2004年11月7日 「主のみこころを行なう」 第Tテサロニケ5:16〜18
私たちは主のみこころを知った上で、それに従順することがとても重要です。従順することによって、私たちは満たされます。お腹がすいている人がご飯を食べて満腹することと同じです。ただ聞くことだけで従順しないと何の効果もありません。では主のみこころとは何でしょうか。
1.いつも喜んでいなさい。
神様は私たちを喜びの存在として造られました。神様は喜びです。神様の形に私たちは造られたのですから、私たちは喜ばなければなりません。「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。」(箴言17:22)とあるように喜びは私たちの体の中で薬の働きをします。主の前で一番最高の健康食は、主日に主の前で礼拝を捧げて、喜びを得ることです。喜びがある所は、病が逃げ去ります。又、恐れが逃げ去ります。主は私たちの中にお入りになって、私たちの中でふさがれている泉を全部いやしてくださいます。私たちはどんな環境であっても喜びを決心していかなければなりません。
2.絶えず祈りなさい。
祈りは主との交わりです。愛なる神様との交わりです。”主は私たちの心の思いを全部知っておられます。言葉が私たちの舌にのぼる前に主はそれをことごとく知っておられます。”(詩篇139:1〜4)絶えず祈るということは、私たちの思いを主の前に全部表わすことです。隠す必要はありません。主は私たちの道をことごとく知っておられます。私たちがいつも主を思い出すことが祈りです。24時間絶えず祈るということは、いつも主を思い出して、主を前に置くことであり、又、何をするにもいつも主に聞くことです。仕事をする時にも、寝る時にも、起きる時にも主を思い出して生活することです。これが絶えず祈るということです。
3.すべてのことについて感謝しなさい。
私たちを導いておられる神様は,良き神様です。私たちの今の環境は神様の御手の中にあります。私たちは今の環境を不平不満してはいけません。たとえそれが厳しい苦しい環境であっても、感謝すると、神様のみわざがそこに現われます。「感謝のいけにえをささげる人はわたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。」(詩篇50:23)と神様は言われます。私たちがどんな環境の中でも良き神様が私を導くのだということを忘れないで、いったん感謝を先にすることが重要です。私たちがいつも喜ぶことと絶えず祈ることとすべての事について感謝することは、本当に難しいことです。しかし、水の出ないポンプに汚ない水でもいいから、水をポンプに入れると、やがてきれいな飲み水が沸き上がってくるように、初めに私たちが主の御言葉に従順しようと決心することが大切です。そうすれば、聖霊様の助けにより、喜びが沸き上がり、祈りが沸き上がり、感謝が沸き上がるようになります。
2004年10月31日 「 避 け 所 」 詩篇91:1〜15
最近起っているいろいろな自然現象を見ると、まるでイエス様が終末を預言されたその預言を見ているようです。続けて来る台風や地震、疫病、それだけではなく、ヨーロッパが経済統合し、これから政治をも統合しようとして、ヨーロッパ統一圏がサインしたこと、又、リバイバル新聞に掲載されたように、666のFDA証印がなされたことを見ると、イエス様が預言されたように、まもなく666の時代が来るのだなという思いがします。サタンがこの世を支配しつづけようと必至で、自分の政治を力ある限りしようとする時です。いろいろな人を殺し、破壊し、愛が冷たくなっている状況です。このような時代ですが、イエス様を信じる私たちに神様は避け所を約束しておられます。
1.全能者の隠れ場
今日の本文「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。」とあるように、十字架の陰は恵のある所です。イエス様は十字架のある教会で私たちを守ってくださいます。サタンは罪のある所を請求し、わざわいをもたらします。しかし、イエス様は罪ある者の罪を背負って十字架につけられ、罪を処分してくださいました。これは十字架の陰であり、十字架の恵みです。このことにより、サタンは攻撃する基盤がなくなってしまいました。イエス・キリストの十字架の陰に身を避けると主は「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」(本文2節)となってくださいます。
2.主は約束の神様
主は真実で正しい方です。約束を最後まで守る方であり、主の真実は、大盾であり、とりでです。(本文4節)主は私たちの避け所です。聖書は旧約、新約の契約の書であり、神様の約束の御言葉です。神様は約束を守る方であり、その約束を信じる人に対して誠実な方です。神様がギブオン族を絶滅しようとされた時、ギブオン族は偽証して、イスラエルと契約を結びました。イスラエルはだまされて、ギブオン族と契約を結んだのですが、神様はギブオン族を最後まで守ってくださいました。契約があったからです。滅ぼされるべき私たちであっても神様の契約を信じれば、契約によって守られます。ギブオン族のためにヨシュアの軍隊が出て行って戦いました。太陽がまる一日止まった事件はギブオン族のためでした。契約を結んでから500年後のダビデの時代にも大きな飢饉が起こりました。それは、サウルの時代にギブオン族に悪いことをしたからであります。このように神様は約束を真実に守る方です。
3.主の御名によって私たちを守ります。
主の御名を信じて呼ぶ者は救われます。主を愛し、主の御名を大切にする人を最後まで守り、導くと神様は約束しておられます。主の御名は備え主、いやし主、勝利の神、平安の神、義なる神、そこにおられる主、わが牧者なる主です。主の御名は私たちと契約を結んだ約束の名前です。神様の名前を愛して呼ぶ者は救われます。
2004年10月17日 「今も生きて慰める主」 ルカ24:13〜33
今日の本文の二人の弟子たちは、イエス様が私たちのために十字架につけられ、葬られ、三日目によみがえられたことを信じませんでした。イエス様の悲惨な死に方を見て失望し、落胆してエルサレムからエマオへ行く途中に、イエス様がたずねて来られ、彼らを慰め、彼らの心の中に熱い希望を持たせてくださいました。
1. 弟子たちがイエス様のことを論じ合っている時、イエス様がたずねて来られました。
私たちがイエス様のことを論じ合ったり、教えたりする場所にイエス様はたずねて来られます。信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストの御言葉によるのです。私たちが進化論の話をしたり、悪霊の話をしたりすると、悪霊が来ます。サタンは盗人で、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりします。しかし、イエス様は人にいのちを与え、豊かに与えるために私たちのところに来られ、慰めてくださいます。
2.イエス様は私たちを福音へ導いて、慰めてくださいます。
福音を聞くと心が熱くなります。@イエス様が十字架につけられ、刺された理由は、私たちの罪のためでした。Aイエス様は私たちの呪いを背負ってくださいました。それはアブラハムの祝福を私たちに与えるためでした。Bイエス様は貧しくなられました。それは私たちを富む者にしてくださるためでした。Cイエス様が死なれた理由は、私たちを生かしてくださるためでした。Dイエス様がしばらく離れられた理由は、私たちにすばらしい助け主である聖霊を与えるためでした。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ28:28)私たちは今の環境を見て苦しんだりしてはいけません。神様はすべてを益として働かせてくださるからです。
3.祈る人と共に働いてくださる人格的なイエス様
弟子たちは、先に行こうとされるイエス様に一緒にお泊りくださいと引き止め、無理に願いました。無理に願ったら、イエス様はもっと彼らと一緒にいてくださいました。そして、パンを取って祝福し、裂いて彼らに渡されると、彼らの霊の目が開かれ、イエス様だということが分かりました。私たちも、もっとイエス様を認め、歓迎しなければなりません。自分一人の力で生きるのではなく、イエス様が私たちを通して現われることを願って祈らなければなりません。そうすればイエス様が一緒に働いてくださいます。この二人の弟子たちのように、もっと私たちと一緒にいてくださいと、私たちの生活のすべてにイエス様がいてくださるように祈らなければなりません。主に頼ることが祝福です。主を仰ぎ見ることしかできない状況に陥っている人は祝福された人です。イエス様なしでは生きられない弱さを持っている人や毎日、毎日イエス様に頼る人は、祝福された人です。カナンの地は農業をするのには不適格な土地でしたが、神様はそこを乳と蜜の流れる祝福の土地と言われました。なぜなら、天から雨が降らなければ農業ができないし、主に頼らざるを得ない土地だからこそ祝福だと言われたのです。神様は神様だけを頼る人や環境を祝福だと言われます。神様をもっと私たちの心の中にとどめる祈りをする、祝福された人となるように、主の御名によって祝福します。
2004年10月10日 「帰って来た放蕩息子の祝福」 ルカ15:11〜32
どんな父親でも自分の子供を幸せにするためによく育てます。私たちの愛なる天の神様も私たちが天国へ行くまで、よく食べさせ、祝福の道へ導いてくださいます。しかし、放蕩息子のように親不孝する人がでてきます。人類の歴史は放蕩息子の歴史です。この父の家での生活に不満を持ち、サタンの誘惑に負けてこの世的に流れた人々の歴史でもあります。
1. 父の家から離れた放蕩息子の状況
父の家を離れた放蕩息子は、しばらく自分勝手に生活できて自由だと思ったのですが、結局は放蕩して、湯水のように財産を使い果たしてしまいました。ブレーキがきかなくなった車のように、自分自身をコントロールすることができなくなり、子どもとしての尊厳も失って、豚を世話する者になってしまいました。豚というのは霊的には悪霊を意味します。その国に大飢饉が起こり、豚のエサも食べられない程困り果て、飢え死にしそうになりました。神様のみ言葉から離れてしまった人類はみ言葉のききんにより、どこに行っても希望が見えない絶望に陥ってしまいました。
2.悔い改め
人間が救われる道は悔い改めることしかありません。自分の悲惨さ、深刻な状況を悟った放蕩息子はわがままな息子としてではなく、雇い人として父の家に帰ろうと思いました。父の家に帰る息子のために父が道をつくりました。この道がイエス・キリストです。「イエス・キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)父が彼を赦して受け入れてくれるだろうかと複雑な思いで、帰る道が遠く感じられていたのですが、父の愛が十字架を通して現われました。「わたしはあなたを責めない。十字架を見て安心して入りなさい。」とイエス様は私たちに語りかけてくださいます。
3.帰って来た放蕩息子の祝福
帰って来た放蕩息子を父は抱いて口づけし、すべてを赦してくれました。子どもとして受け入れ、回復させてくださいました。一番良い着物を着せ(イエス・キリストの義の服)手に指輪をはめさせ(聖霊の印を押すこと)足に靴をはかせ(平安な生活の約束)肥えた子牛(恵みと祝福)を食べて祝おうではないかと、父は帰って来た放蕩息子のために祝宴を開いてくださいました。父の家での生活は喜びです。
4.父の家に帰った生活は教会生活です。
私たちは父との生活で一番にしなければならないことは、感謝です。以前、不平不満をもって家出をしたことがありましたが、今は神様の子供として回復してくださいました。わがままな子供としてではなく、従順なしもべとしての生活をしなければなりません。この生活をあたりまえと思うのではなく、もったいない恵みとして感謝することです。感謝をささげる生活が父の中での生活です。しかし、感謝を失なうと、長男のように「子羊一匹も私に下さったことがありません。」と神様に対して不平不満を言うようになります。教会生活をしながらも不平不満する人は、喜びのある信仰生活をすることはできません。感謝する生活は、大切な祝福であります。毎日の生活が主にあって楽しみ喜ぶ生活となりますように主の御名によって祝福します。
2004年10月3日「義のために迫害されている者の祝福」マタイ5:10〜12
義とはイエス・キリストのことであり、イエス・キリストのために迫害されている者は祝福されます。なぜなら、天の御国はその人のものであり、天においてその報いは大きいからです。イエス様の御名のために迫害されている人は祝福されます。
1.どうして私たちクリスチャンはこの世で迫害されるのでしょうか。
@聖徒がこの世の道を歩かないからです。「悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道にたたず、あざける者の座に着かなかった。」からです。(詩篇1:1)A偶像を崇拝しないからです。偶像には目に見える偶像と目に見えない偶像があります。人間を神として拝むように、絵や像を作って拝ませようとしますが、クリスチャンはそれらを拝みません。神社参拝や仏壇などを拝むことをしないので迫害されます。イエス様より他のものをもっと愛するとそれが偶像になります。これが目に見えない偶像です。家族や仕事や国を愛することは良いことです。しかし、これらをイエス様よりもっと愛するとすれば、これはむさぼりとなってしまいます。B聖徒は天国と地獄があることをはっきり言うからです。C不信者に福音を伝え、聖霊を頂いた私たちが、イエス・キリストを証しするからです。D聖徒はこの世と妥協できないからです。サタンは一回だけでもいいから参拝しなさいと私たちに妥協させようと誘惑します。「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者は、みな迫害を受けます。」(第2テモテ3:12)とあるようにイエス様中心に生きようとすると迫害されます。
2.迫害される時、私たちはどのような態度をとればいいのでしょうか。
「喜びなさい。喜びおどりなさい。」とイエス様は言われます。なぜなら、天国は私たちのものであり、その報いが非常に大きいからです。迫害されるのは、主が私たちを選び出した証拠でもあります。「わたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。」(ヨハネ15:19)私たちはイエス様から選び出されて、神様の御国のために用意された器なのですから、報いが大きいという希望を見ながら喜びおどらなければなりません。
3.すべての迫害に打ち勝つ力は主の愛です。
たとえ患難や苦しみ、迫害があったとしても「私たちは私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」(ローマ8:37)迫害する勢力は憎しみをもって迫害します。私たちは憎しみを憎しみで、復讐を復讐で返すことによって勝利するのではありません。聖書で勝つということは愛で勝つことです。「たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」(第1コリント13:3)とあるように私たちがいつも神様によって勝利するためには、キリストの愛をいつも受けることが大切です。キリストの愛を受けて、平凡な時に毎日毎日自分の十字架を負って死ぬことです。自分の憎しみの感情を捨ててキリストの愛に従っていくことが平凡な時の殉教です。特別に迫害される時が来てもキリストの愛によって勝利することができます。
2004年9月26日 「和解する者の祝福」 マタイ5:9
平和をつくる者の祝福は祝福のシリーズの中で7番目の祝福です。聖書で7という数字は完全数を表わします。これは完全な祝福、トータルの祝福を意味します。神様は平和の神様です。平和をつくる者は神様の子どもとなる祝福があります。
1.イエス様ご自身が平和をつくる神様の御子でした。罪によって神様とへだての壁があった私たちと和解し、私たちを救ってくださるためにイエス様は神様の愛をもって来られました。イエス様の十字架を通して人間と神様の間にあった壁を打ちこわしました。十字架の恵みによって、私たちは神様と一つになる道が生じました。(エペソ2:14)
