助けを求め洗ってもらって、勝利していかなければなりません。 2.健康的な自尊心を持つことです。 どのように自分を見るかによって口から出る言葉が違ってきます。自分を人より劣っていると思う人は劣等感的な言葉をしゃべります。高慢な人は高ぶった行動をします。現代の若者は自尊心が低くて人を頼り、人に合わせようとして苦しんでいます。一人で食事するところを見られたくないので、トイレで食事をすることがマスコミで取り上げられています。東大のトイレに“ここで食事しないように”と張り紙がしてあるそうです。自分の自尊心が低いからこのようなことが起ります。神様は「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」(イザヤ43:4)と言われます。このように神様は私たちを見てくださるのです。イエス様は私の義であり、贖い、聖めなので、私たちはイエス様を誇ることができるのです。 3.敬虔の訓練をすることです。 「肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今の未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。」(Tテモテ4:8)肉体を訓練すると筋肉ができて力持ちになります。このようにこの世の中で試練や逆境、色々な苦しみを御言葉によって勝利していくことが大切です。御言葉を聞いて口ずさむこと、QTをすること、御言葉の価値観を自分に植えつけることが大切です。1982年オーストラリアで牧師の息子として生まれたニックブイチチは生まれつき両手両足がありませんでした。しかし、この逆境を乗り越えて御言葉によって立ち上って希望の伝道師になりました。幸福の伝道師になりました。誰でも彼を見ると、希望の力で引っ張られていきます。彼は“100回倒れたら100回立ち上がりなさい。”と言いました。彼は自分におかれている絶望を御言葉によって訓練し、鍛錬して立ち上がったので、すごい力が生じ、彼によって300万人がクリスチャンになったそうです。皆さんも自由選択の意志をもっていつも敬虔の訓練をしていきましょう。 |
今日はナアマン将軍のライ病が癒された秘訣を通して恵みを分かち合いたいと思います。 1.ナアマン将軍は福音を聞きました。 福音を伝える人によって恵みを受けました。ナアマン将軍が置かれている絶望を希望に変えたのは、戦争で捕らえられたイスラエルの女奴隷によってでした。この女奴隷の立場は、苦しい絶望的な立場でしたが、イエス・キリストを伝えることができました。それで国家が動きました。アラムの王はイスラエルの王に親書を送りました。このようにこの女奴隷は国を動かす福音を伝えたのでした。これが1000倍の祝福であります。国家も個人も希望に向かっていくのです。私たちが持っている十字架の福音は希望です。癒しの希望です。この国を癒す希望です。ですから私たちは伝えなければなりません。伝える人がいなければ聞くこともできないし、聞くことがなければ、信仰が与えられません。教会に行ってみようという希望を伝えることが大切です。 2.神様は謙遜な人に恵みを与えてくださいます。 ナアマン将軍は王の手紙と共に政治的、外交的な力、戦車、馬のすべての力を持ってきました。エリシャを通して伝えられたのは、ヨルダン川に下って身を洗いなさいと言うことでした。それを聞いたナアマン将軍は怒りました。自分の思いと違っていたからです。神様の願いは、彼が馬から降りて勲章や人間的な名誉がついているものを脱ぎ、ライ病の部分を全部明らかにすることでした。罪が赦され病が癒されることは謙遜であることが大切です。ナアマン将軍は高慢だったので、エリシャがそのことを脱ぎ捨てるように、自分のこの世の築き上げた権力や名誉やそういったものを捨てて、神さまの御言葉に直接触れられるようにしました。これがヨルダン川で裸になって体を洗ってもらうことです。私たちがこのように恵みを受けるためには謙遜、自分を捨てて、十字架に従って行くことです。 3.従順によって恵みを受けました。 彼は下っていって、主の僕が言った通りに水に浸って7たび洗いました。自分の考えを十字架につけて、神様の御言葉を信じることが従順することです。「 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)私が従順するとヨルダン川は普通の川ではなくなり、イエス様の十字架から流される血潮に変わるのです。私を洗い、癒す祝福の川となるのです。7たび浸したというこの7は神様の完全数であります。神様の時まで忍耐して、信仰もって進み続けることです。そのためには祈りが大切です。祈りによって神様の時が来るまで進むのです。その結果、神様の時が来て、私に実を結ばせてくださいます。自分の理性に合わないと言わないで、いつも御言葉に従っていくことが大切です。スポルジョン先生は自分の孤児院のために300ポンド頂きました。しかし、祈っていると神様がその300ポンドを孤児院をしているジョージミュラーに与えなさいと言われました。スポルジョン先生は神様に従いました。ちょうどその時、ジョージミュラー先生は300ポンドをくださいとひざまずいて祈っていました。その祈りが応えられて、二人は涙を流して共に喜びました。スポルジョン先生が事務室に帰ってみると、ある人から300ギニー献金されていました。300ギニーは300ポンド150セントです。彼は“主よ、あなたは利息まで付けてくださるのですね。”と感激したそうです。私たちが従順すると、ナアマン将軍の皮膚が幼子のようにきれいになったように、イエス様を信じる人々は昨日よりも今日が、今日よりも明日が、益々良くなっていくのです。 |
見渡してじっと見ると、それがこちらに引き付けられて近づくのです。蛇がねずみをつかまえる時は、目でじっと見てとらえるのです。目で見ることには大きな力があります。私たちが正しいものを見ると正しいことが起ります。私たちの運命と未来は見ることに よって決まります。 1.アブラハムはロトと別れました。 ロトはアブラハムの親戚でした。彼はこの世を見る目で物を見ました。彼は神様がもう間もなく滅ぼそうとするソドムを神の園のように見て罪人の町であるソドムを恋いしたってそこに下って行きました。このように自分の思いで見渡しているロトとアブラハムは別れました。ロトと別れたアブラハムに神様はビジョンを与えてくださいました。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。」と神様はアブラハムに言われました。また子孫が増えるという約束を与えてくださいました。アブラハムがそのように見渡したら神様が土地を与え、神様が子孫を増やしてくださいました。