2.イエス様を信じた私と神様との間に平和をつくらなければなりません。
信仰によって義と認められた私たちは、イエス様による平和をもっともっと享受しなければなりません。神様と私たちの中に壁があってはいけません。神様は私たちのことを全部知っておられるのです。それなのに私たちが神様は知らないのだと思ってそれを秘密にしてしまうと、そこに壁が生じ、誤解や恐れが生じます。その中でサタンが働くのです。私たちが神様にすべてを言い表わすなら、神様は真実で正しい方ですから、私たちのすべての罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第1ヨハネ1:9)神様との平和をもっと味わい、楽しみましょう。
3.隣人や神様のつくられたすべてのものと和解し平和をつくらなければなりません。
平和をつくるには努力が必要です。イエス様も十字架で侮辱する人々を赦しました。イエス様はあなたの敵を愛し、あなたを迫害する人のために祈りなさいと言われました。これは私たちがするべきことです。しかし、肉の欲望はそれを拒みます。だから私たちは肉の欲を十字架につけて、殺さなければなりません。私たちは神様の御言葉に従っていくべきです。そのためには、私たちの自然の力ではできません。だから、祈りが必要です。``主よ。私を平和の道具とならせてください。”と祈らなければなりません。イエス様がゲッセマネの祈りで汗が血に変わるほど祈られました。この祈りをすると、聖霊様が助けてくださいます。聖霊様の助けが来る時、私たちが以前できなかったことができるようになります。平和のうちに、私たちはビジョンが与えられ、いやされ、祝福されます。神様のこたえは平和のうちに来ます。
4.不信者と神様の間に平和をつくる私たちにならなけれぱなりません。
神様から離れた人間は神様を憎んでいるし、神様に対して誤解しています。だから私たちが神様を憎んで壁を持っている人々の所へ行って、私たちが受けた神様の祝福を証ししなければなりません。イエス様を信じて深い罪責感から解放されたこと、病がいやされたこと、アブラハムの祝福を受けて死の恐れに打ち勝って平安になったことを証しすることです。証しすると、それを聞いた人々が神様に戻ることができ、神様と和解することができます。神様はその務めを私たちに委ねられました。(第2コリント5:19)自分が受けた平安を人々に証ししないと、人々は滅んでいくのです。人間が、日本が救われる道は、まず初めに神様と和解し、神様の祝福を受けた私たちが証しすることです。これが平和をつくるということです。平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。
2004年9月12日 「あわれむ者の祝福」 マタイ5:7
あわれみとは相手をかわいそうに思って、同情して、力尽くして理解して赦そうとする心をいいます。あわれみのない世界は「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」(マタイ24:12)復讐が復讐を呼び、復讐の連鎖の終末を私たちは今見ています。しかし、今日の本文には、「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。」とあります。
1. 私たちクリスチャンは神様のあわれみを受けた者です。
あわれみは人間に属する心ではなく、神様に属する心です。罪の中にいる人々に施す神様の愛情、このあわれみは罪の結果、悲惨な状態におちている人に向かっている神様の愛情です。私たちは罪の中で生まれ、罪の中で住み、罪を犯して永遠に捨てられるべき者でした。私たちは神様の恵みとあわれみを受けて神様の子どもになりました。魂が恵まれ、すべてに恵まれ、健やかになる祝福を受けたのも神様からあわれみを受けたからです。
2.あわれむ人は祝福されます。
神様は毎日私たちにあわれみを与えてくださいます。私たちは瞬間瞬間神様のあわれみを受けて私たちは存在します。神様は私たちにもあわれみを与えなさいと言われます。7の70倍まで赦しなさいとイエス様は言われます。(マタイ18:22)私たちが心から兄弟を赦せないと牢の中に入ることになります。牢とは病、恐怖、ストレス、急におこったり、急にうつになったり淋しくなったりする牢です。私たちが赦すことによって病の牢、恐怖の牢、ストレスの牢から解放されます。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく我らの罪をも赦したまえ。とイエス様は主の祈りの中で教えてくださいました。
3.あわれみのために祈らなければなりません。
私たちは、たたかれたらたたき返すことがやさしいし、すっきりします。しかし、そうした後では又復讐されます。復讐が復讐を生みます。これでは真の解決にはなりません。ですから、神様は私たちに祈りなさいと言われます。私たちの力だけでは人を赦すこと、あわれむことはできないからです。ステパノは自分に向かって石を投げつける人々に対して「主を呼んで『主イエスよ。私の霊をお受けください。』と言い、そしてひざまずいて、大声で『主よ。この罪を彼らに負わせないでください。』こう言って眠りについた。」(使徒の働き7:59〜60)とあります。これは神様のあわれみを受けた証拠です。 たたかれて死んでいく人の顔ではなく、眠っているような平和な顔をしていたのは、神様のあわれみを受けたからです。ステパノは祈りによって勝利しました。今のこの時代は暴力が暴力をうみ、その結果赦せない人々が受けるストレス群があります。今、アメリカ人は急に怒りが起こったり、急に淋しくなったり、うつになったりする症状が見られます。旅行にも自由に行けない、テロの恐怖があります。私たちはこのような環境の中で赦しの人、あわれみの人にならせてくださいと祈らなければなりません。聖フランシスのように平和の祈りをする人になりましょう。1.平和の道具とならせてください。憎しみに愛を、戦いに平和を 2.分裂に一致、疑いに信仰、誤りに真理、絶望に希望 3.暗闇に光、涙に喜びをもたらす器とならせてください。4.慰め求めず、慰めることを 理解されるより、理解することを 5.愛されるよりも、愛する心を、敵をも赦して、赦されることを 6.自分の命を献げて死ぬなら、永遠の命に生きるものとなる。
私たちもこの祈りによって勝利の人生を歩くように、主の御名によって祝福します。
2004年9月5日 「義に飢え渇いている者の祝福」マタイ5:6
私たちは満ち足りる人生を求めて生活しています。私たちが満腹し、満足する時、そこに幸せがあります。今日の本文に「義に飢え渇いている者は幸いです。」とありますが、この飢え渇きについて考えてみたいと思います。
1.三種類の飢え渇き
@飢え渇き―食事をしないとだれでも飢え渇きを感じます
Aこの世の罪と欲望に対する飢え渇き―神様から離れた人間は、以前神様によって満たされた穴があってその穴をこの世の欲、目の欲、この世の暮らし向きの自慢で満たそうとします。しかし、これはのどがかわいた人が海の水を飲むようなもので、もっとのどがかわきます。
B義に対する飢え渇き―義とは神様の前に対する資格を言います。救われた人々はこの飢え渇きがあります。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」(詩篇42:1〜2)このように神様の臨在を求めて、神様の御前に行こうとする飢え渇きがあります。
2.神様の義が満たされる道
神様の義は食べる時、満たされます。聖書では食べるということは信じるということです。神様の義を信じることによって義が満たされ義人になります。ユダヤ人たちは自分たちが律法を行なうことによにって義人になろうとしましたが、これは失敗でした。律法は行なえば行なうほど罪人の自分を悟るようになります。律法とはあなたの救い主の所へ行けという養育係のようなものです。鏡を見て、自分の顔の汚れた部分を見せるのが律法の役割です。洗ってくださるのは、イエス・キリストの義です。イエス様は十字架につけられ、血を流してくださったことにより、私たちの罪を赦してくださいました。イエス様を信じる者は、皆赦されます。これは信仰による義です。私たちが神様の恵みを信じる信仰によって救われるのです。マルチン・ルターは義を獲得するために、断食したり、修業したりしましたが、罪悪感がいつも残っていました。しかし、ペテロ聖堂の28段の階段をひざで上がったり下りたりして修業していた時、「私の義人は信仰によって生きる。」という言葉が神様から与えられました。ただ信じることだけで救われるということで宗教改革をしました。
3.イエス・キリストに飢え渇く者の祝福
イエス様は今、生きて働いておられる神様です。神様を求める者はすべてに満たされます。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)私たちがイエス様で満足し、イエス様だけを信じれば、これが命の木の実であるイエス・キリストを食べることになります。私たちがイエス様だけで満足すれば、すべてのことで満足が来ます。しかし、イエス様に満足できない人は堕落します。すべてのことに不満を持つようになります。アダムとエバも不平不満から善悪の知識の木の実をとって食べました。命の木の実であるイエス・キリストに満足しなかったからです。しかし、私たちはイエス様のことですべて満足すればそこには天国があるし、喜び、平安があります。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)皆さんがどんな時にも、満ち足りる思いであふれ、主の中で私は幸せですと言えますように主の御名によって祝福します。
2004年8月29日 「柔和な者の祝福」 マタイ5:5
柔和という言葉はギリシャ語でプラウスと言い、謙遜でよく従順する、理解があり、他の人との関係をよくしていくという意味です。柔和は御霊の実であり、イエス・キリストの人格です。その実を結ぶ人は地を相続します。地とはこの世の地であり永遠の御国の地でもあります。柔和な人はこの二つの地を相続すると言われます。
1.神様に対して柔和な人の祝福
神様に対する柔和な態度とは神様の御言葉に従順し、聞き従うことです。神様の御言葉に自分を完全に委ねて、従順することです。イエス様は柔和な方です。人類の罪を背負って、ご自分がいけにえにならなければならないことを父なる神様から聞いた時、素直に人類の罪が入っている杯を飲まれました。そして十字架にかかって死んでくださいました。その結果一粒の麦が地に落ちて、多くの実を結びました。そして神の国が広がりました。イエス様はバプテスマを受けられました。バプテスマは素直な人が受けます。バプテスマは神様が命じておられます。イエス様がバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられた時、天が開いて聖霊が鳩のような形をしてイエス様のところに降りてきました。そして天から声がしました。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」このような力があるので私たちは地を相続することができます。
2.人に対して柔和な人の祝福
人に対して柔和というのは、自分が赦されたように人を赦し、人を理解し、受け入れることを意味します。柔和な人が家にいると家があたたかくなります。教会や会社の中に柔和な人がいると、そのところが祝福で満ちあふれます。しかし、頑固な人がいるところには冷たい風が吹きます。頑固な人の側には人が近づきたくないし、みんな逃げてしまうので、その人は祝福されません。ヨセフはどこに行っても柔和な人でした。どんな環境の中にあってもその環境を素直に受け入れることができました。それで神様がヨセフを祝福し、エジプトの総理大臣にまでしてくださいました。
3.自分に対する柔和な人の祝福
柔和な人は自分に対しても柔和です。自分をよく受け入れ、ありのままを受け入れ、認めます。私たちは神様によって一人一人造られました。みんなそれぞれの器の大きさが違うし、質も違います。神様から造られたありのままの自分を受け入れることは柔和です。その人は地を相続します。その人は祝福され、造られた分野で大きく用いられます。その人は人と比較したり、劣等感やねたみを持ちません。だから聖霊様がその人といつも一緒におられます。しかし、柔和でない人はいつも不平不満を言って自分が受ける祝福を失ってしまいます。私たちは受け入れなければならないことは受け入れなければなりません。自分の出身、身分、顔かたちは私たちは変えることはできません。夫婦の性格、人間が死ぬことは直すことができないことなので、受け入れなければなりません。私たちが神様の御言葉を素直に受け入れて、自分を赦すことが重要です。7の70倍赦しなさいということは、他の人に適応することだけではなく、自分に対しても受け入れなければなりません。人間には失敗があります。自分の失敗を赦して、立ち上がってください。そうすれば私たちは聖霊様によって用いられ、この世の地を相続し、又、天国の地をも相続するようになります。
2004年8月22日 「悲しむ者の祝福」 マタイ5:4
悲しむ者は幸いですと御言葉にありますが、すべての悲しむ人が祝福だという意味ではありません。神様の御心にそった悲しみがあるし、この世の悲しみもあります。この世の悲しみは死をもたらします。神様の御心にそった悲しみは永遠の命が与えられ、救われるのです。ここで悲しみという言葉はペンテオ(ギリシャ語)と言って、極度の悲しみ、例えば、愛する両親や子供を失った時に表現する言葉です。では悲しむ者の祝福とは何でしょうか。
1. 自分の罪の故に深く悲しむ者の祝福
罪に対する悲しみからキリスト教は始まります。それがあるから私たちは悔い改めることができるし、悔い改めるから救われるのです。「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。」(詩篇34:18)と言われるように神様は心の砕かれた人を愛しておられます。神様がサウルを捨てて、ダビデを生かした理由は、サウルは罪を弁明しました。しかし、ダビデは砕かれて悔い改めました。それで、神様はダビデを愛しました。悲しむところで神様の赦しという慰めが来ます。私たちが罪のために悲しみ、悔い改める時に、神様から赦された平安と慰めをいただくことができます。
2. 自分の弱さの故に悲しむ者の祝福
神様は人を祝福する前に、必ずその人が自分の弱さを悟ることを切に願っておられます。神様がヤコブを祝福される時も、ヤコブが神様の御顔だけを求めるような環境を作ってから救ってくださいました。何の力もない、虫けらのようなヤコブを神様が助けてくださいました。400人の軍隊を備えて、ヤコブを殺そうとした兄エサウの問題も神様が解決してくださいました。「恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。―― 主の御告げ。――あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。見よ。わたしはあなたを鋭い、新しいもろ刃の脱穀機とする。あなたは、山々を踏みつけて粉々に砕く。丘をもみがらのようにする。」(イザヤ41:14〜15)と神様は言われます。私たちが弱くて何もできないように思っているその時、神様はそのような私たちを用いて、日本1千万救霊のために働いてくださいます。
3. 絶望に陥っている隣人のために悲しむ者の祝福
イエス様は泣く人と一緒に泣きなさいと言われました。死んだラザロのために、エルサレムのために、人類のために、イエス様は悲しみながら祈られました。救いのためでした。その結果、イエス様は神様に受け入れられ、死からよみがえられました。パウロは自分の命をかけて、同胞イスラエルが救われることを願いました。その結果、神様が彼に大いなる秘密である奥義を教えてくださいました。異邦人の数が満たされたら、同胞イスラエルが救われ、神様が再臨されるという神様の奥義を頂いて、パウロは慰められました。私たちが家族の救いのために悲しんで祈る時、神様が家族の救いを与え、慰めてくださいます。弱い私たちであっても日本のために祈りましょう。できない者であっても 日本がイエス・キリストの国になるように祈る時、涙の谷を過ぎる時も、そこを泉のわく所としてくださいます。神様の祝福がいつも慰めとしてあらわれるのです。
2004年8月15日 「心の貧しい者の祝福」 マタイ5:3
人間は皆、祝福を受けたいと思う心があります。聖書で語られている祝福とは何でしょうか。ベラカー(ヘブル語)とは、良き神様を礼拝する、賛美を捧げる、感謝を捧げるという意味です。マカリオス(ギリシャ語)とは、神様が与えられる繁栄と平安を意味します。どのような環境の中でもこのような心の姿勢を持つことは祝福です。心の貧しい者は、これらの祝福を受けることができます。
1. 心の貧しい人はいつも神様に祈ります。
神様の憲法であるマタイ5章の御言葉を自分に照らしてみると、とうてい到達できない自分を見て貧しく思うのです。絶対的貧困を悟って、神様に祈るようになります。祈れば神様がすべて与えてくださいます。自分の貧しさを知っている人は、いつもイエス様を自分の呼吸のように求め続けます。この状態を聖書では祝福だと言っています。現代人はラオデキヤ教会に言われたように「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」のです。(ヨハネ黙示録3:17)そのような人は神様を求めません。そこには神様の祝福がありません。神様が喜ばれる心の状態は次のような心です。「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたはそれをさげすまれません。」(詩篇51:17)
2. 心の貧しい人はどんな環境の中でも感謝する人です。
心の貧しい人は自分を過大評価しないで、与えられた環境をもったいない恵みとして見ています。職場、事業、自分が受けるもてなし等をすべて自分よりもっと大きなものだと思っているので、すべてのことに対して感謝する心を持つことができます。心が貧しい人はいつも感謝があふれ、満ち足りています。使徒パウロが言っているように「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」(ピリピ4:12)このような心の状態は幸せです。心の貧しい人は人と比べて不平不満を言ったり、高慢になって人を見下したりしません。すべてのことに感謝します。
3. 心の貧しい人とは自分を否認することです。
イエス様は神様であるにもかかわらず、人間の姿で来られました。そして、ご自分を
無にして、仕える者の姿をとり、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。(ピリピ2:6〜8)自分を否認する者の心にイエス様は、いつも臨んでくださいます。自分を否認する人はどんな環境の中にいても、神様に栄光を帰し、感謝を捧げ、賛美を捧げるようになります。その人を神様はいつも祝福し、救ってくださり、豊かにしてくださり、平安を与えてくださいます。この祝福が心貧しい者の祝福です。
2004年8月8日 「恵みの御座に近づこう」ヘブル4:16、10:12〜22
神様の御座は愛なる神様がおられる奥まった所にあります。おりにかなった助けや祝福がそこからきます。今日の本文では神様の御座に近づく方法を教えてくださいます。
1.イエス・キリストが罪のために永遠のいけにえになってくださいました。
罪があれば神様に近づくことはできません。しかし、神様は私たちと神様との壁である罪を取り除くためにイエス様が私たちの罪、とがを背負って十字架につけられ、死んでくださいました。永遠のいけにえをささげてくださったのは、永遠に私たちの罪を全うするためであったと聖書に記されています。私たちの過去、現在、未来のすべての罪が赦されています。過去と先祖代々からきた罪は十字架でイエス様が全部処分してくださり、イエス様の脇腹から出た水で私たちの罪を赦してくださいました。私たちが意識的にも無意識的にも犯す罪を全部流してくださいます。私たちは成功したり、大きくなったりすると、高慢なほこりをいつも持っています。それを洗い清め、いつも主を頼るように導いてくださいます。
2.聖霊様の御言葉のあかし
今日の本文に「聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます。」とあるように、聖霊様のあかしは私たちに神様の御言葉を信じさせます。「わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。」(ヘブル11:16)これはただ単なる頭の知識ではなく、私たちの心の中に信仰として与えるという意味です。聖霊様のあかしを受けると罪が永遠に赦されたということがはっきり分かり、罪の赦しを強く信じるようになります。イエス様が私たちのために十字架につけられて、死んでくださったすべての恵み(イザヤ53:5)が私たちの中で信仰として入るのです。
3.イエス・キリストの血潮を信じて恵みの座に行きます。
「私たちはイエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。」(ヘブル10:19)まことの聖所とは至聖所のことであり、神様の御座がある所です。イエス・キリストが体をひき裂いて血潮を流してくださったことにより、私たちが至聖所に入ることができるようになりました。「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」(ヘブル10:20)この新しい生ける道は神様の御座に行く道です。神様の御座には契約の箱があります。そこに血潮が流され、契約の箱の中に入っているすべてのものは私たちの約束です。イエス・キリストのいのちは私のいのち、イエス・キリストのよみがえりは私のよみがえり、イエス・キリストの義は私の義であります。神様の御座で神様の御顔を拝見し、御声を聞きます。「あなたは私の愛する子、私はあなたを喜ぶ。」この御言葉によって私たちはこの世に勝利することができます。このように愛されている私たちはこの中で主の祈りを祈ることができます。「天にまします我らの父よ。願わくは御名をあがめさせたまえ。」とこのように主を愛する祈りをし、また「我らに日用の糧を与えたまえ。我らの罪をも赦したまえ。」とこのように隣人を愛する祈りをします。国と力と栄えとはすべて神様にあるのです。すべての栄光を主にかえすための祈りです。神様の御座に近づいてすべての祝福をいただきましよう。神様の御座で主の祈りを通して主を愛し、人を愛するとりなしの祈りができるように主の御名によって祝福します。
2004年8月1日 「公正にされる神様」 創世記29:31〜32
この世の中で問題を持っていない人は一人もいません。人と比較して問題を作ることがあります。自分が持っているものや自分が持っていないものを人と比べながら自分は神様から不公平にされたと思うのです。今日の本文にはヤコブの妻であるレアとラケルが出てきますが、彼女たちを見ると神様は公正な方だということがよく分かります。ヤコブはラケルを愛して、レアを愛してはいませんでした。二人の間には問題がありましたが、神様はそれをすべて公正にされました。二人の人生を通して神様がどのようにされたかを見ていきましょう。
1. レアの人生を通して表われた神様の公正
レアは夫から愛されませんでしたが、神様はレアに子供を4人与えてくださいました。夫の愛の代わりに子供によって与えられる愛を頂きました。このように神様はあるものを与えてくださらないと、違ったものを与えてくださいます。それで神様はすべてを公正にされるのです。「主はレアが嫌われるのをご覧になって、彼女の胎を開かれた。しかし、ラケルは不妊の女であった。」(本文31節)私たちはどんな環境が与えられても私たちがこれを幸せにすることができるのは、神様が私たちに与えられたものを探して、その恵みを感謝することです。自分にないものを探して、いつも人と比べながら不平不満をすると滅んでしまいます。しかし、神様から与えられたものをずっと感謝すると、幸せになります。神様はいつも私たちに最高の、最善のものを神様の判断によってその時その時に与えてくださいます。私たちは今、自分の持っている物に対して感謝しましょう。感謝すると、それが祝福に変わります。レアに4番目の子供であるユダが生まれてから彼女は主をほめたたえる人に変わりました。ユダの名前は「今度は主をほめたたえよう。」という意味です。神様をほめたたえた時、彼女はすべての苦しみから解放されました。
2. ラケルの人生を通して表われた神様の公正
ラケルは夫から本当に愛されました。ラケルのために14年間も無報酬で働きましたが、ラケルを愛していたので、それも数日のように思えました。夫の愛をこれほど受けましたが、子供がしばらく与えられませんでした。それを通してラケルはへりくだらされました。このように神様は平等な神様です。私が持っているものを他の人は持っていないし、私が持っていないものを他の人は持っているという風に、神様は平等にされます。
3. 私の弱さの故にイエス・キリストが与えられました。
「しかし、神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。」(第1コリント1:27〜29)これは神様の公正です。私の弱さ、愚かさの故に私にはイエス・キリストが必要でした。私の弱さがイエス・キリストをもらう祝福だったということを忘れてはいけません。神様は無に等しい、取るに足りない者を選び、公正に神ご自身で満たしてくださいます。自分には何も無くても神様ご自身を与えてくださるので、私たちは幸せです。神様が私たちの力となってくださるからです。
2004年7月25日 「神様の平安を貰うために」 ピリピ4:4〜7
人は平安が必要です。平安がある時、幸せを感じます。平安がないと、どんなにお金や権力や名誉があっても幸せではありません。神様は今日の本文で平安をもらう秘訣を三つ教えてくださいました。
1.いつも主にあって喜びなさい。
生存競争が激しいこの時代に私たちはいつも喜んでいることはできません。しかし、いつも喜んでいられるのは、主にあってできるのです。主にあってということは、主のみ言葉にあってということです。主はみ言葉です。主は私たちに命令し、その命令を守り、従順することを通して私たちに喜びを与えます。どんなに厳しい環境の中にあっても、私たちは主の中にあって平安を保つことができます。ネブガデネザル王から偶像崇拝することを命令され、それを拒否したダニエルの三人の友だちが火の燃える炉の中に投げ落とされました。しかし、その中で主ご自身が現われ、彼らと一緒に火の中で喜びおどったとあります。これが主にあって喜ぶということです。「イエス・キリストのために迫害されたり、ののしられたり、悪口雑言を言われたりする時、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。」(マタイ5:11〜12)とイエス様は言われます。
2.あなたがたの寛容な心をすべての人に知らせなさい。
寛容な心とは神様の心で、与える心です。ひとり子さえも惜しまずに与えてくださった愛の心であり、またイエス・キリストの赦しの心であります。愛をもって人に与え、赦す時、主がそこにおられます。平安の主がそこにおられます。私たちが互いに愛し合う時、愛なる神様ご自身がそこにおられるのです。復讐するところに神様はおられません。復讐は復讐する人も復讐される人をも破滅させます。神様は赦しを与えることを通して、私たちにいのちを与え、平安を与えてくださいます。
3.何も思い煩わないで、あらゆるばあいに感謝の祈りをささげなさい。
不完全な人間が自分の人生の主になり、大きな問題にぶつかって、時間、空間の制約を受け、限界状況に陥る時、人は思い煩います。しかし、イエス様は私たちに思い煩わないでと言われます。なぜならば、私たちは恵みによって神様の子どもになったのです。
子どもは何も思い煩わないで、ただ神様に感謝を捧げればいいのです。夫と妻の関係が主と私との関係です。私たちの立場では思い煩いであっても全能者の立場から見ると、心配はありません。主はご自分のいのちさえも惜しまずに与えてくださるほど私たちを愛しておられます。私たちに対する計画は災いをもたらす計画ではなく、夢と希望と祝福といのちを与える計画です。神様の平安を貰うためのこれらの三つのことを覚えながら、いつも主の平安を保つことができるように、主の御名によって祝福します。
2004年7月11日 「日本リバイバルの道」 詩篇127:1〜2
私たちは私たちが住んでいる国のために祈らなければなりません。私たちが祈ることを主は命じておられます。「すべての人のために、また主とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。」(第1テモテ2:1〜3)と神様は言われます。私たちは日本がリバイバルされ祝福されるために祈らなければなりません。日本がリバイバルされるためにはどうしたらいいのでしょうか。
1.創造の神様が日本の神様になるように祈らなければなりません。神様は唯一の神様です。「わたしのほかに神はいない。」(イザヤ45:5)又、「わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」(イザヤ45:22)と言われます。私たちが救われるためには、唯一の天地創造の神様を礼拝しなければなりません。礼拝することはとても大切なことです。もし私たちが偶像を礼拝すると、偶像が私たちを間違った道に導いてしまいます。日本が神様の祝福を受けるためには、偶像から離れ、私たちのために十字架につけられ、死んでくださったイエスキリスト
の神様に戻らなければなりません。そのために私たちは祈るべきです。
2.祝福の家である教会がリバイバルされなければなりません。この日本は教会があまりにも少ししかありません。クリスチヤンの人口は国民の1%以下であり、ほとんどの日本人はイエス様をまだ信じていません。死んだ人の99%以上の人が神の国に入ることができないのが実状です。ですから、教会が増えないと、日本はリバイバルされません。教会とは神の家であり、礼拝を捧げる場所であり、祈るところであり、問題が解決される所です。人々はこの世の中で6日間働いて疲れ、重荷をもっています。そんな私たちが教会に来て新たに力を受けることがレクリエーションです。神様は私たちを造り、私たちに力を与え、この世を生きるようにしてくださいます。罪が赦され、病がいやされ、永遠の命が与えられ、夢とビジョンが与えられる所が教会です。教会が日本全国にたくさん建てられることを祈りましょう。
3.宣教しなければなりません。 宣教する個人、団体、教会、国は神様から祝福されます。しかし、宣教しない国は神様によって罰せられます。歴史を見ると、ロシアはクリスチャン人口が増えたにもかかわらず、宣教しなかったので共産主義が起こり、教会が壊されました。エルサレムに迫害が起こったことも、教会が使命を果たさなかったからです。私たちが宣教すると神様は私たちを祝福してくださいます。アメリカは、南北戦争の困難な時代にもかかわらず、宣教師をたくさん世界の国々に送りました。それで、神様はアメリカを祝福されました。私たちが宣教すると、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と神様は約束してくださっています。神様は愛する者には眠っている間に、すべてを備えてくださって、家や町が守られ、国が守られ、祝福されます。日本がまことの神様に立ち返り、教会が建てられ、宣教することが日本のリバイバルの道であります。
2004年7月4日 「孤独と絶望からの救い」 マルコ5:25〜34
人間の心を本当に苦しめるものは、孤独と絶望です。神様が初め人間を造られた時、
神様と一緒に交わりながら生きるように造られました。しかし、人間が堕落し、神様から離れた結果、生じたのが孤独と絶望でした。クリスチャンも神様との関係がゆり動く時、孤独と絶望のどん底に陥いるのであります。今日の本文の女性も血液病という難 病にかかり、絶望に陥りました。私たちが病気になった時にいやされる希望があれば、
絶望に陥りません。しかし、この女性は何人もの医者にかかりましたが、いやされるどころか、かえって悪くなる一方でした。最もこの女性を苦しめたのは、その当時の法律でした。伝染病として取り扱われ、家族、社会、教会から孤立されました。しかし、そのような女性がいやされました。ではどのようにして、いやされたのでしょうか.