見渡しているのは私たちですが、成し遂げられるのは神ご自身です。聖霊の力です。聖霊が臨むと私たちは力を受けます。そして私たちが1000倍祝福されます。 2.立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。 縦と横を歩き回るということは、ビジョンを見ることです。成就されたことを味わって見ることです。まだ自分の土地ではないけれど、そこを歩いて見るのです。私のものになったかのように見るのです。環境は悲惨で絶望であっても、いつもビジョンを見ることです。目に見えず、耳で聞こえず、手で触れるものがなくても、それが成就されたかのように信じることです。十字架を通して私たちが新らしく生まれかわったことを見ることです。聖霊充満の姿を見、いやしが現われ、アブラハムの祝福を豊かに頂いていることを見ることです。永遠のいのちを見ることです。マルティン・ルサー・キング牧師は“I have a dream”と夢を宣言しました。その夢が全能の神様によって、もうすでに成就されたと見ていました。その結果、その夢が実現しました。 3.アブラハムは神様のために祭壇を築きました。 アブラハムはどこに行っても神様を優先し、神様のために祭壇を築きました。これが真の成功者です。神様が1000倍祝福してくださったら、その祝福をもって神様に栄光をお返しする礼拝者になることです。神様が見なさいと言う啓示を受けてその道を歩むことが真の勝利者です。神様を礼拝することが祝福です。百貨店王として有名なジョン・ワナメイカーは、12才までしか教育は受けていませんでしたが、神様を愛する礼拝者でした。礼拝する時に知恵が与えられ、誰も考えつかなかった百貨店を思いつきました。世界最大の百貨店王になりました。多くの物質をもって教会やインドでYMCAを建てました。1889年アメリカの23代の大統領であるヘリソン大統領から郵政事業の長官になってくれと頼まれた時、彼は自分が教会学校の生徒を教えることができれば、その仕事を引き受けると言いました。教会を守り、礼拝を守り67年間日曜学校の奉仕をした人でした。彼は真の勝利者です。84才の時、日曜学校で証しをしました。自分の一番の投資は1年分割で買った赤い聖書だと言いました。礼拝を守る人が真の成功者です。 |
ヨシュアに神様はイスラエルの民をカナンの地に導くように言われ、それは必ず成功すると言われました。主のみこころが成ることが成功であります。神様は私たちに成功するためには神様の約束を口ずさむことであると教えてくださいました。 1.御言葉を口ずさむことです。 昼も夜も御言葉を口ずさまなければなりません。口ずさむとは心に留めることであり、自分自身に続けて言うことです。私たちも聖書に書かれている御言葉を口ずさむことです。昼も夜も口ずさむことです。私たちの体は寝ていても霊は主とともに私たちを神の奇蹟と祝福へと導いてくださいます。私たちは口ずさむということが大切です。御言葉を口ずさむと口ずさんだ通りになっていきます。 2.主の中で口ずさむことです。 聖書の御言葉には主の中にいる人々に言われることと主の外にいる人々に言われる言葉があります。申命記28章の1節から13節は主の中にいる人々に言われる御言葉です。また14節から68節は主の外にいる人々に言われる言葉です。雷、雪、雨の時、家の中にいれば安心です。そのように主の中にいる人は心配がありません。イエス様が十字架を通して罪、呪いを背負って死んでくださいました。神様の審判は終りました。私たちが十字架の足もとにいると、罪や呪いに定められることは決してありません。しかし、サタンは私たちに恐れをもたらします。ヨブは多くの財産がありましたが、恐れた結果財産を全部失ってしまいました。「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」(Tヨハネ4:18)イエス様は私たちのために身代わりとなって死んでくださった程、私たちを愛してくださいました。イエス様は律法の呪いを十字架の上で背負われたのです。私たちには呪いはありません。アブラハムの祝福だけがあります。これを信じることが口ずさむことです。 3.いのちの言葉を語ることです。 心の中で満たしたものが口から出るのです。私たちはいのちの言葉と死の言葉が口の中にあるとうことを忘れてはいけません。「わたしは生きている。わたしは必ずあなたがたに、わたしの耳に告げたそのとおりをしよう。」(民数記14:28)否定的な言葉を言ったり、否定的な歌を歌ってはいけません。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:10)御言葉を言い続け、信じ続けることが大切です。申命記1章11節にあるように“あなたは1000倍祝福されます。”このように言い続けるとその通りになります。 |
2010年4月11日 「クリスチャンの自由」 ヨハネ8:31〜36 人類の歴史は自由を得るための戦いの連続です。内面の自由、外面の自由、個人、国家、すべては自由を得るための戦いをしています。イエス様はその自由を与えると言われました。真理を知り、真理があなたを自由にします。イエス様が与えられる自由は本当の自由です。 1.贖いの自由。 イエス様は私たちを代価を払って罪とサタンの奴隷の生活から贖ってくださいました。 ある牧師先生が道を歩いておられた時、若者が鳥かごの中の鳥を棒でいじめていました。鳥は逃げ回って苦しそうでした。先生は若者に“どうして鳥をいじめているのか”とたずねました。若者は“自分のものだからどうしようと自由でしょう”と答えました。先生はよく考えながら“この鳥を私に売ってくれないか。”と言って10ドルで買いとりました。先生は日曜日の説教の時に鳥かごの中の鳥を見せて10ドルで買い戻し自由にしたことを話しました。悪魔は私たちを罪の鳥かごに入れて苦しめます。しかしイエス様は流された血潮で買い取ってくださいました。イエス様はひどい苦しみを受けて私たちを買い取って私たちにいのちを与え豊かに与えるための買い取りでした。それは私たちに自由を与えるためでした。 2.自由の内容。 @貧しい人々に福音を伝えるように。― 世界の歴史の中で北朝鮮と韓国を比べることができます。北朝鮮は36年間韓国と同じく日本の植民地として支配され、さらに3年間激しい民族戦争をした国です。そして今では、世界で一番貧しい国になりました。韓国はイエス様を信じる国になり、自由があり祝福された国になりました。A捕われ人には赦免を−。「私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Tヨハネ1:9)罪の赦しがあり、赦された喜びがあります。