1.彼女はイエス・キリストを信じ、いやされました。
彼女は、イエス・キリストのことを耳にしてイエス様の着物にさわりました。「お着物にさわることでもできればきっと直る。」と信じたからです。彼女はすぐにいやされました。
イエス様に出会った人々は信仰によっていやされ、ゆるされ、永遠の命が与えられました。私たちがイエス様を信じるということは、結婚式の誓約に例えることができます。今まで違った道を歩いてきた男女がお互いを信じて一つになるように、イエス様を信じた私たちはイエス様と一つになります。イエス様が持っておられるものが、すべて私のものになり、私のものがイエス様のものになります。イエス様はいやし主であり、いのちであり、平安と喜びの主です。この女性は直らない病の孤独と絶望の中にいましたが、彼女のものはイエス様に移され、イエス様のものは彼女に瞬間的に移されました。イエス様は彼女の病、罪、苦しみ、孤独をすべて背負って十字架にかかられました。彼女は解放され、信仰によっていやされました。
2.いやされた人の責任があります。
イエス様は「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われました。彼女は恐れおののきながらイエス様の前に出て、12年間長血をわずらい、多くの医者からひどいめに会わされて、財産をみな使い果たしてしまったが、よくならず、かえって悪くなり絶望して苦しんでいたことを話しました。イエス様は彼女がイエス様によっていやされた真実をおおやけで話すことを要求されました。ひとりでいやされ、ひとりで幸せになることより、信じて救われたことをみんなの前で知らせ、皆の救いとなることをイエス様は願っておられます。恵まれ、救われ、いやされたとすればおおやけに証し、伝道することをイエス様は要求されます。私たちがかくれクリスチャンになったり、静かに自分ひとりで信仰生活をすることは神様の御心ではありません。おおやけに“私はクリスチャンです。”と宣言するのがバプテスマ式です。私たちの生活の中で毎日伝道し、イエス様を現すことをイエス様は願っておられます。
2004年6月27日 「忘れるべきもの、覚えるべきもの」
ピリピ3:13〜16 詩篇103:1〜5
物事を記憶して忘れないということはすばらしいことです。神様のみ言葉を記憶し、恵みを記憶すると私たちは幸せになります。しかし、私たちが忘れるべきものがあります。悔い改めた過去の罪や失敗をずっと持っていると私たちの命を落してしまいます。悪魔、サタンは私たちが忘れるべきことをずっと記憶させようとします。私たちがするべきことは神様が記憶させてくださることは記憶し、神様が忘れさせてくださるものは忘れるべきです。では私たちが忘れるべきものとは何でしょうか。
1.私たちが忘れるべきもの
@悔い改めた過去の罪 「義人はいない、ひとりもいない。」と主は言われました。人間として生まれた者は皆、罪を持っています。私たちは悔い改めたら「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離されます。」(詩篇103:12)又、神様は「あなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」(イザヤ43:25)と言われます。神様が記憶されないことを私たちがわざわざ記憶してそれが良心的だとすることは悪魔、サタンの策略です。A私の失敗と相手の失敗を忘れること。人間は失敗だらけです。鉛筆の上に消しゴムが付いているということはだれでも失敗するということの証明です。私たちが失敗したことを認めて、ゆるしを求めれば、神様は限りなくゆるしてくださいますし、又人にもゆるしなさいと言われます。”主の祈り”にWわれらの罪を犯す者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ”とあります。私たちがまず人をゆるしてそのことを忘れることが、自分を豊かにすることです。B人がした悪を忘れること。神様は敵がしたことがいいから敵を祝福しなさいと言われたのではありません。敵のことは主が報い、主が審判されます。ですから、私たちは敵を憎んだり、復讐しようとしてはいけません。私たちが悪いことをずっと思い出しながら復讐しようとする時、私たちが先に死んでしまうのです。私たちは人がしたと悪をゆるして忘れる時勝利します。これが神様の方法なのです。
2.私たちが覚えるべきもの
@私たちは力ある限り、主をほめたたえ、主の恵みに感謝しなければなりません。
主がゆるしてくださった罪、とがに感謝し、A病がいやされたことを感謝し、あかしすると自分もいやされるし、周りの人もいやされます。B滅びの穴から、貧しさ、のろいから救い出してくださったことを覚え、あかしすることです。神様は私たちを祝福するために什一献金や奉納物を捧げることを教えてくださいました。それは、私たちを祝福するための神様の導きであります。貧しさからのろいから解放される道は什一献金と奉納物を捧げることにあることを忘れてはいけません。私たちが神様に又、人に善を行なったことは必ず神様が報いてくださいます。ガラテヤ6:9〜10には「善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば時期が来て刈り取ることになります。ですから、私たちは機会のあるたびにすべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。」と記されています。神様は生きておられます。必ず神様は私たちがしたこと、捧げたこと、人にした善を覚えていてくださいます。これは種だと言われます。種はまけば必ず刈り取ることができます。
2004年6月20日 「私は信仰によって生きる」 ガラテヤ2:20
人々は自分のアイデンティティを失って生きる人が多いのです。ブランド品を身につけた時、自分の存在感があるように思う人がいます。又、他の人は世間を意識しながら自分を発見しようとします。しかし、クリスチャンは何のために生きるかというアイデンティティがはっきりしています。
1.私はキリストとともに十字架につけられました。
これがアイデンティティです。このことを信じる信仰によって私たちは生きるのです。罪を犯して刑罰を受けるべき者、呪われるベき者、又病にかかって死んでいく者が十字架につけられてすべての罪、のろい、病は完全に処分されました。イエス様と共に葬られ、イエス様とともによみがえりました。「キリストは私たちにとって神の知恵となり、また、義と聖めと贖いとになられました。」(Tコリント1:30)ですから、私は罪に定められることはありません。罪に定められるものはすでにイエス様とともに十字架で死んでしまったからです。のろわれるべきものは何ひとつありません。古いものは過ぎ去って、すべて新しく造られた者になりました。
2.もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
昔の私はすでに十字架で死んで過ぎ去ってしまったのですから、私が生きているのではありません。肉の欲、目の欲、この世の暮らし向きの自慢の生き方ではなく、私たちは新しい生き方をするのです。すなわち、キリストが私の内に生きておられるのです。イエス様は生かす御霊です。(Tコリント15:45)この方は私たちにいのちを与え、豊かに与えるいのちの木の実です。私の霊を生かし、賛美をささげ、礼拝をささげ、信じる信仰を与え、愛を与えるのです。私が神の子であることをあかししてくださるし(ローマ8:16)、この方はいやす御霊てす。イエス様の打たれた打ち傷によって私は2000年前にいやされたという信仰を与えるのです。その生かす御霊は祝福の御霊です。私たちの中ですべてを祝福に変えてくださいます。
3.いま、私がこの世に生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をお捨てにな った神の御子を信じる信仰によっているのです。
私は愛されるために生きるのです。私は愛されているのです。愛されていることを信じることによって生きるのです。イエス様が十字架で死んでくださったほどの血の愛を私たちは感じるのです。この熱い血の愛を信じることによって私たちは生きているのです。私は愛されるために生まれ、この世に生きて愛されるために天国へ帰って行くーこれが私のアイデンティティです。私がイエス様の愛をもって隣人を愛し、苦しんでいる人を愛し、福音を伝えるのです。このために私はこの世に存在するのです。私というものはみ言葉に書いてあることを信じて生きる者であります。
2004年6月13日 「ことばの力」 箴言18:20〜2 第1ペテロ3:10〜11
私たちが話す口の言葉には力があります。人を生かす力もありますし、人を殺す力もあります。ノアがぶどう酒を飲んで酔い、失敗して自分の子供を呪いました。呪われた子供たちは歴史上呪いを子孫代々受けました。祝福を受けた子供たちはずっと祝福を受け続けました。ノアの例でも分かるように、私たちが話す口の言葉をよく吟味しなければなりません。
1. 否定的な言葉を捨て、肯定的な言葉を口にしなければなりません。
私たちの信仰が冷たくなり、悪霊の試みにおちいると否定的な言葉をしゃべるようになります。否定的な言葉は、否定的な実を結びます。神様は私たちがしゃべった言葉をそのまま私たちに実行すると言われます。(民数記14:28)だから、私たちは否定的な言葉をしゃべるのがどんなに怖いことかを知らなければなりません。私たちが否定的な言葉をしゃべると神様が聞かれます。私の回りの人が聞き、自分自身にも影響があります。肯定的な言葉をしゃべると祝福されるし成功します。しかし、否定的な言葉をしゃべると自分も死ぬし、回りの人も死にます。私たちは信仰的な人、肯定的な人とつきあうように心がけなければなりません。(詩篇1:1〜3)イエス様は決して否定的な言葉を言われませんでした。「できるというものか、信じる者にはどんなことでもできるのです。」「死んでも生きる」イエス様は肯定的な方でした。
2. 呪いと不平不満を捨て、祝福と感謝の言葉をしゃべらなければなりません。
最近水のことを研究した本が出ていましたが、水の前で感謝し、祝福すると水が美しい結晶体を作ります。しかし、攻撃的な言葉や悪い言葉を言うと、結晶体が壊れてしまいます。私たちの体は80%が水分からなっています。私たちが祝福の言葉、感謝の言葉を自分にも人にも聞かせると、立派な結晶体になっていやしが始まります。又、水は、自然の水でないと結晶体は作られないのですが、水道の水でも汚ない水でもその水に感謝し、祝福すると、立派な結晶体を作ります。水が変わってしまうのです。私たちの口の言葉によってすべてが変わっていくのです。私たちが祝福すると、環境のすべてが祝福に変わります。私たちは人を、環境を、すべて目に見えるものを祝福しなければなりません。
3. 不信仰的な言葉を捨て、信仰的な告白をしなければなりません。
私たちは心の中でイエス様を信じ義と認められ、口で告白して救われます。罪のゆるしも信仰によってであり、病のいやしも信仰の告白によってです。私たちはみ言葉を心の中で描いて昼も夜もそれを口ずさまなくてはいけません。(ヨシュア1:8)私たちがどんな言葉をしゃべるかはとても大切です。私がしゃべった言葉は、御霊なる神様が聞いておられるし、私自身が聞くし、動物や植物や無生物が聞きます。私たちの言葉の生活は蚕が口から糸を出して自分の住まいを作るようなものです。結局、私たちの環境は、私たちが普段しゃべっている言葉そのものです。私たちが幸せになり、祝福された人生を送るためには、いのちを与え、豊かに与えるイエス・キリストのみ言葉を信じて告白する生活をしなければなりません。
2004年5月30日 「聖霊の賜物と実」 エゼキエル36:25〜27/Tコリント12:4〜11
今日はペンテコステ(聖霊降臨)の日です。ペンテというのは50を意味し、イエス様が十字架につけられ葬られてから49日目の次の日、即ちイエス様がよみがえられた主日に聖霊様が来られました。聖霊様が来られることによって教会が誕生しました。聖霊様は教会を強めるためにいろいろな賜物を与えてくださいました。その賜物は知恵の言葉、知識の言葉、信仰、いやし、奇蹟を行なう力、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力(Tコリント12:8〜10)などです。その賜物をもらったとして信仰的に偉い人になったと思ってはいけません。賜物は聖霊様が教会に益を与えるために現れるのです。賜物は主の御心のままに分け与えられるのです。私たちが大切にしなければならないのは御霊の実です。この実は聖霊様が持って来られるのですが、私たちの悔い改めを通して私たちに受肉してくださいます。これを実だと言っているのです。では賜物と実との関係を考えてみたいと思います。
1. 一時的な賜物と永遠の実
賜物は私たちが天国へ行く前にこの地上で必要なものです。サタンと戦い、教会を強めるために神様が現してくださるのです。しかし、天国には賜物が必要ではありません。賜物がすべて成就された愛が天国にはあるからです。それを知らないで行動する人は危ないのです。賜物だけが大切だと思って実を無視する人は、一時的に用いられて捨てられるのです。この世で用いられて永遠に祝福されるためには、実をもって主に用いられることです。実を結ぶためには私たちは、聖霊様がもって来られるみ言葉を悔い改めを通して自分を捨て、み言葉を受け入れなければなりません。御霊に従っていくことによって、実が私の中で結ばれるのです。
2. 外面的なものと内面的なもの
異言や預言やいやしのような賜物は外面的であり、愛、喜び、平安は内面的なものです。植物で例えれば外面的なものは葉っぱを意味します。葉っぱが存在する理由は、実を結ぶためです。実を結ばなかった木に対しては、例えばいちじくの木のようにイエス様は審判してしまわれます。ですから葉っぱだけを大切にして高慢になってしまう人は捨てられます。マタイ7章にその実をもって審判するという言葉がありますが、私たちはこの実を大切にしながら主に用いられることです。
3.