B病のいやし−イエス様がいやしてくださったという言葉が聖書には数多く記されています。医学的な治療、自然治療、信仰によって神様の治療を信じます。心配、恐れから解放されます。イエス様は私たちの髪の毛までも数えておられるからです。イエス様は死の恐怖から解放し、よみがえりと永遠のいのちを与えてくださいました。 3.私たちはこの自由を守らなければなりません。 悪魔サタンは“どうして神様に束縛されているのか。おまえは自由なのだ。だから自由を味わえ、他のものを味わえ”と私たちが神様のみ言葉から離れるようにしきりに話しかけてきます。しかし、私たちが神様のみ言葉から離れるといろいろな苦しみに会います。私たちの人生の中で波風が起る理由は神様のみ言葉から離れるからです。神様から離れるとお金があってもなくてもいつも問題が起ります。イエス様の中にいれば物があってもなくても感謝することができます。イエス様の中で満足するからです。パウロは「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また飽くことも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:11〜13)と言いました。 皆さんがイエス様の中で満足するように主の御名によって祝福します。 |
2010年4月4日 「復活の体験」 ヨハネ11:25〜26 イエス様がよみがえられたということほどすばらしい祝福はありません。死の力を打ち破り、いのちと永遠のいのちを与えてくださったからです。今日がその日です。 1.イエス様のよみがえりは歴史的なものです。 イエス様は金曜日の午前9時に十字架につけられ、午後3時まで6時間十字架上で苦しみを受けられました。それで「すべて完了した」と叫ばれ、霊を父なる神にゆだねられました。それからアリマタヤのヨセフの墓に収められました。敵たちが番兵をたててくださいと願ったので大勢の番兵が墓を守りました。しかし、イエス様はよみがえられて墓はからっぽになりました。ペテロやヨハネの12弟子や500人の人たちがよみがえりのイエス様に出会いました。1人だけがイエス様に会ったとすれば夢か幻でしょう。しかし、500人がイエス様に出会ったのですからこれは現実に起ったことです。イエス様は苦しみを受けた後40日の間彼らに現われてご自分が生きておられるというたくさんの証拠を見せられました。イエス様は歴史的に十字架につけられ、歴史的によみがえられました。 2.イエス様のよみがえりは私たちに希望を与えます。 人間は一度生まれて必ず死にます。絶望的なこの死の問題に希望を与えるものは、この世の宗教にはありません。しかし、イエス様は死んで4日になったラザロに「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(本文)と言われました。最大の敵は死です。悪魔は人を誘惑して罪を犯すようにします。悪魔は罪や死をもたらします。イエス様はこの悪魔を打ち破り勝利なさったので私たちには希望です。 3.復活の体験。 私たちはイエス様のように死の力を打ち破り勝利する復活の体験をする道があります。これは罪を処分することです。罪を赦すことができる神様の御子を信じることです。その方は私たちの罪を赦し、解決してくださった方です。十字架で私たちの身代わりとなって罪を処分してくださいました。「わたし、このわたしは、わた自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」(イザヤ43:25)罪がなくなるので悪魔も死も退くのです。イエス様が私たちを義としてくださり、よみがえり、いのちになってくださるのです。リンカーン大統領は子供の時、早く両親を失いました。結婚して妻も子供も死にました。選挙には6回落選しました。やろうとするすべてが失敗に終わりました。リンカーンの友人たちはリンカーンがうつになって自殺するするかもしれないと思いました。しかし、リンカーンの顔は輝きました。勇気をもち、肯定的になり、輝きました。友人が彼にその理由をたずねると、「私は聖書を読みながら、死の力を打ち破ったイエス・キリストと出会った」と言いました。私たちが天国を体験し、よみがえりを体験するためには罪を赦してもらうことが大切です。「私の名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」(U歴代誌7:14)罪が赦されるためには、自らへりくだることが重要です。“ごめんなさい。私が悪かったのです。赦してください。”と神様の前で素直にあやまることによって赦される道が開かれるのです。家族の中でもまず自分があやまり、“私が悪かったのです。”と言えば人間関係は良くなります。プライドが高く“ごめんなさい。”と言えないことが問題なのです。私たちが自らへりくだって主の前に“私が悪かったのです。赦してください。”と言える祝福された私たちとなってよみがえりの体験するように主の御名によって祝福します。 |
2010年3月28日 「失望の克服」 ピリピ4:6〜7 私たちの生活は毎日失望との戦いです。自分や他人に対する失望、神様に対する失望、これが怒りに変わり、自己憐憫になり、うつになります。そうすると人生が灰色になり、人格が破壊されてしまいます。私たちはイエス・キリストにあって失望に打ち勝つことができるのです。 1.イエス様は愛の神様と交わりを持ちました。 イエス様は100%神様であり、私たちの救いのため100%人間となられました。ただ罪だけがない方です。私たちと同じように喜び、悲しみ、失望されることがありました。失望に打ち勝つ秘訣は神様の愛の声によってでした。「わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」この愛をもってイエス様は「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」(ヨハネ15:9)と私たちに言われました。神様の愛によって失望を与える人を赦し、十字架までも喜びをもって忍ぶことがてきました。私たちも神様との愛の交わりを十字架を通してすることができます。十字架の愛の中で私たちは信仰が与えられ、失望に打ち勝つことができます。 2.すべての重荷を主にゆだねることです。 主は私たちに「すべての重荷を主にゆだねよ。主は、あなたがたのことを心配してくださる。」(詩篇55:22)と言われます。ゆだねるということは神様に問題を投げ捨てることです。私たちが問題をかかえて失望してはいけません。すべての重荷を主に投げ捨てることです。今日の苦労は今日で充分であり、今日与えられたものに満ち足りる思いをすることが重要です。