主ご自身と主のみこころを求めること
賜物よりも賜物を持って来られる主ご自身をまず求めることが知恵です。そうすれば主が私たちに賜物を分け与え、現してくださいます。必要な時に必要な賜物が現れます。私たちがするべきことは主を愛し、主の御国が大きくなることを願って、主の御心に一致する祈りをすることです。主はぶどうの木、私は枝です。ぶどうの木と枝は一致します。二つの人格が関係によって一致します。主はぶどうの木であり、供給者です。私は枝です。主からもらったものがそのまま実を結びます。私たちは主との関係が親しくなり、主にたくさん時間を捧げ、主の御心と一致するように祈らなければなりません。主の願いが私の願いとなり、主の喜びが私の喜びとなるように祈りが必要です。ペンテコステの日に聖霊様が臨んでくださいました。聖霊様によって教会が誕生しました。教会はイエス・キリストの妻です。妻と夫は一心同体です。心をひとつにすることです。このようにして主に大きく用いられ、又、永遠まで祝福される私たちとなりますように、主の御名によって祝福します。
2004年5月23日 「私たちに対する神様の計画」
詩篇139:13〜18
神様は何をなさるにしても計画を立てプログラムを立てて進められます。この宇宙万物はすべて偶然にできたのではなく、すべて神様の計画とプログラムによって造られました。私たち個人個人も神様がそのようにして造ってくださいました。だから私たちに感謝が生まれるのです。私はこの世に目的があって生まれました。神様は私がどこから来て何のために生き、どこへ行くのかというはっきりした計画を立てて、私を救ってくださったという信仰から始まるのであります。偶然あらわれたものはひとつもありません。雀一羽さえも神様のゆるしなくしては落ちることはありませんし、私たちの髪の毛さえも数えられています。この神様の計画に対して私たちはどのようにすればいいのでしょうか。
1.神様のみ言葉に従順しなければなりません。 アブラハムは75才の時、神様が彼に対する計画を示されました。彼は神様が示すところに行きなさいと言われました。示された場所は特別の場所でした。そこはあとでイエス様が私たちの罪を背負って十字架につけられ、苦しめられる場所でした。イエス様の贖いの結果、そこは乳と蜜の流れる場所になりました。その場所に行くと十字架の下でアブラハムの祝福を受けることができます。神様は十字架のある場所に行きなさいと言われたのです。
2.神様の計画は必ずなると信じることです。
神様がヨセフに神様の計画を見せてくださいました。しかし、ヨセフの見た夢を消そうとしてヨセフの兄たちが策略を計りましたが、その夢を消すことはできませんでした。又、ポティファルの妻の誘惑を通してもヨセフに対する神様の計画を壊すことはできませんでした。なぜなら、神様がヨセフと共におられたからです。復職した長官は2年間ヨセフのことを忘れていました。にもかかわらず神様の計画はそのままでした。神様はパロ王に働いてパロが夢を見るようにされ、その夢のときあかしをヨセフがしたことによってヨセフはエジプトの総理大臣になり、ヨセフの夢はついに成就されました。私たちが夢をいただいてそれを信じれば必ずそのようになります。
3.神様のみこころは祈りと忍耐によって成就されます。
神様の計画が立てられ、それは必ず成就されると信じるからといって私たちが何もしなくてもいいというのではありません。神様は私たちに“御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。”と祈りなさいと言われます。祈って忍耐するように言われます。祈りを通して神様と深い交わりを持ち、現実の苦しみに対して私たちが忍耐するように神様がしてくださいます。夢が大きければ大きいほど現実はもっと冷たく感じるものです。このギャップを埋めることができるのが祈りなのです。イエス様も祈られました。イエス様は弟子たちの現実の弱さに失望されないで、すべての救いのみわざを完成されました。アブラハムが神様から夢をいただいて出発し到着したところは祝福のビジョンとはかけはなれた大飢饉が待っていました。そのような中でアブラハムは失敗しながらも祈りと共に愛と信頼の人に変えられていきました。それで、彼は神様に全幅的に信頼していくようになりました。現実は今小さくても、私たちが神様に祈り、忍耐していく時、必ず終わりは大きくなります。(ヨブ記8:7)神様が約束してくださった教会のビジョン、個人のビジョンは必ず成就されます。
2004年5月2日 「信じて見れば生きる」 民数記21:4〜9 ヨハネ3:14〜16
イスラエルの民はエジプトで400年間奴隷の生活をしていましたが、あまりにも苦しくて彼らが叫び続けた時、神様は彼らを乳と蜜の流れる約束の地であるカナンへと導き出してくださいました。彼らが幸せのある地へ行くために通らなければならない荒野がありました。彼らは環境に対して、食べ物がない、飲み物がないと不平不満を言いました。神様が彼らにすべてを備えてくださったにもかかわらず、彼らはエジプトから救い出されたことに感謝もせず、素晴らしい所に導いてくださるというビジョンに対しても感謝せず、現実ばかり見て不平不満しました。そこで神様は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死にました。私たちが感謝を捧げると、そこが天国になります。イエス様に感謝するとイエス様の恵みが御霊によって、その場所に臨んでそこが天国になります。しかし、不平不満を言うと、すぐそこが地獄になり、蛇がかみます。イスラエルの民は神様とモーセにそむいた罪を悔い改め、赦しをこいました。そこで神様はモーセに「燃える青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけなさい。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」(本文8節)と言われました。信仰をもって仰ぎ見れば、いやされます。神様のみ言葉はただ信じて仰ぎ見ることによって、恵みが私たちのものになります。永遠のいのちが与えられます。青銅とは審判のことであり、即ちイエス・キリストの十字架を意味します。ではイエス・キリストの十字架を仰ぎ見れば、どんなことが起こるのでしょうか。
1.
イエス・キリストの十字架を仰ぎ見れば、罪が赦されます。罪とはサタン(蛇)の毒であり、かまれると罪責感で苦しみます。イスカリオテ・ユダはイエス・キリストに失望し、彼を奴隷の値段で祭司長たちに売り飛ばした後、罪責感に苦しめられ、自殺してしまいました。イスラエルの民は、不平不満したため蛇にかまれてしまいましたが、神様が言われたように、青銅の蛇を見上げた人は、すぐにいやされました。私たちがイエス・キリストを仰ぎ見て信じれば、罪責感から解放されます。イエス・キリストから流れる血潮が私たちの罪をきよめてくださいます。
2.
イエス・キリストの十字架を仰ぎ見れば、聖霊を与えてくださいます。私たちがどんなに願っても行う力がない私たちの弱さがあります。ペテロはイエス様のためならば、命を捨ててもついて行きますと告白しましたが、イエス様がいよいよ十字架にかかられる時、ペテロはイエス様を3回否認してしまいました。人間は神様と共に生きる時、実を結ぶことができます。権力によらず、能力によらず、神様の霊によってどんなことでも、できるようになります。聖霊を受けたペテロは大胆にイエス様のことをのべ伝え、イエス様についていく者に変えられました。聖霊を受けるとみ言葉を実行することができるようになり、自分ではできなかったことが、できるようになります。聖霊様によってすべてのみ言葉の実を結ぶようになります。
3.