自分勝手に成功や失敗を決めるのではなく、神様が私を導いてくださった、今日の日を神様にゆだねることです。このように神様が導いてくださったすべてのことをゆだねる生活をすることです。落下傘部隊が教官から「絶対下を見ないように。」という指示があります。上だけ見ることです。絶望を見て恐れても何の役にも立ちません。ただ上だけ、力ある約束だけ見て、飛び込むことができるのです。ゆだねるということはそういうことです。 3.すべてのことに感謝することです。 感謝には3つのタイプがあります。恵みを受けても感謝しない人もいるし、恵みがある時だけ感謝する人もいます。しかし、自分を犠牲し、自分を与えながらも感謝する、これはすべてのことに感謝する最高の感謝です。どんな試練、どんな失望もこのような態度を持っている人を絶望させることはありません。私たちが過去、傷ついた部分、損した部分をいつも思い出して怒って嘆く人がいます。ヨセフの人生を見ると、17才で、奴隷になって13年間涙といばらの道を歩みました。神様に失望し、兄弟に失望し、自分に失望して怒ってもいいような人生でしたが、彼はすべてを感謝しました。私たちの人生の船の中で色々な波風がくるのですが、試練の波風を私たちが帆の方向をよくたてると、私たちは目的地に速く着きます。ヨセフを苦しめた兄弟たちのいじめ、奴隷の生活ポテイファルの誘惑、牢の生活すべてが益になってエジプトの総理大臣になりました。それで多くの人を救うことになるのです。感謝することは帆を立てることです。 |
2010年3月21日 「イエス様の証人」 使徒の働き1:8 私たちの中でイエス様が来られたら私たちはイエス様を証しするようになります。証人とは体験して目撃したことに対して証言する人のことです。聖霊が臨むと私たちは力を受け、イエス様の証人となります。 1.罪の赦しと新生に対する証人。 私たちがイエス様が私たちの罪を赦してくださったという証人になるのです。誰でも罪を悔い改め、イエス・キリストの血潮を信じると私たちの中ではっきりと罪が赦されたということが起るのです。イエス様はニコデモに「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」と言われました。水とはイエス・キリストの十字架から流された血潮であり、赦しのみ言葉を証する御霊が信仰となって私たちは新生する体験をします。家族の中で赤ちゃんが産まれたら皆が分るように、新生した人は皆が分ります。周りの人々が新生した人の変化を認めるようになります。新生の喜び、罪の赦しの平安があるからです。 2.聖霊充満に対する証人。 聖霊充満とは、み言葉が私たちの中で強く信仰によって現われることです。初めの殉教者であるステパノは飛んでくる石を恐れることなく、痛く感じることなく勝利することができたのは、その時、天の窓が開いてそこに立っておられるイエス様を見たからです。これが聖霊充満です。異言には主と交わりをする異言、宣教するための異言があります。このような賜物も聖霊充満です。 3.いやしに対する証人。 信じる者が病人に手をおけば病人はいやされます。クリスチャンはいやしの証人です。 3.祝福に対する証人。 アダムとエバが堕落して以来この世に呪いのいばらがいっぱいありました。イエス様が来られた理由は、私たちを贖い出すためです。アブラハムの祝福は与える祝福です。神様がまず私たちに富意識を与えてくださり、豊かに与えることになります。 5.永遠の天国に対する証人。 永遠の天国に対する証しの証人となります。この世にあって私たちは旅人のような者です。私たちの本拠地は天国です。この世を去った後、私たちの行く所は二つの場所に分かれます。イエス様がおられる所とイエス様がおられない所です。聖書はイエス様がおられる所を永遠のいのちがある所と言われます。イエス様がおられない所は破壊者がいる所であり、滅びの所です。イエス様がいやでイエス様を拒んだ人はイエス様がおられない所に行くのです。イエス様は私たちに「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14:3)と言われます。私たちを迎えるためにイエス様はもうすぐ来られます。天国全体が動いて私たちを迎えるのです。しかし、イエス様を信ぜずイエス様を受け入れなかった人は、地獄全体の力が彼を連れて行こうとするのです。私たちはイエス様によって最後の勝利であるイエス様が迎えに来られたという証しをしなければなりません。金先生のおばあさんが子どもたちや孫たちに残された最後の言葉は「泣かないで。私を迎えにイエス様が花の車をもって迎えに来られたから。」という言葉でした。これは最高の証しであり、最後の勝利の証しであります。 |
2010年3月14日 「箱舟に入りなさい」 創世記7:1〜5 神様はノアに「あなたとあなたの全家族とは、箱舟にはいりなさい。あなたがこの時代にあってわたしの前に正しいのを見たからである。」(本文1節)と言われました。 1.箱舟を造りなさい。 神様は「箱舟を造りなさい。」とノアに命じました。ノアの時代は地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのを見られて、神様は人間を造られたことを心痛められました。ノアを見るとノアは神様を愛し、神様と共に歩みました。神様はノアを通して人類を新しくしようとししておられました。120年間膨大な財産、時間、努力を尽くして箱舟を造りました。箱舟は長さ135m、幅22、5m、高さ13、5mの大きな舟でした。神様はノアを祝福し、箱舟を造って人々に警告しました。洪水が来るから悔い改めて準備するように言いましたが、一人も耳を傾けませんでした。彼らは今まで雨を見たことがなかったので、彼らはあざ笑いました。しかし、洪水は来て、人々は滅ぼされました。 2.箱舟に入りなさい。 ノアの全家族は箱舟に入りました。洪水の時、救いの唯一の避難場所は箱舟しかないのです。高い山でもどこでも救いはないのです。箱舟は教会を意味します。教会はイエス・キリストが審判される時の唯一の避難場所です。ノアは「箱舟に入りなさい。」という命令を聞いてその通りにしました。箱舟は安全な構造で作られていました。箱舟の中も外もやにで塗られていました。やにはカパールと言って覆うという意味です。やには赤い部分があり、油の部分があります。赤いのは血潮を、油は聖霊を意味します。イエス様の血潮がこの世の罪を贖い、救い、聖霊の油を注いでこの世の水が入らないように、つまり、肉の欲、目の欲、この世の自慢が入らないようにされました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)ノアの全家族が入るようにされました。7日後雨が降り始めました。7日とは私たちの教会生活を意味します。私たちが「箱舟に入りなさい」と言われて箱舟に入ったのに、雨が降りません。この世の人々は自分たちが勝ったと思いました。ノアの家族達は益々迫害され、非難され、侮辱されました。しかし、7日後に主はうしろの戸を閉ざされました。私たちも教会に入ってドアが閉ざされる日が来ます。その時聖霊様が私たちを天に引き上げてくださるのです。 3.箱舟の中での生活。 箱舟の中での生活は窓が上だけにあります。だから水が引いたかどうかを見ることはできませんでした。ただ天にあるものだけを見ました。信仰、希望、愛の神様の御座であるイエス・キリストだけを仰ぎ見て私たちは変えられる生活をしなければなりません。今この世は愛が冷たくなっています。間違ったものを見たからです。特にコンピュターのゲーム中毒になって現実か架空の世界か分らなくなってしまうのです。それで人を殺したり、悪がはびこって愛が冷たくなっていくのです。しかし、私たちは神様だけを仰ぎ見て神様によって変えられ、愛の人、聖い人にならなければなりません。私たちが箱舟の中で平安を頂きながら生活できるように、主の御名によって祝福します。 |
2010年2月28日 「イエス様と出会ったザアカイ」 ルカ19:1〜10 ザアカイは自分の町にイエス様が来られるのを待ち望んでいました。背が低かったザアカイは木に登り、イエス様と出会いました。そして彼は変えられました。 1.ザアカイはイエス様の福音を聞きました。 ザアカイは取税人のかしらで金持ちでした。この世の基準では成功した人でした。エリコはイスラエルの南部で東西の中心地で国際貿易がここを通過したので、彼はたくさんのお金をもうけました。積極的で出世志向の人でした。それで高い地位までのぼりました。しかし、イエス様のいない成功はむなしく、空の空でした。彼はイエス様の福音を聞きました。イエス様は罪を赦し、慰め、勇気を与えてくだる方であり、死んだ者をよみがえらせる方であること、また姦淫の現場で捕らえられ、死の運命にあった女性を生かして赦してくださった方であるという福音を聞きました。「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)ですから、福音を聞くことはとても大切です。 2.ザアカイは積極的に木に登りました。 彼は背が低かったけれど、後ろに退かないで前方に走り出て、木に登りました。私たちもイエス様と出会うために妨害するものが色々あります。人の頭(思想)です。科学、哲学、政治、信仰宗教の思いがイエス様と出会うのを邪魔するのです。私たちは人を通してイエス様を見ようとしないで直接啓示によって見ることが大切です。聖書を読んでイエス様に会おうとすることが重要です。木に登ることが大切です。木とは十字架です。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(Tコリント1:18)木に登ったザアカイを見て人々は彼をあざ笑いました。しかし、イエス様は彼に会ってくださいました。木に登ると人の頭が邪魔しません。イエス様を直接見るということは十字架を見上げることです。イエス様は私たちを愛して私たちの罪の身代わりとなって死んでくださり、私の病をいやすために十字架にかかってくださいました。イエス様は木に登っているザアカイの所に来られて「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」(本文5節)と言われました。私たちはイエス様と人格的に会うことが大切です。人格的に会ったら大喜びが生じました。今まで求めたこの世の快楽、お金、名誉からはむなしさだけがありました。しかし、イエス様に出会って、彼は喜びで満たされました。人々が批判してもイエス様がありのままの自分を愛してくださるし、喜ぶと言ってくださるので、彼は幸福感で包まれました。彼が求め、探していたものがイエス様によって満たされました。 3.変えられたザアカイ。 ザアカイは大きな喜びに包まれました。価値観の変化がありました。彼は喜びをもって財産の半分を貧しい人たちに分け与えることができました。私たちは天国の子どもになりました。イエス様と出会った私たちは、この喜びと共に義務も持っています。その義務は日本人が1千万人救われることです。私たちはもらった福音を分け与える責任があります。人々に命を与え、豊かに与える責任です。これがアブラハムの祝福であります。
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ザアカイは自分の町にイエス様が来られるのを待ち望んでいました。背が低かったザアカイは木に登り、イエス様と出会いました。そして彼は変えられました。 1.ザアカイはイエス様の福音を聞きました。 ザアカイは取税人のかしらで金持ちでした。この世の基準では成功した人でした。エリコはイスラエルの南部で東西の中心地で国際貿易がここを通過したので、彼はたくさんのお金をもうけました。積極的で出世志向の人でした。それで高い地位までのぼりました。しかし、イエス様のいない成功はむなしく、空の空でした。彼はイエス様の福音を聞きました。イエス様は罪を赦し、慰め、勇気を与えてくだる方であり、死んだ者をよみがえらせる方であること、また姦淫の現場で捕らえられ、死の運命にあった女性を生かして赦してくださった方であるという福音を聞きました。「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)ですから、福音を聞くことはとても大切です。 2.ザアカイは積極的に木に登りました。 彼は背が低かったけれど、後ろに退かないで前方に走り出て、木に登りました。私たちもイエス様と出会うために妨害するものが色々あります。人の頭(思想)です。科学、哲学、政治、信仰宗教の思いがイエス様と出会うのを邪魔するのです。私たちは人を通してイエス様を見ようとしないで直接啓示によって見ることが大切です。聖書を読んでイエス様に会おうとすることが重要です。木に登ることが大切です。木とは十字架です。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(Tコリント1:18)木に登ったザアカイを見て人々は彼をあざ笑いました。しかし、イエス様は彼に会ってくださいました。木に登ると人の頭が邪魔しません。イエス様を直接見るということは十字架を見上げることです。イエス様は私たちを愛して私たちの罪の身代わりとなって死んでくださり、私の病をいやすために十字架にかかってくださいました。