イエス・キリストの十字架を仰ぎ見れば、永遠のいのちが与えられます。私たちのためにイエス様が十字架にかかられたことを信じれば、永遠のいのちが与えられます。イエス様の贖いにより、神様と私たちがひとつになる時、永遠のいのちが与えられます。イエス様の恵みにより、今は誰でも神様の御前に行くことができます。イエス様の血潮をたよっていけば、神様の御座に入ることができ、永遠のいのちを得ることができます。
2004年4月18日 「神様のみ言葉の祝福」 第2テモテ3:15〜17
神様からの最大の贈り物は救い主であるイエス・キリストです。このことを私たちに知らせてくださった本が聖書です。ですから聖書は神様が人間を愛した最大の祝福の証拠の本です。
1.み言葉は私たちが信仰による永遠の命を得る知恵です。
聖書を読んでいると、イエス・キリストを信じる者はイエス様の中に入り、イエス様も私の中に入ると書かれています。イエス様と私がひとつになってイエス様の永遠の命を得ることができます。イエス様が私の中に住まわれて、喜び、平安、満足、感謝があふれるようにしてくださるのです。しかし、イエス・キリストを信じない者や神様のみ言葉から離れた者には厳しい審判があります。これは永遠の命とは反対の第ニの死が待っているのです。神様のみ言葉が信仰として入らないし、信じようとしても信じることができないようになってしまう永遠の罰があります。
2.神様のみ言葉は私たちが正しく生きるようにしてくださいます。
聖書は個人、家庭、国家を正しく導きます。「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(本文16節)若い青年ヨセフが、エジプトという海外に行ってひどい誘惑にあっても勝利することができたのは、彼の中にアブラハムの神様、イサクの神様、ヤコブの神様のみ言葉が生きて働いていたからです。この世の教育は神様のみ言葉から離れてエリート教育だけに集中するのですが、結局は滅びてしまいます。私たちは神様のみ言葉による教育が必要です。親は子どもたちにみ言葉の遺産を残すべきです。お金を残すと子供たちは堕落してしまいます。み言葉の遺産を残すと、み言葉が子どもたちの人生を導き、祝福してくださいます。
3.神様のみ言葉は私たちが神様の人として良い働きをするようにしてくださいます。
「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)とあるように神様のみ言葉は生きていて人格があります。人格のみ言葉が神様のみ言葉を頼って信じる人々を、そのみ言葉通りに造り変えてくださいます。アブラハムは神様のみ言葉を握って、自分がどこへ行くのか知らずに出かけました。しかし、神様は彼を導き、結局祝福の先祖になるように祝福してくださいました。イサクも神様が示すところから離れないでというみ言葉を頂きました。そこで、100倍の実を結びました。彼が行く先々、井戸を発見し、祝福されました。敵が彼の井戸をうばおうとした時、神様は敵をいましめ、敵が近づかないように守ってくださいました。これがみ言葉の偉大なる力です。私たちがみ言葉を握っていくとみ言葉が私たちを造り変えて、み言葉通りに私たちの人生を造ってくださいます。皆さん、み言葉を口ずさみ、み言葉に集中して、み言葉を握ってください。そうすればそのみ言葉が皆さんを祝福してくださいます。
2004年4月11日 「イエスは甦りで、命です。」 ヨハネ11:25〜26
死の絶望に落ちている人間たちにイエス様はご自分を啓示されました。「わたしはよみがえりです。いのちです。」とこのように神様ご自身を紹介されました。このみことばはラザロが死んだ時、ラザロの姉妹たちであるマルタとマリヤに啓示してくださったみことばです。イエス様を信じれば神の栄光を見ることができると言われたのであります。今日はイエス・キリストのよみがえりをお祝いするイースターです。この日皆様とご一緒に恵みを分かち合いましょう。
1.「わたしは、よみがえりです。いのちです。」
イエス様ご自身がよみがえりであると同時にいのちであると言われました。イエス様はいく先々で苦しんでいる人々をよみがえらせ、希望であるいのちを与えてくださいました。
イエス様に触れられた人々は死からよみがえって絶望から希望に変えられました。イエス様は私たちのすべての罪の身代わりとなって、十字架で死んで陰府にくだられ三日目に甦られました。イエス様に触れられると絶望が希望に、悲しみが喜びに、心配が平安に変わります。これがいのちなのです。イエス様は私たちを死の苦しみと絶望からよみがえらせ、私たちを大きな希望で満たしてくださいます。
2.「わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」
イエス様のよみがえり、いのちはきのうも今日もいつまでも同じです。私たちが死んでもということは肉体の死を意味します。私たちは誰でも肉体の死を味わなければなりません。イエス様はこの死を眠っていると表現されました。ラザロに対して 又、会堂管理者ヤイロの死んだ娘に向かって“眠っている”と言われました。私たちが夜、疲れた体で眠りにつくと朝、元気な体で起きることができます。これがいのちなのです。天国は私たちがこの体からよみがえり、悲しみも叫びもないよみがえりのところです。サタンのところはよみがえりはあるけれど、死ばかりです。これは地獄です。イエス様は私たちに永遠のいのちを与えてくださいます。美しいいのちであふれるよみがえりの体を与えてくださいます。
3.「生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。」
生きていてということは現在の生活のよみがえりの体験を意味します。私たちは毎日毎日よみがえりを体験します。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)肉の欲、目の欲、この世の暮らし向きの自慢の罪が死んでイエス様とともによみがえることです。イエス様のよみがえりは私のよみがえりです。イエス様のいのちは私のいのちです。イエス様の十字架の血潮で私たちの罪がきよめられます。又、弱さが強くなります。病からいやしが、貧しい生活から豊かなアブラハムの祝福によみがえるのであります。イエス・キリストのよみがえり、いのちを今日イースターに体験することです。イエス様を信じる人はイエス様が再臨される時、私たちの体は生きたまま引き上げられ、空中で主と会うようになります。このことを信じますか。
2004年4月4日 「十字架の7つのことば」 ルカ23:33〜46
今週はイエス様の受難週です。イエス様は金曜日の午前9時から午後3時まで6時間十字架上で苦しみを受けられました。苦難ということは、私たちの地獄の苦しみと関連があります。地獄は永遠の火の刑罰のあるところであり、第ニの死のところです。イエス様の十字架の苦しみは私たちの苦しみをあがなわれたが故の苦しみであります。
1.「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」イエス様は私たちのすべての罪を背負って、十字架につけられ、苦しめられ、私たちに赦しの天国の恵みの水を流してくださいました。イエス様のわきからすべての水と血が流れ出ました。この赦しが泉となり川となり海となって今流れています。だれでも渇く者は来て飲みなさいと主は言われます。
2.「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」ゴルゴダの山には三つの十字架がありました。十字架にかけられた2人の強盗は初めは2人とも群衆心理によってイエス様をののしりましたが、イエス様のゆるしの祈りを聞いた瞬間ひとりの強盗は変わり、悔い改めました。ひとりの強盗が自分の命をイエス様にゆだねた瞬間、又恵みの水にとびこんだ瞬間、彼は救われました。救いは神様の恵みであり、ゆるしの川を受け入れると救われます。
3.「女の方。そこにあなたの息子がいます。」イエス様は母マリアに女の方と言われました。これはマリアを通して救いはないということです。ただマリアの体を借りて人間を救うためにマリアを使ってくださっただけです。イエス様は御霊によってお生まれになった方です。だから必要以上にマリアを高くしてマリアが偶像になってはいけないので、イエス様がこのように母マリアに「女の方」と呼びかけられたのです。私たちのために十字架につけられたイエス様以外に救いはありません。
4.「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」「わが神。わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味です。イエス様は私たちの罪を背負って罪そのものになられました。私たちの罪を全部移して、ご自分の体で受けてくださいました。だから、イエス様は罪の報酬である死、神様から捨てられる苦しみを受けられました。私たちが2度と捨てられることがないためにイエス様が捨てられるところまで落ちてしまわれたのです。
5.「わたしは渇く。」地獄は永遠の火の池、硫黄の池のあるところです。イエス様は私たちの罪を背負われた結果、祭壇の審判を受けられ、永遠の苦しみを受けられました。その結果、わたしに来る者は2度と渇くことはないと言われました。イエス様を信じる者には心の奥底からわき出る満足の水を流してくださいます。
6.「完了した。」 人間の罪の代価はすべてイエス様が支払ってくださいました。イエス様はご自分の永遠の命で私たちの永遠に捨てられるべき罪、罰をあがなってくださいました。その代価をすべて支払ってくださったのです。イエス様を信じる私たちは2度と捨てられたり、地獄に行くことはありません。
7.「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」イエス様は「まことにあなたは私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。」(詩篇16:10)という主の約束にゆだねました。その結果イエス様は三日目によみがえられ、永遠の勝利をとられました。イエス様のよみがえりは私たちのよみがえりであり、イエス様の勝利は私たちの勝利であります。
2004年3月21日 「良い地、良い種」 マルコ4:14〜20
神様は私たちが豊かに実を結んで幸せになることを願っておられます。イエス様は種まきのたとえを通して多くのことを教えられました。種とは御言葉を意味します。種がまかれる地とは私たちの心のことです。
1.
心には四種類の土地があります。
@道ばた 神様の御言葉を聞いて悟ることができないことです。御言葉を聞く と、すぐサタンが来て、まかれた御言葉を持ち去ってしまいます
A岩地 御言葉を聞いてしばらくは喜ぶけれども、御言葉のために困難や迫 害が起こると、すぐにつまづいて放棄してしまいます。
Bいばら 御言葉より自分の哲学やこの世の欲望がはいりこんで御言葉をふさ ぐので、実を結ぶことができません。
C良い地 神様の御言葉を良く受け入れる心です。そのような心をもった人は 魂が恵まれ、すべてに恵まれ、健やかになって30倍、60倍、100 倍実を 結びます。
2. 良い地になるためには土地を耕やかさなければなりません。
良い地になるためには、下の土を上に、上の土を下にひっくり返さなければなりません。固定観念をひっくり返し、粉々にすることです。これは悔い改めるということです。徹底的に自分を否任して悔い改めれば良い地になります。神様の御言葉に反しているいろいろなものに対して、私たちは固い心を打ちくだき、石のような心を取り除き、いばらは集めて聖霊の火で燃やさなければなりません。そのような過程において私たちの心は良い地になります。神様の御言葉に対して毎日毎日私たちの思いを捨て、悔い改めることが必要です。
3. 良い地 良い種
私たちが悔い改めることによって良い地になります。良い種とは神様の御言葉のことです。私たちの前にはいつも二種類の言葉があります。すなわちいのちの木の実と善悪を知る木の実とがあります。私たちが私たちの心にどんな種をまくかによって結ぶ実が変わります。大根の種をまけば大根が育ちますし、トマトの種をまけばトマトが育ちます。違うものが育つことはありません。ですから私たちが神様の御言葉を悔い改めた心の中に受け入れると、神様の実を結ぶようになります。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われます。」(ローマ10:10)御言葉を昼も夜も口ずさまなけれぱなりません。そうすれば私たちは繁栄し、また栄えることができます。(ヨシュア1:8)私たちは環境を見ないで神様の御言葉を抱いて口ずさまなければなりません。そして、神様が言われた御言葉を自分に適応することです。イエス様が私の罪のためにさし通され、私の咎のために砕かれました。私は赦されました。私は祝福されました。イエス様が私のためにいばらの冠を受けられて私を祝福してくださいました。イエス様の打たれたうち傷によって私はいやされました。そのいやしを自分に聞かせることだけではなく、環境に向かってもこのように宣言することです。“問題よ、海に入れ。” “教会よ、リバイバルされよ。” “セルよ、リバイバルされよ。”そのように私たちが神様の御言葉を自分に対して、また環境に対して口ずさみ宣言することによって私たちは30倍、60倍、100倍祝福されます。
2004年3月14日 「まことの愛の完成」 雅歌8:5〜14
今日の本文はまことの愛の特徴、完成が何であるかを私たちに教えています。ここで雅歌書の結論が述べられています。
1.まことの愛は愛する人といつも一緒にいることを願います。
「私を封印のようにあなたの心臓の上に、封印のようにあなたの腕につけてください。」(本文6節)と言っているのは、愛する人が私をしっかり抱いて愛する人といつも一緒にいたいということです。封印というのは大切なものであり、所有権を意味します。自分の一番大切なものを胸の中に抱くことであり、封印のようにいつも自分の身につけることです。神様は私たちの名前を手の平に書いて忘れることはありません。私たちも主を忘れてはいけません。
2.まことの愛は死のように強いものです。
イエス様は私たちの身代わりとなって死んでくださいました。だからその愛は死を越えたまごころの愛です。私たちが罪を犯して死ぬべきところをイエス様が身代わりとなって死んでくださいました。私たちは捨てられ、地獄の苦しみを受け、のろわれ、病にかかって永遠に捨てられるべきところをイエス様は私たちの身代わりとなって死んでくださいました。だからその愛はねたむほどの愛です。本当の愛はねたむのです。いつわりの愛はねたみません。神様の愛は火の炎のようにすさまじく、情熱的であります。私たちの魂が恵まれ、すべてに恵まれ、健やかになることを炎のように熱く願っておられるのです。私たちが永遠のいのちを持つことを炎のように願っておられるのです。だから、私たちがにせものにだまされて、地獄に行こうとするのを見て、ご自分の体で地獄をふさいで私たちが地獄に行かないように守ってくださいます。その炎は私たちが一人もサタンに奪われないようにしてくださる情熱です。私たちが水の中を過ぎる時も、火の中を歩く時も、主はいつも私たちとともにおられます。(イザヤ43:2)
3.まことの愛の完成
私たちは主と愛しあって天国の喜び、平安を受けました。私たちは永遠のいのちが与えられ、神様の祝福を受けました。イエス様が死んでくださったほど私たちを愛してくださったからです。その愛が実を結んで完成するということはその愛を流すことです。まことの愛は愛する対象を探してその愛を流します。今日の本文のシュラム女性は妹を思い出しました。以前、自分が苦しい立場にいたところに今、妹がいるので、救ってくださいとソロモン王様に頼みました。愛というのは受けたものを隣人に与えることです。
「父が私を愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」(ヨハネ15:9)十字架の愛を通して神様が私たちを愛してくださったことによって神様の愛は完成されました。私たちも私たちが受けたこの愛を神様に礼拝として捧げる時,又神様を愛する時、その愛は完成されます。私たちの隣人を愛して伝道する時、その魂が救われることを願って愛を注ぐ時、その愛は完成されます。その時私たちは、30倍、60倍、100倍、1000倍祝福されます。「与えなさい。そうすれば自分も与えられます。」(ルカ6:38)たくさん実を結んで、主が再臨される時、それらを持って主のところに戻っていくこと、これがまことの愛の完成です。
2004年3月7日 「コイノニアの断絶と回復」 雅歌5:2〜8
コイノニアとはギリシャ語で交わり、分かち合いという意味です。神様が持っておられる天国や永遠のいのちを私たちと一緒に共有することです。私のものはあなたのもの、あなたのものは私のものというように互いに分かち合うことがコイノニアです。私たちはこの地上で神様とのコイノニアの生活をしています。しかし、私たちが信仰生活の中でこのコイノニアの断絶をしばしば経験します。この断絶の時には苦しみが伴ないます。どうしてコイノニアが断絶し、またそれがどのように回復されるのでしょうか。
1.
コイノニアの断絶の理由
断絶の理由は信仰の眠りにあります。「私は眠っていましたが、心はさめていました。」(本文2節)又、自己中心的な態度が主とのコイノニアと断絶しています。「私は着物を脱いでしまった。どうしてまた着られましょう。足を洗ってしまった。どうしてまたよごせましょう。」(本文3節)このように利己的になると主とのコイノニアは断絶してしまいます。主は必至に私とコイノニアをしようとして、指を戸の穴に入れて血が出るほどのコイノニアを求めているのです。それなのにその熱い思いを拒んだ結果、主は去って行かれました。私たちの愛する主は人格者です。強制的にされることはありません。
2.