イエス様は木に登っているザアカイの所に来られて「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」(本文5節)と言われました。私たちはイエス様と人格的に会うことが大切です。人格的に会ったら大喜びが生じました。今まで求めたこの世の快楽、お金、名誉からはむなしさだけがありました。しかし、イエス様に出会って、彼は喜びで満たされました。人々が批判してもイエス様がありのままの自分を愛してくださるし、喜ぶと言ってくださるので、彼は幸福感で包まれました。彼が求め、探していたものがイエス様によって満たされました。 3.変えられたザアカイ。 ザアカイは大きな喜びに包まれました。価値観の変化がありました。彼は喜びをもって財産の半分を貧しい人たちに分け与えることができました。私たちは天国の子どもになりました。イエス様と出会った私たちは、この喜びと共に義務も持っています。その義務は日本人が1千万人救われることです。私たちはもらった福音を分け与える責任があります。人々に命を与え、豊かに与える責任です。これがアブラハムの祝福であります。 |
2010年2月21日 「喜びの日・主の聖日」 イザヤ58:13〜14 天の父なる神様は私たちに対して熱い願いが一つあります。それは私たちが幸せになって尊ばれることです。そのために神様が私たちに恵みとして安息日を与えてくださいました。安息日は私たちに安息を与える日です。私たちが安息日を「喜びの日」と呼び、主の聖日を「はえある日」と呼び、これを尊んでいると、神様が私たちを祝福してくださいます。安息日は私たちを回復させてくださる日です。 1.主の聖日は安息を回復する日です。 神様は天地万物を6日間かかって創造された後、7日目になさっていたすべてのわざを休まれました。私たち人間は造られて初めから安息に入ったのです。人間の安息はただ人間的な休みではありません。神様と共にいることが安息です。神様と共にいる喜び、楽しみを人間が罪を犯してから失ってしまいました。失った安息を再び取り戻してくださるためにイエス様がこの地上に来られ、十字架にかかってくださいました。それでイエス様は私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれました。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって私たちはいやされました。 2.主の聖日は私たちが聖くなる日です。 神様に呼ばれ、神様に触れられる瞬間、私たちは聖くなります。罪が赦され、新しくなります。この世の宗教は熱心に何かをすることによって聖くなると言っていますが、そうではありません。神様の家に呼ばれ、聖霊に触れられ、み言葉に触れられる時、私たちは聖くなります。私たちは赦され、聖くなると、平安と喜びで満たされます。 3.安息日を守ることによって豊かな祝福を受けます。 「わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う。」(本文14節)これは神様の約束です。高い所とは、この世の中でも祝福を受け、高く用いられることを意味します。神様の法則は与える法則であり、種まきの法則です。「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。」(ルカ6:38)「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。」(Uコリント9:6)祝福を受けるためには、種を蒔くことです。物質を与える時、自分も与えられるのです。どんな苦しみがあっても私たちが神様の主日を守ることによって、神様は私たちを祝福してくださいます。神様は安息日を守る人に高い所を歩ませてくださいます。アメリカのアンドリュー・ジャクソンは貧しい家に生まれ、正式な教育を受けたことはありませんでしたが、お母さんは彼に信仰教育を徹底的にしました。聖書をよく読むこと、祈ること、主日を守ること、什一献金の生活をすることを教えました。彼が13才の時、不幸にも牢に入れられたのですが、牢の中で聖書を読み、祈り、また勉強をする決心をしました。そしてついに7代目のアメリカ大統領になりました。聖日をはえある喜びの日として考える人は祝福の人です。神様を尊んで安息日を喜びの日、はえある日とする人は、神様が高い所を歩ませ、もっと高い所である永遠の約束の地で祝福してくださいます。 |
2010年2月14日「あふれるばかり感謝しなさい」 コロサイ2:6〜7 私たちがどんな環境の中でも神様に感謝を捧げることが神様の御心です。ダビデがサウル王の攻撃に会っても感謝して詩篇を書きました。パウロは宣教しながら多くの苦難を受けましたが、その中でも感謝を捧げました。どうして私たちは苦難の中にあっても感謝しなければならないのでしょうか。 1.イエス様を受け入れたからです。 私たちはイエス様を受け入れたので、十字架の恵みを受けているのです。イエス様が私たちのために罪を背負って陰府に下り、三日目によみがえられたことによって私たちもイエス様と共によみがえって永遠の命を受けるようになりました。私たちが地獄の火の中で苦しむことがないようにしてくださいました。これひとつを考えても感謝があふれます。イエス様を受け入れた瞬間、私たちは神様の国に入ることができるのです。そこは神様が共におられて、私たちの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるし、もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない所です。いつもそのことを考えながら感謝しなければなりません。 2.感謝を捧げる人は神様をあがめます。 神様があがめられると、神様は神の救いを見せてくださいます。「感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。」 (詩篇50:23)神様は私たちが感謝を捧げることを願っておられます。神様に栄光を返す生活を願っておられます。私たちが神様に感謝を捧げないと、私たちは偶像崇拝者になります。感謝を捧げると天の門が開きます。「感謝しつつ、主の門に賛美しつつ、その大庭にはいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。」(詩篇100:4)と言われます。私たちはどんなことがあっても感謝を捧げなければなりません。難しいことがあったらもっと感謝するし、感謝することがあったらまた感謝することです。感謝は主と共に歩く秘訣です。そうすれば神の救いを見ることができます。 2.感謝すると神様が共に歩きます。 「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。」(本文)私たちがあふれるばかり感謝すると神様が共に歩いてくださいます。イエス様が来られたのは悪魔のしわざを打ち滅ぼすためです。盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするために来ます。しかし、イエス様はこの悪魔のしわざを打ち破ります。それでイエス様は私たちにいのちを与え、豊かに与えてくださいます。盗人が来ないように、感謝するように言われます。ショックを受けると心に亀裂が生じます。不平不満すると、その亀裂に悪魔が入り込みます。しかし、感謝を捧げると、そこに主ご自身が入られ、命を与え、豊かに与えてくださいます。ですから私たちは瞬間、瞬間何かあったら感謝を捧げることです。 |
2010年2月7日 「慰めといやし」 Uコリント1:3〜7 体だけ健康だからといって私たちは健康だと言うことは言えません。霊・魂・体のすべてが健康であることをいやしだと言われます。「あなたの信仰があなたをいやしたのです。安心して帰りなさい。」イエス様によって罪が赦され、全身がいやされることがトータルヒーリングです。 1.慰めを通して神様は私たちをいやされます。 神様は、慈愛の父、すべての慰めの神と言われます。神様が私たちをいやされる時に私たちを慰めていやされます。この世の中には、家庭生活の中で両親から受ける傷、子どもから受ける傷、事業の失敗、結婚問題の失敗とかから受ける傷があります。その傷を慰めを通していやしてくださいます。私たちは弱い存在ですので、常に慰めが必要です。神様はどのような苦しみの中でも私たちを慰めてくださいます。 2.私たちが慰め主のイエス様を信じ、受け入れなければなりません。 神様は人間を慰めるためにイエス・キリストを贈ってくださいました。「『慰めよ。慰めよ。わたしの民よ。』とあなたがたの神は仰せられる。」(イザヤ40:1)イエス・キリストを主が贈ってくださって、私たちの苦しみを全部受けてくださいました。日本には自殺者が毎年3万人を超えています。その中で70%は男性です。最大の原因はうつ病です。慰められないからです。日本にはすべてがありますが、希望だけがないのです。イエス様だけが慰めであり、希望です。イエス様を受け入れないと希望などありません。十字架が希望です。「彼(イエス・キリスト)は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:5)イエス様を信じるといやしの希望、赦しの希望、よく生きるのだと言う希望が与えられます。死の中でも恐れることはありません。死が絶望ではなくて、人生の卒業式です。希望なる神様が慰めてくださると、私たちはバランスがくずれることはありません。バランスがくずれると、小さな言葉にもすぐくずれてカッとなったり、失望したり、酒や暴力をふるったりします。聖霊様の慰めを受けると健康な人になります。バランスがくずれない人を健康だと言っています。祝福された人はバランスがくずれません。主が共におられるからです。 3.イエス様から慰めを受けた人は慰める人になります。 この世の中で受ける苦しみには目的があります。その目的はあらゆる苦しみを受けて、私たちが慰められるためであり、またあらゆる苦しみの中にいる人を慰めるためです。私たちは苦しみの中で私を通して神様がこれらのことをされるのだという使命を持つことが大切です。私たちは神様から愛されていても問題に会います。神様から愛され信じる私たちが問題に会う時、人を慰めることができます。イエス様を信じない人は苦しみが苦しみのままで終わります。しかし、イエス様から慰めを受けた人は慰める人になります。私たちの問題をいつもこのように見て、用いられる人となるように主の御名によって祝福します。 |
2010年1月31日 「カレブの信仰」 民数記14:24 エジプトから出た300万人の民の中の20歳以上の中でヨシュアとカレブだけが約束の地に入ることができました。カレブはほかの人と違った心を持っていて、神様に従い通しました。それで神様は彼にカナンの地を与え、彼の子孫はその地を所有するようになりました。私たちもカレブのような信仰を持たなければなりません。 1.カレブの信仰は環境を恐れない信仰。 環境を恐れ、消極的になり、退く信仰を神様は喜ばれません。信仰は前に向かって前進することです。み言葉を信じ続けることです。「わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」(ヘブル10:38)カナンの地を探りに行った時、10人は否定的な報告をし、2人は肯定的な信仰を告白しました。神様は肯定的な信仰を告白し、前進したカレブを祝福してくださいました。 2.主が私たちと共におられるというカレブの信仰。 神様が共におられるから私たちは勝利します。神様にとって不可能なことはありません。昔、ローマ帝国はクリスチャンを迫害し、殺しました。しかし、神様が臨んでくださった時、ローマ帝国は一挙に変えられました。神様が臨んでくださると日本もクリスチャン国家になります。それに備えて私たちも準備しなければなりません。神様にとって不可能なことはありません。人がよみがえり、国がよみがえります。 3.できるという信仰。 成功する人はできるという考えを持っています。カレブはヘブロン山地をくださいと言いました。ヘブロン山地は城壁が高く、アナク人が住んでる地であり、攻め取るのに難しい所でした。イスラエルの人々が失望して恐れたこのような山地を85才のカレブが神様に求めました。ヘブロン山地は以前、アブラハム、イサク、ヤコブが住んでいたゆかりの場所です。その妻たちも住み、墓もある所でした。“その場所を私にください。”とカレブは求めました。結局そこを占領することができました。誰でもできるという信仰を持つことが大切です。イエス様は一度も否定的に言われたことはありません。ある人が私の病気で苦しんでいる息子を“もし、おできになるのなら、私たちをあわれんでお助けください。”とイエス様に頼みました。その時イエス様は「できるものなら、と言うのか、信じる者には、どんなことでもできるのです。」(マルコ9:23)と言われました。イエス様は葬式をされたことはありません。死人をすべてよみがえらせました。私たちのために十字架にかかって死んでくださったイエス様を今信じると永遠の乳と蜜の流れるカナンの地を征服することができます。私たちも“カナンの地をください。”と祈りましょう。 |