コイノニアの断絶の苦しみ
コイノニアを失って回復するまでは本当に長い間苦しみがあります。「町を行き巡る夜回りたちが私を見つけました。彼らは私を打ち、傷つけました。城壁を守る者たちも私のかぶり物をはぎ取りました。」(本文7節)夜回りたちとは神様のみことばを私たちに伝えることであり、又、神様のみことばを守ることです。神様の中にいる時は神様のみことばは私に喜びと平安を与えるのですが、神様から離れていったん罪を犯すとこらしめがきます。神様は愛を失った時、愛する人にどんな苦しみがあるかを味わせるためのこらしめがあります。その苦しみを「私が愛に病んでいると言ってください。」(本文8節)と表現しています。私がイエス様に愛されている時が一番よかったということが分かったのです。
3.
コイノニアの回復
大切な愛を失って愛に病んでいた女性は探しまわっていたイエス様に出会い、コイノニアを回復することができました。「自分の庭」である教会の中で「香料の花壇」である祈りと賛美の香りが放たれ、羊飼いであるイエス様が私たちを飼っておられるのです。これは、神様のみことば、いのちを与える聖餐式を意味します。聖餐の恵みにあずかった女性はコイノニアを回復することができました。以前は私のプライバシーだからと自己主張していましたが、今は「私は私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの」と告白するようになりました。イエス様の永遠のいのち、天国、病のいやし、祝福、勝利、喜び、平安、すべては教会のものであり、私たちのものであります。私たちに与えられたすべてのものは主のものです。このように告白し、信仰生活をすることがコイノニアの完全な回復です。
2004年2月29日 「教会の祝福と使命」 雅歌4:9〜5:1
教会とはギリシャ語でエクレシアと言い、呼び出たれた人々のことを言います。私たちは、この世からイエス・キリストを信じるように呼び出されて集められた人々であり、これが教会です。教会にはどんな祝福と使命があるのでしょうか。
1.
イエス様の喜び
イエス様の喜びは新婦である教会だけです。イエス様は私たちに「私の妹、花嫁よ。」(本文9節)と言われます。どうして私の妹と言われるかというと、教会はイエス様の御体であり、その体から出たものであるからです。ローマの兵士が十字架上のイエス様の脇腹をやりで刺した時、水と血が出ました。この水はゆるしを意味します。ゆるされた私たちにイエス様の血である命を与えてくださいました。これが教会です。この教会は聖霊の賜物によっていろいろと飾られています。イエス様は飾られた聖霊様の賜物を見て非常に喜んでおられます。知恵、知識、信仰、いやし、奇跡を行う力、預言、霊を見分ける力、異言、異言のときあかし、などいろいろな賜物があります。神様は私たちの口びるの告白を喜ばれます。私たちは以前否定的な言葉をしゃべりましたが、イエス・キリストの十字架を通して私たちはすべてマイナスをプラスに見て告白するはちみつの口びるに変わりました。イエス・キリストの十字架の血潮によって罪がゆるされ、病がいやされ、永遠のいのちが与えられると、どんな環境の中にあっても主のみことばを告白する私たちになりました。このことをイエス様は喜んでおられるのです。
2. 教会は主だけのものです。
「私の妹、花嫁は、閉じられた庭、閉じられた源、封じられた泉。」(本文12節)とあるように、教会はイエス様だけのものです。イエス様だけのために庭は閉じられており、この世の汚ないものが入らないようにしています。私たちがその庭をしっかり守ってイエス様とともに生活すると、私たちの中にある源や泉が私たちを潤し、実を結ぶようにしてくださいます。
3.教会の祝福と使命
イエス様だけのものになった教会は必ず豊かに実を結びます。“主はぶどうの木、私は枝です。”という関係になれば必ず実を結びます。まず聖霊の実である愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の実を結びます。「目を上げて、あたりを見よ。彼らはみな集まって、あなたのもとに来る。あなたの息子たちは遠くから来、娘たちはわきに抱かれて来る。そのとき、あなたはこれを見て、晴れやかになり、心は震えて、喜ぶ。海の富はあなたのところに移され、国々の財宝はあなたのものとなるからだ。」(イザヤ60:4〜5)とあるように教会がリバイバルされ、個人個人が、又家庭がリバイバルされます。特に子供たちが救われます。子供たちは貿易や海外の事業の繁栄などの海の富をイエス様のために教会に持って帰って来ます。国々の財宝は私たちのものとなり、神の国のために祝福を受けるようになります。これが教会の祝福であります。又、私たちは神の国の建設のために働き、ささげる使命があります。教会が子供から大人までいっぱいになって、豊かな実をとって食べることができますように主の御名によって祝福します。
2004年2月22日 「恵みと愛の結婚生活」 雅歌4:1〜8
ソロモン王様と田舎の貧しい女性は結婚し、互いに愛し合いました。今日の本文はこの二人の愛を伝えています。霊的に見るとこの二人とは王の王であるイエス様と罪深い私たちのことを意味しています。「ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。」(本文1節)と王様は女性に語りかけています。この女性は自分の容ぼうに対して劣等感を持っていました。それで、「私をご覧にならないでください。私は日に焼けて、黒いのです。」(雅歌1:6)と言い、人の視線をさけていました。しかし、王様は「わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない。」(本文7節)と女性のことを賞賛しています。ではこのように恵みと愛の結婚生活を営むことができるためには、どのようにすればいいのでしょうか。
1.新郎と新婦にはおおいがあります。
顔のおおいとは恵みを意味します。イエス様と私たちの間にはおおいがあります。おおいが初めて聖書の中に出てくるのは創世記3章で、善悪の知識の木の実をとって食べたアダムとエバはお互いに裸であることを批判し始めました。神様は羊をほふり、その皮で腰をおおってくださいました。お互いに批判しあって堕落してしまった人間のところに、罪をゆるしてくださるために、又おおってくださるためにイエス様は来られました。イエス様の血潮は私たちの過去の罪、現在の罪、すべての罪をおおってくださいます。神様は私たちを見て“あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない。”と言ってくださいます。
2.新郎は新婦を愛の目で見られます。
新郎は新婦を愛の目で見て賞賛し、次のようにその賞賛を表現しています。鳩のような目、ギレアデの山を下るやぎのようなやわらかく、まっすぐな髪、みことばをかんで口ずさむ白い歯、赤い口びる、血潮で赤いほお、まっすぐな首、いのちを与える二つの乳房。私たちはこれら7つの完全な愛を受けているのです。イエス様は私たちを愛の目で見てくださいます。愛は期待することであり、愛には力があります。私たちのたりないところを聖霊様がおぎなって助けてくださいます。幸せな結婚生活は互いに賞賛しあうことです。愛の賞賛は人を変える力があります。。
3.この愛を受けた新婦は決心しました。
「そよ風が吹き始め、影が消え去るころまでに私は没薬の山、乳香の丘に行こう。」(本文6節)と決心しました。そよ風とは聖霊様の感動を意味します。聖霊の感動があれば私たちは没薬の山、乳香の丘へ行きます。即ちイエス様の苦難であるゴルゴダの十字架へ行きます。十字架の愛が私たちに注がれるためにはゲッセマネの祈りが必要です。その祈りを通して私たちは神様の愛の深さ、広さを受けることができます。神様の愛を受けて、私が私になったのは主の恵みだということが分かるようになります。私たちがイエス様の全き愛を受けて高慢にならないためには、十字架への道、ゲッセマネの祈りが必要です。この愛を受けた新婦に「私といっしょにレバノンから来なさい。」(本文8節)と新郎は語りかけます。レバノンとは白い、聖いという意味です。私たちがイエス様の十字架の愛を受けると聖くなります。どんなことがあってもうしろをふりむかず、イエス様についていこうと決心することができます。イエス様についていけば奇跡を見ることができます。イエス・キリストのよみがえりは私のよみがえりとなりますように主の御名によって祝福します。
2004年2月15日 「イエス様の再臨」 雅歌3:1〜11
今日の本文はシュラミ女性がソロモン王の帰りを待ち望んだ結果約束した通り王様が戻ってきて婚礼をする場面です。これは私たちクリスチャンにとってイエス様が再臨されるというみことばをしっかり握ってイエス様を待ち望むことのようです。マラナタ信仰を持って待ち望んでいると、時になってイエス様は再臨されます。再臨される前は深い夜になります。1日で最も暗い時は日が昇る直前です。イエス様はこのように霊的に暗い時に私たちを救ってくださるために来られます。
1.
イエス様は準備された人々を引き寄せるために来られます。
イエス様は今天におられ、神様の右の座におられます。聖霊様によってイエス様が私たちと共におられるという臨在感をもって生活することができます。その臨在感が信仰の勝利の秘訣です。しかし、臨在感なしで教会生活をするクリスチャンが多くいます。聖書ではそれは愚かな人だと言っています。毎日毎日、瞬間瞬間、聖霊様の臨在を求めて油注ぎを求める人は賢い人です。その人はイエス様に会うことができます。
2.イエス様は待ち望んでいる婚約者である私たちのために再臨されます。
イエス様が再臨される様子を聖書はこのように語っています。「主は、号令と御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(第1テサロニケ4:16〜17)イエス様は御使いたちをつれて再臨されます。「花婿が来るのが遅れたので、みなうとうとして眠り始めた。」(マタイ25:5)とあるように私たちが夜深くなると眠り始めます。しかし、私たちがいつも主を求め、主の再臨を切に求める人は主の声と御使いのかしらの声とともによみがえります。又、終わりのラッパが吹きならされた時、私たちはそのラッパの声とともに空中に引き上げられ主と会うのです。主ご自身が花嫁である私たちを迎えに直接来られます。携挙ということは大きな危険に直面した子供をひきあげ救ってくださることを意味します。サタンがこの世を本格的に支配しようとする寸前に、瞬間的に世界的に携挙があります。色々な人々が主によってひきあげられます。「そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。」(マタイ24:40〜41)私たちが目を覚まして準備していると携挙されます。この地上に残されると信仰をもつことができなくなります。聖霊様が救われた私たちを主イエス・キリストのもとにひきあげてくださいます。この地球はその時サタンの支配の中で地獄になってしまいます。
3.私たちはイエス様が私たちの最高のものになるように生活しなければなりません。
イエス様より大事なものはなく、“キリストにはかえられません。”という生活をしなければなりません。イエス様が私たちのために死んでくださったほど私たちを愛してくださったのですから、私たちもイエス様を第一に求める生活をすると、世の中で必要なものはすべて主が与えてくださいます。イエス様を第一にしましょう。物質も時間もイエス様に第一のものを捧げると、私たちの人生は幸せになります。この地上でも主に守られます。主が再臨される時、主に引き上げられます。
2004年2月8日 「マラナタ信仰の生活」 雅歌2:8〜17
ソロモン王は自分の土地に来て管理者であるシュラム女性と恋におちました。わずかの間でしたが、深く愛し合い、永遠の結婚の約束をして、ソロモン王は宮殿に戻りました。この女性は王様が自分を迎えに来てくれるということを信じて待ちました。“ご覧、あの方が来られます。”(本文8節)という告白。これは主イエス・キリストと私たちとの約束です。イエス様が再び来ますと私たちに約束されました。この真実な約束を信じる信仰告白がマラナタです。主が来られます。主よ来てください。
1.
このようにマラナタの信仰生活とは、時を分別する生活です。
春夏秋冬のあとに春が再び来ます。四つの季節を与えてくださった理由は時を分別することを私たちに教えるためでした。しかし、現代人はその時が分からなくなっています。それは冬が冬らしくなくなってきて、冬でもいちごがたくさん出回ったりしています。それで人々は季節を忘れてしまっているのです。しかし、ダニエルに主が預言されましたし、又、聖書の中でイエス様がこの終末に対する預言やイスラエルの回復を預言されました。1948年イスラエルは1900年振りに国が回復されました。このことを聖書は終末の前兆だと記しています。人々は今の時代を平和だ、安全だと言っていますが、イエス様の再臨は突如として現れます。かもしかや若い鹿のようにイエス様は私たちが思っているよりももっと速く来られます。
2. 私たちは祈りの生活に専念しなければなりません。
「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」(第1ペテロ4:7〜8)身を慎むということはこの世の情欲におぼれる生活ではなくて、きよい生活、祈りの生活、主を愛する生活をしなさいということです。教会とは祈る場所です。“私に、顔を見せておくれ。あなたの声を聞かせておくれ。あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。”
(本文14節)と言われます。私たちはもっと主に近づく生活をしなければなりません。
3. 主が与えてくださったぶどう園を守ることです。
以前、そのぶどう園は私と何の関係もありませんでした。しかし、二人が愛し合ってからは、“私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。”(本文16節)というようになりました。私たちもイエス様を信じてからは、イエス様のものは私のもの、私のものはイエス様のものとなりました。愛する方の財産を忠実に守った人に対してイエス様は良い忠実なしもべだと言われました。そして、もうけたすべてのものをイエス様は私のものにしなさいと言われます。私たちは主が再臨されるまで、主を愛し、主の仕事を忠実にすることはマラナタ信仰です。主が約束されたことは必ず実現します。主は来られます。“主よ来てください。”という信仰告白の生活を私たちがすることができるようにしましょう。
2004年2月1日 「けわしい世に勝利する力」 雅歌2:1〜7
今私たちが住んでいるこの時代はけわしい苦しいかんなんの時代です。イエス様が預言された終末の現象がはっきり現われています。特に不法がはびこるので多くの人々の愛が冷たくなり、人々が残酷になります。弱いものをいじめる苦しいかんなんな時代に今、私たちは生きています。そのような時代に生きる私たちに今日の本文は、勝利する力を与えてくれます。
1.