2010年1月24日 「信仰の祈り」 マルコ11:22〜25 祈りには答えられる祈りがあるし、答えられない祈りがあります。どんな祈りが答えられるのでしょうか。それは信仰の祈りです。信仰の祈りには勝利の祈りがあり、勝利の人生になります。 1.信仰の祈りをするためには私たちの考えが変わなければなりません。 いつも否定的な思い、汚い思い、情欲的な思いを持つとその実を結ぶようになります。私たちは否定的な思いを全部イエス様のもとに来て悔い改め、神様のみ言葉を信じることです。信じるためには聞くことから始まります。「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)キリストのみ言葉を聞くと私たちの心が信仰によって変わるのです。昔イギリスでは反社会的な人々を集めてオーストラリアに移住させました。しかし、そこに宣教師が入って福音を伝えました。すると人々の思いが十字架のみ言葉によって変えられました。十字架のみ言葉は私たちを変える神様の力です。私たちは十字架のみ言葉を通して自分は新しくなった者であり、以前のものは十字架に付けられて死んだ者であり、今自分はイエス・キリストと共に新しく生きている者であるといつも思わなければなりません。イエス様は私たちのために呪われ、貧しくなられました。イエス様の貧しさによって私たちを富む者にしてくださいました。「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることのできる方です。」(Uコリント9:8)私たちはこのようなみ言葉の思いを受け入れることです。人は死んでもイエス様と共によみがえり、イエス様と共に永遠に生きるといういのちの思いの流れが聖霊の油注ぎです。聖霊の油注ぎが泉のようにわき、それが私と私の家族を生かし、川のように流れて国家をいやし、祝福します。韓国は世界で第10番目の経済国家になりました。なぜなら、聖霊に満たされ、聖霊の川が流れたからです。しかし、北朝鮮は世界で一番貧しい国になりました。 2.信仰の言葉を告白しなければなりません。 「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:10)私たちはいつも環境を見て疑ってはいけません。恐れないで信じ続けることです。恐れて信仰のが薄くなって疑うと、おぼれてしまいます。ペテロが水の上を歩きながら環境を見て恐くなって沈みかけました。私たちが信じ続けるためには祈りの生活をしなければなりません。十字架をいつも仰ぎ見ながら祈りの生活をし続けなければなりません。 3.続けて赦し、愛することです。 「愛によって働く信仰だけが大事なのです。」(ガラテヤ5:6)とあるように信仰は愛の中で働きます。恨みや憎しみを持っているとこれが信仰の障害物となります。悪魔が攻撃をかけるのです。神様は愛です。憎しみと赦せない所には神様は働くことができません。「立って祈るとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」(本文25節)私たちは毎日、積極的に赦しを決断しなければなりません。私が生きるためです。私が赦さないとまず私が先に死んでしまうのです。赦しは神様のいのちを得る信仰の道を開く力です。赦しは決断です。赦しと復讐は選択です。赦しは神様の恵みです。私たちは神様から赦しを受けたのですから赦しを流さなければなりません。 |
イスラエルの人々はシオン山に建てられた神殿を自分の故郷にして住みました。神様を父として神殿を母として神殿中心の生活をしていました。この神殿は神様の国の模型です。イエス様が来られてから神殿はイエス様の体になりました。神殿は聖霊様がイエス様を信じる人々の中で神の宮にしておられました。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」(Tコリント3:16)と言われました。人々が集まる所がエクレシア、教会です。この教会は神の家、主の家であり、神の国です。 1.主の家の祝福は力を得ることです。 神様は私たちに安息を通して力を与えます。主の家には安息があります。リクレーション、神様は再び創造する力を安息の中で与えてくださいます。神様が臨在される所には安息があります。シオンの大路は父の前に行く道です。イエス・キリストが道です。イエス・キリストの十字架がある人はすべてが新しくなります。その人は涙の谷を過ぎる時もその所が泉のわく所となり、祝福となります。その人は力から力へ進み、神様が御言葉の祝福と力を与え、御言葉を証しする聖霊の力を受けて、父が私たちを愛する、喜ぶという力を受けるのであります。主の宮には力から力へと進む祝福があります。 2.主の家には祈りの答えがあります。 私たちは四方八方からこの世の中で苦しみを受けるのです。前も横も下も道がない時に上から力が来るのです。「万軍の神、主よ、私の祈りを聞いてください。ヤコブの神よ、耳を傾けてください。主の御顔を注いでください。」(本文8〜9節)私たちが故郷に帰り、父の御顔を見る時、私たちは慰めを受け、問題が解決されます。全能の神様が私たちを見てくださる時、私たちの問題は解決されます。祈りは力です。偉大な国は祈る国です。偉大な人は祈る人です。ダニエルは一日3回祈りました。彼は異邦人の国で奴隷になりましたが、その国で総理大臣になりました。バビロンのネブカデネザル王、次のベルシャツァル王の時代にまで総理大臣となりました。メディヤとペルシャの時代のダリヨス王の時も総理大臣になりました。祈りによって彼は獅子の穴に投げ込まれましたが、獅子が彼を殺すことはありませんでした。祈りによって神様が守ってくださいました。しかし、ケネディー大統領の時は主の祈り、十戒をやめさせた時、アメリカの青少年たちの中心がゆり動きました。ヒッピー文化が入り、麻薬がはびこり、家庭が崩壊しました。私たちは祈りを通して神様の祝福を受けなければなりません。 3.主の家の祝福は最高の価値を発見することです。 「あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。」(本文10節)神様の家で私たちが礼拝する時、価値を発見することです。イエス・キリストを礼拝することが一番価値あることです。これを発見した人はこの世のすべての中にあって勝利者となります。神様は私たちが涙の中を通っている時も、問題にあっても神様は私たちの喜びです。ハバククはバビロンが自分の国を侵略するのを見て最初は不平不満しましたが、主を体験した後はそれを喜びに変えました。そして結局、神様の御心が自分を高い所を歩ませることが分かって神様に賛美を捧げました。これを発見することが主の家の祝福です。皆さんが主の家で祝福され、主の栄光のために用いられますように主の御名によって祝福します。 |