私たちを訪ねて来られたイエス様の愛
私たちが神様を愛したのではなく、神様が先に私たちを愛してくださいました。神様が私たちを愛して、私たちのところに訪ねて来られました。“私はシャロンのサフラン”(雅歌2:1)とは、私は荒れはてた野原の草にすぎないということです。王の王、主の主であられる方がこのようにいやしいしもべの姿でこの世に来られたのは、私たちを救ってくださるためでした。“谷のゆりの花”とうたわれているように、涙の谷、死の陰の谷の中でイエス様は十字架の愛をもって私たちのところに来られました。私たちが苦しんでいる時、イエス様が私たちのような姿で来てくださり、十字架の愛によって私たちは救われたのです。
2.私たちをゆりの花だと呼んでくださいます。
“わが愛する者が娘たちの間にいるのは、いばらの中のゆりの花のようだ。”(雅歌2:2)ゆりの花はイエス様ご自身のことです。またイエス様を信じる私たちをも、ゆりの花だと言われます。イエス・キリストのいのちは私のいのちであり、イエス・キリストのよみがえりは私のよみがえりです。私たちがこの世の中で、のろいであるいばらにさされ、苦しまなければならない時に、イエス様が身代わりとなっていばらの冠をかぶってのろいを受けてくださいました。
3.けわしい世に勝利する力
“林の中での木”(雅歌2:3)とは、この世の中でいろいろな人々を意味します。宗教家、政治家、経済学者、哲学者などには実がありません。しかし、イエス様は“りんごの木”のようであり、“その実は私の口に甘いのです。”“りんごの木”の下には泉があります。このようにイエス・?リストの愛の体験があれば、その愛は私たちがけわしいこの世を生きる力となるのです。イエス様は十字架の下にある私たちの罪をゆるしてくださり、病をいやしてくださいます。またイエス様は永遠の命を与えてくださり、私たちを祝福してくださいます。木の下には天国の祝宴があります。すなわち御霊の実である愛、喜び、平安で満たして?ださいます。“私の上に翻るあの方の旗じるしは愛でした。”(雅歌2:4)とあるように、私たちがこの世に勝利する秘訣は愛によるのです?旗は勝利を意味します。
私たちクリスチャンはますます主を愛し、あまりにも愛しすぎて、“愛に病んでいます”と言えるほどにならなければなりません。私たちが聖霊に満たされ、イエス様の愛でいっぱいになって、イエス様の胸の中で安息を受けることができますように、主の御名によって祝福します。
2004年1月25日 「二人の愛の対話」 雅歌1:9〜17
どんな人もつづけてその人を批判し、いじめて攻撃するとその人は自信をなくし、愚かな行動をしてしまいます。しかし、その人を賞賛し、できると励まし、愛するという言葉をかけるとその人はその通りになります。シュラム女性は、家族からいじめられ、迫害されたので、人の視線を気にする恐怖症になっていました。「私をご覽にならないでください。私は日に焼けて黒いのです。」(雅歌1:6)しかし、ソロモンの愛を受けて彼女のセルフイメージが変わって、自信が回復しました。愛と賛美は偉大な力があります。
1.イエス様の愛
イエス様は私たちのことを“わが愛する者よ”と呼んでくださいます。劣等感、挫折感で苦しんでいる私たちをイエス様の血潮で洗ってくださり、私たちを愛するのだと言ってくださいます。結婚は大切であり、相手の身分によってこちらの身分が決まります。特に女性は悪い夫と一緒になれば一生苦しみます。しかし、良い夫と出会った人は幸せな人生を送ることができます。イエス様は私たちを選んで愛し、“わが愛する者よ”と呼びかけてくださいます。私たちは神様に対するイメージを変えなければなりません。人々は昔、サタンの奴隷であった時のことを思い出して、いつも神様に迫められるというイメージを持っていますが、そうではありません。イエス様は私たちをご自分の一番良い物に比べて、あなたの目は鳩のようだと愛の目で私たちを見てくださいます。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)と神様は言われます。神様の目は私たちに対する愛で満ちあふれています。私たちもイエス様が私たちを見ておられる目で自分自身を見なければなりません。私たちはイエス様から愛されています。
2.王様の愛を受けたシュラム女性のこたえ
ソロモン王の愛と賞賛を受けたシュラム女性は愛の歌でこたえました。イエス様の世界は賞賛とゆるしを生み出します。しかし、サタンは告発と裁きとゆるせない心で、私たちを支配しようとします。イエス様は足りないところがあっても私たちのために犠牲し、ゆるし、愛してくださいます。その愛を受けた人は、イエス様に対して私の愛する方と言い、私たちの口びるもイエス様に似ていきます。この愛の体験が私たちに人を愛するように仕向けます。私たちが信仰生活をしていく時、どんなに愛され祝福されても忘れてはならないことは、私たちの位置をいつも確認することです。“主は創造者であり、私は被造物です。主はぶどうの木、私たちは枝です。”という関係を覚えていつも謙遜にへりくだると、神様の愛で心が満たされます。私たちが愛されるとシュラム女性が高価なナルドの香油を王様に捧げたように、私たちもイエス様に一番良い物を捧げたくなります。イエス様が罪をゆるしてくださったこと、病をいやしてくださったことを忘れてはいけません。王であるイエス様に告白し、証して主の愛にこたえなければなりません。
3.二人のコーラス
イエス様と私たちは一つです。イエス様が喜ばれると私たちも喜びますし、イエス様が悲しまれると私たちも悲しみます。私たちが喜ぶとイエス様も喜ばれます。イエス様は私たちが幸せになることを願っておられます。夫婦は一心同体であり、私たちは霊的にイエス様と一つになったのです。私たちはイエス様と共にコーラスをすることができます。夫婦の奥まった部屋での交わりはいつも新鮮で毎日新しい事が起ります。イエス様と私たちの生活は毎日が新しく、昨日よりも今日が、今日よりも明日がもっとよくなります。
2004年1月18日 「詩の中の歌」 雅歌1:1〜8
雅歌書は愛の歌であり、学ぶべきことが多い詩の中の歌です。神様が私たちに雅歌書を与えてくださった理由は、神様と私たちが交わるとどんなに祝福されるかを教えるためでした。ソロモン王とシュラム女性との愛、富と権力を持っている王様といなかの貧しいむずかしい立場にあったシュラム女性との愛の物語です。これを通してイエス・キリストがどんなに私たちを愛してくださったかということが分ります。ソロモン王はキリストの模型です。シュラム女性はキリストによって救われた私たちのことです。この愛の物語を通して愛の歌が生まれたのです。
1.イエス様はすべて疲れた重荷を負った私たちのために天から下って来られました。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28) シュラム女性が家族からいじめられて苦しんでいた時、ソロモン王がそれを聞き、彼女の所へ行ったように、イエス様も私たちが罪の苦しみ、悩み、生活の苦しみ、のろいの生活、希望のない生活をしていた時、天の栄光を捨てて来られたのであります。
2.イエス様の愛の中で味わった人はイエス様の愛を慕い仰ぐようになります。
「あの方が私に口づけしてくださったらよいのに」(雅歌1:2) 愛を受けた後で王様を毎日慕い仰ぐようになりました。シュラム女性は王様の権力や名誉やお金を求めたのではなく、ただひたすら王の愛を求めました。結婚の約束後、王様は宮殿に戻りました。シュラム女性は毎日、王様を恋慕いました。このように私たちクリスチャンの信仰は理論ではなく体験です。主の人格と愛を体験することです。私たちがイエス・キリストの十字架を信じると、罪のゆるしを体験し、心の中に平安と喜びが涌きあがります。病気がいやされ、アブラハムの祝福を受け、イエス・キリストの天国に対する信仰と希望と愛が満ちあふれるようになります。このキリストの愛はこの世の喜びを象徴するぶどう酒にまさります。キリストが与えられる喜びはこの世のものよりも大きいので、私たちはいろいろな誘惑から守られるのです。イエス様が私たちを愛して十字架につけられたことは、何の価値もない私たちのために王の王、主の主である神様が天から下ってきて身を引き裂き、私たちを愛してくださったことを意味します。
3.聖霊様の恵みによって私たちはもっと深い恵みに入ることができます。
「私を引き寄せてください。」(雅歌1:4)と女性が言ったように、王様が呼んでくださらないと私たちは王様のところへ行くことはできません。シュラム女性は王様に呼ばれて結婚する日を待ち望みました。主の愛の確信を伝えるのは聖霊様です。聖霊様は私たちを真理の所に導き入れます。すなわち、主と一つになる至聖所に私たちを導いてくださいます。私たちはキリストと一つの体になります。イエス・キリストのいのちは私のいのちです。イエス・キリストのよみがえりは私のよみがえりです。イエス・キリストの義は私の義です、と主と交われるのが祈りの生活です。この祈りを通してキリストの愛を体験した人はこの世に打ち勝ちます。シュラム女性のセルフイメージが変わりました。王様が彼女のありのままを愛してくださっているので、これ以上他の価値観で自分を見る必要がありません。この世の価値観ではなく、ありのままの彼女でいいのだというセルフイメージをもって、彼女は幸せな人生を送ることができました。イエス様を信じると私たちもこのようにイエス様が私を愛されたように自分を愛せるようになります。これはとても力強い人生を送る秘訣でもあります。私たちがイエス様の愛をいただいて幸せな人生を送ることができますように主の御名によって祝福します。
2004年1月4日 「全能の神様のみわざが現われるためには」 ルカ1:5〜20
神様は全知全能なるみことばであります。全能の神様のみわざは、みことばを通して現われます。そのみことばは、私たちの口びるを通して現われます。ですから私たちの口びるから出る言葉は、死と生を決める言葉でもあります。私たちが祝福されるためには、言葉をよく選んで語らなければなりません。今日の本文にあるように、祭司長に選ばれたザカリヤは神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを守り行っていましたが、子供がいませんでした。高い地位についたザカリヤは、あとを継ぐ子供がいず、つらい心でした。ですから彼は祈り続けました。祈った結果、天使が「あなたの願いが聞かれたのです。」と答えを持ってきました。しかし、彼は「私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」と祈りの答えが成就されるだろうかと疑いました。それで天使は、彼がしばらくの間ものが言えないようにして、神様の祝福を成し遂げました。
1.
否定的な言葉を口から出してはいけません。
人間は堕落した本性を持っているので、そのままにしておくと、どうしても否定的になります。私たちが否定的になると、神様は私たちを用いることができません。それで神様はザカリヤの口を封じてしまいました。そして神様のみわざを成し遂げたのであります。
2.
批判する言葉を口から出してはいけません。
今まで私たちは、サタンの攻めや告発とかを受けて生活してきたので、いつも批判的になります。批判的なところに祝福はありません。イエス様は“自分にしてもらいたいことを他の人にそのようにしなさい。裁いてはいけません。裁かれないためです。”と言われます。私たちは批判の言葉よりも、人を賞賛する言葉を言わなければなりません。エペソ4:29には「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」と言われます。悪い言葉、批判的な言葉、否定的な言葉をいっさい口にしないと、私たちは祝福されます。
3.
信仰の口が開き、信仰の言葉が川のように流れます。
信仰とは望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。(ヘブル11:1)今、目に見えなくても、イエス・キリストを告白することが大切です。ザカリヤは幼いヨハネに対して偉大な預言者だと祝福しています。ザカリヤは否定的なところから聖霊充満な人に変えられ、自分の子供を祝福した結果、ヨハネは偉大な人となり、イエス・キリストの道を備える祝福された人になりました。私たちは今、罪があって倒れることがあっても、神様はイエス・キリストを信じる者はすべての罪が赦され、義人になると言われています。それを私たちが告白しなければなりません。今、目に見えるものがなくても、耳に聞えるものがなくても、手に触れるものがなくても、信仰の告白をすることができます。イエス様の打たれた傷によって、癒されました。イエス様が私たちのために貧しくなられたのは、私たちが富む者となってアブラハムの祝福を受けるためだと言うことができます。現実にそのような実を結ぶまで、神様の時があります。ザカリヤの場合、事が成就するまで口を封じられました。私たちが環境を見て何もないと否定的になってはいけません。神様の時になれば、必ず実を結びます。否定的、批判的、不信仰の言葉を私たちは、いっさい口から出してはいけません。肯定的、信仰的な言葉が泉のように、川のように、海のように私たちの口から溢れ出て、大きな祝福になりますように、主の御名によって祝福します。
|